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3―7.ふれる手
 一度、目をうっすらと覚ましたものの、友禅の意識は現実と暗闇の狭間を彷徨っていた。
 下腹部の重い痛みと、全身を包む熱を孕んだ倦怠感は、脳から思考という働きを奪い、身体を動かす指令を発しない。
 床に根を張ったように動かないまま、時間が過ぎていた。牢の入り口に食事は運ばれてくるが、僅か数歩で辿り着けるその場所は、今の友禅にとっては、隔絶した世界のよう思えた。身体は痩せ衰えてゆき、下腹部の膿んだ傷口から広がった熱病は、友禅の命を蝕み始めていた。


「畜生! あの本家の糞婆ァ! 俺たちを汚物でも見るような目で見下しやがって!」
 荒々しい声が近づいてくる。足音は二人、だろうか。友禅の牢屋の前で音は止まる。
「おい……そういや、アレに籠女の血、与えてないんだろ? 死んでんじゃねえのかよ?」
 友禅を指し、男がもう一人の男に話しかける。
「んなこと言ったってよお、こんなトコで、そうそう簡単に籠女の血なんか手に入れられるかよ。いくら洛叉らくしゃ様の命令だからって、出来ねえもんは出来ねえよ。隣の牢の籠女だって、下っ端は手え出しちゃいけねえ事になってるしよ」
 もう一人の男がうろたえる。二つの気配が近づいてくる。
「しらねえぞ、俺は」
「んな事言うなよ。大体、なんで俺達が、こいつの事でこんなに気をつかわなきゃいけねえんだよ」
 男のつま先が、友禅のわき腹を蹴り付ける。友禅は短く息を吐き出す。
「あ、まだ生きてたぜ。良かったな」
 友禅はゆるりと瞳を開いた。二人とも友禅を見下ろしている。


「……何、見てやがんだ」
 偶々視界に男が入ってきただけ、である。だが、友禅の視線を感じ取った男は、苛立った様子でしゃがみこむ。
「知らなかっただろう? お前が悠々と過ごしていた立派なお屋敷の下に、こんなに酷いモンがあるなんて。ここにゃ、狂っちまった使用人やら、奇形の狗までとにかく何でも揃ってる。本家にとって『外』に見せたくは無いものばかりだ。そんなモンを俺たちが『管理』させられてんだよ。ただ、そういう血筋――弊履の族――に生まれただけ、でな。 ……お前は恵まれた生活を送ってきたんだろう? 早池峰家のご長男、だもんなあ? 上等の着物に美味い飯、女もあてがわれてたんじゃないのか? そんな大層なお方が、こんなトコでしみったれた生活を強いられている俺たちを見りゃ、さぞかし哀れに思うだろう!? なあ!?」
 腹部に衝撃が伝わる。その衝撃に、空になっていた腹からは胃液がこみ上げてくる。が、男の撃蹴は止まらない。
「おい、止せ。ヤバイって」
 強張っていた友禅の体から徐々に力が抜けていく様子に、もう一人の狗鬼は男を制止する。
 牢の中央から隅のほうに追いやられた所で、男の攻撃はおさまった。肩で息をしながら、凶暴な紅い瞳は友禅を睨んでいる。
「もう、行こうや。こんなトコ誰かに見られちゃ、マズイ」
 もう一人の狗鬼が急かし、二人は牢屋を出て行った。




        ※




 今しがた蹴られた腹部が、ずきずきと脳を侵す。下腹部に至っては、もう麻痺をして感覚が無い。
 友禅の背に、隣の牢屋を隔てる木枠が当たっている。が、今の友禅は、それを認識する機能すら危うい状態であった。呼吸をする、という力自体が弱まってきている。
 右肩を下にしている状態で臥している友禅。左肩に、弱弱しい何かが乗せられた。

――温か……い。

 身体は怪我と熱に侵され、意識が朦朧としている状態にも関わらず、その温かい感触は友禅を現実に優しく引き戻し、人間らしい思考を僅かに呼び起こさせるものであった。
 その柔らかい感触の元を突き止めようと、視線をその方向に向ける。


 打ち捨てられた日本人形を髣髴とさせる十歳程の少女だった。襤褸の着物を身に纏い、肩まで長い黒髪もぼさぼさになっている。肌の色は垢で黒ずみ、うつろな目で牢屋の木枠越しに友禅を見下ろしていた。背に乗せられたものは、少女の手だったようだ。そして、友禅はその少女に見覚えがあった。
「色把……さん?」
 写真でしか見たことがない、少女の姿が其処にあった。
 『色把』の名を友禅が発した瞬間、少女の目に人間らしい動揺が広がる。
「……その名は……」
 意識が深淵に落ちかけている友禅は、半濁した意識の中で答える。
「私の、許婚……。私が二十歳に……あの方が十四になったときに、お迎えに……上がるの……です」
 その言葉を最後に、友禅の意識はまた、深く深く沈んで行った。



        ※



 少女は暫くの間、がっくりと頭を落とした男を見下ろしていた。
 男の着衣も、少女のそれと同じくらいに汚れ、所々が裂けていた。むき出しになっている腕には痛々しい傷が広がっている。腕に触れると、燃えるように熱い。
 このままでは、男の命が燃え尽きてしまう事を、少女は感じ取った。
 暫く逡巡した後、少女は左手を強く握り締める。 手入れのされていない長い爪は、手の平の皮膚を裂き、みるみるうちに血が流れ出す。
 木枠の隙間から細い腕を伸ばし、男の傷口に自らの傷をあてがう。血が触れた箇所から、傷口は綺麗に消えて行った。
 微動だにせず、少女はそのまま男の様子を見守っていた。籠女の血が全身に巡りはじめ、体のあちこちに広がっていた内出血の痕も、薄くなった。
 絶え絶えとしていた呼吸が、微弱ながら整い出したことを見届けると、少女の目はまた人形のように光を失い、ふらつきながら、自身の牢屋の奥に姿を消した。


 籠女の血を受けた友禅の身体は、僅かな時間で回復を見せた。



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