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第三話 ベーコンエッグとオニオンスープ

「おやすみなさい、セージさん」


 ミューラ・シルヴァラッド。

 背中まで伸びる、緩やかなウェーブがかかった美しい銀髪の少女。

 サファイアのように輝く大きな瞳は、とても印象的で魅力的。

 顔の造型も整っているが、美人と表現するにはまだ年齢が足りないかもしれない。それはつまり、彼女が美しく成長することは約束されているということでもあった。また、胸の膨らみは既に要件を満たしている。


 異世界からやって来た王女は、どんな格好をしていてもアトラクティヴだ。

 ドレスを脱ぎ、白いシャツを身に纏っていても。いや、いくつかボタンを留めずにいるラフな格好だからこその魅力に満ちあふれている。

 白いシャツは誠司の物で、かなり身長差があるにもかかわらず、裾はそれほど長くなっていない。それはつまり、女性特有の膨らみが緩和しているということだった。

 代わりに袖はかなり長く、折り曲げてもなおミューラの小さな手の甲を半ば隠してしまうほど。


 そのアンバランスさが、実に可愛らしい。


 寝るときも外さないつもりなのか、胸元のペンダントもアクセントになっていた。


「ああ」


 しかし、180cmほどある大柄な青年――三浦誠司(みうらせいじ)に、感銘を受けた様子はない。

 それどころか、滅多に変わることのない表情や作業の邪魔にならない程度に伸びた黒髪から覗く細い瞳からは、なんら感情を読み取ることはできなかった。


 ではと、感想を正面から問い質しても、苦々しい表情を浮かべるだけだろう。


 誠司にとって今のミューラは、ある意味で敗北の象徴でもあるのだ。


『このパジャマ、お腹は余裕があるのに胸がきついですぅ……』


 適正なサイズだと思って買ってきたにもかかわらず、その一言で拒絶された。そのお陰で、通勤用のワイシャツの拠出せざるを得なかったのだが……。


 変なフェチシズムを持っているかのようで、誠司としては大変不本意である。


 だから、短く答えて踵を返した。

 まだ日付が変わる前の時間ではあるが、ミューラはリビングに隣接した和室で。誠司は洋室で就寝の予定だ。

 ちなみに、三浦家の愛犬コタロウは、既に夢の国へと旅立っている。定位置であるリビングの窓際。カーテンの下で、手足を折り曲げて仰向けに眠っていた。時折、体が動き、一緒にカーテンも揺れている。


