「へェー」
麗奈は川から上がって河原にいた。ヒロが捕まえた魚を丁寧に捌く様子を興味深そうに見ているのだ
麗奈が転んでしまったため、石の囲いが崩れて、多くの魚は逃げてしまった
しかしそれでも、健斗が釣りで一匹、麗奈が二匹捕まえていたので、合計して三匹。ちょうど人数分の魚は取れたのだ
とは言っても、本当はもっと取ることが出来たのだと考えると……やはり悔しい
けど、今もそんなことどうでもいいと思えるくらい、何故か気分は高調だった
本来ならびしょびしょになって最悪の気分になるはずが、麗奈のおかげで笑わされてしまった
不思議なものだ
麗奈と笑っていると、心が和む自分がいた
麗奈はヒロが魚を捌く様子を見て感心していた
「ヒロくん、手際良いねー」
魚の腹を切り、内臓を綺麗に取り除き、川の水で綺麗にする
麗奈にそう言われてヒロは嬉しそうに笑った
「まァな♪ガキのころから、こいつにこうして捌いてやってたからさ。ほら、健斗って基本不器用だろ?仕方ないから、俺がやってあげてたら、いつの間にかお手のものになったんだ」
「へェー……ヒロくんは器用なんだねェ」
麗奈はヒロににっこりと微笑んだ
「器用だし、ヒロくんって何でもこなしそうだもんね♪女の子とかにモテそうだなァ」
麗奈がそう言うと、ヒロは得意気な顔を浮かべて、自慢した
「まァねー♪やっぱり色々な人から頼りにされちゃってるからさァ?もー中学のときもモテモテだったんだぜー」
そんな風にお気楽に話すヒロ。そんなことを聞いていた健斗は、ふと思い出して吹き出した
森田さんに振られたときのことをだ
あれは健斗が中1のときだ。部活の帰り、突然ヒロが言ってきたんだっけ?
「俺、好きな人出来た」
部活帰りの車道を横断する歩道。信号が変わるのを待っていたときに、ヒロはそう言ってきた
ヒロの右隣には健斗、その隣に翔がいた
顔を赤くして、目を見開いて、鼻息を荒くしていた。お馴染みの黒縁の眼鏡が曇る
それを聞いた翔が呆れるようにため息をついた
「またかよ……」
同感だった。心の底から翔の言葉に賛同したい
これで何度目だろう……ヒロの口からその言葉が出たのは
健斗や翔からしてみれば、ヒロから出てくるその言葉に重みがなく、聞き流す程度にしていた
しかし、ヒロは本気だったみたいで呆れている二人を見て大声で叫ぶように言う
「いやっ!今回はマジだからっ!」
「それも何度聞いたし。つーかお前、この前聖美ちゃんに振られたばっかじゃん。懲りねーやつ」
翔にそう言われると、ヒロはむっとした表情になった
「あれは俺が原因じゃねぇじゃん。こいつが遅刻したせいで……」
「だってお前が時間教え間違えたんじゃん」
健斗が口を尖らせてそう言うと、ヒロが健斗の頭を叩いてきた
「イテェッ」
「俺はちゃんと9時っつったぞ。お前が間違えただけ」
「そうだっけ?」
健斗は惚けているのか、それとも本当に覚えていないのか、不思議そうな表情を浮かべていた
そんな健斗にヒロは憂鬱そうにため息をついた
「まぁ、聖美ちゃんの話はもうどうでもいい。今、俺は新しい恋に向かって頑張ってんだから」
「……で?その相手は?」
翔がそう訊ねると、ヒロはニヤニヤしながら、わざとらしくデレデレしていた
「えー?お前らに教えんのー?どうしよっかなァ〜?そんなに知りたいんなら教えてやってもいいけど……でっもなァ〜?」
「……要するに言いたいんだろ?面倒くせぇから早く言えよ」
翔がそう言うとヒロは少し悩むような仕草を見せた。悩んでいるのは多分、健斗たちに教えることを躊躇っているということだ
相変わらず面倒くさいやつだ……
するとヒロは突然真剣な目になり、呟くように言ってきた
「……森田さんっ」
森田さん……健斗と翔はその名前を聞いて、フルネーム、顔、声、髪型、体型、性格など……そのどれもが一瞬に、本当に一瞬に思い浮かべた
「「えーっ!」」
これには健斗も翔も、今までにないくらいの驚きようを見せた。
まさかその名前がヒロの口から出てくるとは思いもしなかった
女の子に興味がない健斗ですら、すぐに分かる名前だ
