16 ヨーロッパ状勢
ロシアはユーラシア大陸の西側で人々の救援を名目に勢力圏を拡げていた。これらの地域ではダンジョンの氾濫以降は狼と猪が勢力を拡大しており、北で勢力を拡大していたヒグマも南下して勢力を伸ばしていた。そしてアルプス山脈やピレネー山脈等の山間は既に獣達の天下と成っていて、そこからも獣達が勢力を拡げていた。ロシアはまず旧ソ連の勢力圏の殆どとヒグマの勢力の強い北欧を自らの勢力圏に組み込んだ。勿論それらの地域の国々の合意の上でだ。それらの国々は迫りくる獣達の勢力圏拡大の脅威を前に対抗するにはそれしか手が無かったのだ。
それがある日を境にロシアの勢いが止まった。西ヨーロッパの人々の間には戸惑いが拡がって行った。ロシアの支配を受け入れるのには抵抗があったし怖いのも確かだ。だがダンジョンから溢れ出る強化獣達に対する恐怖はそれを上回っていた。ロシア人は少なくとも人を食べたりはしないし、現在ロシア人が銃を向けている先にいるのは獣達だった。西ヨーロッパの人々はロシアを恐れつつもその支配は生き残るためには仕方の無い事だと半ば受け入れつつあったのだ。がその進行の勢いが明らかに落ちた。
ドイツではポーランドに進行の最中に明らかに勢いが落ちたロシアに戸惑っていた。狼や猪は既にドイツ各地で勢力圏を拡大しておりヒグマもじりじりとポーランドからドイツへと勢力圏を拡大しつつあった。
「ロシアの熊どもは何故止まった。このままでは本物の熊に我が国は席巻されるぞ。いったい何が不満なんだ。向こうの提示した要求は殆ど呑んだだろう?」
「ただの攻勢限界だと思いますが?あの広い自国を獣達から守りながらこちらに出てきたのです。かなり無理をしているのでしょう」
「何とかダンジョンの利用ノウハウだけでも入手できんのか?」
「それは難しいでしょうね。入手した情報によるとそれを手に入れるのと引き換えにロシアはかなりの領土を日本に割譲しています。あのロシアがですよ」
「それは聞いた。今でも信じれんが……でもその御蔭でロシアは持ち直したのだろう?それさえあれば我が国が持ち直す事も可能な筈だ。……日本から直接入手の望みは?」
「それは難しいかと。御存じの様に情報網はズタズタです。大使館も互いに機能しなくなって久しい。連絡しようにも取れないのですから。移動も空路は難しく海路は無理、陸路のロシア経由しかほぼルートがありません。それに日本と接触可能として何を対価にするつもりですか?」
ダンジョンの氾濫以降のインターネットは世界を網羅するものではなくなっていた。アメリカはエゴ剥き出しで情報統制を行い、そうこうする内に互いのサイバー攻撃が始まって人口衛星の多くが使用不能となった。今では電脳空間は先進諸国が自国をカバーしているだけだ。その為、国際的な航空管制情報網の維持が困難となった。物理的にも年々鳥類の数が増えてエンジンに巻き込む事故が多発し空港にも強化獣が出没する様になると空港の維持が難しくなって、諸国は軍用空港を維持するのがやっととなった。海路も南回りは使えないし、ダンジョンによる空気浄化の効果か温暖化の進行が止まって極地の気温は二十世紀半ばまで戻り、北極海航路と北西航路は航路としては使えなくなった。ヨーロッパから日本は遠い。
「無理か、無理だな。我が国に日本が欲するものはない。では何としてもロシアから入手しないとな。奴等は何を欲している」
「ヨーロッパの支配ですかね?」
「そんなものは既に手に入れたも同然ではないか。少なくとも我が国は従属に同意している。それでも奴等の進行は止まったのだぞ」
「だから攻勢限界だと……現状でロシア側に足りていないのは人と時間でしょう」
