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009*スピネル〔011〕
 追いすがる先生をも、振り切った。

 どんなに、この日を楽しみにしていたか。
 それなのに。

 台無しにした、すべてに対して、
 腹が立った。

 助けに来てくれたのに、先生にも、
 腹を立てていた。

 どうして、あんなに、
 狂戦士みたいに、なっちゃうの。

 人の心の機微が理解できないような、
 無神経な先生じゃ、ないのに。

 隣人と諍いを起こしたら、
 どんなに住みにくくなるか、
 先が読めないほど、
 愚かでもないはずなのに。

 いつも温厚で、
 人当たりがすごくいいのに。
 どうして。

 どうしてか、それは。
 あたしの、せいだ。

 あたしが、先生を、狂わせている。
 あたしは、先生も、狂わせている。

 なんてことだ!

 足がもつれて、転んだ。
 息が、苦しい。
 すぐに、立ち上がれない。

 どうしよう。
 大家さんを、怒らせた。

 突きつけた封筒の中身は、
 家賃の値上げ額で計算しても、
 二月分くらいはあったから、
 その間は、大丈夫だとしても。

 ……ううん、わからない。
 大家さんが、腹いせに、
 どんな嫌がらせを、してくるか。

 どうしよう。
 先生が、弟妹達が、路頭に迷う。
 あたしの帰る場所が、なくなる。

 息苦しさが、なおらない。
 耳が、遠くなる。
 なにも、聞こえなく、なる。

 道の上を、土埃と一緒に、紙切れが、
 ひどくゆっくりと転がってきて、
 ひざに、貼りついた。

 ひとなつこい小動物みたいに、
 あたしのひざの上で、かさかさ、
 音を立てる。

 あ、聴覚が、戻ってきた。

 しわを伸ばして、内容を確かめてみると、
 それは。

 新劇団、結成。
 役者募集。公開審査。
 通過者には賞品として、トルマリン贈呈。
 トルマリン。金貨三十枚相当。

 主催者は、うちの、若様。

 目が、くらんだ。
 金貨三十枚相当の、トルマリン。
 金貨三十枚、あれば。

 大家さんだって、文句なく、
 あと二年くらいは、置いてくれるだろう。

 舞台が、成功したら。
 もっと沢山の、お金が入る。
 だって、出資者は、あの、若様だもの。

 選ばれれば。
 選ばれさえ、すれば。

 あたしの中で、あの怪物が、
 騒ぎ始める。

「あの歌の天使は、
 もう、いなくなっちゃったの?」

 あどけない少女の声が、
 聴覚が戻ってきたばかりの耳に、届く。
 聴覚が戻ってきたばかりの、あたしの耳は、
 とても、鋭敏。

 目を上げると、葬列が。

 喪服の群の中、少女と母親らしき人の会話を、
 耳が、拾う。

 先刻の少女の問いかけに、
 母親らしき人が答える。

「もう声変りしちゃったんじゃないかしら。
 それくらいの年頃だったからねえ」

 あたしのことだ。
 どきっとした。

 捕らえられて魔窟の歌姫になる以前。
 あたしは男装して、
 あちこちの街角に立って歌い、
 一時期「神出鬼没の歌の天使」と、
 騒がれていた。

 少女は、母親の返答に、がっかりした様子。
 前方を行く棺を、悲しげに見守る。

「おばあちゃん、天使の歌声、
 とっても好きだったのにな。
 ずっと待ってたんだよ。
 あたしだって、もっと聴きたかったのに、
 もう、ムリなの?」

 あたしは立ち上がって、
 葬列のあとを、ついていった。

 式が終って、皆が去ってから。
 葬られたばかりの、おばあさんのお墓の前で、
 鎮魂歌を、捧げた。

 聖なる怪物の、封印が、解ける。
 あたしは、まだ、歌える。
 あたしは、また、歌える。

 あたしの、帰る家。
 先生、弟妹たち、あたしの家族。
 守るためなら、なんでもしよう。
 怪物だって、解き放とう。

 いずれにせよ、もう、あとは、ない。

 それから、あたしは、
 文字どおり、なんでもやった。

 若様への抜け駆け、
 色仕掛けさえ、やってのけたけど。
 若様には、通用しなかった。

 ぼくを侮辱するなと叱られ、
 逆に手玉に取られ、翻弄され、
 屈伏させられて。

 こんなことは誰に対しても、
 してはいけないよと、諭された。

 自分で、たれ流しておきながら。
 こんなふうに考えるのは、
 我ながら、どうかとは思うけど。

 あたしは、この色気に誘われて、
 言い寄ってくる男のひとを軽蔑し、
 簡単に屈しない男のひとを尊敬する、
 そんな傾向が、ある。

 若様は相当な発展家だと、
 もっぱらの噂だったから、余計に意外で。

 あたしの誘惑を跳ねのけたことで、
 若様の株は、あたしの中で、急上昇。

 公開審査、当日。

 もし、そうなったらどうしよう、と、
 危惧してた事態が、
 現実になってしまった。
 例の発作に、襲われたのだ。

 一番手として舞台に立たされたあたしは、
 極度の緊張でか、耳が聞こえなくなった。

 とてつもない悪意のかたまりが、
 巨大なとぐろを巻いて、
 あたしを取り囲み、呑み込もうとした、
 そのとき。

「彼女は、ぼくの家の女中だよ。
 それが、なにか?」

 若様の声が、あたしを救った。

 聴覚が戻り、
 神経が、冴え渡った。


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