「そういえば」
客足が少なくなった時間帯に、健斗がカウンター席を拭いているときだった
店長はカップを拭いたり洗ったりして、健斗に話しかけてくる
健斗も手を動かすのを止めて、店長を見た
店長は笑っていた
「そういえば、最近麗奈ちゃんどうなんだ?」
「え?」
「ほら、この間言ってたじゃないか。麗奈ちゃんの様子が少し可笑しいって」
あぁ……その話か……健斗は妙に納得していた
確かにあの日、健斗は店長に相談を持ちかけた
麗奈の様子が最近おかしい。普段とは少し違う……けど、それがよく分からない
女の子が変わるようなときは、どんなことがあるのか
店長はこう答えたのを、はっきり覚えている
恋する乙女は変わる……と……
麗奈はもしかしたら、好きな人が出来たのではないかと……
健斗はそんなことありえないと、はっきり否定した
あの麗奈が……普段何を考えているのか分からないネコ型娘が……人間に恋をするなんて……
そんなこと微塵も信じようとはしなかった
そうだ。“しなかった”のだ
今は違う
そのことはとうの昔に肯定されているし、それが誰なのかも明解になっている
だから困っているんじゃないか
だが、健斗はあまりそのことについて考えたくなかった。麗奈が健斗のことをいくら好いていようとも、健斗には関係ない
健斗はただ、好きな人がいる
その気持ちは揺らぐことはない
麗奈が頑張るからどうした?それでこの俺の心が揺らぐとでも?
馬鹿馬鹿しい
ありえない。そんなこと……
だからどうだっていい。麗奈が何をして来ようとも……
俺は
早川が好きだから
「……あぁ〜……あれっすか?何か、最近体重が増えたらしいっすよ。それでちょっと色々気にしてたみたいで」
健斗がそう言うと、店長はキョトンとした
「何だ……麗奈ちゃん好きな人が出来たんじゃないのか?」
店長にそう言われて、健斗は可笑しそうに笑ってみせる。まるで嘲笑するように
「いや、全然関係なかったっす。そのことでちょっとジェラシーになってたみたいで……俺の勘違いでした。すみません」
「ふぅ〜ん……そっか」
「そうなんすよ。ったく……あいつって、本当に変なやつですよね?体重が増えたからって、そんな見た目は変わってないんだから、気にすることねぇのに……」
健斗がそう言いかけているときに、また客が店に入ってきた。今度は見知らぬ顔の2人子連れの男性客だ
健斗はすぐに接客しに行った
……なるほど……
竜平は静かにそう呟いた
健斗には参ったものだ。中々面白い誤魔化し方をする
麗奈に告白を受けたことを、他人に知られたくないというところか……
竜平は健斗の気持ちを少し理解出来ていた
話したくないだけではない
考えたくもないのだろう
健斗はあのことを気にしないつもりだ
麗奈がどんなことをして来ようとも……あいつには意中の人が別にいるから……
自我の強い……あいつらしいな
竜平は1人小さくほくそ笑んだ
「いらっしゃい……あれ?」
七夕祭が終わった、それからしばらくしたある日のことだった。今日は健斗のいない日で、竜平は1人カウンターでカップにコーヒーを入れているとき
客足の少ないこの日にちに、ある1人の客が入りこんできた
高校生にしては、少し幼い顔立ちだが、逆にそれが彼女の美麗を引きたたせている
華奢な体に、美しく靡く栗色の髪
その名の通り、「美麗」という雰囲気を漂わせる彼女は……
健斗と深い関係のある、大森麗奈だった
麗奈は竜平を見ると、太陽のような暖かく優しい微笑みを送ってきた
「こんにちは♪」
明るい声で竜平にそう言ってくる
竜平もにっこりと微笑み返して、ゆっくりと麗奈に歩み寄った
「こんにちは。どうしたんだい?今日は、健斗も休みの日だけど」
「分かってます。今、健斗くんは家だし……私1人で来たんです」
健斗は家……しかし麗奈の格好は見慣れている、神乃高の制服姿だった
「今日、私部活があって。その帰りなんです」
「あぁ。そうか〜……」
まるで考えていたことを見透かされたような気分だった……