「何でっ……え?森田さん?」
「どしたの急に?」
健斗と翔が動揺しながら訊ねてみる。その反応を見たヒロは嬉しそうだった
健斗たちが動揺するのも当たり前である
森田麻衣子さんは、それはもう……大和撫子というのはこのことかと言わんばかりの、すごく美麗な女の子
美麗だ
可愛いだけじゃない。そう、美麗なのだ
小さな顔立ちに、ほんのりする甘い声、羨むスタイルに、ふわっとした黒色の綺麗な長い髪、性格もとてもいい
ただ、変わっているとこもあって、同い年の子にも関わらず、他人行儀だということ、敬語を使ってきたり……
それと……小説が大好きだったみたいだ
確か……早川と同じ神乃小出身らしい
だからこそ、神乃中入学式は大勢の人を賑わせた
前代未聞の絶世の美女が現れた……と
そんな森田さんのことを好きになったヒロも当然といえば当然だ
ヒロは美女好きだから……しかしいくらヒロでもあの森田さんを狙うということは……やはり何か経緯があるということだと健斗は思った
「実はさァ……」
ヒロはそう言い出すと健斗も翔も興味本位で聞こうとした
信号がようやく青に変わる。健斗たちは揃って歩き出した
「実はさァ……俺、前々から森田さんと結構仲良いんだ」
このことにも驚きが隠せず、二人は思わず叫びそうになる
忌々しさと悔しさの両方がまるでミキサーにかけられているようだ
しかし、その一つ一つの反応にいちいち相手もしていられず、ヒロは続けた
その経緯を話してくれた
どうやら、ヒロは2週間前……好きなマンガを買いに行くため、書店に立ち寄ったらしい
ちなみに買おうとしてたのは、ヒロの好きな少年誌の単行本だとか……
そのマンガを探していると、偶然出会ってしまったらしい
新書本のコーナーにいた森田麻衣子と……
喋ったことはない。ただ、お互いに顔くらいは知っている
当然だ。同じクラスなんだから……私服姿の森田麻衣子はより可愛く見えたらしい
そのまま通り過ぎようとしたヒロ……しかし意外なことに……森田麻衣子が微笑んで話しかけてきたらしい
「真中くん。こんにちは」
相変わらず他人行儀の口を利いてきた。ヒロにとっては自分に話しかけてきたとは思わず、周りを見渡してしまった
真中くんって、はっきり言われていることすら気がつけない
「あ……こんちは」
ヒロは軽くお辞儀をして、森田麻衣子に挨拶を仕返す
まさか話しかけられるなんて……どんなに嬉しかっただろうか
しかし話しかけられただけではない。その後、会話が成り立とうとしていた
「真中くんも、本を買いに来たんですか?」
敬語で話されると緊張が高まる。ヒロはここで、自分はマンガを買いに来ただけと言うのはたまらなくカッコ悪いと思ったらしい
「あ……そうなんっすよ。何かいい本ないかなァー……って」
思わずこっちまで敬語を使ってしまう。もちろん本を買いに来たなんて嘘だ
それどころか、当時ヒロは小説なんか読んだことなんかない
どうもあの、字が並んでいるのを読むと、目が痛くなるらしい
気持ちは分かる
すると森田麻衣子の反応は……とても可愛いらしい笑顔を見せてきた
「本当ですかっ?へェー……どんなの読むんです?」
そう訊かれて、ヒロは戸惑いを見せた
「えっと……」
ふと頭に浮かんだのは、お昼の再放送で見たバラエティーのゲストが言っていた可愛げのない台詞
『私、サスペンスとかホラーとかめっちゃ好きなんですよー』
あれはきっと映画のジャンルを言っていたのだと思うのだが、本のジャンルにも当てはまると考えていた
「さ……サスペンスとか、ホラーとかかな?」
ヒロがそう言うと、森田麻衣子は感心するように言ってきた
「へェー……私もサスペンスはよく読みます。ホラーは怖いんで苦手ですけど……」
そう言って頬を赤く染めて、チロッとピンク色のツルンとした舌を見せてきた
その表情を見たヒロはまたドキドキしてしまう。素直に可愛いと思うのだ
「サスペンスなら……ほら、ちょうど新しいのが出てるんですよ?」
そう言って選んでもらったのは、タイトルがよく分からない、内容もまったく知らない、それどころか、作家の名前すら知らない……比較的分厚い新書……
