2.14 カーテン・コール(Layer:1 Main Story)
「……エミリー」
マイケルは、声が震えるのを止められなかった。
――俺も殺されるのか。
そう思ったときだった。
マイケルに向けられていた少女の視線が、不意に右上の空を見上げた。
次の瞬間、マイケルは、頭上から別の強い気配と射るような視線が降ってくるのを感じた。背筋が凍りつくような悪寒と、ざらついた圧迫感。この少女と同じ、本能に訴えかけてくるような危険な気配を持つ相手だ。
少女の視線を追うように、マイケルがゆっくり首を巡らせて仰ぎ見る。
飾り気のないアルミサッシの窓が並んだ灰色のオフィスビルの屋上に、ひとつの人影があった。周囲のビルの照明を背景にして立つ、長身の男のようなシルエットだった。
マイケルたちの視線に気づいたのか、人影は夜の闇に紛れるように姿を消した。
「ふん、興がそがれた。……おい、おまえ、命拾いしたな」
少女が目じりを上げたままで、マイケル殺害を断念したことを宣告した。
その言葉を聞いて、マイケルは胸をなで下ろす。
少女は、血にまみれた自身の左手を見やると、ちっと舌打ちをした。
「けがらわしい」
吐き捨てるように告げた少女は、舗道の脇に放り出してあったハンドバッグを拾い上げ、取り出したハンカチで腕を拭う。真っ白なレースのハンカチが赤黒い血に汚れると、少女はそれを石畳に投げ捨てた。
続いて、自分の着ているワンピースに視線を落とす。真っ白だったワンピースには、左肩から右のウエストにかけて、一面に真っ赤な染みが広がっている。
少女は、忌々しげに顔をしかめた。そして、右手でワンピースの前合わせを掴むと、一気に引き裂いた。弾け飛んだボタンが宙を舞い、軽い音を立てて石畳に飛び散る。少女は、なんのためらいもなく、ワンピースを脱ぎ捨てた。
マイケルは、動転する。
目の前には、起伏に富んだ少女の裸体が、エロスの像よろしく惜しげもなくさらけ出されている。白いレースに縁取られた淡いピンク色のブラジャーとショーツが、少女の身体のわずかな部分をかろうじてガードしていた。
あわてて目をそらそうとしたマイケルは、逆に少女と目が合ってしまった。
青と真紅のオッドアイが、まなじりを決するように見開かれている。
その視線が、マイケルの顔と、自分の裸体と、石畳に投げ捨てられたワンピースの間をさまよう。そして、もう一度、マイケルと目が合った。真紅の瞳はすでに輝きを失っていて、青い瞳にマイケルの呆けたような顔が映っていた。
「えっ。これ……なに。なんで……」
一瞬の戸惑いの後で、少女の頬がみるみるうちに紅潮した。
きゃあっという悲鳴を上げながら少女が背を向けるのと、マイケルが後ろを向くのは、ほぼ同時だった。
謝罪の言葉を口にしようとしたマイケルの耳に、背後から「くうっ」というエミリーの悲痛な声がした。
振り向くと、あられもない姿のエミリーが、左手を押さえるようにしてしゃがみこんでいた。マイケルは、不恰好に折れ曲がっていたエミリーの指を思い出した。
「ちょっと、触るぞ。いいな」
エミリーは、身体を震わせながら、こくりとうなずく。
その左手を改めて見ると、人差し指と中指の第二関節あたりが、かなり大きく変形している。白い肌の下は、すでに青黒く変色しはじめていた。重傷のつき指だ。骨折の疑いもある。
「無茶しやがって。……痛むけど、我慢しろよ」
マイケルは自分のハンカチを取り出すと、白くて華奢なエミリーの指を四本束ねて、しっかりと縛る。目と口を固く閉じて、苦痛に耐えるエミリーが痛々しかった。
「救急車を呼ぶか?」
マイケルの提案に、エミリーは首を振る。白い髪が、少し遅れて横に揺れる。
「それなら、後で、医者にでも診てもらっておけよ」
エミリーは、その言葉には黙ってうなずいた。
