不幸にも、俺は聞いてしまった。
哀ちゃんは、今年は一個しかチョコレートを作らないと親友に話していたのを。毎年恒例だったチョコレート。ああ、なんてことだろう。いやいや凹んでいる場合ではない。何とかしてもらいたい、欲しい。俺はあまり物には執着しない質だが、これは別だ。
サイアク試食でも。
というわけで、俺はバレンタイン前日哀ちゃんがチョコレートを作ってるのを甲斐甲斐しく手伝っている。テンパリングの真っ最中で、キッチンには甘い香りが立ちこめる。
「言っておくけれど、味見はダメよ」
ピンクハウスのヒラヒラエプロンをした哀ちゃんがチョコレートが即刻固まりそうな視線と言葉で釘をさす。
「もちろんですよ」
ついつい、キッド口調になって不審そうな上目遣いで見られる。
いざとなったらマジで盗もうとか脳裏にちらつくよこしまな考え。
工藤ひとりが幸せ、なんて許しがたい。
「……そんな睨まなくても何にもしないよ」
「……ん」
半端な返事で哀ちゃんは、俺が溶かしたチョコレートをハートのケーキ型に流し込む。
「黒羽さんも紅子さんにチョコレートもらえるといいわね」
「――なに入ってるかわかんないけどね」
苦笑した俺に構わず哀ちゃんは自分の溶かしたホワイトチョコレートを更に型に流す。
紅子は、いまなにしてるんだろう。
甘い香りにズキズキと頭痛がする。
まずいまずい。ちりちりと胸の奥が焦がれだす。いつも奥にしまってる気持ちが、ふとしたときにでてきてしまう。うっかり口にしてしまいそうなセリフ。ね、先に俺が会っていたら? なんて。仮定の話は好きじゃないし、哀ちゃんを困らせるのは本意じゃないから。
だって、俺は哀ちゃんの笑顔が好きだもん。
紅子は、俺の気持ちを知ってる。そーいうのが恋なのよ、って二人を見る俺に呟いて儚い笑みをくれた。
思い出すと聞きたくなる。ねぇ、哀ちゃん。もし、俺が先に会っていたら。
「――こいしてくれた?」
「え?」
いま、俺なにを口走った?
ストップ、俺。じゃないっ、プレイバック、俺。えっと、こいしてくれた? って。ぎゃあああ! なに言っちゃってんの、俺!
「なしなしなし! いまのはなし!」
ガシッと手を掴む俺。
「な、なにが?」
全くもって意味不明と言わんばかりに眉をあげる哀ちゃん。
そーだよね、哀ちゃんは自分に向けられる気持ちには工藤といいとこ勝負な鈍さだし。いつもは少し切なくなるけど今日は感謝。
工藤だって、本当は俺の気持ちを知ってるのだろうけど、遠ざけたりしない。当の本人があんまり気付いてないから、俺らは上手くやってる。
――まだ、この場所はなくしたくない。こんな温かいとこは他にないから。他なんて知らないし、知りたくもない。
「わかってるわよ」
どきりとした。
思わず手を離す。哀ちゃんは、冷蔵庫から出したホイップ済みの生クリームをチョコレートの上に重ねる。
なんて、甘そうなチョコレートなんだろう。
「そんな顔しないで」
崩れてしまいそうだ。バランスはちゃんと保っていたはずなのに。チョコレートの土台みたいに、普段は固まっていても、熱で簡単に溶けてしまう。黒と白。溶けたら灰色だ。白い怪盗、黒羽。どっちも俺。心の中にはきみがいる。「様子がおかしいから」
かんかん、と頭の中で警鐘が鳴り響く。
バランスを崩すのは誰だ?
「普通だって、いつもとおんなじ!」
それが、哀ちゃんでも嫌だ。
「違うわ」
哀ちゃんはクスリと笑って目を細めた。
「――はい」
哀ちゃんはポケットから、包みを出した。キャンディ形のそれは、俺の手にちょこんと収まる。
「1日早いけどチョコレート」
「へ?」
「吉田さんに聞いたんでしょう? チョコレートは一個だけって。明日渡してもよかったのだけれど、あなた催促するから」
「いつした?」
「さっき『これください?』って」
そう聞こえてたんだ、とほっとした。
「いいの? だって一個なんでしょ」
「クラスで、男の子に渡す分はね。いつも多めに作っていたけど、今年はプレゼントしなきゃいけない人が増えたもの」
なーんだ、拍子抜けした。明日まで取っておこう。と俺は丁寧にポケットに入れた。
「一年に一度の特別だから、博士は喜ぶはずよ」
笑いながら、哀ちゃんは、チョコレートをテーブルに移動させた。
「ごめんなさい、ね」
「ん?」
玄関で哀ちゃんは、ふと零した。よく聞こえなくて、振り返った俺に
「ホワイトデーは期待してるわ」とニコニコと笑みを浮かべている。
「ありがとう」
「じゃまたね」
手を振って俺は外に出た。冷たい風に、首を竦めて歩きだす。
家に帰って我慢しきれず、食べたトリュフチョコレートは、ほろりと苦かった。
END |