007*トルマリン〔006〕
なんてことだ。
やっと母親から解放されると、
サファイアは足早に、部屋から遠ざかり。
陽光降り注ぐ中庭を横切って、
木陰に、たどり着く。
甘えるように幹へすがりつき、
次に背中を押しつけて、
ずるずるとその場に、座り込む。
「うあ……」
うめき声をあげ、頭を抱え、髪をかきむしる。
そんなところへ、
「あの、若様」
と、声をかけられた。
のろのろと顔を上げる。
女中がひとり、立っていた。
「うん……なに?」
人前で、いつまでもだらしなく、
へたり込んでは、いられない。
重い心と身体に鞭打って、立ち上がる。
「あの、これ、本当ですか?」
女中の手には、例のビラ。
「ああ、それね、本当だよ」
「じゃあ、あたしも応募して、いいんですか?」
「いいよ、そこに書いてあるでしょ、
経験、年齢、身分問わずって」
女中の目が、輝く。
希望の光。
無邪気なその様子が、
サファイアの神経を、逆なで。
「あ、ありがとうございま」
「まあ、採用されるかどうかは別として、
受けるのは誰でも自由だよ」
感謝の言葉と希望の光を、
意地悪く、遮ってみる。
「きみ、女優になりたいの?」
改めて、女中を、上から下まで眺め回す。
十人並みの顔立ち。小柄な体つき。
ちょっと小突かれたくらいで、
縮こまって泣きそう。
とても舞台栄えは、しそうにない。
ぼくのほうがよっぽど、華があるよ。
「ふうん、ま、がんばってね」
小馬鹿にした態度がしゃくに障ったのか、
女中め、
泣きそうなのに、目だけは刃のように、
険しい光を帯びる。
なんだよ、生意気だな。
サファイアの胸にも、暗い炎がともる。
「あのね、ぼく、
こっちから仕掛けるのは嫌いじゃないけど、
仕掛けられるのは、好きじゃないよ」
「な、なにをですか」
「ぬ、け、が、け」
女中の顔色が、変わる。
図星、か。
サファイアは鼻先で、せせら笑う。
「その募集要項に不明な点なんか、ないはずだ。
誰が見てもわかるように、書いてあるんだから。
わざわざ、ぼくに確認を取りにきたのは、何故?
当ててみようか、
身近で仕えてるのをいいことに、
雇い主であり、これの審査員でもある、ぼくに、
少しでも自分を印象づけたくて、
顔を売り込みに来たんだ、そうだろ?」
「そんな、あたし、ただ信じられなくて」
「傾向と対策を、のっけから誤ってしまったね、
おあいにくさま」
相手の申し開きは、頭から無視。
「若様、こちらにおいででしたか」
執事が、駆け寄ってきた。
「お出かけの時刻を過ぎております、
お急ぎくださいませ」
「今、行く」
立ち去る前、女中へ、
「きみも仕事に戻りたまえよ。
応募するなら、覚悟しておくことだね。
舞台の上は華やかだけど、
見るとやるとじゃ、大違い。
厳しい世界なんだ。
これくらいで凹んでるようじゃ、
とてもやって行けやしないよ、じゃあね」
女中は一言も発せられず、
口惜しさに震える指先で、
前掛けの端を、握りしめる。
その夜。
朝っぱらからの衝撃をひきずりつつ、
しかしそんな素振りは、おくびにも出さず、
多忙な一日を、終え。
サファイアは自室で、酒を杯に注ぐ。
今夜は酒場に、寄らなかった。
喧騒に身を浸す気分じゃない。
ひとりで、静かに、飲みたかった。
夜風に当たろうと、杯を片手に、露台へ。
火の属性を持つ液体を、のどへ流し込む。
五臓六腑が内側から焼けてゆく感覚に陶酔し、
おもわず目を閉じた、そのとき。
露台の先にそびえる木の枝から、
がさごそと、なにやら不穏な物音が。
はっと警戒するサファイアの目の前。
悲鳴とともに、人が降ってきた。
今朝の、女中だ。
「だ、だいじょうぶか、というより、
一体なにをやってるんだ、きみは!」
露台に尻もちをつき、
痛そうにうめく女中を助け起こしながら、
サファイアのほうも、動転。
女中は、サファイアの問いには答えず、
自分の言いたいことだけを、必死の形相で、
言い放つ。
「若様、あたし、
あたし……もう、あとがないんです!」
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