「人と時間?」
「聞くところによるとロシアではダンジョン一つで百万人養えるそうです。時間を掛ければ人は増やせる。でも時間を掛けるとヨーロッパは獣達の勢力圏に飲み込まれる。それで多少の無理は承知で勢力圏の拡大に乗り出した。でもそれが限界に達して進行が止まった。人が足りてはいないのでしょう」
「如何すれば動き出す?何か良い方法はないのか?」
「ドイツの窮状を訴えるぐらいしか手はないですね。そもそもロシアは国を守るだけならこちらに手を出さなくても良いのです。彼等は必要に迫られて進行しているのではない。領土的な野心があるのは確実ですが自国を手薄にしてまでとは行かないでしょう」
「我々はそれでは困るのだ」
「ロシアで人手が足りる様になるまで時間を稼ぐしか手はないですね。それがどのぐらいの期間なのかは分かりませんが三ヶ月程であればわが国は持つと考えます」
「三ヶ月か……ではその間にロシアが動く様にせねばならんな」
ドイツは東からだけではなくアルプスからも獣達が勢力圏を拡大中で人の住む領域は侵されていて存亡の危機にあった。スイスとオーストリアは既に獣の勢力圏に飲み込まれてしまって亡国となっており、東ヨーロッパの多くの国々はロシアの進行によって亡国を免れたのだ。それでドイツ政府はロシアの下に就く事も止む無しと判断していた。少なくとも獣に怯えながら暮らすよりはマシだと。ドイツでもダンジョンの利用を独自で始めてはいたものの差し迫る獣達への対処に時間をとられてその動きは鈍かった。
フランスは東はドイツが防波堤となっており、アルプス山脈とピレネー山脈から来る獣達の対応に追われていた。フランスで勢力圏を拡げている獣は狼と猪が主で暑さが苦手なためかヒグマの勢力圏の拡大は遅々としていた。
「そうかロシアの進行が止まったか。ドイツ野郎は気が気ではないだろうな。獣達に東と南から迫られているからな。ハハハ」
「笑い事ではありません。ドイツの次は我が国です。今も避難民がドイツから次々と流れ込んで大変なのですよ」
「イギリスに回せばよいではないか。ヨーロッパではあそこが一番安全だ。まだ列車も動いているし臨時列車を増発しろ」
「イギリスからクレームが入っておりますが?」
「ではどうしろと言うのだ。皆安全なイギリスに向かっているのだぞ。列車を止めても歩いて行くだけだ。遅かれ早かれイギリスに着くのだ。同じ事だよ」
「トンネルで繋がっていますからね。ドーバーだって船で渡れない距離でもないし」
「その通りだ。魚に齧られても沈む前に充分に着く距離だ。止めたって無駄だ。移民の奴等なんて真っ先にイギリスに渡った。移民問題がこんなことで解決するとは思わなかったな」
「彼等にイギリスが安全だとの情報を流して置いて良く言いますね」
「嘘は言っていないだろう?ダンジョンの氾濫以降の情報を疎い奴等に伝えただけだ」
「イギリス海軍が出て来る可能性も有りますが?」
「それで避難民をどうするね。連行すればイギリス国内に入れるしかない。避難民を乗せた民間船を沈めるわけにも行くまい。どうにもならんよ。上陸されてもどうせダンジョンに送り込むだけなのだろう?」
「ダンジョンですか。どうもまだ私には抵抗感があって避難民を送り込む事にも反発を感じます」
「だがダンジョンを利用しないと獣達とは対抗できないのだろう?報告ではロシアはそうやって持ち直したとなっていた」
「ロシアは日本からダンジョンの技術とノウハウを入手したのです。それにしても日本人にはダンジョンに入る事に対して躊躇いはないのでしょうか?」
「ダンジョンの利用に対して反発が大きかったのは西ヨーロッパの国々とアメリカ合衆国だろ。特にアメリカの宗教界だな。東アジアでは左程の抵抗はないのだろうな。でなければシナが角付き供の覇権争いの場となる訳がない」
