人に迷惑をかけることがこんなにもつらいことだなんて思わなかった。責任は自分にあるのだから文句なんて誰にも言えない。言う相手もいないけれど……。
私の生活環境は良いとはいえない。四畳半一間でトイレが共同。しかも漆喰の壁のひび割れた部分に触れるとポロポロ剥がれ落ちる。ワラジムシやクモが畳を横切り一日一回は必ず挨拶にやってくる。食べ物は菓子パンを少しずつ齧って一日を持ちこたえるのがやっと。体は日に日に痩せていき、400メートル先のコンビニに通うのも体力の消耗を感じる。
でも、現状には満足している。なによりも部屋の窓から彼が見える景色は私の宝物。というより生きがい。彼がいる学校と私が住んでいるボロアパートには葉を豊富に茂らせた木が絡み合い緑色の壁をつくっている。僅かな葉と葉の間にできた隙間から見える彼の横顔は著名な画家が描いた絵なんて比べものにならないくらい芸術的。
彼がチラッと生徒たちに送る視線、黒板に難しい数式を書き込んでいくときの真剣な表情、冗談を言ったときの笑い顔。そのすべてが私の心を温かくする。
彼は私には気づいていない。48時間と21分前にはじめて彼は斜め上に視線をもたげ、私の住んでいる部屋の方向を見詰めたが、すぐに手をかざして視界を遮った。単に陽射しの強さを確認するための仕種だったけれど私の心臓はドクンと脈打った。私と彼の直線上には時々陽光が横やりを入れてくる。木漏れ日が私の姿を白い光の輪の中へと隠す。鈍感な彼には見えていないはず。
気づいて!という気持ちと気づいちゃ駄目!という気持ちが48時間と21分経ったいまでも交錯している。彼と目を合わせてはいけない。いますぐにでも彼が居る教室に向かって名前を叫びたいけれどそれは許されない行為。だって彼には守るべき家族があるのだから……。
彼と知り合ったのは私が高校生のとき。
新しく赴任してきた先生が早速うちのクラスで数学の授業をするらしく、みんなソワソワしていた。私はたいして興味を示さず、机の上で組んだ腕に顎をのせてだらけている姿を垂直に立てた教科書で隠した。みんなは全校朝礼で顔を見たらしいけど、私は遅刻してしまい新任教師をまだ見ていなかった。
彼が教室に入ってくるとクラスメイトはザワつきはじめたが、私は教科書より上に視線を上げようとはしなかった。
「菱沼信也です」
彼は簡潔に自己紹介をすませるとすぐに授業を開始した。
面白味のない奴……それがまだ顔を見ていない彼への第一印象だった。
私が本格的な眠りに入ろうかというとき、教科書が持ち上がった。怒られる、廊下に立たされる、そんな不安を駆け巡らせていると彼がニッコリ微笑んで言った。
「寝るには早すぎるよ」
私は魔法をかけられたように背筋が伸び、「は、はい」と甲斐甲斐しく返事をした。クラスからはクスクスという笑い声がこぼれたが、恥をかかされた羞恥心よりも彼が教室に入ってくる姿を見過ごしてしまった悔しさがこみ上げてきた。
その日から彼のひとつひとつの仕種が気になってしょうがない。出席を取るために私の名前を呼ぶとき、確実に彼と目を合わせることができた。黒板に書かれた数式をみんなが頭を下げてノートにペンを走らせているとき、私だけがノートを取らずに顔を上げて見詰めていた。注意することなく、不思議そうな顔をしながら私を見る彼の顔が面白かった。気味悪がっている風もなく、私は数学の勉強よりも彼を見る時間の確保を優先させた。
どうして彼に惹かれるのか考えたことがあった。顔にこれといった特徴があるわけでもない。彼の歳は32歳で小学校2年生の娘もいるらしい。ただ、彼が表情を崩して笑うと心が開放されたみたいにすべてのストレスが発散されていく。
ストレス……私は母親が嫌いだった。彼女のせいで2回も名字が変わるはめになり、それが原因でいじめられたこともあった。高校を卒業したらすぐに一人暮らしをはじめようと計画を立てていた。残り少ない高校生活は彼だけを見詰めるために過ごそうと決めた。