 しかし、ミューラは振り返った誠司の服を掴んでその場に押しとどめた。


 そして、咄嗟に振り返った誠司へ、背伸びをしながら抗議する。


「『ああ』じゃないです」

「??」

「なにを言ってるんだ、この娘はみたいなオーラを出さないでください!」


 誠司の表情は変わっていないし、目も細くて感情など読み取れない。にもかかわらず、ミューラはそれらを総体した雰囲気で誠司の感情を把握しているようだ。


 鋭い。


 誠司は、思わず感心してしまう。


 感受性が豊かなのか。それとも、それが必要な環境だったのか。


 真相は分からないが、実際、ミューラの言葉はほぼ真実だった。


 けれど、それを認めるかどうかは別問題。


「別に、そんなことは思っていない」


 嘘である。

 臆面もなく言い切ったが、大嘘である。


「ええー? そうですか?」

「ああ」


 完全にニュートラルな状態で、誠司はわずかにうなずいた。


「それは、失礼しましたです……」


 重ねて言うが、嘘である。

 しかし、こうまで真っ正面から否定されると、さすがに自信を失ってしまったのか。おかしいなと首をひねりながらも、ミューラの追及が緩んだ。


 その隙を見逃す誠司ではない。


 再び、踵を返す。


「じゃあ」

「はい、おやすみなさい……て、そうじゃない。そうじゃないですよ、セージさん!」

「??」

「また、なにを言ってるんだ、この娘はみたいなオーラを出すんですからぁ」


 逃げられなかった。


 これ以上は時間の無駄だと、諦めた誠司はミューラの目を見て口を開く。


「……おやすみ」

「はい、おやすみなさい……て、最初っからそういってくださいよ。もう! セージさんはセージさんなんですからっ!」


 ミューラの言葉に反応を示すことなく、セージは自室の扉を開いて明かりを付ける。


「おやすみ」なんて挨拶は久しぶりで――真面目に言うのは恥ずかしいではないか。


 そんな真意を誰に気取られることもなく、自室に戻った誠司は、窓際のベッドへ一直線に向かった。

 そのままうつぶせに倒れ込み、深く息を吐く。


 180はある長身を布団が包み込んで、彼に一時の安息を与える。


 そう。表情は変わらず、目を覆う前髪で感情は計りかねたが、誠司は明らかに安堵していた。


 どうにか、今日一日が終わったことに。


 ミューラが現れてから同居――誠司としては、匿うといったほうが実情に近い――を決めるまでも大変だったし、その後の説明もいろいろと難儀だった。


 けれど、最後に勃発した『ピザに味がしない騒動』は、その比ではなかった。


 それくらい、落胆するミューラをなだめるのは大変だったのだ。


 最終的にはコタロウと濃厚なスキンシップを取らせることで立ち直ってくれたのだが、コタロウがいなかったらどうなっていたことか。アニマルセラピーの効果は絶大だ。


 そして、それだけでは終わらない。


 調理をしたはずのピザに魔素(マナ)が含まれていなかった。


 その大問題を考察するよりも先に、生活の準備をしなければならなかったのだ。こればかりは、他の誰かに任せるわけにはいかない。


 そのため、ミューラの相手をコタロウに任せ――決して、その逆ではない――徒歩5分ほどで行ける大型スーパーへと一人訪れ、生活用品を買い込み、可能な範囲で服も買った。

 不可能な部分に関しては、タブレットで注文してある。明日には届くだろう。


 ただ、いくつかに関しては、実際にミューラを連れて行かなければならないと判断を下していた。


 具体的に言及すると、下着類である。こればかりは、いかんともし難い。


 一応、ミューラ自身にメジャーでサイズを計らせてはもらった。それを下に、注文もした。しかし、それがぴったりなサイズだと信じられるほど、誠司は楽観的ではなかった。

 実際、適当に買ってきたパジャマは返品が予定されている。ここは、ミューラが言う幻覚の魔法は必要経費だと割り切るべきだろう。


 こういった準備を終え、誠司はようやく一人の時間を取り戻した。


 ミューラも、今頃は布団に入っていることだろう。


 寝られているかは分からないが……まあ、どうせ明日も家からは出られないのだ。夜寝れないのなら、昼間に寝れば良い。


 そう結論づけた誠司は、寝返りを打って体勢を仰向けに変える。


「それにしても、なんでピザが駄目でコーラは良かったんだ……」


 最初に作ったパスタとスープもそうだが、そこに、どんな違いがあるのか。

 柔らかな光を放つ室内灯をぼんやりと眺めながら、誠司は少しずつ思考に没頭していく。


 まず、前提として地球には――当たり前だが――魔素が存在しないらしい。

 確認できたのはマンションの周囲だけなので断言できないとはいえ、ペンダントの魔石に魔素を供給しなければならないのだから、拠点となるこの家以外に関して考慮する必要はないだろう。


 そして、材料の段階では存在しないが、なぜか料理にすると魔素が発生するようだ。


 しかし、ここで注文した宅配ピザには魔素が存在しないという根底を覆す大事件が起こる。


「これだけだと、違いは俺が作ったかどうかになるけど……」


 微量――回復するほどではないが、味は感じられる――の魔素がコーラに含まれていたことで、この説は否定された。

 もしかしたらコーラ自体ではなく、氷に魔素が含まれていたのかもしれないと、誠司はコーラだけをグラスに注いでミューラに飲ませたが、結果は同じだった。


 その結果が出る前は、この場――マンションになんらかの要因があるのかも知れないと誠司は考えていた。

 ミューラがここに転移してきたのは偶然ではなく、引き寄せた原因のようなものが存在していて、その作用により、料理に魔素が発生したのかもしれないと。


 けれど、コーラの実験によりあっさりと否定された。


 こうなると、サンプルが少なくて結論も導けない。境界条件が提示されていない微分の問題のようだ。


 なにより厄介なのは、魔素が含まれない食事では、栄養補給の用途にも使えないということ。忙しいときや不在時に、買い置きのパンなどで凌いでもらうということもできなくなってしまう。