「イギリス人も今では当然の様に利用していますよね」
「必要に迫られてそうなったのだな。そうしなければ今頃は餓死者が出ているよ。ドーバーの向こうは既にダンジョンの中に住む者の方が多いのだ。何れはフランスもそうなる。そうしないと国が保てないのならばな」
「………………」
「ドイツ野郎もイギリスに行けばダンジョンに送り込まれる事は決まっているのだ。避難民に等ならずに本国でダンジョンに籠れば良いのに。面倒で仕方がない」
「それは我が国でも同じです。自国ではダンジョンに入ろうとせずに態々イギリスに逃げて入っている。少しでも安全な地域に行きたいのでしょう」
フランスはイギリスへ避難する者達の通り道となっていた。フランスにも余裕が有る訳でもないのでそれだけでも相当の負担であった。人はいるだけで食料と水は必要なのだ。ダンジョンを積極的に利用すれば食料の供給に問題は無くなるのだがフランス国内ではかつてダンジョンに対して反発が大きかった事もあって利用が進んではいなかった。それでも気候の関係でヒグマの被害は山脈の近郊に留まっていてドイツに比べれば余裕があるかな?
イギリスではヒグマ、狼、猪は既に絶滅していて、島国である事もあって新しくそれらの獣が住み着く事も無かった。豚がダンジョンに逃げ込んで問題とはなっていたが他国に比べればたいした問題では無いな。そしてそれを知るヨーロッパの人々は大陸からイギリスへ流れ込んでいだ。
「避難民の流れは止まりません。ロシアの進行が停滞した事で益々増加傾向にあります」
「では何時もの様にしておけ。ダンジョンに送り込めば何とかなるのだろう?」
イギリス政府はダンジョンの氾濫によって流れ込んできた避難民をダンジョンに次々と送り込んでいた。初めは強化人が増える事に対して懸念の声もあったが増え続ける避難民に対して他に手の施しようがなかったのだ。外には寝る場所すら用意できないのに対してダンジョンの中に入れば少なくとも凍えずに寝る場所と食べ物だけは確保可能だった。それで強化人達に協力を要請してダンジョンの攻略を積極的に進めてそこに増え続ける避難民を押し込んでいた。
「今の所は何とかなっていますね。これほどダンジョンが使えるものだとは予想もしていませんでした」
「ああ、ダンジョンが有用だとの情報はあったが此処までとはな。だがこうなるのならもっと早くから利用を検討して研究を進めておくべきだった。だが以前は国民の反発も強かったし、我々はダンジョンの有用性も作物の増産程度としか考えてはいなかったしなぁ。ロシアはダンジョンを利用してダンジョンの氾濫による難局を乗り切ったのだろう?」
「調べた限りはその通りです。日本から技術とノウハウの提供があってそれを基にしたもののようですが」
「日本か、遠いな。此処からでは如何にもならん」
「カナダは日本からの支援で持ち直しつつあるようですよ」
「……カナダ経由で日本の技術を手に入れる事は可能か?」
「可能ですが時間が掛かります。カナダには余裕が有りませんし、日本はやはり遠いです。時間を優先するのであればロシアと交渉するのが妥当でしょうね。東ヨーロッパでの実績もありますし」
「カナダはロシアとの交渉に利用できるくらいか。ドイツとフランスはロシアに従属するだろう。イギリスは二国に比べれば少しばかり有利だがどうするかな」
「幸いなことに我が国は海で隔たれていてヒグマや狼等の直接的な脅威には晒されてはおりません。他のヨーロッパ諸国よりは余裕があります」