ヒロは冷や汗を掻いていた
「あ……知ってるよっ!えっと……東野圭吾でしょ?面白いよね〜」
「あの……東野じゃなくって、東野です。東野圭吾」
「え゛……」
やってしまった……
「そ、そうっ!東野圭吾っ!やだなー、当然知ってるよっ!」
そう言うと森田麻衣子はにっこりと微笑んだ
「なぁんだ。知ってますよね?有名ですもん」
「そ……そうね……」
どうやら森田麻衣子は天然なとこがあるみたいだ
「私もそれ、少し内容知ってるんです。面白いと思いますよ?」
森田麻衣子にそう言われる。この方向性は……まさか……
「そ、そうなんだよなァッ!俺もちょうど買いたくって……うん、やっぱり買おうっ!」
見栄っ張りというのはまさにこのことを言うのだろう。美人を前にすると、いいとこを見せたがる
結局ヒロは内心不本意ながら、その本を買ってしまった……千五百八十円を払って……当然、漫画を買うお金はなくなってしまった
不本意で何故このようなものを買ってしまうのか…逆にこっちが聞いてみたいとヒロは感じていた
軽く泣きそうだ
森田麻衣子も、何やら読むための本を買ったらしく、2人は揃って書店を後にした
ヒロは書店を出ると同時に気落ちしていた。こんなものに千五百円以上も払ってしまったとは……
返品出来ないだろうか?しかし……入り口に張ってある、“返品お断り”の表示を見るのは、とても目が痛かった
気落ちしているヒロをよそに、森田麻衣子はゆっくりと歩き出す
「それじゃ、私こっちなんで」
「あ……」もしかしたらいっしょに帰れるかもしれないという淡い期待でさえ崩れ落ちる
「その本読んだら、ぜひ感想聞かせて下さいね?」
にっこりと微笑まれて、ヒロは小さく頷く。どうしてこの人の笑顔はこんなに可愛いのだろうか……
しかし千五百円以上の犠牲と、森田麻衣子の笑顔を見れた嬉しさが混ざり、複雑な心境を抱えていた
森田麻衣子はどんどんヒロの元から離れていく。その美しい後ろ姿を、ヒロは目を離そうとしなかった
森田……麻衣子か……
改めて実感しなおす
やっぱり可愛い……いや、美麗だ
ヒロは改めてもう一度“返品お断り”の表示を見た。このまま蹴っ飛ばしてやりたい気持ちになる
ところがだった。家に帰ってから、生まれて初めての読書をした。本などめったに読まないヒロを見て、親父さんやヒロのばっちゃんも本気で雨が降るのではないかと勘違いしたくらいだ
ところがというのはここからだ。意外にも、小説の楽しみというのを知ってしまった
ヒロが大人に近づいている証拠だろうか。文だけだが、決してつまらないとは言えなかった
ただ、登場人物の台詞は漫画でいう活字だとして見て、情景や状態の描写は、漫画で言う周りの風景だと考える
それらを頭の中でイメージすれば漫画を読んでいる気がした
それに何だか小説を読んでいると、自分が一歩大人に近づいたような優越感を感じることが出来た
それからだ……ヒロが小説を好むようになったのは……
そして……そこからが問題だった
小説を読み終えた感想を、森田麻衣子に話したい
もちろん最初は躊躇った。しかし勇気を出して、ヒロは話しかけてみた
どんな反応をしてくるのだろう
ドキドキした
案の定だった
森田麻衣子は、とても嬉しそうな表情を浮かべてくれた
それは、自分が選んだ本を面白かったと言ってもらえた安心感と、小説を読み終えた感想を言い合える“友達”が出来た喜びを表していたということを、ヒロも気がついていた
しかし、自分の気持ちに嘘はつけない
ヒロは薄々気がついていた
教室で一人、本を読んでいる優雅で凛とした静寂さ、ほんのりと甘い匂いをさせる柔らかな髪、友達と話しているときに不意に甲高くなる笑い声、その笑顔……
その全てが自分をドキドキさせている。自分は次第に森田麻衣子に普通とは違う、特別な感情を抱き始めているのだ
「なーるほど」
健斗、翔、ヒロはヒロの話を聞くために、三丁目公園のすべり台のとこでたむろっていた