どうやら、帰りは歩いて帰れるが……健斗に電話すれば、健斗が迎えに来てくれるらしい
しかしその前に、少しここに立ち寄りたくなったという
竜平にとってはすごく嬉しいことだった
とりあえず立ち話をするわけにも行かないので、竜平は麗奈を特別にカウンター席へと案内した
「好きになっちゃって。ここのミルクティー。すごくおいしかったから」
「そうか。嬉しいなぁ。今日はどうする?ミルクティーにするかい?」
「あ……すみません。私、そういうつもりで言ったんじゃ……」
麗奈の控え目というか、大人らしい対応に少し可笑しさを感じた
「分かってるさ。いいんだ。麗奈ちゃんが来てくれると、何だか元気が出るからな。健斗もいつも頑張ってくれてるし……遠慮するな」
そう言いながら、竜平はオリジナルブレンドの紅茶を注いだ
「外は暑かっただろ?アイスにするか?」
「あ……はい。ありがとうございます♪」
その可愛い無邪気な笑顔が、むしろ料金だ
そんなことを考えると、齢五十になる自分を戒めたくなる
麗奈にアイスミルクティーを渡すと、麗奈はゆっくりとお辞儀をしながら、そのミルクティーを啜った
よほど喉が乾いてたのだろうか……飲み込む音が妙に生々しい
「ふぁー♪スッゴく美味しい♪」
そんな風に言ってもらえると、この店のオーナーの立場としてすごく嬉しいことだった
自然と口元が綻ぶ
「はは♪だから君に飲んでもらいたいんだよ」
麗奈は正直に物事を言うような子だ
それは竜平が五十年。そして約十五年間、こういう仕事を続けてきて、そういう人間だということが分かってしまう、特殊な力を身につけているからだった
だから嬉しい
麗奈に美味しいといってもらうこと、それは自分のブレンドが正しいということがわかること
これ以上の喜びはない
「七夕祭はどうだった?」
アイスミルクティーを美味しそうに飲む麗奈にそう言ってみる
麗奈はあのとき、七夕祭をものすごく楽しみにしていたことを思い出した
本当に心を踊らせていたのだ
「はい♪もう、スッゴく楽しかったです♪」
「そうかァ。そりゃよかった」
麗奈の笑顔は本物だ。心の底から楽しんだようだ
そんな麗奈を見ていると、何だかこちらまで嬉しくなる
「浴衣姿を見てもらって……健斗くんったら照れ屋さんだから、誰にも聞こえないようにこっそり可愛いって言ってくれたんです♪」
麗奈は七夕祭での思い出を語り始めた
竜平はそんな麗奈の話を、ゆっくりと聞いてやった
「健斗くんと金魚すくいをやったんですけど……アハハ♪2人とも下手だから、一匹も取れなかったの」
話すことは……
「射的もやったんですよ♪健斗くんったら、妙なとこで賢くって……あんな方法で豪華賞品取ってくれたんです♪」
全て……
「そういえば、踊りも教えてもらったなぁ♪神乃崎音頭。スッゴく楽しかったですよ。あと……健斗くんと小学生の絵の展示を見回って……それで」
話してくるのは、全て健斗との思い出の話だった
楽しそうに
嬉しそうに
輝いた目
赤らめた頬
それは聞いているこっちに伝わってくる
純粋な気持ち……
竜平は微笑みながら、その話を聞き続けていた
どうやら麗奈は……
自分の気持ちに素直になれたようだ
「そうかァ……随分楽しめたようだなぁ。そりゃよかった」
竜平はにっこりと微笑み、麗奈にそう言った
「はい♪本当に楽しかったです」
麗奈はそう言って、ふと俯いた
俯いて、その小さな手のひらでカップを握り……カップを見つめていた。頬を赤らめたまま、何かに微笑んでいた
「本当に……すごく思い出に……最高の思い出になりました」
竜平はその表情を見て、ふとカップを拭く手を止めた
麗奈の表情はどこか寂しげなとこがあって、その微笑みを見るのは……
辛かった
そうか……
竜平は一瞬で悟った
これがそうなのか
健斗の言っていた……時折見せる、寂しげな微笑み
何を意味しているのか、何故麗奈がこんな表情を浮かべているのか……