顔を上げたエミリーと、再び目が合う。エミリーは、はっと息を飲んで、しゃがんだままで胸を抱いて背を向ける。
マイケルも、即座に後ろを向く。
背中合わせのまま、二人の間に気まずい沈黙の時が流れる。
「……の、ばか」
エミリーが、なにかをつぶやいたように聞こえた。
「なんだって?」
マイケルは、聞き返す。
「あ、あの……見えちゃった、わよね」
微かに震えるエミリーの声が、やけに弱々しく聞こえた。
「いや。……急なことだったから、よく覚えていない」
マイケルは、最低限のエチケットを守った。そして、さっき見たものは忘れようと思った。
「ありがとう」
エミリーが礼を告げる。
こちらこそ、と言いかけて、マイケルは咳払いでごまかす。
背後で、エミリーがごそごそと動く気配がして、衣擦れの音がした。たぶん、ワンピースを着なおしているのだろう。
「なあ、エミリー」
マイケルは、背後の彼女に確かめるように話しかける。
「なに?」
「おまえ、エミリーだよな」
それは、なんとも間抜けな問いかけだったが、エミリーは、ふふっと笑った。
「そうよ」
「さっきまでのおまえは……」
いったい、何だったんだ。そう聞こうとして、マイケルは思いとどまった。それより、今すべきことがあるのに気付いたのだ。
「もう、そっち向いていいか?」
「だめよ。今こっち向いたら、ただじゃおかないわよ」
マイケルは、エミリーの返事を受けて、それを実行することにした。
あらためて、女の死体を見下ろす。凄惨というしか言いようのない状況で、また吐き気がしてくるが、マイケルはそれに堪えて手早く女の髪を数本引き抜く。そして、近くに捨てられていたエミリーのハンカチを拾うと、血のついた部分を内側にして、毛髪と一緒にズボンのポケットに押し込んだ。
「もう、いいわよ」
その声に振り向くと、エミリーは血まみれのワンピースを着込んでいた。右手で胸を、ハンカチの巻かれた左手でお腹を抱くようにして、なんとか前合せを閉じている。しかし、血に汚れた上に、派手に破かれたワンピースは見るも無残な姿になっていた。
「お気に入りのワンピースだったのに……。あなたのせいよ。邪魔をしないでって、言っておいたでしょう」
気のせいか、エミリーの瞳が潤んでいるように見えた。
「もし、あのままだったら、今ごろどうなっていたか……。でも、その意味では、少しは役にたってくれたみたいだから、いちおう、わたしからお礼を言っておくわ」
エミリーは、微妙な言い回しをした。
マイケルは、ジャケットを脱いでエミリーの肩に掛ける。小柄なエミリーにはだぶついていたが、彼女の太腿のあたりまで隠すことができた。
「助かるわ。ありがとう」
ジャケットの前合せを内側から閉じながら、エミリーは会釈をする。そんな状態ですら、その所作は優雅なものだった。
「ところで、この死体はどうするんだ」
マイケルがエミリーに向ってかけた問いに、背後から答えが返ってきた。
「心配はいらないよ。すぐに、組織の者がフォローするからね」
それは聞き覚えのある声だったが、突然のことにマイケルは心底驚いた。
「演目は終わった。状況、D2からD3に移行。役者が舞台を降りる。PEB消失に備えて、全スタッフは、ただちにカーテン・コールにかかれ」
振り返ると、白い長衣に身を包んだ金髪の紳士が、携帯電話を片手に悠然と立っていた。
「ハノーヴァー公……」
ふむ、とハノーヴァー公は答えてから、手に持っていた白いローブをエミリーに着せ掛けようとした。しかし、エミリーは、小さく首を振ってそれを拒む。
「ほう。……エリザベートか?」
エミリーが頬を染めて微笑むと、ハノーヴァー公も笑みを返した。
「苦戦したな。だが、これで『キツネ狩り』は終わりだ。……こいつが、ソールズベリーから逃げ出した、最後の一体か」