健斗はすべり台の上、翔は滑走路の終点部分、ヒロはそのすべり台自体に寄りかかるような状態でいた
「お前すげーよ」
翔は感心するようにヒロに言う。ヒロはそんなこと言われて、気恥ずかしいのかそれとも嬉しいのか、ニヤリとしてデレデレしていた
「そっかなァ〜♪」
「いや、スゲーだろ」
翔は本当に感心しているみたいだった
「あの森田麻衣子とそこまで仲良くなれんなんて……マジすげー」
「ま、まァな〜♪」
「いいなァ……なァ、健斗」
翔は健斗にそう言ってきたが、健斗は顔をしかめてきた
「別に……何がいいのか分かんねー」
「……そっか……お前は今時珍しいパーフェクト硬派だもんな」
翔に嘲笑うかのように言われる。それが健斗にとって、少しむかっと来たことを今でも覚えていた
「で、いつ告んの?」
翔がヒロにそう訊ねてみる。するとヒロはそれが問題だと言わんばかりに、悩むような仕草を見せた
「そうなんだよなァ……お前はさ、メールと直接……どっちがいいと思う?」
「そうだなァ……別にどっちでもいいんじゃね?」
「投げやりにすんなよ……なぁ、健斗はどっちがいいと思う?」
ヒロにそう訊ねられて、健斗は空を見上げながら考える
空は茜色に染まっていた
「……そりゃ……直接告るってのは男らしいし……カッケーけどさ。逆に振られたときのショックはデカいよな」
健斗は大きく欠伸を掻いた。今日も部活を頑張ったため、疲れたのだ
「だったらメールでもいいんじゃない?告ることには変わりねェんだし」
健斗はふと2人の視線を感じて、下にいる2人に目をやった
翔は苦笑していたが、ヒロは顔をしかめていた
「あ……別に、そういう意味で言ったんじゃねーよ?」
しかし皆も、そのあとのヒロの恋の行方はどうなったのか、知らないわけがないだろう
その一週間後、ヒロは森田麻衣子に振られた。結局メールではなく、直接言ったらしい
その勇気ある行動には感銘を受ける
しかし告白され慣れているのか、それともただたんに、彼氏を作る気がないのか……森田麻衣子は断った
ヒロはずっと落ち込んでいた
そんなヒロを何度励ましただろう
商店街のコロッケを奢ってやったりもした……
ヒロの一番淡く、切なく……しかし、一番最高の中一の恋だっただろう
「何笑ってんだよ」
笑っている健斗を見て、ヒロが魚を捌きながら健斗を見た
健斗はただ声を立てて笑っていた
「何でもねぇ」
確かに可笑しいのは、麗奈とヒロの会話の内容と、ヒロが森田麻衣子に振られた過去による、明らかな矛盾点だ
けどそれだけではなく、その頃“三人”で、そんなことを話していたなぁというような、昔を懐かしむ気持ちによるものだった
可笑しくて……可笑しくて……
笑いが忍ばない
そんな健斗をヒロと麗奈は不思議そうに見ていた
ヒロが七厘で処理を施した魚を丸ごと焼いていく
塩を振りかけたり、じっくりと火を通していく
しばらくすると、懐かしく良い匂いまでしてきた
「そろそろ……かな」
ヒロは頃合いを見て、待ち切れなさそうにしている麗奈に、しっかりと火を通した新鮮な鮎の塩焼きを差し出す
「ほい、熱いから気をつけてな」
ヒロがそう言うと、麗奈はゆっくりとそれを受け取った
油が染み出していて良い匂いがする
「いただきまーす♪」
麗奈は喜んで塩焼きを食べる
口を動かして、じっくりとその味を確かめる
「美味しいっ!」
麗奈がそう言う。健斗もヒロから受け取った鮎の塩焼きを食べてみる
確かに……塩の味がよく効いていて……うん、美味いっ!
「確かに……美味ぇなこりゃ」
健斗も笑って、その味を楽しんだ
ヒロも嬉しそうに笑ってみせる
「だろっ?」
「本当に美味しいー……」
麗奈なんかむしろ感動しているようだった
三人は流れる川をそばに、しばらくその味を堪能していた
健斗は食べながら、麗奈を見る
嬉しそうだ
そんな嬉しそうな麗奈の顔を見ると、心なしか少し安心感を覚える
だからやっぱり思うのだ
たまには……こういうのも悪くない……って
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