「その所為で避難民が殺到して大変だがな。カナダを通して日本とは繋ぎだけでも付けておこう。ロシアとの交渉材料ぐらいにはなるだろう。日本との繋ぎは君に任せた。あとアイルランドにも避難民をもっと回しておけ」
「了解しました。その様に手配します」
イギリスは流れ込む避難民をダンジョンに送り込む事によって既にダンジョン内に住む人の方が多くなっていた。遠からずして強化人の人口の方が多くなるだろう。イギリスではなし崩し的にダンジョンの利用が増大していた。
アイスランドにはイギリスと同じで人を脅かす様な獣は存在しない。陸生哺乳類は元々ホッキョクキツネしかいなかった。そして元々は島の四分の一が樺の森林だったのに人の伐採によって森林面積は一%となり、更に羊の飼育よって植生が荒らされ表土は露出し荒涼としていた。それがダンジョンの発生によって牧畜をダンジョン内で行う様になり島の森林が復活しつつあった。
「ヨーロッパの状況は芳しくないようだな」
「獣が居ないと言う理由だけで此処まで避難して来る人々がいるのだ。状況的にはかなり深刻そうだな」
「此処まで来るのならいっそグリーンランドまで足を延ばせば良いのにあそこの方が広いだろう?」
「あそこは沿岸部にホッキョクグマがいる。ヒグマから逃げてきて行きたいとは思わないだろうな」
「我が国に避難してもダンジョンに送り込むしかないのだがなぁ」
「ダンジョンの中は良い所ではないか。奥へ行けば白夜や極夜もなくなるし、冬でも寒くない。季節を問わず農業が可能だし、島では壊滅寸前の樺の森まである」
「我が国では国民の大半がそう考えているが世界的にはまずモンスターの湧き出るダンジョンと言った印象の方が強いぞ」
「ふむ、この島には猛獣はいないからな。ダンジョンもその殆どは人で占有が可能だ。ダンジョンに対する印象が違っているのも仕方がないな」
「我が国ではダンジョンの中に住む様になった者達は中に籠って殆ど出て来んしな」
「冬はダンジョンの中の方が明らかに住み易いからな。まぁ、穴居生活さえ苦にならなければの話だが」
アイスランドでは外部環境が厳しい事もあってかダンジョン発生当初よりその利用には積極的で忌避感も薄く、既にダンジョン内の強化人の人口が外の人口の四倍近くとなっていた。
ヨーロッパの山間の地はヒグマの勢力圏となっていた。イタリア半島を縦断するアペニン山脈もルーマニアのカルパチア山脈もヒグマの勢力圏となっていて既に人の領域ではない。まぁ、ユーラシア大陸の山間の地は全て同じでヒグマの勢力が強かった。以前ならヒグマの冬眠中に排除も可能だったがダンジョンの所為で現在では不可能だ。そこで山と平地の境にいかに緩衝領域を設けるかで人の領域が残せるかどうかが決まる。
ロシアが進出した地域ではダンジョンを攻略して緩衝領域を設けヒグマの勢力圏と均衡を保っていたがその他の地域ではヒグマの勢力圏が確実に拡がっていた。
ロシアはヨーロッパから極地攻略に軸足を移しつつあったのだが人手が足りなかった。北極もそうだが南極では日本に完全に出遅れていて焦燥感に駆られていた。日本人は総人口が三億人を越えたらしいがそれでも極地攻略の人手が足りてはいないらしい。それで人手不足を補う為にロシアはヨーロッパに目を付けているのだがどう懐柔したものか攻めあぐねていたのだ。これまでの様にロシアからヨーロッパに人員を投入していたら極地に投入する人員が確実に足りなくなる。かと言って下手な方法をとるとヨーロッパ諸国の勢力が盛り返して却って邪魔になる。だが南極での出遅れを取り戻すにはヨーロッパの人々の手が必要なのだ。上手く遣ればヨーロッパ諸国の基地も丸ごと利用が可能となる。人は欲しいが如何やったら思い通りに動かせるものか。