「ええ。これでもう、犠牲者は出ないわ」
その言葉を聞いて、マイケルのなかに悔しい思いが湧き上がる。『連続通り魔殺人事件』は、犯人が逮捕されることもなく、迷宮入り事件として終わることになるのだろう。俺は、ソフィーの敵討ちをするためにも、この手で通り魔を逮捕してやりたかった。あのころの無力な自分ではないことを、証明したかった。だが、結局は……。
「でも、気になることがあるの。ねえ、アーサー。わたしたち、踊らされているのかも知れないわよ」
エミリーの意外な発言に、マイケルとハノーヴァー公の両方が揃って、どういうことだと声を上げる。
「厄介なヤツがロンドンにいるみたいなの。それに、こいつらちょっとおかしいの。今までも、人を襲うことがなかったわけじゃないけど、こんなに凶暴じゃなかったわ。まるで、何者かに操られているみたい」
「やはり、そうか。それなら……」
ハノーヴァー公は、左手であごをなでながらつぶやいた。
「十五年前と同じだな」
マイケルは、耳を疑う。
「今、なんて言ったんだ。十五年前って、まさか……」
詰め寄るマイケルに、ハノーヴァー公は冷静な声で答える。
「君たちは、『連続無差別殺人事件』と呼んでいたかな。たった一体を狩る間に、八人もの犠牲者を出してしまった。あのとき、もしこの子がいてくれたら……」
ハノーヴァー公がエミリーの肩に手を置く。その手を見たエミリーは、オッドアイを伏せた。その頬がかすかに緩む。
「今回は、六体もいたのに十一人の犠牲で済んだのだ。喜ぶべきことではないが、幸運だったと言うべきだよ」
ハノーヴァー公の言葉は、人命を効率の良し悪しで計るように聞こえた。それは、幼くして無残にも未来を絶たれたソフィーの死を、侮辱されたのと同じだった。マイケルの頭に一瞬で血が昇る。
「あの事件の犯人も、こうやっておまえたちが始末したのかっ」
突然のマイケルの剣幕に、ハノーヴァー公もエミリーも、不意を突かれたように呆然としている。
「なぜ、情報を公開しないんだ。そのせいで、なにも知らない人々が次々に犠牲になったんだぞっ」
なにかを言いかけたハノーヴァー公を制して、エミリーが口を開いた。
「私たちは、きちんと説明したでしょう。あなたたちでは歯が立たない敵が人間を襲っているのだと。なのにあなたは、それを信じなかったじゃない。さっきだって、あなたがわたしの言うことを守ってくれていれば、あんな危険なことにはならずに済んだのよ。わたしたちが言うことは信じないくせに、後になってから綺麗事を並べてわたしたちを批難する。あなた、いえ、あなたたちは、いつもそうだわ。卑怯よ」
怒りと悲しみとをたたえたエミリーの青い瞳が、まっすぐにマイケルを見据える。その眼差しとその言葉に、沸騰していたマイケルの頭が一気に醒める。そして、血にまみれて赤黒く汚れたエミリーの姿と、その左手に巻かれたハンカチが、マイケルの心を打ち据えた。
やがて、数台のワゴン車やトラックが路地を塞ぐように止まって、ヘルメットを被った作業員たちが次々と姿を現した。
「あなたが追っていた事件は、終わったわ。これでもう安心でしょう。また、明日ね」
羽織っていたジャケットをマイケルに突き返して、エミリーは背を向けた。その肩が、寂しげに見えた。
ハノーヴァー公とともに裏通りの闇に紛れたエミリーを見送ると、作業員たちに追い立てられるように、マイケルもまたその場をあとにした。
スコットランドヤードで車を調達してから、マイケルはピカデリー・サーカスに戻った。
エミリーの残した言葉が、小さな棘のように心に刺さっていたが、マイケルは職務を優先することでそれを忘れようと思った。
あれから二十分ほど過ぎていたが、裏通りは「立ち入り禁止」の看板が立ち、道路工事の現場に様変わりしていた。
――なるほど、そういう仕掛けか。
