2―41.二人の狗鬼
影鬼が工場に飛び込んできたように爆音が鳴り響き、建物は大きく一揺れした。
建物の壁に影鬼が突撃をしたのだ。
だが、苑司はというと、どこにも怪我をしておらず、何故か体が宙に浮いている感覚が身を包んでいた。
「間一髪だったなぁ」
間延びした声が、苑司の頭上に降り注ぐ。苑司は、硬く下ろした瞼を、ゆっくりと持ち上げた。
「!!」
苑司の目に飛び込んできたのは、先ほどまで自分が転がっていた床だ。だが、自分がまるで、宙に浮いているかのように床は何故か数メートル程先に見える。
「落ちる! 落ちる!!」
今置かれている現状も理解できぬまま、悲鳴を上げて混乱状態に陥る苑司。だが、一向に自分の体が床に叩きつけられるような様子も無い。
「落ち着け、落-ちー着けって」
再度降りかかる聞き覚えのある声に、苑司は暴れるのを止め、苦しい体勢になりながらも顔を上に向けた。
「……ユーリ?」
苑司の体を持ち上げているのは、早池峰家で何度も顔を合わせたユーリ・ヴァルナーだった。どこか楽しげな表情に、苑司の混乱も少しだけ落ち着きを取り戻す。
「な、何で浮いてるの!?」
ユーリの足元には何も無く、空中に『立っている』状態だ。
「説明は面倒だから後でな。しっかし、あんな大きな影鬼、初めて見たぜ」
左腕で苑司を抱えあげているユーリは、空いている手で遥か先に在る床を指差した。ユーリの指先には、瓦礫から顔を引き抜き、苑司の姿を探す影鬼の姿があった。
影は苑司の匂いを嗅ぎつけ、苑司を見上げては唸り声を上げる。
「どうする? アイツ、お前に会いたいみたいだけど? 目の前に降ろそうか?」
「冗談じゃない!」
ユーリは苑司に向かい、にやりと白い歯を見せた。冗談だとは分かっていても、苑司は何度も何度も大きく首を横に振る。
その様子に、高らかに笑い声を上げながら、脇に抱えていた苑司を下に降ろす。
「ま、ここに居りゃ安全だ」
苑司の足元は、透明な床があるようだった。苑司は足元を確かめるように、足踏みを繰り返す。
「おっと、あんまり動くなよ。幅はあんまり取ってないんだ。踏み外せば落ちるぞ」
びくりと足踏みを止める苑司を尻目に、ユーリはその場にしゃがみこんだ。苑司が縛られていた縄を解く。
「文字通り、高みの見物といこうぜ。あいつらの戦いぶりを、さ」
「ユーリは、戦わないの?」
こうして宙に浮くことが出来るのならば、おそらく哭士のような、何かしらの力を持っているに違いない。だが、ユーリは苑司の問いに小さく笑って息を吐き出し、顎で工場の出入り口を差した。
「まぁ、見てなって。俺がここで見ていても大丈夫な理由が分かるさ」
苑司が視線を下に降ろし、出入り口に目をやると、そこには長身の男とスーツの男が二人。
やはりそれは、哭士と菊塵だった。
※
苑司が二人を見とめたのとほぼ同時だった。二人は弾けるように左右に分かれ、影鬼を挟み込んだ。
初めに動いたのは哭士。身を屈め、真っ直ぐに影鬼に向かってゆく。影鬼は相手が狗鬼と察したのだろう。地面に爪を立て、真っ黒な牙をむき出した。
影鬼が前足を振り上げるのと同時に高く飛び上がる。普段と変わらぬ無表情のまま、振りかざされる前足の爪をすり抜け、哭士の足は影鬼の背中を掠る。だが影鬼は哭士が飛び上がったと同時に身を翻し、大きな損傷は与えられなかった。
哭士が地面に着地をした直後、影鬼の体が突如揺らぐ。菊塵が影鬼の側面から突進したのだ。だが、大きな体は、菊塵の突進にわずかにふらついただけだった。
影鬼は二人の狗鬼の登場に明らかに苛立ち、体中の靄が激しくざわめき立っている。二人の狗鬼のどちらかに狙いをつけようと、二つの光の玉は、何度も左右に振れていた。
影鬼の視線が菊塵に向かった直後、影鬼に向かって氷の槍が放たれる。鋭い攻撃にも関わらず、影鬼はその巨体からは考えられぬほど身軽に哭士の攻撃を避けた。身をかわすのと同時に哭士に向かって飛び掛る影鬼の口から、数本の棘のようなものが発射される。咄嗟に哭士は体の前に氷の壁を作り防ぐが、防ぎきれなかった棘は、哭士の左肩を掠める。
