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宜しくお願いします。
琴美
作:しん太



 下田琴美の心は、今まさに、この春の季節と同じように始まりの期待に満ち溢れていた。
 始まりの期待と少しの不安を胸に、この小学校で琴美の新たな人生がスタートしようとしていた。体育館で行われた入学式での新任の挨拶も無事終わり、琴美は、自らが受け持つことになった一年二組の生徒達を引き連れて教室へと向かった。この間まで幼稚園児だった生徒達は、何だか、琴美に、動物という印象を与える。
 教室に辿り着いた琴美は、黒板に大きく自分の名前を書き、自己紹介を始めた。
「皆さん、初めまして。私は下田琴美と言います。宜しくお願いします」
 生徒達は、それぞれが奇声を上げたり、うわの空だったり、自分を主張するように騒いでいたりと琴美の話を聞く様子など微塵も感じさせなかった。
 動物園のようなこの教室で琴美は、子供の注意を引くために、両手を大きく叩いて、今度はかなり声を大きくして話し出した。
「皆さん、静かにして下さい。聞いて下さい。初めまして。私は、今日から皆さんと一緒に勉強していくことになった下田琴美と言います。宜しくお願いします」
 子供達は、ようやく、琴美の方に注意を向けだした。
「今度は皆さんが自己紹介して下さい。一人ずつ順番にお名前とその後皆に宜しくお願いしますと言って下さい」
 子供達は順番に自己紹介を始めた。
 琴美は教室の前の自分の机に着き、目を閉じてそれを聞いていた。
 子供達の自己紹介が全て終わると琴美は立ち上がり、教壇の前に立った。
「それでは皆さん、今日から一緒に頑張っていきましょう。私も一生懸命頑張ります。皆さんも何事にも真剣に取り組み、一生懸命頑張って下さい。お友達を大切に」
 所々からはーいと言う小さな声が聞こえてきた。
 琴美の心は、今自分の人生が本当の始まりを見せた、という思いでいっぱいだった。



 もう琴美がこの小学校に赴任してから二ヶ月が経っていた。
 給食の時間、琴美は自分の机で子供達の食べる様子を時折、ちらちらと見ながら、自分の給食を静かに食べていた。
 教室からは奇声や大声や物音が絶えることはなかったが、琴美は全く気にする様子など見せなかった。
 この頃になると琴美の元にやって来る生徒もでてきていた。
「下田先生、これあげます」
 一人の女子生徒が自分の給食のトマトを一つ持って来た。
「ありがとう。でも、今度は自分で食べましょうね」
 そう言って琴美は、そのトマトを口に入れた。
 教師と生徒というよりも、琴美は子供達との共同生活者の様な様子を見せていた。
 琴美はこの子達の人生のこの輝かしい時期を自分が共有できることに幸せを感じていた。
琴美は子供達のことを暖かい、うっとりとした眼差しで見つめていることが多くなった。
 子供は可愛い、愛しい、琴美はそう思うようになった。
 琴美は光に包まれていた。
 確かにこのまるで動物のようでもある子供達をまとめて、学級を成り立たせていくのは大変なことだった。
 しかし、琴美にはその苦労や何もかも全てが愛しく思われたのだ。
 琴美には子供達は天使だと思われた。



 ある日の給食を食べている時間でのことだ。
 一人の女子生徒が急に大きな悲鳴を上げ、大声で泣き出した。
 琴美はそのただごとでないことをすぐに察知して、その女子生徒のもとへ駆け寄った。
 女子生徒の口からはかなりの量の血が流れ出ていた。
 そして、机の上にはその生徒の口から吐き出されたカッターの刃が血にまみれてへばりついていた。
 給食にカッターの刃が混入されていたのだ。
「下田先生……」
 女子生徒は泣きながらそう呟き、琴美を見上げた。
 琴美は顔を真っ青にして、女子生徒を担ぎ上げた、そして、保健室へと走った。
「これはここではどうすることも出来ないので救急車を呼びます」
 保険教師は慌ててそう言った。
 口の中がかなりざっくりと切れていたのである。
 救急車が学校に着き、琴美もその女子生徒と一緒に乗り込み病院に向かった。
 病院に着くとすぐにその女子生徒の口の中の縫合が始まった。
 その間に琴美はその子の家へと連絡し、事の次第を説明した。
「桜田さん、お母さんもうすぐ来るからね」
「うう……」
 女子生徒は涙の溜まった目で琴美を見つめた。
 


「申し訳ありません。私の不注意がもとで……」
 琴美は病院に着いた母親にひたすら謝り続けた。
 桜田の母は軽く頭を下げただけで、その後はわが子の縫合の治療を見守っていた。
 治療が終わり、琴美は病院の前で桜田の母に何度も謝罪し、桜田親子と別れた。



 教室に戻った琴美は、代理で授業を務めてくれていた教師に礼を言い、その教師が教室から出て行った後、自分の机に座った。
「桜田さんは口の中を五針縫ったそうです。明日はまだ学校に来れるかどうかわかりません」
 生徒達もさすがに事の重大さを飲み込み、教室の中は静まり返っていた。
 琴美は机の上にふさぎこんでしまった。
 そして、そのまま授業の終了の時間が来て、その日の授業は全て終わり、放課後になった。
 子供達が皆帰った後も琴美は一人机から動くことが出来なかった。
 一時間はそうしていただろうか。
 琴美は傍に人の気配を感じ、顔を上げた。
 一人の男子生徒が琴美を見つめて立っていた。
「あれやったの誰だか知ってるよ」
「え?」
「阿田君と氷室君と雪村君と龍本さんだよ。入れたのは阿田君だよ」
「それは本当?菊崎君」
「本当だよ。皆知ってるよ」
「そう、わかったわ。ありがとう。もう帰りなさい。菊崎君」
「はい」



 次の日の放課後、琴美は四人を職員室に呼んだ。
「阿田君、あの剃刀を入れたのあなたって本当?」
「……」
「黙ってちゃわかんないでしょ!」
「桜田が僕の消しゴムをゴミ箱に捨てた」
「それで剃刀を入れたの?」
「はい」
「そんなことで……」
 阿田は涙をぽろぽろと流し泣き出した。
「阿田君……。桜田さんね……。今物を食べることも出来ないの。口の中が痛くてずっと泣いてるの」
「……」
「阿田君……」
「はい」
「あなた達も一緒になってしたのね?」
 琴美は他の三人の生徒を厳しい目つきで悲しげに見つめた。
 三人は顔を真っ赤にしてうつむいている。
「桜田さんの傷はもう消えないわ。桜田さんの口の中の傷は桜田さんがおばあさんになっても残っているの」
 三人は声を上げて泣き出した。
 阿田も声を上げて泣き出した。
 気が付けば琴美も泣いていた。
「阿田君……。こっちを向きなさい」
 琴美は涙で濡れた瞳で阿田を見つめた。
 阿田は顔を上げた。
 琴美は阿田の頬を思いっきり引っ叩いた。
 阿田の顔は反動で大きく横に振れた。
 そして、そのまま人形の様にギィーと阿田の顔がゆっくりと一回転した。
 阿田は琴美の顔を見つめてケタケタと笑い出した。
 つられてあとの三人もケタケタと笑い出した。
「これが子供……」
 琴美は驚愕と困惑と恐怖の入り混じった顔でそう呟いた。






おわり





 


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