1―7.うごめく影
用意されていた部屋に戻った色把は、マキの夕飯の誘いも断り、屋敷内が落ち着くのをひたすら待ち続けた。
真夜中になると、あたりはしんと静まり返った。廊下をそっと抜け出す。日中、屋敷内を歩き回っていて、上手い具合に松の木が外壁に上りやすくなっているところを見つけていた。
何も得る事が出来ないのであれば、自分の目で、確かめるしかない。色把を動かしているのは、この思いだけだった。部屋にあった外用の靴を履き、庭園へと向かう。
松の木に足をかける。案の定、力の無い色把でも外壁に上ることができた。そろりと外壁の上でバランスを整える。外壁の高さは二メートルも無い。
カチャン。
ぶら下がるようにして外側に下りた際、割れた瓦で手を切ってしまった。物音を立ててしまったが、屋敷内からは、何も聞こえてこない。自分が出たことは、気づかれていないようだ。
まずは、ここがどこか調べなくてはいけない。辺りを見回すと、閑散とした住宅街のようだ。まずは屋敷の外壁に背を向け、反対方向に歩き出す。コンビニに入れば、地図が見れる。
深夜のせいか、道を歩いているのは色把一人。まったく分からない道に不安になりながら、等間隔に街灯が寂しく照らす道をぺたぺたと歩く。
ざざ
後ろで何かざわめく音。風は無い。
振り返るが、何も見えない。きっと気のせい、そう言い聞かせて歩みをすすめる。
ざざ ざざざざざ
気のせいではない。何かが近づいてきている。
色把は振り返る。見えるのは街灯の光。その下に、小さな淀み。
目を凝らす。黒いシミが、蠢いている。真っ黒く、靄のようなその物体には、瞼のない目玉が二つ。
猫くらいの大きさ。だが、ズルズルと電灯の明かりの元に出でたのは、実体の無い影だった。影はざわざわと動いている。
背筋が凍る。
(……一体、あれは何!!)
一気に身体に恐怖が駆け巡る。得体の知れない生き物。
数歩後ずさると、その生き物も、同じ距離を保ち近づいてくる。
体中を、恐怖と嫌悪が入り混じったものが這っていく。
ざざ ざざざざ ざざざ
不気味な音を立てて、縮まる距離。助けを求める声は、色把には出すことが出来ない。
この世の者とは思えないその生物は、近づくスピードを更に上げる。目玉は色把をしかと捉えている。胸の奥で警鐘が鳴っている。
竦んだ足を必死に奮い立たせ、身を翻して駆ける。
(恐い 恐い……恐い!!)
突如、右足からがくんと崩れ落ち、強かに地面に身体を打ちつけた。
遅れてやってくる、右足の焼け付くような痛み。一本の切り傷が走っていた。鮮血が溢れ出る。
(あの影は……!?)
咄嗟にあの影を探した。
ざざ ざざざざざ
不気味な音。いた。
民家の塀の上。足を負傷し動けなくなった色把との距離を、ジワジワと縮めていく。
手で後ろにずり下がりながら、色把は必死に影との距離を遠ざけようとする。
アスファルトに溜まった色把の血だまり。影はそこまで辿り着くと、まるで喜びを表すかのように体を大きくざわつかせる。
ざざざ ざざ ざざざざ
テレビの砂嵐のような耳障りな音だった。影は色把の血を啜っている。
影の動きが止まったと同時に、色把は道の反対側まで辿り着けた。背中にカタン、と音がなる。細い木の廃材だ。
必死に手で掴む、何も無いよりはマシだった。
血を舐め終えた影は、また新たな潤いを求め、色把ににじり寄った。
色把の血を取り込んだからか、先ほどよりも影の色は濃く、進んでくる様も、先ほどより力強く見える。
大きさは猫位から二周りほど肥大し、中型犬くらいの大きさとなっている。
ざざ ざざざ ざざ
角材を構えた。様子を窺うように、じわりじわりと進んでくる影。
角材を思い切り振ってみた。少し影にかすった手ごたえはあったが、影はひらりと色把の攻撃をかわす。
色把が反撃をしてきたことで、影が更なる警戒心を抱いたようだ。
一定の距離を保ち、色把の動向を窺う。
足を負傷し、逃げるすべの無い自分は、影から目を逸らした瞬間に餌食となってしまう。
色把は恐怖と戦いながら、にじり寄る影へ、角材の先を向けた。
突如、色把に衝撃が襲う。手元の角材が弾き飛ばされた。色把は突然のことに驚愕する。
あの影はまだ色把から数メートル離れた場所に居たはずだった。自分の血を吸い、力をつけたとしても、一瞬で手元の角材を掠め取るなど、出来ない筈だ。
ざざ ザザざざ ざざざザざ
(また、一体現れたんだ)
弾き飛ばされた角材の先。もう一体の影が蠢いていた。自分が背にしていた塀の上から襲われたらしい。新たに現れた小さな影は、角材に付いた色把の血を、またもや啜っている。
色把に絶望が襲い掛かる。標的の手から、抗う武器がなくなったことを察した大きな影が、忽ちのうちに身を翻し、色把に躍りかかった。彼らが言っていた「危険」とはこの事だったのだ。なるほど、これでは一言に説明など出来はしない。
影が近づいてくる様は、一瞬のことであっただろう。だが、色把にはまるでスローモーションのように見える。恐ろしく開いた影の口の中はなお、真っ黒い闇だった。
(もう……私は……)
身体は恐怖で鉛のように動かない。右にも、左にも避けることはできない。色把はその場に竦み上がった。
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