先ほどの幸せそうな、見てるとこっちまで嬉しくなるような微笑みとは打って代わって……寂しげな……悲しくなる微笑みだった
しばらく竜平は何も言えなかった……
「……今日……ただミルクティーが飲みたかったから、ここに来たって言うのは……本当は嘘です」
「嘘?」
嘘……とは一体……
麗奈はゆっくりと顔を上げて、竜平の顔を見た
「この前竜平さん、私が寂しげな表情をする理由を訊いてきましたよね……私、今日……ちょっとそのことを竜平さんに話したくって」
竜平はその言葉に、久々に驚かされた
確かに竜平は健斗から、麗奈の過去に何かがあったのかもしれないということを聞いた
即ちそれは……麗奈が健斗の家に……この町にやってくることになった、本当の事情……
竜平は一体何があったのかを麗奈に問いたときがあった
そのとき麗奈は、何も話したくないような面向きだった……
それはそれでいい
そう思っていたのだが……
何故……
「どうして……急に?話したくなったのかな」
竜平はそうゆっくりと訊いてみた。すると麗奈はゆっくり下を俯く
「……竜平さん……私……」
それから、一呼吸入れてから、麗奈は呟くように言った
「……健斗くんのこと……好きです……」
それから麗奈は頬をさらに赤らめた
「すごく……どうしようもないくらい……健斗くんのことが大好きです……ずっと……ずーっと……好きでした」
そのことは、竜平も何となく気がついていた
麗奈自身、そのことに気づいてなかったのだろうか……
ずっと……ずっと好きだった
その意味は……
健斗と麗奈が初めて出会ったとき……
そう、もう10年前のことだ
たった一週間
たった一週間だけ、いっしょにいれた、幼き2人の大切な時間
愛しく思えたときに、それが“恋”だということに気がつけた
麗奈は健斗に恋していた
僅か5歳の年齢で
小学生に上がる前の状態で
それが所詮子供の気持ちと笑われるだろうが
どんなに小さな気持ちだろうが
麗奈は確かに……
健斗のことが愛しかった
狂おしいくらい
愛しかったのだ
あの日を境に、その気持ちは……心の奥底に閉ざされる
「……その気持ちは……健斗は知ってるのか」
竜平が静かに訊ねると、麗奈は答えた
「七夕祭の日に……私、健斗くんに告白しました」
あのときのことを……麗奈は鮮明に覚えている
仕方ない……
そう済ませていいのか分からない
だが、この狂おしい気持ちを抑えたくない
素直でいられたら
少しでも苦しみから解放されるから
「健斗くん……結構最近、戸惑ってるみたいです。そりゃそうだよね……だって」
麗奈は静かにため息を吐いた
「健斗くんは……ずっと結衣ちゃんが好きなんだもん……」
そんな風に言う麗奈の瞳には、悲しげな未来しか見えていない
悟っているのだろうか……
その恋は……
叶うはずのない幻想的な恋
「でも、それでも健斗くんのことが……好きだから……」
「……そっか」
少し驚いてしまう
麗奈は、あんなに自分の気持ちを隠していたのに、今ではびっくりするほど素直な気持ちを吐き出している
竜平は何故今の麗奈があるのか、なんとなく気がついた
自分の気持ちを隠すこと、溜め込むこと
それをすることは決していいこととは言えない
むしろ、今のように溜め込むのではなく、吐き出してくれればいいのだ
そして、それはきっと麗奈が話したがることにも繋がっていた
「その気持ちに気づいたとき……健斗くんに想いを伝えたとき、凄く嬉しかった……何だか安心して、何て言えばいいんだろ……こういうの」
竜平はゆっくりと頷いた。麗奈の言いたいことは、何となくわかる
「でも……それと同時に……最近、全部思い出しちゃって……」
麗奈はゆっくりと息を吐いた
「分からないけど……何故か思い出しちゃうんです。思い出したくないはずなのに、嫌なことなのに……それが、何だか……怖くって……」
麗奈は目を瞑って、ぎゅっとカップを握る
身を震わせて、その様子は……何かに怯えていた
こうして目を瞑り、真っ暗になると……映像と囁く声が感じ取れるようで、麗奈には耐え難いことだった
