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2―28.決着
「脇ががら空きだぞ!」
 怒声に、菊塵は現実に引き戻された。咄嗟に半身を引き、飛び掛ってきた久弥の拳を避ける。凄まじい勢いに、掠った菊塵のスーツの端は、無残に千切れ去った。


「どうした、あの女の名前が出てから、随分動きが鈍ったようだが」
 菊塵は久弥の表情を見つめる。フユの事を話し、自身の動揺を引き出そうとしていることは明らかなのだ。
「しかし、なかなかあの女もしぶといようだな。一思いに逝けば良いものを。みっともなく命を永らえさせて……」


 耳を劈く銃声が冷たい空気を引き裂き、久弥の言葉を遮った。思わず引き金を引き絞ってしまった。
 菊塵の髪は、押さえ込んだ感情で逆立っている。だが、湧き上がった怒りは、菊塵の虹彩を真紅に染め上げる。
「……そうだ、その目だ。ようやく昔のお前が戻ってきた」
 久弥へと向いている銃口からは薄い煙が立ち上っている。当然、銃弾は久弥の眉間をすり抜け、傷一つ負わせてはいない。
 この男が菊塵に向ける瞳は、不敵な笑みを浮かべているものだった。




 久弥の笑みを目の当たりにする度、この男に出会った直後のことを思い出すのだった。

 身寄りが無くなった幼い菊塵を引き取ったのは、遠い血縁関係であることや、慈悲の心では無かったことを思い知るのはこの男と出会って間もなくの事であった。
 政府の犬(ガバメンタルドッグ)という大きな組織で、一つの消耗品として拾い上げられただけだったのだ。
 だが、久弥にとって思いもよらなかったのは、使い捨てとして拾った狗鬼が期せずして大きな働きをするようになった事であろう。


 かつて、まともな訓練も施されないまま、敵地に放り込まれ、囮として取り残されたことがあった。戦い方を知らぬ、同じく久弥に拾われた狗鬼たちが次々に落命する中、菊塵は自身の能力を駆使し、自力でGDに戻ってきた事があった。それが、久弥の目に留まったのである。
「敵地から一人で、それも無傷で帰ってきたお前さんを見て、鳥肌が立ったよ。こいつは『化ける』ってな」
 自身の心情を読み取ったかのような久弥の言葉、だが菊塵は無表情を装う。
 久弥直々の『教育』が始まったのは、それからまもなくの事だった。
「お前は教え込んだ全てを吸収し、俺の右腕にまで成長した。だが、金と時間を掛けた大事な大事な子供にも等しい部下を、突然現れた女一人の為に失うことになる……この気持ちが分かるか!」
「!!」
 瞬間、久弥が目の前に現れた。腕で防ぐ間も無く、菊塵の体に衝撃が襲い掛かる。鍛え上げられた腕から放たれる拳は重い。中肉中背の菊塵の体がいとも簡単に吹き飛ぶ。
 地面に体を強かに打ち、うつ伏せになった状態でようやく止まった。菊塵の濃灰色のスーツの上着は既に砂塵で所々が白くなっている。
 腕に力が入らず、立ち上がれないでいると、砂利で汚れた革靴が菊塵の視界に入ってくる。
「……ぐっ」
 スーツの襟首をつかみ上げると、久弥はぐい、と自身の顔に菊塵を引き寄せた。


 菊塵のつま先は地面から僅かに浮き上がっている。吹き飛ばされた衝撃は未だ体に残っており、久弥の手を逃れようと身じろぐことしか出来ない。
「一つ、教えてやろうか」
 久弥の言葉は静かに、だが重く低く菊塵の耳に届いた。
「柳瀬フユが倒れたあの晩、狗石を使ったのは……俺だ」

「!!」
 菊塵の目が大きく見開かれる。菊塵の脳内で記憶の断片が目まぐるしく駆け巡る。
 窓に激しく当たる大粒の雨、壁につきたてられた鉄パイプ、体中を赤く染め倒れる女……
 女の唇が静かに動く。



