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箱入りみかん

アスタリスクを追う

作者:白縫 綾


 飛べない人が翼を持つことが出来ない、というのは飛べない人間たち本人にとっては何百年も前から決まりきっている、至極当然のことです。

 彼らは“飛ぶ”と同音の言葉として“跳ぶ”という言葉を作りました。今となっては分からないことですが、もしかすると人間という生き物は、それが自分たちが物理的にできる精一杯の“飛ぶ”だと分かっていたのかもしれません。

 しかし、翼を持たない人々の一部はそれでも望みを捨てきれず、心だけは空を飛びました。果てしなく遠い、蒼穹の夢を見たのです。
 彼らがそうして歩んできた道のりを鑑みると、わたしは一つの結論を得ることができます。


――それなら、地を這う蝶であるわたしも、夢だけなら見ることを許されるのではないのでしょうか。


 *


 わたしは知っていました。自分には飛べる翼がない、ということを。
 この世に生き、存在し、そしていずれは死んでいく生き物であるからにして、ないものを望むことは不可能であるということを。


『――そのかわり翼なき者に神は、地を駆けることのできる強靭な足、あるいは水を自在に行き交う自由、永遠に役立ち続けるような知恵など、それに変わるような何かを与えたもうたのだ』


 遥か昔、飛べない人はそう言ったと聞きます。


 自分たちよりも前に生きている生き物というのは何であれ尊いもので、だから人は自然と、その先人の考えに従いました。彼らは実際には空を飛ぶことができず、心から飛びたいと願っていました。しかし諦めたのは、そのいつまでも変わることのないであろう不変の真理をどこかで認めていたからです。更に言うと、そのどうしようもない不変の真理を覆すことができなかったからです。
 確実な根拠によって認められた事柄ですから、覆すことができないのは当然なのかもしれません。
 しかし、わたしの知る一人の少女は、そうは思いませんでした。
 その考えに屈したりしない。そう、誓っていました。


 彼女と出会ったのは、つい昨日です。
 わたしが丁度、悲しみに暮れていたころ。しかしそれでも諦めきれずに、懸命に地を這っていた時、ここにやって来たのです。


 彼女は泣いていました。わたしたちが主食とする花を体に纏う、不思議な格好でした。わたしはその花たちを注意深く観察してみましたが、かぐわしい香りはなく、また立体的でもありません。わたしは初め、その花にしか関心がなかったのですが、それが食事になりえないことを知ると、観察対象は彼女自身に移りました。あまりにも大きい体躯なのでよく分かりませんが、目から出る水のようなものを懸命に拭っているようです。


 そんなことをしつつ、彼女とわたしの距離は近くなり、そしてまた遠くなっていきました。彼女は気づいていなかったのか、その足はわたしにごく近い地面に降ろされました。内心ひやりとしましたが、被害は受けていないようでした。


 彼女は、わたしがその影の中を這っている大樹の幹を背にして座りました。しばらくそうしていましたが、そこでやっと、近くで無様に這うわたしを見つけたようでした。
 彼女は自身のその体を折り曲げて、わたしに顔を近づけてきました。そしてこう言いました。


「傷ついた羽はきっと元には戻らない。それなのに何故、あなたは希望を捨てないの? わたしは自分がきっと飛べるのだと思った。だから信念を貫き通すことを誓った。それでもやはり、不変の真理には逆らうことができなかった」


 ああ、彼女もやはり飛びたいのだ。わたしはそう思いました。
 私たちは幼生の時に、飛べる生き物と飛べない生き物を学んで育ちます。その中でも特に、知能の高い人間という生物について、彼らが切望してきたことについての知識は鮮明にわたしたちの中に残っていました。


 彼らは飛びたいという目に見えない本能に従って、わたしたちを捕らえ、脅かす存在であるのです。
 彼女はきっと、その本能が人一倍強いのでしょう。だからこんな矮小なわたしにこんなことを言うのでしょう。


