2―38.焦燥
赤くなった目をこすり、シイナは布団に包まっていた。
色把は、シイナが横たわっている布団の傍らに座り、小さく膨らんだ布団の山を優しくなでていた。
「コクシたちは、苑司を迎えに行ったの?」
か細い声で、シイナは色把に問う。色把は、シイナと目が合うと、ゆっくりと一度頷いた。
――お前は、ここに居ろ。いいな
ノックもせずに色把の居る離れの部屋を開け放った哭士は、色把の姿を見とめると、その言葉だけを言い放ち、色把が返答をするのを待たずに部屋を去った。
影鬼を寄せる性質を持つ籠女を連れて歩けば、危険はいっそう増す。哭士は色把に付いて来ないように釘を刺しにきたのだろう。
「ねぇ、色把」
シイナの細い腕が布団から伸び、色把の袖口を柔らかに引く。色把はシイナの声がしっかりと聞こえるよう、顔を近づけた。
「コクシ達は、取那に酷いことしない?」
色把に問うシイナの目からは、涙が溜まっている。
取那は一度、哭士に接触し、契約を結ぼうと試みている。取那が何か攻撃を仕掛ければ……、哭士は迷いも無く反撃に出るだろう。
「……」
色把が返答に困っていると、シイナは更に続ける。
「取那は、本当は優しいんだよ。皆に酷い事されたから、誰も信じられなくなってるだけなんだよ……」
大きな目から、ぽろぽろとこぼれだす。
取那に対する絶対的な信頼。比良野家で出会った取那は、自分に憎悪の目を向けていた。
一体、取那という少女は何者なのか、過去を探ろうにも、色把には十歳以降の記憶しか持ちえていない。
胸に何かが詰まったような感覚を覚えながら、小さくしゃっくり上げるシイナの額に手を乗せた。
「!!」
一瞬にして、色把の感覚に、映像が流れ込んでくる。
焚き火、倒れている苑司。
その前に立つ、自分と全く同じ、取那の姿……。
「色把?」
きつく目を瞑り、小さく震える息を吐き出している色把の様子に、シイナが感づく。
以前、哭士に触れたときと同じような感覚だ。シイナを通じて、色把にさまざまな情報が流れ込んできているのだと理解する。だが、以前よりも、長く鮮明に色把の脳に映像が次々に焼き付いていく。
大きな二つの眼を持つ黒い闇、崩れ落ちる瓦礫、笑っている男、叫ぶユーリ、小さな獣。
そして、最後の一瞬。強く鮮烈な映像が色把を打ち抜く。
それは、口から大量の血を吐き、崩れ落ちる哭士の姿、だった。
『哭士!』
弾けるように、上体を起こす色把。
額からは、微量とはいえぬほどの汗が滴り落ちている。今し方浮かび上がった映像に、色把の体は小刻みに震えだしていた。
居ても立っても居られなくなり、色把はシイナの顔を見た。
「何かが見えた?」
シイナの問いに、色把は小さく頷く。
「取那も、時々そうなるんだよ。色把は……コクシの所にいくんだね」
色把が何も語らずとも、シイナは、何かを感じたらしい。掴んでいた色把の袖口をそっと離す。
「大丈夫だよ。あたしはもう、悪いことしない。黙って、ここに居るよ。約束する」
布団から腕を抜き、小指を差し出すシイナ。
色把は、シイナの小指に自身の小指を絡ませ。一度強く頷いた。
※
静かな夜だった。
今日、一日で起きた出来事を整頓できぬまま、冷えた縁側で、蓼原は一人煙草をくゆらしていた。
(こうやって空を見るのは何年ぶりだろうな)
縁側から見える下弦の月は、ぞっとするほど美しい。もう数日もすれば新月になるだろう。
自身を包む静寂とは裏腹に、蓼原の心中は落ち着くことは無かった。
無力だと分かっていても、事件の真実を菊塵の口から聞かされ、そして今起こっている狗鬼たちの戦いに思いを馳せ、焦燥感にも似た感情が蓼原を支配していた。
蓼原の背後の襖が、静かに開いた。
気配に蓼原が振り返る。
「色把さんか」
色把の表情は、どこか硬い。何か言いたげな色把の様子に、蓼原は先ほど菊塵らから話を聞いた応接間に戻った。
蓼原が座布団に座るのとほぼ同時に、色把も傍らに座る。
そして、一枚の紙を、両手で蓼原の前に差し出した。
紙には、小さく綺麗な文字がつづられていた。
――私を、哭士の所へ連れて行ってください。
「色把さん……」
色把は、蓼原の視線を受けながら、手元の紙に更に文章を綴った。
――危険なことは重々承知しています。工場がある山の前まででも結構なんです。
色把は、蓼原に紙を渡すと、蓼原に向き直り、深く頭を下げた。
持ち上げた顔、色把の両目には、十七歳の少女とは思えぬ程の、強い意志が滾っていた。
少女の大きな両目は蓼原を捉える。唇の読めぬ蓼原でも、色把の口が刻んだ『お願いします』という言葉は理解が出来た。
蓼原は一度大きく息を吸い込む。菊塵が話していた影鬼という化け物。蓼原には想像もつかない。だが、驚異的な身体能力を持つ狗鬼たちが警戒心を持つほどの化け物という事は確かなのだ。
(今行かねば、俺は一生後悔するんだろうな)
吸い込んだ息をゆっくりと吐き出すと、蓼原は色把に問いかけた。
「ここで、車を借りることは出来るか?」
蓼原の問いに、色把は目を丸くする。だが、その直後、色把の表情は凛としたものとなり、大きく頷いた。
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