――菊塵、ごめんね。





「嗾けた女を殺せば、お前も目を覚ますだろうと思ってな。だから、壊してやったまでのこと。……だがまさか、お前がこんなにも脆いとは、俺にも予想が出来なかったがな」
 菊塵の奥歯が軋む。
「お前が……」
 先ほどまでの体の軋みは何処かへ行ってしまった。
「お前がフユを……!!」
 襟首をつかみ上げている久弥の腕をひねり上げる。僅かに下がったその腕を軸に、菊塵は地面を蹴り上げ、膝を男の顔に叩き込む。
 が、顔面へと叩き込んだ膝は空を切る。突如、掴んでいた久弥の腕の感覚も無くなり、菊塵はそのまま地面に崩れ落ちた。
 久弥が能力を発動させて、菊塵の攻撃をすり抜けたのだ。
 地面に手をついている菊塵の背に、久弥は懐から取り出したナイフを差し向ける。がばりと起き上がり、それを避けた。
 菊塵の目は冷静さを欠き、血走っていた。一瞬身を屈め、俊敏に久弥に踊りかかる。
 が、菊塵の体は久弥をつき抜け、反対側の地面へと無様に落下した。
「……俺の能力ちからを忘れるほど激高するなんてな」
 既に眼鏡は壊れ、何処かにいってしまった。菊塵の双眸は、真っ赤に染まりながら、久弥の顔のみを睨み付けている。

 最早、普段の冷静さなど吹き飛んでいる。しまいこんでいた拳銃を取り出し、久弥に銃口を向ける。
「お前がっ! お前がッ!!」
 銃弾は久弥にとって全く無意味だ。侮蔑と嘲りが入り混じった視線を菊塵へ落とす。菊塵は震える手で我武者羅に引き金を絞った。
 四発、五発。
 あたりに響き渡る銃声。その後は、菊塵の引き絞る指に合わせ、カチ、カチとむなしい音を立てるだけだった。
「クソッ!」
 拳銃をかなぐり捨て、吼え声を上げる。普段の菊塵からは考えられない姿だった。
 

「……お前も堕ちたな……失望した」
 菊塵のわき腹に衝撃が走る。突然の攻撃に、息が詰まり、声を上げることはなかった。
 背中から激しく地面に倒れ、鋭い痛みが背中を駆け抜ける。
 打ち付けられたことで体は呼吸を忘れ、胸がひくひくと痙攣している。
「埋め込んだ狗石だけでも、頂いていくぞ。お前がこんな状態では、捨て駒にしかならないと思うがな」





 菊塵に馬乗りになった久弥は、菊塵の首根を掴み、菊塵の左目に向かって右手を近づける。
「自身の狗石を見るのも十年ぶりだろう。俺がこの力で左目に狗石を埋め込んでやったんだからな」


 狗鬼である以上、狗石という、自身の自由を奪いかねない物を外にさらしておくのは脅威以外の何者でもない。ある者は能力を失うことと引き換えに狗石を飲み込み、ある者は肌身離さず持ち歩き、またある者は誰も知らない山奥に狗石を埋めて隠す。だが、狗石という物質が存在している以上狗石を使われ、自身の自由を奪われるという脅威から逃れることは出来ない。
 GDの狗鬼たちは、狗石という弱点を少しでも無くすため、久弥の『透過』の能力により体に埋め込まれる。無論、狗石を飲み込んだわけではないので、特殊能力が失われるということは無い。

 久弥の右手が菊塵の顔面に沈んでいく。苦痛に表情をゆがめたままの菊塵。
 突如、久弥の表情が強張る。
「貴様! 狗石をどこにやった!?」
 久弥の言葉に、菊塵の目に光が戻る。口の端がゆっくりと上がる。