まるで走馬灯のように蘇ってくる、大嫌いな思い出……
『……お前は……俺の女だろ……ハァ……おとなしく、従えや……』
『キャハハハハ〜』
『マジ死んじゃえばいいのにィ』
『調子こくなよっ』
『……麗奈……ゴメンね……』
『……スマン……また……事情でここを離れることになった……』
『人殺し……』
『この……人殺しっ!』
「話してごらん」
竜平が静かにそう言うと、麗奈はゆっくりと顔をあげた
竜平はにっこりと優しい微笑みで麗奈に言う
「さっきみたいに、話してごらん。ここには、私と君しかいない」
竜平は怯えている麗奈に優しく呼びかけた
「健斗には……まだ話したくないんだろ?」
麗奈はそう言われて、しばらく俯いたあと……ゆっくりと頷いた
話したくない……ではない
話せないのだ
今はまだ……話すことが出来ない
話せば……もしかしたら健斗に……
「健斗くんには……まだ話したくないんです……けど、やっぱり一人で抱え込むのが……すごく嫌だから」
「そうだな」
竜平はゆっくりと頷いた
健斗に対しての想いに気がつき、素直になれたように
麗奈の過去のことも、誰かに話しておきたかった
じゃないと、その想いが爆発して、もっと辛い想いをしてしまうからだ
「こんな五十過ぎようとしてる、老いぼれでよければ、いくらでも話を聞くよ」
竜平は優しく麗奈にそう微笑みかけた
そんな竜平の優しい言葉を受けて、麗奈は頬を赤くして笑った
嬉しかった
不安になっている麗奈を……暗い闇の中で漂っている麗奈を導き出してくれる、暖かな光……
さっきまで怯えて震えていた体も、暖かさを取り戻してきた
凄く感謝していた
この町には……暖かい人が多すぎる……
幸せに満ち溢れた、いい町だ……
「ありがとう……ございます」
麗奈は笑ってそう言うと、竜平もゆっくりと頷き返した
それから麗奈は、この町に来ることになった、本当の事情を話してくれた
東京にいたその頃のことを……どこから始まり、どこで終わったのかを……
言葉こそ、詰まり詰まりだったのだが……
それでも竜平は、凛とした態度でその話を聴いた
「聞いた」のではない
「聴いた」のだ
それほど麗奈の話してくれた事情……即ち過去は……
聞いている竜平も悲しく感じた
こんなに純粋な子が……純粋で優しく、太陽のような微笑みを持つこの子が……
東京で辛い体験をして、この町にやってくることになったという事実が……
竜平は……悲しくもあり、哀しかったのだ……
そしてそれは同時に、竜平の抱き続けていた疑問の答えともなっていた
麗奈が幼き恋心を、しばらくの間閉ざすことになった理由など……麗奈の口から聴いた過去により、言葉は悪いが……スッキリ出来た
麗奈が話し終えてくれると、竜平はゆっくりとため息をついた
「私って……本当はダメなんです……」
麗奈はそう呟くように言ってきた
「ずっと、忘れたくても……ある日思い出しちゃったりして……急に泣いちゃいそうになったり……元気あるように見えても……そう見せてるだけ」
その言葉からわかる、麗奈の素直な想い……
そしてそれが、麗奈が時折見せる寂しげな微笑みの理由でもあった
笑っていたい
笑っていたいのは心から思う
しかし……時にそのことを思い出すと、やはり悲しくなる
寂しくなる
辛くなる
大好きだった人に死なれ……
信じていたものに裏切られ……失い……
そこから始まる悲しみの流れ……
それらを思い出すと……
いつの間にか自分の微笑みは……
違うものへと変わってしまう
見せるつもりはなかった
悟られるつもりはなかった
しかし、その想いが表に出たとき……やっぱり分かってしまうのだ
「だから……健斗くんが羨ましいです……」
麗奈はそう言うと、また小さなため息を吐いた
「私も……健斗くんみたいになれれば……こんな風に……悩んだりしないのに」
寂しげにそう言う麗奈を見るのは、痛々しい
しかし、自分が目をそらすわけにはいかない