 誠司としては手間を厭うわけではないが、ミューラの選択肢が著しく制限されるのは……端的に言って可哀想だった。

 まさか、「味のする砂」を食べさせるわけにはいかない。


 そして、魔素問題があまりにも大きすぎて、他の部分が手つかずになっている。これも、問題だ。


 早いうちに、地球と異世界の常識を教え合わなければ。ほったらかしにしていると、どこかで致命的な問題が発生しそうな気がする。

 それに、お互いの身の上話も、できる範囲でやっておきべきだろう。こちらは、時間が経過するほどやりにくくなるはずだ。


「とりあえず、明日の朝も俺が料理してマナってのの充填に努める。それから仕事に行って、帰りに買い物をして、夕飯を食べたら常識のすり合わせ……だな」


 声に出して、やるべきことを確認。


 こうして、誠司は眠りに……つくことなどせず、ベッドの上で起き上がった。これ以降は、プライベートな時間だ。


 そして、ベッドから床へと手を伸ばし――そこにたどり着く遙か前で、本を一冊手に取った。


 別に本が浮いているわけではない。ただ単に、床には一面本が積み上げられ足の踏み場もないだけだ。

 これは部屋に本棚がないという叙述トリックではなく、本棚など既にいっぱいになっているという哀しい現実を表していた。


 両親の死後、思うところがあって本を裁断してスキャンし、現物は処分しているのだが、遅々として進んでいない。

 原因は恐らく、デジタルデータとして取り込んだそばから読みふけっているからだろう。


 そんな中からランダムに取りだしたのは、モーリス・ルブランの『奇巌城』。


 アルセーヌ・ルパンシリーズの第一長編だ。


 それ以前に中短編集が三冊刊行されており、その中では、『奇巌城』にも登場するシャーロック・ホームズ――あるいはエルロック・ショルメ――も登場している。


 誠司が通っていた小学校は予算の関係か設備も古く、図書室の本も年季の入った物が多かった。ゆえに、児童向けのルパンものも、置いてあるのは古い版。

 そちらでは『奇巌城』が怪盗ルパン全集の一巻になっているため、誠司としてもその認識が強い。


 ただ、今回誠司が手にしたのは、一般の文庫から出ている大人向けの翻訳である。


 子供の頃夢中になっていた作品を大人になって再読すると、いろいろと感慨深い。


 誠司は仰向けのまま、ぱらぱらとページをめくる。


 例えば、子供の頃は主人公であるルパンを無邪気に応援していただけだったが、改めて読み返すと少年探偵イジドール・ボートルレが主人公である。

 イジドールがルパンが仕掛けた狡猾な罠を次々と乗り越えていくところはスリリングだ。謎謎謎と、どんどんたたみかけていく部分は、いわゆる本格ミステリとは異なる味わいがある。


