乙女ゲームの世界で悪役を押し付けられたようです
庭園を歩く二人の男と、それを追いかける女が二人。そして、四人に注目する少女たちと私。昼下がりの優雅なティータイムは四人の登場によって呆気なく瓦解した。東屋にいる私たちの存在に四人は気付いていないが、こちらからはバッチリ見える。つまり、先程までは和かに微笑んでいた少女達の顔が一変した。
「またあの庶民の女が王太子殿下に付きまとっていますわよ。なんて図々しい」
「あんなみすぼらしい格好で殿下やレイノルズ様の前に立てるなんて正気でないわ」
「あの女が天才だなんて信じられない!頭脳を認められてこの学院に入学したのはいいけれど、調子に乗りすぎよ」
「ダリア様も一体何をお考えなのかしら。あのような女の後をついてまわったりして、侯爵家の恥だわ」
声高に悪口を言う少女達を前に私は溜息を零した。全く貴族というのは何故こうも暇な人間ばかりなのか。他人がどうしようと放っておけばいいではないか。
「止めなさい。そんな蔑みは自分の価値を下げますわ」
「…アイリス様がおっしゃるのなら」
少女達は渋々といった表情で殿下とヒロインから目を離す。
「アイリス様が仰るならわたくし達も異論はございませんわ。しかし、物事には限度があります」
「そうです。アイリス様がお優しいことにも気付かずに愚かな振る舞いをする二人には呆れ果てますわ」
「皆に心配してもらえて嬉しいわ。でも、放っておきなさいな」
「わかりました」
少女達の表情は大いに不満そうではあるが、王太子殿下の婚約者である私が許していることをとやかく言うつもりはないらしい。そう、私は王太子殿下の婚約者なのだ。学校を卒業したらすぐにでも婚姻し、王太子妃となる。子供が出来ない場合を除いて側室をとる慣習のない国なので、何れは国母になり女性として最高の地位に上り詰めることが出来る。その上、王太子であるディオラントは容姿端麗で鬼才とも言える才の持ち主と言われている。つまり、貴族の令嬢の多くが夢見る地位でということになる。
私だって、本当ならば喜んでもいい。ここが、前世で流行った乙女ゲームの世界だと知らなければ、きっと喜んでいた。更に言うなら、王太子の婚約者がゲームの中でヒロイン最大の敵であり、自分の地位を脅かすヒロインに嫌がらせをして最終的に一家没落・拷問のち処刑ルートが決定してるキャラクターだなんて知らなければ絶対に喜んでいた。
ゲームでの悪役婚約者の名前はダリア。そう、先程私の取り巻きが悪口を言っていた庶民の女ことヒロインの金魚の糞の名前である。
ゲームでヒロインと敵対する悪役のダリアがヒロインと共にいて、名前すら登場していないアイリスが王太子の婚約者になっているのは何故か。簡単だ。
私がダリアに悪役を押し付けられたからである。しかも、知らないうちに。私は物心がつく前から前世の記憶があったが、ゲームについての記憶だけは忘れていた。というよりも前世の私にとってそこまで大切な記憶でなかったのだ。だから、ダリアに利用された。私がそのことに気が付いたのは押し付けられた後だったが、ダリアの計画は出会った頃から始まっていたんだろう。その証拠に、悪役を押し付けてからは私からの連絡を全て無視し、家同士の交流もなくなった。私が婚約者になる前は一番の友人だったのに。
最初に違和感を覚えたのは、ディオの婚約者になるように王宮から打診された時だ。喜ぶ父を前に私は何故か驚いた。婚約者はダリアがなる筈なのに、と。すぐに何故そんな風に思ったのか疑問に思ったがよく分からなかった。疑問が解決したのは、婚約が決まってから初めてダリアに会った日だ。全ての連絡を無視されていた私がダリアに会えたのは、婚約発表から半年以上経ったお茶会だった。他人行儀に挨拶したダリアは私に婚約おめでとうと言った後、もう私に関わらないでよね、と笑って言った。唖然とした私に、ダリアが何と言ったか、今でも忘れられない。
「だって折角アイリスに悪役になってもらったのに、仲良くしてたら意味ないでしょう。私はヒロインと仲良くして、幸せになるのよ」
愚かな私はそれまで、ダリアがディオの婚約者になりたかったのだろうと思っていた。私が選ばれたから怒っているのだと。そうではなかった。その時はダリアの言葉の意味が全く理解出来なかったが、徐々にゲームの記憶を思い出した私は理解した。
悪役、押し付けられた!