健斗が羨ましい……か……
竜平はふと笑った
「麗奈ちゃんは……健斗のどんなとこが好きになったんだ」
竜平がそう問いかけると、麗奈は少し笑って頬を赤らめた
「……分かんない……そんなの……でも、あえて言うなら」
麗奈は一呼吸した
「……強い……とこ
かな」
麗奈はそう言うと、顔を赤らめたまま、そっと笑っていた
「そっか……」
竜平はそう相槌を打つと、麗奈はゆっくりと頷いた
やっぱりだ……
「じゃあ……麗奈ちゃんはまだ、本当の意味で健斗のことを好きになってないんだな」
「え?」
麗奈は誤解している
竜平はそう思っていた
しかし、麗奈にはその意味が理解出来ておらず、戸惑いを見せていた
そんな麗奈を見て、竜平はふと微笑んだ
「前に、私が健斗は弱くて情けない男だって言ったの、覚えてるだろ?あれがどういう意味か、分かるかい?」
確かに覚えている。忘れるわけがない
麗奈は健斗を、強くてカッコいい人間だと言ったが、竜平は丸きり逆だった
弱くて情けない男だと、そう言ってきた
その意味がまったく分からずにいた
親友を……自分のせいで亡くした……
辛い経験を、麗奈よりも悲しく、重く、辛い過去を背負っている健斗
しかし健斗は、笑っている
前を向いて生きようと、必死になって生きようとしている
それがどれだけ大変なことなのかは、同じく辛い過去を背負っている麗奈にはよく分かっている
だから、健斗は強い人間だと思って……
多分麗奈は健斗のそんなとこに惚れた
しかし竜平はそれと逆のことを言ってきた
竜平は健斗のことが嫌いなのかとさえ、疑った
竜平に多少の怒りを覚えた
「健斗は、強い人間じゃないよ。前も言ったとおり、君みたいに弱く、強がる人間だ」
「……健斗くんは違います……健斗くんは……」
麗奈は否定こそしようとしたが、上手く言葉が出て来なかった
しかし竜平は続けた
「人はね、みんなそうなんだよ」
その言葉を言った瞬時、麗奈は口を閉ざした
「みんなそうなんだ。心が完璧な人なんていない。どんなに喧嘩が強い人でも、どんなに権力を持ってる人でも、人は弱い」
竜平の言うことは……よく分からなかった
すると竜平は、店の棚から……一枚の紙とペンを取り出して、麗奈に見せるように、何かを書きながら麗奈に言ってきた
「この世界の生き物は、完璧な球体になる心を持って、命を持ち続けている」
そう言うと、生物の絵とその左胸部に円を描いた
「けど、残念ながら人は……完璧な球体を持つことは出来ない。それどころか他の動物とは違って、球体どころか、その一欠片しか持てない。小さくて、無くなりそうで、脆く……弱いんだ。人間の心は。だから、永遠に生きてけない」
そう言うと、竜平は麗奈に訊ねてみた
「じゃあ、どうやって……人は完璧な球体を持てると思う?」
麗奈は少し考えた。人はどうやって、完璧な心を持つのか……その答えは……
麗奈は答えられなかった
そしてそれを、まるで分かっていたかのように竜平は答えてくれた
何人のも人を、最初の人のように描く……
「ほら、こうやって……何人のも人に、心を貰うんだ。こうやって、みんなから心を貰って、人は完璧な心をようやく持てるようになるんだよ」
麗奈は妙に納得した
「もちろん、貰うだけじゃない。その周りにいる人たちにも、自分の心の一欠片でもいい……こうやって分け与えてやる」
そうして出来た、人間の心の受け渡し合いの図……麗奈はそれを見ると、何だか優しい気持ちになった
「いいかい?人は他の動物のように、ちゃんとした心を持つことが出来ないから……一人では生きていけない……けどね、周りのみんなから心を貰って、初めて生きていけるんだ」
そう言うと、竜平はペンを置き、麗奈を見る
「人は一人では強くはない。その意味が、分かったか」
そう言われるが、麗奈はあまりピンと来てない様子だった。納得こそしたのだが、よく分からない……
竜平はそんな麗奈にふと笑ってみせた