 彼女の言うとおり、わたしは羽が傷ついています。そのために空を飛べません。あるべき姿には戻らないのです。そんなこの羽が、既にただの飾りとしてしか機能していないこと。本来、自分がすべきことが出来ないということ。それはわたし自身が一番よく分かっています。


 でも、一日経った今では、それでもいいと思っています。
 わたしがそれを事実として受け入れたのですから、他の誰が何と言おうと間違いはどこにもないのです。ですから彼女のいうことにも、きっと間違いはないのです。彼女の信じることこそが、彼女にとっての真実です。飛べるのだと思うのなら、飛べるのです。
 わたしの彼女の結論は相反しているかもしれませんが、それこそが重要なことなのだと思います。事実、あの言葉の後、彼女はその『不変の真理』と向き合いながらも、完全に誓いを破るまでには至りませんでした。弱音を翻して去っていったのです。


 ただ、思うのは、弱音を吐かずに生きていくということがそれなりに苦労することであるのだ、ということです。わたしにはそれだけの勇気と信念はありません。だからこそ、夢を見るのかもしれませんが。


 彼女との出会いはたった一度きりでしたが、その強い意思は、わたしがいなくなってもきっと続いていくのでしょう。それだけは何故かはっきりと分かります。


 こんなことを思い出したのには理由があります。
 わたしは、羽化してから数えると、既に三日生きました。
 何も食さずに這い回り、消耗しきっています。わたしは地面を少しばかり進むことができましたが、しかしと思い再びこの大樹の下に引き返してきました。やはり、死に場所には少しでも長く過ごした場所を選びたいものです。しかしその移動に力を使い果たしたのか、体は疲れきっていて動きません。
 一方で、空を飛べるわたしの同胞たちは、大抵は大樹につく葉にその姿を隠しています。残念ながら、地上からは彼らは見えません。
 広がっている葉の隙間から、僅かに夜空が見えるばかりです。


 することもないので、下からそれを見上げていると、不意に初めに見た空を思い出しました。わたしが孵化したばかりの幼生だった時、見上げた空と全く同じです。墨を流したような色の中で、ところどころ光るそれの名を教えてもらった記憶があります。


『あの光るものは、何?』


 わたしは何日か早く生まれた他の幼生に尋ねました。


『あれは、アスタリスクというんだ。俺たちは、いつかあれを目指して飛ぶ』


 遠い過去の同胞は、記憶の中でこう答えました。
 あの時、わたしたち希望で満ちていたように思います。何でもできると思っていたかもしれません。しかし、飛べないと分かった今が絶望的だ、というわけでもありません。わたしはこの先のことに希望を抱いています。


 飛べる予感がするのです。わたしは既に飛べないというのに。わたし自身の想いが、運命を変えたのでしょうか。
 疲弊していて全く動けないはずでした。しかし体は突然、ふわりと浮きました。そのまま風にのって、だんだんと上がっていきます。
 一体どうしたというのでしょう。何が起きているのでしょう。考えることすらできません。
 ああ、けれども、あれほど憧れたわたしの夢が、アスタリスクが、すぐそこに――





 その場所では、少女が一人佇んでいました。
 ひらひらと、蝶が数匹。可憐にその横を飛んでいきましたが、彼女がそれらを気に留める様子はまったくありません。その目はただ一匹を探して、そこかしこを彷徨っています。


 やがて、一点に視線が定まりました。
 傷ついた羽を持つ蝶は、ついこの間まで確かに懸命に動いていたはずでした。
 少女は、それをそっとすくいあげてみましたが、手の中で動く様子は全くありません。


 一度見たきりなのに、どうして。
 少女は思いました。
 どうして、こんなにも悲しいのだろう。
 その理由は、心の中できっと理解していました。


 少女はほろりと涙を零し、そのまましばらく泣き続けていました。


 それから後、大樹の木陰の地面に、こんもりとした小さな塚ができました。
 その側にはいつも、一輪の花があったといいます。
これを読んでくれたあなたに感謝の言葉を。

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