思い出してみれば、ディオに初めて会ったのもダリアに頼まれごとをした時だった。ディオを遊びに誘う癖にいつも土壇場になって用事があると言って帰ってしまい、私ばかりが彼と仲良くなっていた。本来ならダリアがいた立場だが、月日とともに私が成り代わっていたのだ。彼女の策略で。
いつかは仲直り出来ると信じていた私が馬鹿みたいだ。友人と思っていたのは私だけで、ダリアにとって私はただの身代わりだったと知った時の絶望感は忘れようにも忘れられない。幸いと言うべきか、自分が拷問されて死ぬかもしれない運命になったかもしれないことよりも、ダリアに裏切られたことの方がずっと辛かったので、悪役令嬢という役割に収まったことに対しては取り乱すことがなかった。いつか拷問や処刑を命じるかもしれない王太子であるディオに対しても今までと同じ関係でいられたのもこの為だ。憔悴した私を一番支えてくれたのがディオだったことはなんとも皮肉だったけど。いつか私ではなくヒロインを選んでしまうかもしれない彼に対して、当時は随分と八つ当たりをしたものだ。今となってはいい思い出である。
ヒロインやダリアがディオに対して付きまとっていても冷静でいられるのは、ただ単にディオを信用しているからだ。私はもう、ディオが彼女たちを選ばないと知っている。婚約者になれたことを手放しで喜べるかと言われるとやはり複雑ではある。しかし、この立場を誰かに譲ったりはしたくない。勿論、ダリアにも。
「アイリス様、王太子殿下とレイノルズ様がこちらにいらっしゃいますわ」
思考を中断して顔を上げると、こちらに気が付いたらしいディオと双子の弟であるレイノルズが手を振っていた。二人に会釈すると、ヒロインとダリアを振り切ってこちらに向かってくるのが見えた。私が立ち上がったのを境に取り巻きの少女達も立ち上がり、淑女の礼をとる。
「ごきげんよう」
「ああ、アイリスも元気そうで良かった。丁度探してたんだ」
「まあ、何か御用ですか?」
私の言葉にディオがちろりと周囲を見た。その視線に心得たと言わんばかりの表情になったレイノルズと少女たちはあっという間にどこかへ行ってしまった。
「最近ダリアと会ってる?」
人目がなくなったのを確認してすぐにディオはそう尋ねた。透き通るような青色の目が心配そうに揺れている。
「いえ…ダリアとは特に何も」
「そう。なんだか最近付きまとわれていて困ってるんだ。よく知らない女と一緒になって俺の周りで騒がしくされて…」
よく知らない女、ね。困惑した表情の彼に内心で納得する。ディオもレイも相手にしていないように見えたが、まさかヒロインとの出会いが上手くいっていないとは思わなかった。ゲームならとっくに仲良くなって更に親密度を上げるイベントが始まる頃なのに、ディオやレイの口から彼女達の名前が出ないことを不思議に思っていたのだ。ディオがヒロインに対して心を奪われることはないとは知っていたけど、友人にすらなれていないとは思わなかった。
「ダリアは俺を散々避けていたくせに一体どういう心変わりなのかな。君にまで付きまとっていないなら安心したよ」
「ダリアは私のこと、避けているもの」
「アイリス…」
私がどれだけダリアのことが好きだったのか知っているディオは複雑そうに顔を歪めた。二人の仲に亀裂が入ったのは婚約発表からなのはディオも勿論理解していた。
「…ごめん。でも、俺はもう君を手放せない」
「ディオ」
「許してくれとは言わない」
「ねえ、ディオ」
苦しそうに呟いて下を向いたディオに、彼に愛されていることを実感した私は少し嬉しくなった。微笑みながらディオの頬に手を伸ばす。
「私、すごく幸せよ」
「アイリス」
「貴方との婚約も、好きになってくれたことも、ずっと隣にいられることも、ぜんぶ幸せ」
くしゃりと泣き出しそうに顔を歪めたディオが震えながら私に手を伸ばす。私よりも大きな手をぎゅっと握って、ディオの俯けた顔を覗き込む。
「だから、ディオも幸せになって。許して、なんて言わないで」
「うん。ありがとう。アイリスと一緒に幸せになりたい。君を、もっと幸せにしたい」