 それでいて、ルパンも決して格落ちはしていない。ルパンもイジドールも、どっちも凄いと感じさせる。


 ルパンもの特有のロマンスもあるし、賛否両論だろうがシャーロック・ホームズも出てくる。初期の総決算とも言える豪華な長編だ。


 しかし、少年時代の誠司としては腑に落ちない部分もあった。

 それを思い出しながら、ラストシーンへと一気にページを進める。何度読んでもラストにおけるホームズの扱いは酷いが、今は関係ない。


 そこでルパンはイジドールへ言ったのだ。君はシャーロック・ホームズをも越える探偵だ。また対決することだろうと。


 にもかかわらず、ルパンシリーズに二度とイジドール・ボートルレが登場することはなかった。

 非常に残念で、同時に疑問だった。


 その疑問は、後年ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』を読んだときに氷解する。


 ガストン・ルルーといえば『オペラ座の怪人』で有名だが、ミステリの歴史にもしっかりと足跡を残していた。

 『密室の王者』ジョン・ディクスン・カーから、「最高傑作」とも評された『黄色い部屋の謎』は、現代の視点から読むと、逆に拍子抜けする部分もある。

 なぜなら、その革新的なトリックは、それゆえに、現代では使い古された物になってしまったのだ。


 それはともかく、探偵役であるジャーナリストのルールタビーユに、どうも既視感があった。


 『黄色い部屋の謎』を読み終えた後、誠司はしばらく考え、答えにたどり着いた。


 幼い頃に出会った少年探偵イジドール・ボートルレにそっくりだったのだ。


 つまり、ルブランはキャラクターを――オブラートに包んで言えば――模倣したわけだ。


 ルパンシリーズにおけるホームズ問題も有名だし、ルブラン自体が、そういう人なんだろうなぁと誠司としては微笑ましく思えるのだが……模倣された当事者としてはたまらない。ドイルからもルルーからも、きっちり抗議を受けている。


 それが問題になって出てこれなくなったのである。


 なんとも、読者には迷惑な話だ。


「そういえば、ミューラの転移は密室を破ったことになるんだよな」


 ふと思いついたように誠司はつぶやいた。

 狭義では、鍵をかけ締め切ったマンションの一室への侵入。広義には、地球という世界へ異世界からやってきたこと。


 もっとも、その後、密室から脱出できなくなっている状態なのだが……。


 異世界から来たミューラにとっては、地球全体が密室とも言えるだろうか。脱出する方法を失った密室への侵入者。


「駄目だな。この路線はバカミスしか生まれない」


 こんな風に益体のないことを考えてしまうのは、疲れているからだろう。


 誠司は手元のリモコンで明かりを消すと、そのまま意識を手放した。





「うーうー」


 一方、和室に敷いた布団の上で、シルヴァラッド森林王国第三王女ミューラ・シルヴァラッドは目を見開いて天井を見ていた。


「眠れないですぅ……」


 緊張して眠れないどころではない。

 エアコンの稼働音だけが静かに響く中、暗闇とは裏腹にミューラの目はギンギンに冴えていた。


 疲労はある。布団に包まれて快さを感じているのだから、それは確かだ。床に布団を敷いてその上に寝せるということを誠司は心配していたが、ミューラとしてはまったく問題なかった。

 むしろ、必要以上に柔らかいだけだった離宮のベッドより快適なぐらいだ。


 しかし、一向に眠気がやってこない。思考が拡散し、無軌道に回転し、脳が勝手に活動をし続ける。


 それも仕方がないだろう。


 今日の昼から、とんでもないことが起こり続けたのだ。


 転移魔法の実験部分は省略するにしても、その過度な大成功(クリティカル)により次元を越えてしまった。これには、ミューラ自身驚愕して冷静に考えられない。

 古代魔法帝国時代であれば前例はあったかも知れないが、その崩壊後は初めての偉業である。


 だが、それを誇るよりも初めて会った異世界人――ミューラから見ると誠司はそうなる――との邂逅のほうがよほどエポックメイキングである。


 古代魔法帝国時代の小説『黒髪の紗音(シャノン)』に出てくるような世界で、『黒髪の紗音』に出てきそうな青年に出会った。

 これだけで興奮せざるをえないのに、誠司は自分を受け入れてくれたのである。


 王女である彼女でも、人を一人養うのがどれだけ大変かは想像がつく。

 しかも、右も左も分からぬ異邦人をである。


 これはつまり――


「そういうことですよね? そういうことですよね?」


 ――恐らく、いや、確実に、誠司は一目惚れしたのだ。


 このシルヴァラッド森林王国第三王女ミューラ・シルヴァラッドに。


「きゃーきゃー」


 あらぬことを考え、ミューラが布団の中で身もだえする。もし誠司がミューラの頭の中を覗けたなら、死にたい気分になっていたことだろう。


「ヴヴー」

「はっ」


 すると、それが気に障ったのか。それとも単なる寝言なのか。リビングからコタロウの不機嫌そうな声が聞こえてきた。

 それで冷静になったミューラは、ワイシャツの乱れを直す。


 誠司のワイシャツを。


 無意識にその匂いをかぎながら、誠司のことを想う。


 冷静のようでいて、結構照れ屋なところもある。

 料理も上手だ。

 それに、優しい。それは、こちらのことをいろいろと考えてくれた料理からも分かる。


 なにより、突然現れた自分を受け入れてくれる度量の広さは特筆すべきだろう。


 特筆すべきと言えば、あの豚肉は甘辛くて最高に美味しかった。パスタも歯ごたえがあったし、コーラもシュワシュワして甘かった。

 