ある日の放課後、教室の掃除がちょっと遅れた。すると彼が取っ手がついた大きな三角定規を取りに教室に駆け込んできた。チャンスと思ったけれどそれがなんのチャンスなのかわからず、私はただ茫然としていた。
「紺野さん、数学の授業……面白くないかな?」
少し困ったような顔をして彼が尋ねてきた。
「い、いえ……そんなんじゃ……」
私は言葉に詰まった。ノートを一切とらない理由を正直に話したら、それは告白ることを意味する。
「友達から借りたノートをあとからコピーするのかな?でも、自分で直接黒板から写したほうが身につくよ」
上から押さえつけるような言い方ではなく、彼は優しくアドバイスしてくれた。
「はい」
自分でも信じられないくらいかわいらしい声で返事ができた。
私は彼に褒められるためだけに一生懸命数学を勉強した。積極的に手も上げた。数学の授業がない日はわからない振りをして彼に質問しに職員室へ押しかけた。最初こそぎこちなかった会話が自然と打ち解けてきた。
「先生、ここわかんないんだけど」
三角関数の厄介な方程式を指差してできるだけ説明を長びかせ、彼と接する時間をつくった。
私はうかれ気分でしかも有頂天。雨の日のことだった。傘を忘れて小走りで学校を出た。帰る生徒の数は疎ら。私はあの日以来掃除当番のときにはゆっくり時間をかけて最後のひとりになるまで粘る。もしかしたらまた彼と2人きりになれるのではと僅かな望みを持っていた。
今日も駄目だった……でも、毎日会話できているんだから……。
そんなささやかな幸せを噛み締めていると後方から車のクラクションが鳴った。その車には見覚えがあり、私は足を止めた。窓を開け、彼が助手席まで体を伸ばして尋ねてきた。
「紺野さん、傘は?」
「忘れました」
忘れちゃった……と言いながらペロッと舌でも出せばかわいく見えたかもしれないけれど、私はかしこまった返事をしてしまった。なにかを期待していたのかもしれない。
「これから会議に出席するために文化会館に行かないといけないんだよ。紺野さんの家は近くだよね?」
担任じゃないのに私の家を知っている彼の心の内を知りたくなった。私は頷くと同時に車へ乗り込んだ。焦っているように見えたに違いない。恥ずかしくなって顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかった。
「最近、勉強がんばってるね」
「は、はい」
車の中ではそんな会話しかできなかった。家の近所で降ろされたとき、もっと積極的に喋ればよかったと後悔が私の心を痛めつけた。メルアドくらい交換できたかもしれないのに……。
次の日の朝、私が彼の運転する車に乗ってどこかへ消えていったという噂がクラスで広まっていた。
「ねぇ、菱沼先生とどこへ行ったの?」
噂好きで学校の裏サイトを仕切っているといわれている花岡美紀が目を細めて訊いてきた。
「想像にまかせる」
私は曖昧な答え方をして美紀を追い払った。否定してもどうせ噂は尾ひれをつけて飛び回るだろうし、彼と噂になることはそんなに悪い気はしなかった。
しかし、その対応は最悪の結果を生んでしまった。噂は尾ひれをつけるどころか学校中に感染してみんなの興味を引き出し、悪意ある噂へと変貌してしまった。先生と生徒がラブホテルへ直行……そんな見出しからはじまる噂がネットにも躍って生徒の親からは苦情、教育委員会から圧力が学校にかかった。あの日のことをちゃんと調べれば彼が私とラブホテルへ行ったなんて証拠がないことぐらいわかりそうなものなのに学校側は彼を転任させることで責任を取らせ、噂をさっさと葬った。
彼が学校を去る日の放課後、私は教室でずっと待っていた。夕陽に校舎が照らされ、影が細長くなった頃、彼が私のところへやってきた。
「紺野さん、ごめんね」
彼がひと言だけ謝った。謝らなければいけないのは私の方なのに彼のやさしさに胸が詰まり言葉が出てこない。衝動的に抱きついてしまった。頭を撫でられた気はするけれどあまりよく覚えていない。他の生徒に見られなかったのは神様からプレゼントされた2人だけの時間なのかもしれない。