「健斗も同じだよ。あいつだって、最初から今みたいに、毎日を過ごしてたわけじゃない。ずっと、ずーっと……想い悩んでたときだってあった」
いや、今だってそうなのかもしれない。健斗は今でも、あのことを思い悩んでいるかもしれない
それでも、あいつが今笑っていられるのは……
「それは、周りのみんなに支えられてるからなんだ。一度ズタズタになった心を、みんなから分けて貰えるから……あいつは今生きていける」
麗奈は俯いたままだった
そんな麗奈に、竜平はゆっくりと話し続ける
「だから、麗奈ちゃんも……自分は弱いとか強がりとか、責める必要はないよ。それでいいんだ。苦しいときには、周りのみんなに助けてもらえ。事情を話さなくってもいい、忘れなくてもいい、今の君の家族や友達に……助けてもらえばいいんだから」
竜平の言葉をしみじみと受け取った麗奈の目は、いつの間にか濡れていた。次第に涙が零れ落ちる
自分でも分からないほど、涙が零れ落ちていた
そんなのが恥ずかしくって、麗奈はすぐに涙を拭いた
「ありがとう……ございます」
そう言って、麗奈は竜平に笑った。今の竜平には、泣き顔なんて見せたくなかった
むしろ笑顔を見せてやりたい
「ありがとうございます♪」
竜平はそう言われると、急に元気な声で言ってきた
「頑張れよー?健斗に好きになって貰えるように。頑張れば、いつか振り向いてもらえるさぁ」
「……はいっ♪」
竜平の言う通り、麗奈は頑張ろうと思った
最初から諦めてちゃダメだ
健斗は早川が好きで、その想いは揺らぐことはないのかもしれない
けど、麗奈だって健斗が好きだ
大好きだ
狂おしいくらい……健斗のことが愛しい……
だから頑張ろう
いつか振り向いてもらえるように
せっかく想いを伝えれたんだから
麗奈はいつの間にか笑顔になっていた
それは、寂しげな微笑みではなく
太陽のような、暖かい微笑み
「アハハ♪何だかスッゴくスッキリしましたっ!」
本当に何だか心地よい
今まで感じていた、モヤモヤした想いが消え去っていた
「よーしっ♪竜平さん、いっしょに作戦考えてください。健斗くんってどんな女の子が好きなのかな?」
麗奈にそう訊かれて、竜平はゆっくりと笑った
竜平は、そんなことを思い出しながら、子連れ客の子どもに接待していた健斗を見つめた
子どもに優しくしている
だから、この店にやってきた子どもたちは……健斗のことが大好きらしい
竜平はふと笑った
そうか……確かに周りの人に支えられて今がある
けど、ちょっと違うかもな
健斗が変わり始めたのは……
麗奈ちゃんが……健斗を……
「……どうかしました?」
竜平は健斗にそう言われ、ふと我に返った
「いや、何でもないよ」
そう言って可笑しそうに笑う竜平に、健斗は不思議そうに首を傾げた
健斗は台布巾を手に持ち、開いている席を拭いていた
そんなときだった
突然ケータイのバイブが鳴り、健斗はゆっくりとポケットからケータイを取り出す
電話……?
しかも、麗奈からだ
どうしたんだろうか
健斗は台布巾を置いて、店長に断りを入れると、店の外へと出た
そして、未だかかり続けているケータイに出た
「もしもし?どうした」
その電話の先から聞こえる声、それは……
「もしもし?山中くん?」
それは麗奈の声ではなかった。まったく別の女の子の声
あまりにもびっくりして、健斗は戸惑っていた
確かに麗奈から着信と表示されている
なのに……誰?
「あ、ゴメン。うち、マドカよ。北村円」
そう言われてから、健斗は少しキョトンとした。北村円……?
「北村……?あぁ、北村か」
ようやくそれが誰なのか理解出来た
北村円は、健斗と小中高共にいっしょだったので、よく知っている
けど、何で北村が?
「どうしたの?麗奈は?」
健斗が訊くと、北村は少し戸惑うように言ってきた
「うん……それがね……」
「……は?」
北村から出た言葉は健斗が何気なく予想していた通りだった
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