「はっ、違います。そうじゃないです」


 思わずがばっと飛び起き、また布団に戻るミューラ。


 完全に挙動不審だ。


「でも、誠司さん遅いですよね」


 状況をミューラなりに分析した結果、夜這いがあるものと彼女は確信していた。

 軽率のそしりを免れないであろうが、「お礼でしたら、導機(デバイス)と魔石のペンダント以外はなんでも差し上げますから」と言ってしまっている。


 にもかかわらず、誠司は宝石類になんら関心を示さなかった。


「そうなると、残るはこのわたしだけ……ですよね? ね?」


 困る。

 困るが、求められるのは悪い気分ではない。


 ちなみに、このとき、誠司は既に『奇巌城』を床に積み寝息を立てていた。


 そうとは知らないミューラの煩悶は続く。


 準備は万端。お風呂で肌もしっかりと磨いている。

 いや違う準備をしたわけではない。見慣れないテクノロジーで作られたお風呂が珍しかったのだ。初めて使うボディソープはとてもあわあわだったし、一人でゆっくり入る浴槽も機能的。入浴剤も、ぽかぽかだった。


「はっ。でも、体臭がするほうが喜ばれる場合もあるって……」


 姉のように慕っていた年上のメイドの言葉を思い出し、ミューラは布団の中で固まった。

 それが誠司の好みであれば従うべきであろうか。しかしかし、それはあまりにも偏執狂的(マニアック)ではないか。


「誠司さんはそんな人じゃありません!」


 そう言って、ミューラは拳をぎゅっと握る。そうだ。誠司は、もっとノーマルだ。


 誠司としてはその前の段階で立ち止まって欲しかっただろうが、ミューラ相手には無理な相談である。


「でも、優しい人で良かったです」


 どうせ、帰っても政略結婚で、顔も知らない相手に嫁がされるのだ。

 妾腹の出で、しかも第三王女程度では、選択肢はおろか拒否権すら存在しない。


 それならば、恩人に捧げられるのは、望外の喜びではないか。


 くすりと、ミューラが微笑む。


 こうして待っているうちに、うつらうつらと意識が曖昧になり――いつしか、ミューラもまた夢の国へと旅立っていた。





 三浦誠司の朝は、乱暴にドアを叩く音で始まる。


 今朝も、いつも通りの時間にガンガンと扉が揺れた。

 ベッドからむっくりと起き上がると、積み本の平原を器用に抜け、誠司は自室の扉を開ける。


「アンアンッ!」


 そこには、廊下にぺたりと座って尻尾をぶんぶんと振るコタロウがいた。


「分かったから、ちょっと待ってろ」


 愛犬の頭を撫でてやりながら、誠司は物分かり良く言った。


 言葉の意味は理解できなくとも、意思は伝わったのだろう。

 キャンキャンと喜びの声を上げながら、コタロウは飛び跳ねて誠司の後を追う。


 ミューラは、まだ寝ているようだ。


 安心して誠司は洗面所で軽く身支度を調え、キッチンで朝食用のご飯を炊こう……として、今朝は、余ったピザを消費しなければならないことに気づく。

 ミューラには食パンを買ってきてあるので――まさか、パスタを茹でるのは良くて、パンをトーストするのが駄目ということはあるまい――今朝は炊飯器の出番はなかった。


 自室の向かいにある兄の部屋に置いてある仏壇の水だけ変えると、誠司は散歩用の服に着替える。


 この時点で、コタロウの興奮は最高潮。

 もし玄関のドアが開いたら、そのまま外廊下へ駆けだしかねないほど。


「お座り」


 もちろんそんなことはさせず、誠司はコタロウに命令を下してリードを付けてやる。その瞬間にドアへと走り出すコタロウをリードで操りつつ、誠司はドアを開いた。


 さわやかな空気と朝日が全身を撫でる。


「今日は、ちょっとゆっくり回るか」

「ワォンッッ」


 なんだか誠司が機嫌良さそうだと、コタロウも嬉しくなってエレベーターへと駆けていく。

 誠司としては、昨日はいろいろあって手早く終わらせてしまった分の償い程度のつもりだったが、元気そうにしていると、こちらまで嬉しくなってしまう。


 ただ、それは失敗だったと約一時間後に思い知る。


 出勤前の散歩を終え、帰宅したその瞬間。


 リビングからだだっと、ワイシャツを着た銀髪の美少女が駆け寄ってきた。


 起きたときに誰もいなくて不安だったのかとも思ったが、違った。ミューラの端整な相貌には、明らかに怒りの色が浮かんでいる。

 しかも、拳を握って誠司の胸を駄々っ子のように叩き始めたのだから、起こっているのは確実だ。


 しかし、誠司にはその理由がまったく見当もつかない。


「▲◇◎♂○□■☆!」


 その上、魔法の効果時間が切れたのか、言葉も分からなくなっていた。


「……分かった。朝飯にしよう」


 言葉が通じないながらも、そう言うしかなかった。


 なんとなく意味ではなく意思が伝わったのか、ミューラもとぼとぼとリビングへと戻る。


 先に洗面所でコタロウの足を洗ってから誠司も手を洗い、一人キッチンに入った。


 メニューは考えてあるが、可能な限り急がねばならない。

 もちろん出勤時間というリミットはあるが、それ以上に、頬を膨らませたお姫様のために。


 ミューラは着替えもせず、ダイニングテーブルに座ってこちらをにらみつけていた。それが、可愛らしく映ってしまうのは、本人にとっては不本意かもしれないが。


「……さて」


 基本は時間がかかるものからと、タマネギを繊維に対して直角に薄切りにしていく。手早く二個分終わらせると、耐熱容器に入れてレンジにかける。


 次に、スープ用の鍋を用意し、フライパンも取り出す。

 