わずかに掠めただけの影鬼の棘は、肩口に触れると大きく弾け、無数の針となり哭士の左半身を襲う。
「!!」
顔を背け、左目への傷は防げたものの、肌に触れた影鬼の針は、哭士の肌を酸のように焼け爛れさせる。
苦痛に、低くうめき声を上げた哭士は、乱暴に顔の左側を拭った。
なおも哭士に襲い掛かろうと向かってくる影鬼。
哭士の目に力がこもり、影鬼に向かって次々と氷の槍が突き立てられる。
その勢いは尋常ではなく、槍が一本地面に突き立てられるたび、氷の粒が建物内に散り、そして衝撃で建物は軋みを上げた。
だが、その攻撃すら影鬼にあたることは無く、際どいところでかわされてしまうのだ。
そして、影鬼は避けるだけではなく、隙あらば哭士に向かって飛び掛らんと、虎視眈々と狙っている。不気味に光る二つの光は、哭士を常に捉えていた。哭士の心臓めがけ飛び込んでは、鋭い爪を伸ばす影鬼。それを哭士は半身を捻り、次々に避けていく。
「哭士」
菊塵が右手を僅かに上へ掲げた。哭士は、影鬼の爪を避けながら、菊塵に向かってわずかに頷いた。菊塵の右手が開かれ、指が数本立てられたかと思うと、今度は別の指が、水平に向けられる。忙しなく動く右手は、まるで手話のようだ。
菊塵と哭士の間では、時たまハンドサインが用いられる。昔から使われてきたこの手法は、戦闘時、哭士に対して言葉で伝えるよりも迅速に、確実に次に行うべき行動を伝えることが出来る。
菊塵は、影鬼の後方に回り込みながら、哭士に見えるように合図を送り続ける。哭士は影鬼の攻撃を避け、身を低くして走りながら、菊塵の右手を目で追った。
最後に、菊塵の右腕が大きく横に振り出されると同時に、哭士は後方に大きく飛びずさった。
それと同時に、菊塵は指笛を鳴らす。甲高い音に反応し、影鬼は菊塵に頭を向ける。度重なる攻撃の数々に、影鬼も興奮が頂点に達しているらしい。
標的を見つけると、すぐさま攻撃に切り替えるようになっていた。
影鬼が菊塵を襲う。菊塵はくるりと空中で一回転しながら、後方に飛ぶと、影鬼はそれにつられて高く飛び上がった。
空中で放たれる、影鬼の棘。菊塵は造作も無く、自身の能力でそれを跳ね返す。黒い棘は、影鬼の体に吸い込まれ、それきり見えなくなった。菊塵は着地と同時に影鬼を見上げた。その牙で標的を抉ろうと、影鬼は大きく口を開いた。
菊塵は真横に飛び、影鬼を避けた。その瞬間、菊塵が着地していたその場所から、氷の柱が突き出す。
影鬼はそのまま氷の柱に向かって飛び込む形となった。開いた口から突き刺さる氷の柱。恐ろしい断末魔の叫びが、建物内に響き渡る。
その声に、狗鬼らは眉を顰め、一般人である苑司は恐怖のあまり耳をふさいでその場にしゃがみこんだ。
巨大な影鬼からは、血の代わりに黒い靄が立ち上がる。
ずるり、と影鬼は体を柱から抜き出す。やはり狗鬼からの攻撃を受けると、体を構成する黒い靄が消え、少しずつ体が小さくなるようだ。
影鬼の様子にも疲弊が見える。踏み出す足が先ほどよりも明らかに弱弱しい。
だが菊塵が一歩、静かに後ずさると、影鬼はそれに反応する。更に菊塵が後ろに飛ぶと、影鬼は菊塵を追い、飛び掛った。
影鬼と菊塵を後方から追う哭士の氷が、影鬼を襲う。だが、影鬼は右に飛び氷を避けた。
続けざまに、一本、二本。氷の槍は、間髪居れずに突き立てられてゆく。そのたびに影鬼は身を翻し、攻撃を避けていく。
一瞬攻撃が止む。影鬼の瞳は正面に立っている菊塵を捉えた。
度重なる攻撃に、激昂している影鬼は、一直線に菊塵に突っ込む。
「さあ、来い」
影鬼には、菊塵が『笑った』という表情は認知出来なかっただろう。
掲げていた右手の人差し指が、ぴん、と立てられた。
菊塵の背後から、真上から、そして影鬼の真横から、予め用意されていた無数の氷の槍が一斉に降り注ぐ。
危機が迫っていることに気がついた影鬼だったが、時はすでに遅い。
四方八方から向かってくる氷の刃物が、容赦なく影鬼の体を貫いた。
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