「があァッ!!」
 刹那、猛り声を上げたのは久弥だった。
 銃弾が六発、音も無く見事に久弥の背中を打ち抜いたのだ。開いた口から、決して少量とは言えない鮮血が溢れ出す。菊塵のスーツにも、傷から溢れ出した血が垂れ、染みを作った。
「貴……様ッ!」
 久弥の目が憎悪に染まる。が、強い言葉とは裏腹に地面に肩から崩れ落ちた。
 菊塵はゆっくりと立ち上がり、久弥を見下ろす。
「ずっと待っていたんです。貴方が『静止して』能力を僕に使うときを」
「!!」
 菊塵の言葉に、久弥の唇がわなわなと震える。

「貴方は、自分の視界で捉えたものと、背後であれば意識をしなければ透過させることは出来ない。そして、透過能力を発動している間は、別の部位に能力を使うことは出来ない」
 掴み上げられた菊塵が、久弥に蹴りを繰り出したときのことだ。頭部に向かってくる菊塵の足を透過でやり過ごしてから、菊塵が掴んでいた腕に能力を使い、菊塵の腕をはずした。攻撃をやり過ごすのであれば、わざわざ最後まで腕を掴ませておかずとも、全てを透過させ、菊塵を地面に叩きつければ良いはずである。
「僕に対して能力を使い、そして、背後に隙ができるのは、狗石を奪いに来るその時しか無いと思っていました。背後を狙う弾丸を違和感無く放つには、少々演技が必要でしたが」
 先ほどと立場が逆転している。動揺を隠しもしない久弥に対し、菊塵は軽く胸元を手で払いながら、静かに笑みをたたえている。
「……今まで放った銃弾を、全て俺に向けて放ったのか」
「はい。貴方の意識が完全に僕に向くまで、今まで放った六発の銃弾を反射、反射を繰り返しながら『保持』していました。まあ、それで自分への攻撃は全て受けなくてはいけなかったんですけれど」

 菊塵の言葉が耳に届いているのかいないのか。久弥の口からは重い歯軋りの音が聞こえてくる。
「いつから……知っていた!?」
 自身の能力の欠点を、ということであろう。冷静を欠いている久弥に対し、菊塵は静かに息を吐き出した。
「貴方の能力を見た、そのときから、です」
「!!」
 目を大きく見開く久弥、だが次の瞬間にその表情は大きく崩れ、大きな高笑いを上げた。
「これは! とんだ笑い話だ! 飼い犬に手を噛まれるどころか、全て見透かされていたとはな!」
 地面にこぶしを突き立て、ゆっくりと久弥は立ち上がった。大きな体躯が、ぐらりと揺れる。
「今は退く。だがやはり、貴様はGDに必要だ」
 にやりと笑みを浮かべた久弥は、数歩下がり一度大きく後ろに飛びずさると、久弥の姿は見えなくなった。
 久弥が立っていた場所には、大きな血だまりが出来ている。相当な出血量、常人であれば、動くことすら困難な怪我であっただろう。
 幾度も戦いを潜り抜けてきた猛者の執念を菊塵は感じ取った。

「……くっ……」
 ぐらりと視界が揺れ、菊塵はその場に膝をついた。
 戦いにおいて、哭士ほど負傷に慣れていない菊塵の体は、負荷に耐え切れずに悲鳴をあげている。
 ここに桐生が居れば、と悔やんでも遅い。既に桐生は色把を連れ、早池峰家に到着している頃だろう。
「車も……動きませんね……、どうしたものか……」
 ボンネットが大きく歪んでいる車は、運転して帰るのは不可能だ。この体では、走って帰ることもままならない。連絡を取ろうにも、先の戦いで既に携帯は壊れてしまっている。
 人目につく場所ではないものの、横になり身体を休めるには適さない場所である。久弥が去ったという心の緩みが、抑えていた痛みを思い出させる。
 身体が、動かない。


 絶え間なく体を襲う痛みが、あの夜のことを思い起こさせるのだった。

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