 換気扇を回し、調理開始。


 あとのことを考え、フライパンにはアルミホイルを敷き、その上に冷蔵保存していた余り物のピザを並べた。

 そのまま中火で待つこと二分。水分が飛んでカリッとしてきたら、逆に少しだけ水を振り蓋をかぶせてすかさず弱火に。


 同時に、スープ用の鍋も加熱し、バターを落としておく。


 そうこうしているうちに、ピザの再生は完了。

 蓋を開けると、まるで、できたてのようなピザが目の前に出現した。これで、冷めたピザも元通りだ。


 面倒なので、アルミホイルと一緒に皿へ移動。フランパンを軽く拭いて、ピザはダイニングテーブルへ運ぼう……として、止めた。ミューラにはまだ目に毒だろう。


 しかし、このまま置いておくのも邪魔だと悩んでいると、タマネギの加熱が終わった。


 ここで、誠司にアイディアが浮かぶ。


 ミトンを着けて耐熱容器を取り出し、バターが溶けてきたスープ用の鍋にタマネギを放り込む。こちらも弱火にして、焦がさないように炒め始めた。


 入れ替わりに、温めたピザの皿を電子レンジの中に突っ込んだ。加熱はしないが、置き場所としてちょうど良い。


 あとは、タマネギを炒めるだけ――とは、いかない。


 鍋の様子を見ながら、今度はサラダの準備。


 レタスをちぎって水洗いし、水を切っている間にトマトをくし切り。サラダ皿に一人分ずつレタスを盛ると、へたを落としたトマトを載せた。


 もちろん、この間もタマネギは炒め続けている。

 これだけでは寂しいと、かにかまも追加。フランスでは人気らしいので、ミューラも気に入ることだろう。


 簡単なサラダを本当に簡単に完成させると、そのまま冷蔵庫で冷やす。


 その頃には、タマネギもすっかり飴色だ。


 鍋に水を3カップとコンソメのキューブを二欠片投入。あとは、このまま煮込んでいけば良い。二人分にはかなり多めだが、これはミューラの昼食用でもある。

 同じメニューが続いてしまうが、このスープとトースターの使い方を教えてスープとパンデ済ませてもらうつもりだった。


「……ん?」


 あとはベーコンエッグとトーストを作るだけ。

 そう思ったところで、前方に人の気配がした。


「…………」


 また異世界人が来たわけではない。


 最初の時と同じく、ミューラが覗き込んでいたのだ。 


 少し頬はふくれているが、怒っている様子はない。好奇心や食欲が、怒りを超越したということだろうか。

 多少気になるが、追い払うほどではない。


 トーストの準備をしたら、テフロン加工のフライパンに、油を引かずベーコンを並べる。

 ただし、半分――10センチ弱――ほどに切り、格子状に。30秒ほどしてから、卵を投下。少量の水で蒸し焼きにする。


 待つこと一分。


 綺麗に半熟に焼き上がった卵にうなずきつつ、滑らせるようにして皿に乗せた。塩こしょうを振れば、どこからも文句の出ないベーコンエッグができあがる。


「■□▽!」


 ギャラリーもご満悦のようだ。


 続けてスープの火を止めボウルに二人分注ぎ、最後に、ちょうど焼き上がったトーストも皿に乗せる。


 完成だ。


 既にできあがっていた皿も含め、ミューラにも手伝わせてダイニングテーブルへと運ぶ。コタロウも追随するが、そちらは食べ終わってからだ。


 そして、三度目となる食事風景が一人暮らしだったマンションのリビングに現れた。


 ミューラには、たっぷりバターを塗ったトースト。ベーコンエッグ。誠司は再生ピザ。そして、サラダとオニオンスープは二人分。


 これが、今朝の朝食だ。


「はい、どうぞ」


 最初の時のように、身振りで伝える。

 しかし、その時のような不安は感じない。


「▽◎◇□◆」


 起き抜けの不機嫌さはどこへ行ったのか、恐らく、食事時の挨拶だろう言葉を口にする。その直後、喋るのに使うのはそれで終わりと、トーストに小さくかぶりついた。


 そしてまた、大きく目を見開く。


 美味しかったらしい。


 トーストは大丈夫だったかと、誠司は安堵した。念のため、普通の食パンではなく、焼きたてパンの店で購入したのが良かったのかもしれない。まあ、買ったのは昨日の夜の買い物の時なので、焼きたてではありえないのだが。