マイケルは感心する。これならば公然と通行止めにもできるし、相当なものを持ち出したとしても怪しまれることはない。作業員たちの視界に入らない場所に車を停めて、物影から様子を伺う。作業は手際が良く、一時間あまりで撤収が始まった。
マイケルは、車を出して、気取られないように注意しながらその車列を尾行した。
一団は、ロンドンの郊外に向かう道路に入った。もしや、という予感が、確信に変わっていくのをマイケルは感じた。
そして、たどり着いた先は、マイケルもよく知っている場所だった。
車両が走り込んだ建物の前を通過しながら、横目で様子をうかがう。バッキンガム宮殿を思わせる門の向こうには、公園のような敷地が広がり、ネオゴシック様式の重厚な建築物が建ち並んでいる。
――やはり、セント・セシリア校か。
連続通り魔殺人事件、エミリーとハノーヴァー公、そして彼らの背後にあるローゼンクロイツ騎士団という組織。三つの要素が、一本の糸で繋がった。しかもその糸は、迷宮入りした十五年前の事件とも繋がっているのだ。そこにどんな大義名分があるにせよ、私闘まがいの殺し合いが平然と行われている事実は看過できるものではない。警察官としては、ここは即時に通報すべきところだ。
だが、とマイケルは思う。スコットランドヤードを動かすには、まだ決定的なものが足りない。
ポケットに隠した、エミリーのハンカチに手をやる。ようやく手に入れた物的証拠だ。これを分析すれば、あの女が人間なのかどうか、つまり、エミリーやハノーヴァー公の言い分が正しいのかどうかが、確実にわかるはずだ。なにもかも、それからのことだ。
マイケルは、科学捜査研究所にいる友人に携帯電話をかけ、これから持ち込む証拠品の分析を依頼した。
車を発進させて、スコットランドヤードに向かう。
気分を落ち着かせるために、マイケルはカーオーディオのスイッチを入れた。クラッシック専門FM局にチューニングされていたらしく、ザッというノイズに続いて、派手な管弦楽曲が流れてきた。ショルティが指揮をするウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ローエングリン第三幕への前奏曲」だった。
――ローエングリン、か。
マイケルは、エミリーの戦いを思い出す。
あれは、防疫や隔離などという生易しいものではない。殺すか殺されるかの戦闘だ。もし相手が人間になんらかの害をなすものなら、エミリーの言うことにも理はある。だが、あの行為が犯罪でないと証明されないかぎり、俺は警察官としてエミリーたちを追わざるを得ない。
『事件は終わった』とエミリーは言ったが、マイケルにとっての「事件」はまだ終わっていない。ましてや、十五年前の未解決事件と繋がっているのなら、なおのことだ。
だが、あまりにも現実離れしたあの戦いを、犯罪行為としてどう立件するのか。
彼女は、一切武器を使わない。しかも、彼女の方から仕掛けたことは一度もない。キングスクロスのときと同じだ。「襲われたから身を守った」と言われれば、それまでだ。さっきの戦闘にいたっては、警察官であるマイケルの方が助けられたようなものだ。
それに、戦いのときに人が変わったようになるのは何故なのか。状況に応じて言動が変わる、などというものではない。あれは、ほとんど別人と言っていいくらいだ。
エミリーには、謎が多すぎる。一緒にいればいるだけ、その不思議さを思い知らされる。そう、エミリーには……。
『卑怯よ』
忘れようと思ったエミリーの言葉が、耳の奥でこだまする。
そういえば、あいつ、あれからどうしたんだろう。あの怪我は、大丈夫だろうか……。
いくつものシーンが、脳裏にちらつく。いくら追い払っても、またすぐに浮かんでくる雑念を払うように、マイケルはアクセルを踏み込んだ。