握った手を引っ張られ、痛いほどに抱き締められた。震えは収まっていて、ホッとして体を委ねた。ディオは気が済むまで長い間そのままだったが、暫くすると体を離して私の肩にそっと触れた。
「アイリス、ありがとう」
付き物が落ちたような、さっぱりとした晴れやかな表情でディオが笑みを浮かべた。それから名残惜しげに髪にキスを落とした。
「もうすぐ選択授業があるから行くよ。…またあとでね」
「はい。また」
彼の頬にキスしてにっこり笑顔を浮かべる。何度も振り返りながら校舎に向かうディオに手を振って、姿が見えなくなったのを確認してから東屋から離れた。今は誰かといるよりも一人でいたかったから。ぼんやりと赤い薔薇を見ていると、背後でガサリと音がした。レイ達が人除けをした筈の庭園ならば暫く生徒が踏み込むことはないと思っていたのに、と振り替えった。
「一人でいるなんて、珍しいじゃない」
「…ダリア」
こんな所で会うとは思っていなかったので、息を飲む。豊かな黒髪を結い上げ、真っ赤なドレスを着こなす彼女は自信に満ち溢れていて本当に綺麗だ。容姿の悪い悪役なんてつまらないから当然かもしれないけど。
「久し振りね」
「ええ」
「ねえ、今の…見ちゃった。まさか貴女、ディオラント様と仲いいの?」
信じられない、と呟きながらダリアは首を傾げた。高慢なその仕草が妙に似合っていて、悪役仕様の彼女の容姿はどこをとっても妖艶で美しい。そのことをダリアの仕草ひとつひとつから実感しながら、私はダリアに向かって微笑んだ。
「婚約者ですもの。仲が良くて、何かおかしいかしら?」
「そりゃね。だって、全く彼のルートに入れないなんて可笑しいじゃない。イベントも全然回収出来ないし。なんかのバグなの?」
ダリアの言葉に思わず身を固める。あれだけ彼の後をついてまわっていたのだから、分かっていたが、直接言われるとは。
「ああ、意味はわからなくていいから」
固まった私に、ダリアは手を振った。彼女は私にも前世の記憶があるとは知らないから、何を言っているのかわかっていないと思っているらしい。
「それより、王太子の婚約者っていいわね。羨ましくなっちゃった」
ダリアの言葉に呆気にとられる。自分から手放したのに、何を言ってるの?ダリアにはディオと婚約する未来があったし、チャンスもあったのに。ゲームだけじゃなくて、現実でも我が家より勢いのあるダリアの家の方が王太子妃の筆頭候補だった筈だ。
「彼の婚約者ってだけでこの学園の誰もが傅いて、何をしても許されて、ほんとに羨ましい」
ダリアは大袈裟な仕草で手を振り回す。困惑して彼女をみているとクスリと皮肉げに笑われた。
「私も同じ立場だったらよかったのに」
その言葉にカチンときた。私が悪役を押し付けられたと気が付いてから、どれだけ努力をしたと思っているんだ。ディオに嫌われないように、好きになってもらえる為にどんなことでも頑張った。周囲に舐められないように、王太子の婚約者として相応しい行動を心掛けた。民の為にどんなことが出来るのか必死で考えた。何をしても許される立場?そんなものには程遠い。何も分かっていない、逃げ出したダリアに、そんなこと言われたくない。
「簡単に言わないで。私はこの立場に相応しくある為に努力しているの」
語気を強めて睨みつけると、ダリアは興味がないと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「別に、そんなことどうでもいいわ。そんな話がしたいわけじゃないのよ」
「…なんの用かしら」
「私にその立場、譲ってよ」
「は…」
「大丈夫よ。今からでも間に合うわ。王子がヒロインに夢中になって私を処刑するなんてこと、有り得ないってわかったし、だったら王太子妃の方がいいじゃない?」
「そんな理由で…」
「いいでしょ?元々私のものだったんだから」
余りの言葉に黙り込んだ私をにやにやと笑いながら見ているダリアは、まさかその申し出を断られるとは思っていないようだ。
「ねえ、黙ってないで何か言ってよ」