 そして、ピザはなにが悪かったのだろうかと思いつつ、再生ピザを口に運ぶ。


 こちらも、悪くない。


 いや、もしかすると最初に食べたときよりも美味しいかもしれない。


 チーズの味は寄り深く、生地はよりぱりっとしている。朝から重たいかと思ったが、これならなんとかなりそうだ。


 それでも、味の濃さにはやや辟易する。


 中和するためサラダにフォークを伸ばした誠司は、目の前のミューラが、まるでダンスでもするかのように右手を振るのを目撃した。


 昨日も見た、魔法を使うための動作だ。


 その時は気づかなかったが、指輪――魔法を発動するための導機(デバイス)と言っていたか――も、淡い光を放っている。


「《☆◆★●▽》」


 そして、歌うように言葉を紡ぐと彼女自身が白く光り出した。


 前回のように、呆然としているとまではいかなかったが、それでも、非現実的な光景には驚かされる。少なくとも、サラダを食べるような雰囲気ではない。


 だというのに――


「このパン、さくっふわっあまっです。さくっふわっあまっですよ、セージさん」


 これが、第一声だった。

 意味不明なのに言いたいことが伝わるのは、ある種の才能すら感じさせる。


「それは良かった」

「なんだか、執念を感じさせる味ですぅ」


 素直には受け取れない賞賛だが、この国の食品においては、ある意味、的を射た評価かもしれなかった。


「ベーコンもほどよい塩気と、嬉しい厚みですね」

「卵は、半熟で大丈夫だったか?」

「はい! 大好きです!」


 満面の笑みでの告白。


 しかし、それが自分に向けられたものだと勘違いするほど迂闊な誠司ではない。ただ、これなら魔素の回復は問題なさそうだと安堵する。


「……普通だな」


 中断していた食事を再開するが、サラダのほうは市販のドレッシングを使っていることも含めて、普通だった。

 元々、自炊はしているが、驚くような料理上手というわけでもない。普通で当たり前なのだ。


 誠司は気を取り直して、ピザを手に取り――それをオニオンスープに入れた。

 チーズがスープに溶け、芳しい香りがダイニングに立ちこめる。


 これなら、味も変わって無理なく消費できるだろう……という程度のアイディアだったのだが。


「ズルイです」

「大人だからな」


 ミューラの目に止まってしまった。


「わたしもやります!」

「構わないが……。昨日、砂みたいだって言ってただろ?」

「だったら、わたしもセージさんを許しませんからね!」


 女が怒ってる? とりあえず、謝れ。受け入れろ。話はそれからだ。


 そう語った兄の顔が思い浮かぶ。

 ただ、その顔は大部分が陰で覆われていた。


「ちゃんと反省しろよ?」

「そこは、後悔するなよじゃないですか!? 失敗前提!?」


 騒ぐミューラを前に、誠司は問答無用でピザをミューラのスープへと入れた。


 ふわっとした銀髪の王女が、緊張の表情を浮かべた。


「い、いきます」


 スプーンでピザの尖端部分をちぎって、スープと一緒に口へ入れる。


 その瞬間、ミューラの顔色が変わった。