彼のいない学校なんて行く価値がなかった。
家でただボォーとしていると母親が学校行かないなら働きなと脅しをかけてきた。
「わかった」
私は近所のスーパーでレジのバイトをはじめた。思いのほかうまくこなせた。学校で半分死んだような生活をしているよりマシだった。ただ、私は痩せていった。ごはんをひと口食べるとすぐにしゃっくりが出て、喉に何かがつかえる感覚にとらわれた。彼との別れがまだ尾を引いているんだとそのときは思った。
スーパーでバイトをしているとき、花岡美紀と偶然出合った。彼女はすぐに私に謝り、学校に来なくなった理由を聞いてきた。
「学校が退屈なだけ……かな」
それとなく言葉を濁した。
「あのね……」
花岡美紀は彼の赴任先を教えてくれた。せめてもの償いだったのかもしれない。
バイトをがむしゃらに続けていたら体調を崩して病院へ行くはめになった。食欲が減退しているから栄養失調くらいかなと思っていたら医師からは惨酷な告知を受けた。
「食道ガンです」
「えっ?」
「個人の免疫力の問題や熱いもの辛いものを好んで食事する人、アルコールやタバコを長期に渡り吸い続けている中年の男性がなる場合が多いのですが、家で誰かタバコを吸う人はいますか?」
母親が狭い家の中でスパスパとタバコを吸い、いつも煙が充満して白かったはずの部屋の壁は黄色い。私は幼い頃から母の口から吐き出される煙を吸い慣れているせいか咳きをしたり、喉が痛くなったり、煙いとも思わなかった。
「母が吸っています」
私が答えると医師は頷きながらカルテに記入していく。自分の意志とは関係なくタバコの煙を吸わされることを受動喫煙といい、しゃっくりは食道ガンの初発症状らしい。
再検査して入院するように言われたが、私は無視をした。家を出て町を出て彼が赴任している小さな町に引っ越した。残りの人生を彼だけを見詰めるだけに注ぐことにした。
ちょうどいい物件にめぐり合った。彼が教壇に登っている姿を見下ろせる学校の隣に建つボロアパートを見つけた。彼が黒板を背にしたときは右側の後頭部、教室の後ろから歩いてきたときは左側の顔が見えた。それも葉と葉の間の僅かな隙間からの一瞬だけ。その一瞬一瞬を繋げて映像にしたとしても1分にも満たない。図書館のインターネットで学校の見取図を見たら私の部屋から見える教室は1年3組。ほかの教室は窓の角度からすると厳しい。首を伸ばせば他の教室で教えている彼を見ることは可能だが、それだと顔がバレてしまう。彼が1年3組の数学の授業をするときだけが至福のとき。週に4時間しか会えない。正確には4分弱。私はそのために生きている。
体力の限界が近づいていた。コンビニの帰りに倒れてしまった。病院に運ばれたらボロアパートに戻ることができなくなると思い、電信柱や壁に寄りかかりながら必死に歩いた。その日から急激に体調が悪くなった。食道ガンは固形物がつかえ、食道が徐々に狭くなる。最期には流動食や水までも通らなくなる。菓子パンを押し込むように飲み込むと胸に激痛が走った。味覚も失い、砂を食べてるようなジャリジャリとした不快な食感しか伝わってこない。
雨が上がり、露をのせた葉がキラキラ輝いていた。木々には生き生きとした緑が眩いている。最期に一瞬でいいから正面を向いた彼の顔が見たいという欲が出た。秋が深まり枯れて葉が落ちればもっとはっきり彼が見えるのにそれまで私は持ちそうにない。
そろそろ彼の授業がはじまる。待ち焦がれていた時間。間もなくすると彼の頭が見えた。今日は寝坊したのか後ろ髪がぴょんと跳ね上がっている。強い風が吹き、木漏れ日が大きく揺れた。目の前の葉が吹き飛ばされ、彼の顔がはっきり見えているはずなのに涙で歪んでよく見えない。けれど私の心は満たされた。彼が生徒ひとりひとりの机の上にプリントを置いていく。宿題だろうか?不意に彼が振り向いて私と目を合わせた気がした。
〈了〉
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