「…そう簡単に譲れる立場で無いことくらい、分かるでしょう。王太子妃としての教育を受けて、諸外国に顔を覚えてもらう。これだけでも何年必要かわからないわ」
相手にする必要はないと分かってはいたが、生真面目に返答する。すると、ダリアの顔が喜色満面の笑みでかたどられた。
「ふっ、あははっ」
「な、に?」
いきなり笑い出したダリアに気味が悪くなり、一歩後退り距離を取る。
「やだあ、おっかしい!何真面目に回答してるの?そんなの何とでもなるから、あんたが気にするようなことじゃないわよ」
「気にするに決まってるでしょう。万が一にでも別の人に私の立場を譲るなら、適当な人選は出来ないの。国を背負う殿下を支えることの出来る人を選ばなければいけないんだから」
「はあ?あんたに出来たことが私に出来ないとでも?」
「そうは言ってない。でも、この件に関して決定権は私にはない。いくら私に言っても無駄よ」
「あっそ」
ダリアは不機嫌そうに眉を顰めた後、腕を組み足を踏み鳴らす。苛立ちを露わにして爪を弾く仕草を見て、王太子妃は譲れないと強く思ってから、そう考えたことに思わず笑ってしまった。ダリアが完璧な淑女だったとしてもこの立場を譲る気なんてない癖に。わたし、いつまでダリアに遠慮してるんだろう。理由がないとディオの隣にいることすら守れないの?そんなの違うでしょ?
「…決定権はなくても、上層部に言うことは出来るでしょ?それさえしてくれればあとは自分でやるわよ。よく考えたらその方が確実よね」
「わたし、やらないから」
「は?」
ダリアが余裕のある表情から一転して、怒りに満ちた形相になる。彼女はあんな馬鹿馬鹿しい提案を本当に私が受け入れると思っていたのだ。
「ちょっと、冗談でしょ?言うこと聞きなさいよ!信じられない。あんたに拒否権があるとでも思ってんの?」
ダリアが興奮しながら自らの腕を掻き毟る。赤く彩られた爪がガリガリとダリアの肌に傷つけていくのを見てそっと目を伏せる。
「有り得ない有り得ない有り得ないっ!あんたなんかが私より幸せになるなんて有り得ないっ。ぜったいっ許せない!私のスペアがなにを偉そうに!あんたは私の幸せの為に生きてんのよ!」
本当に、私は愚かだ。こんなことを言われても、仲直り出来るかもしれないなんて。ダリアは私にとって一番大切な友達だった。一度裏切られたくらいじゃ、嫌いになれない程長い時を過ごしてきた。でも。こんな思いをするくらいならあの時、諦めておけば良かった。ぼろっ。涙が零れ落ちるのを感じた。人前で涙を流すなんて、あってはいけない。人の上に立つべきで、人の見本になるべき私が弱みを見せるなんて、あってはいけないのに。もう、だめ。ダリア、お願いだからこれ以上言わないで…。
「なんで泣くの?役立たずのヒロインなんかを信じて貴女から離れたから?いいじゃない。親友でしょ。私の幸せを叶えるくらい、当然じゃない。ちょっとくらい私に譲りなさいよ!」
笑みを浮かべたダリアの言葉に何かが壊れた気がした。貴女が幸せになりたいのはわかる。だからって、私は不幸になってもいいの?死んでもいいと思える程度の関係だったの?どうして私達、普通の友達でいられなかったんだろう。
「あゆみ、わたし…貴女のこと、一生ゆるせない」
「な、んで。その名前…」
驚いて固まったダリアに私は何も答えず、涙を拭って背を向ける。知らない。何も教えてあげない。だって、もう許せないから。
「さよなら…私の大切な友達だった人」
そして前世のわたし。ダリアがいるだけで、前世の自分を忘れないでいられた。だからダリアにこだわった。どんな扱いをされても良かった。私にとって前世があったと思える唯一の証だったから。前世のことをいつまでも捨てられなくて、ダリアに縋り付いたけど、もう終わり。遅くなったけど、ダリアのおかげでアイリスとして生きていく覚悟が出来た。引き換えに貴女との友情をなくしてしまったけど、今を大切にしたいと思わせてくれてありがとう。
悲しみで痛む胸を抑えて、前を見据える。私はアイリス。王太子の婚約者。押し付けられた悪役令嬢だけど、きっと誰よりも幸せになってみせる。