001*ガーネット〔003〕
奥方は彼を拒んだりはしない。
そんなことは一度もない。
もっとも、
彼女の嫌がることなど、とても怖ろしくて、
強要など最初からできはしない彼なのだったが。
つまりは彼のほうからも、
妻に本音はさらしていないのだった。
つねに遠慮がちで、一定の距離を保ち。
自分よりも、まず相手を気遣う。
それは美徳であるはずなのに。
どうしてこうも、窮屈なのか。
何故こんなにも寂しく虚しいのか。
すぐそばにいるのに。
神に永遠の愛を誓い、祝福され。
誰はばかることなく、
身体を重ねることすら許されている間柄なのに、
何故。
それはおそらく、愛しすぎているから。
少なくとも、彼のほうは。
彼女のほうは、どうなのだろう。
いまだ口に出せぬ質問。
きみはおれのことを、どう思っているのだ?
聞けないのは、返ってくる答えを予測できるから。
「もちろん、お慕いしておりますわ、
わたくしの大切な、あなた」
礼儀正しく、丁寧で、模範的、そして。
本心かどうか、わからない。
彼が戻ってきたら、
「ようこそお帰りなさいませ、
ご無事でなによりでございました」
見送るときは、
「行ってらっしゃいませ、ご武運をお祈り申し上げます」
丁寧で、模範的で。
本心かどうか。
贈った耳飾りも、嬉しいのかどうか。
とりあえずその日以来、彼女の両耳には、
涙の形をした小さなガーネットが揺らめき輝いて。
それから何日も経たぬうちに。
夫は戦場へと赴いた。
「行ってらっしゃいませ、ご武運を」
いつものように奥方は彼を見送り。
穏やかな日常に、立ち返る。
目覚め、食事をし、庭を散策し。
読書をし、刺繍をし、楽器を奏でる。
定期的に教会へ通い、
祈り、奉仕し、施し。
時折、そっと耳に手をやり、
ガーネットの耳飾りに、ふれてみる。
ある朝、庭を散歩していると。
見知らぬ若者が茂みの手入れをしていた。
驚いて息を呑んだ気配を察してか、
若者が顔を上げて彼女を見た。
ふたりは見つめ合った。
それほど長い時間ではなかったが。
若者は屈託のない笑みを浮かべ。
「おひえんよう、おふはま」
と言った。
彼女は若者の言わんとするところを察した。
「ごきげんよう、おくさま」
思い出した。
老庭師が最近、身体の不調を訴え、
自分の代理で孫が通うことになるかもしれないと、
たしかそんな話を。
孫は耳が不自由で、それゆえ発音も明瞭でないと。
彼女は先刻の緊張から解き放たれ、
安堵とも相まって、ぱっと顔を綻ばせ。
「ごきげんよう」
と挨拶を。
相手は耳が不自由なので、
くちびるの動きを読み取ってもらおうと、
口ぶりをことさら大げさにしてみた。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。