3―37.狗の最期
「早池峰! 来るぞ!」
ユーリが警戒する叫びに哭士は全神経を獣に集中させた。同時に、獣の腕を拘束している空気の塊が破られたようだ。獣は身を屈めて更に哭士に襲い掛かろうとする。
莉子の目が細められる。その刹那、獣の四足が地面に深く踏みしめられた。見えぬ力に抗い、必死に体を持ち上げようとする獣。
明らかに動きが鈍くなっている。
足を負傷している哭士は、獣の動きに順応できない。
それを察したユーリが、獣の傍らを掠めるように跳ぶ。その動きに反応し振り上げられる前足。
肩越しに刃物のような爪を避け、獣の横面を蹴り上げる。
地面に沈む体も、莉子の能力でその勢いは数十倍になっている。苦しげに吠え立てる獣。その隙に、哭士は獣の上空に大きな氷の塊を精製する。あと数秒で、一抱えもある氷柱が出来上がる。
一瞬、哭士の目が光る何かを捉えた。
獣の耳の根元に、チラリと光る物が見えたのだ。
――金属?
起き上がろうとするその様子に、左の前足を庇うような仕草が見受けられる。
その姿に、哭士は妙な感覚を覚える。
――どこかで
この獣を見るのは初めてだ。
だが、その左足の傷に何か違和感を覚える。以前、自分の目の前でこのような怪我を負ったものが居なかっただろうか。
「早く止めを!」
莉子が哭士に向かって叫ぶ。思考していた哭士を現実に引き戻した莉子の声に、獣の耳が僅かに向けられる。莉子に対して、僅かに獣の殺意が削がれているように思えた。
「待て! こいつは……」
哭士が莉子に振り返る。その隙に獣は体制を立て直し、また周囲の者らに飛びかかろうとする。
莉子の能力で押さえつけられている筈の獣の動きは、それでもまだ俊敏といえる。油断をすれば、負傷は免れない。
「いい! 私がやる!」
起き上がった獣の様子に焦りを覚えた莉子は、援護をしていた菊塵を越え、獣の上空に向かって飛び上がる。哭士が止める間もなかった。
まだ十分に出来上がっていない哭士の氷柱に、莉子が力を込める。氷柱は数十倍の重さとなり、獣に向かって真直ぐに落とされた。
氷柱に気付き、跳んで避けようとする獣だったが、痛んだ左前足によって飛躍が出来ない。
莉子が大きく腕を振る。同時に大きな氷の柱は、真直ぐに獣の背に思い切り突き立てられた。
背中から腹へ、鋭い氷の槍が獣を突き通した。
裂けるほどに開かれた口から、断末魔の叫びが上げられる。
周囲の空気がビリビリと揺れるのが目に見えるほど、獣の叫びはおぞましかった。
※
起き上がろうとする獣の突き立てられた前足は身体を持ち上げることは無く、ズルリと地面に落ちた。
そして、擡げていた首も地面へと倒れ伏す。喉から洩れるヒュー、ヒューという音が、少しずつ弱くなっていった。
「……仕留めた」
獣のその様子に、莉子が肩で息をしながら緊張の面持ちで見つめていた。
獣の身体に異変が起きたのは、次の瞬間だった。
三抱えもあるような大きな身体が、少しずつ縮んでゆく。
「……何だ……!?」
周囲の者らは、唖然としてその様子を見守った。
鋭い爪は丸くなり、細くなった指の中に納まってゆく。太い前足を覆っていた体毛が薄れ、人の物と認識できるまでになった。長い鬣もバサリと落ち、尖った鼻先は短くなってゆく。倒れていた獣が、やがて全く違う姿に変わってしまったのだ。
「……!」
哭士にも、そこに倒れている『人物』が誰なのかが理解できた。
「恒……河沙……!」
莉子の声で、止まっていた空間が動き出した。莉子の身体が小刻みに震えている。「紅い獣」の正体に、皆言葉を失っていた。
よろめく足取りで、恒河沙の元へとたどり着く莉子。
「……莉子、か」
掠れた声。倒れた恒河沙にはまだ意識があった。
「どうして? どうしてアンタがこんな……」
首を振りながら莉子は恒河沙に問う。正体を知らなかったとはいえ、獣に止めを刺してしまった莉子は、目の前で起きている出来事を飲み込めない。
半ば崩れるようにして恒河沙の傍らに座り込んだ。
「わかんねぇ、あの婆ァに閉じ込められて……妙な薬与えられて、気付いたら、喉の渇きを止める為に……走り回ってた……」
吐き出す息と共に紡がれる言葉は、徐々に弱くなっていっている。
「御世様が……そんな事」
莉子が首を振る。
「婆ァと、レキ……だ。奴ら、GDの足止めに俺を放ちやがったんだ……」
恒河沙が咳き込む。同時に恒河沙の身体の下から大量の血液が流れ出す。
「莉子、行け。婆ァらは、当主を殺す気だ……。鼎は、東の……先代の部屋に逃げた……屋根から見た……」
既に、息をするのもやっと、という状態だ。身体の下は赤い液体が広がり、籠女の血を与えても、助からない事は目に見えて明らかだった。
「畜生……喉が渇きやがる……」
恒河沙の瞼が、ゆっくりと下りていく。
「所詮、俺は使い捨てか……あぁ、悔しいなァ……」
閉じられる瞳。同時に恒河沙の目から一筋の液体が零れ落ちた。
「恒河沙!」
莉子が手を握り、叫ぶが、恒河沙の手に力は無い。
恒河沙の呼吸が、完全に停止した。
菊塵は、上着を脱ぎ、恒河沙の体の上に掛けた。
呆然としている莉子の腕を引き、立ち上がらせる。ハッとして菊塵の顔を見つめる莉子。
「彼の言葉を聞いたでしょう。東にある、先代の部屋です」
「でも! 恒河沙が……」
恒河沙の亡骸と、菊塵の顔を交互に見やる莉子を、じっと見つめる菊塵。
「当主を守るのが、今の貴女の務めでしょう」
その視線に莉子も落ち着きを取り戻す。恒河沙が倒れた今、当主の狗鬼は莉子一人しか居ない。
泣きそうな表情を浮かべながら、莉子は頷いた。
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