「たまねぎとチーズがトロトロでふぅ……」


 顔まで蕩けさせ、ミューラがその食感に酔う。朝から堪能する濃厚な味わいに、魔素が回復していくのを感じる。

 たっぷりとスープを含んだ生地も、また良い。


 最高だ。


 至福だ。


 朝起きた瞬間に感じた怒りや哀しみなど、どこかへ吹き飛んでしまった。


 あのピザを、本来の形ではないが、食べられたのだ。魔素も、ぐんぐんと回復していくのを感じる。


「なんで、そうなるんだ……?」


 一方、誠司は予想外の結果に頭を抱えそうになっていた。

 温めたピザをスープに入れただけで、魔素が回復するようになる? なぜ? どうして?


「俺が料理――手を入れたという形式が大事ってことなのか?」


 それが正解のような気もするし、誤謬に陥っているような気もする。

 とにかく、一人のミステリファンとして、放置できない問題だった。


 しかし、当然ながら、ミューラはそんな誠司の気持ちになど気づいていない。


「寛大なわたしは、セージさんを許してあげます」

「王族が寛大なのは、喜ぶべきことだな」


 なにに対して怒っていたのかも分からないが、機嫌が直ったのなら良かったと誠司は一息つく。


 ただし、そのとき誠司の脳裏に浮かんでいたのはテルモピュライの戦いを描いた映画に出てきたペルシア王クセルクセス一世だった。





 朝食後、ミューラに昼食についての指示をしつつコタロウのご飯を作った誠司――食事の用意と心配をしてばかりだ――は、出勤用のスーツに着替えて玄関に立っていた。


「カッコイイですね、セージさん」

「そうか」


 初めて見た誠司のスーツ姿に相好を崩すミューラだったが、お世辞だろうと、誠司は軽く流す。


 しかし、ミューラの解釈は違った。「またまたセージさんは、照れちゃって!」と照れ隠しだと断じていたが、表面上は――王女らしい――さわやかな笑顔に留めた。


 こうして、またすれ違いが発生する。


 けれど、それを訂正する第三者はこの場にはいない。


「キュゥゥン……」


 ただ、主人との別れを惜しむポメラニアンがいるだけ。


 そんな愛犬の頭を撫でると、誠司は――後ろ髪を引かれつつ――出勤していった。


 バタンとドアが閉まり、外から鍵をかける音がする。


「一人になっちゃいましたね……」

「ワォン」


 ミューラのつぶやきに、まるで「俺がついてるから心配するなよ」と言わんばかりのタイミングでコタロウが吠える。


 そんな彼の優しさにほだされ、ミューラは誠司のワイシャツを着たままコタロウを抱き寄せた。


 そのまま、リビングへと移動する。


 やることが、なくなってしまった。


「セージさん、早く帰ってきてくれると良いですね」


 空腹も満たされ眠くなったのか、コタロウを抱いたままリビングのソファに座り、ゆっくりと目を閉じた。


 それは、理性の塊である誠司ですら、下手をすると手を伸ばしかねないほど可愛らしい寝姿であったが……。


 幸か不幸か、誠司がそれを目にすることはなかった。

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