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異音
作:ばいばるす


 ぴちょん、ぴちょん、と音がする。
 視界の悪い暗闇の中でも男には、それが何の音が分かる。
 もう何度となく、繰り返し聞いたことのある音なのだ。
 水の音と、それよりも粘性の高い液体の滴る音。それらの僅かな違いまで、聞き分けられるようになってしまったのは、一体いつからだろう?
 もう覚えてもいないけれど。
 閉塞した空間に充満する金錆びた臭気も、男の心を騒がすことはない。もうすっかり嗅ぎなれて、男の体に染み込んでしまった臭い。
 血と、死の臭い。

 男は利き手に握り込んだ剣を、無造作に払う。
 びゅっ、という音と共に、何か柔らかいものが岩壁に当たる音がした。剣先に引っかかっていた臓物か何かが壁にあたって飛び散ったのだ。
 男はわずかに息を吐いて、薄暗い空洞の中を見渡した。そして、数える。
 一、二、三……ざっと三十体はあるか。
 難儀なことだ。
 男は思う。
 一応、数や生態の報告は仕事の内なのだから、数えておかなければならない。自分が仕留めた連中の数を。
 男は、一体、一体、死体を裏返してみては、確認していく。一応、死んでいるかどうかを確認して置かなければならない。
 後で確認がてらにやってくる調査部の連中が間違って襲われたりでもした日には、どんな言いがかりをつけられるか分からないからだ。
 難癖をつけられて報酬を減らされたりでもした日には、目もあてられない。
 調査部としては生きた検体を回収したいのは分かっているが、奴等が現場の人間に身勝手な要求ばかりするのは、いつもの事だ。
 しょせん研究所で日がな一日、化け物の死体を解剖して楽しんでいる変態どもに、現場の気持ちなど分かるはずもない。 
 小言をあんまりしつこいようなら、こう言ってやればいい。
 なんなら、あんた等がやってみるかい?ほら、剣を貸してやるよ。どうした?メスでなら化け物を切り刻めるけど、剣では駄目っていうのかい?
 そう言ってやれたら、きっと、せいせいするだろう。調査部の連中のあわてふためいている顔を脳裏に思い浮かべて、男は少しばかり溜飲を下げる。

 発見しだい始末。
 それが男がこの稼業についてから、最初に学んだ不文律だ。
 いかに個体が弱そうに見えようと、虫の息であろうと、連中を侮ってはならない。
 あなどれば、それが命とりになる。自分がどういうものを相手にしているのか、男は忘れていないつもりだった。
 それに生きた検体を連れ帰れば報酬が上がるというなら話は別だが、出来上がったばかりの組織に、今の所そんな気の利いた制度はない。
 ならば自分ひとりリスクを犯してまで、調査部の連中を喜ばせてやる義理など、どこにある?



 死体を二十五体まで数え上げた。
 最初に仕留めた大きい死体が一体ある他は、後はみんな小さなものばかりだ。
 ここは『巣』であることを考えれば、大きな一体が母体だと考えるのが自然だろう。実際、母体とおぼしき、この唯一の成体には少しばかり手を焼いた。右足の咬傷はその成体と戦ったときのものだ。
 だが残った幼生体の始末は、まったく簡単だった。
 無様な叫び声を上げ地面を這いずりまわる他には、抵抗らしい抵抗もしない。人間の赤子のほどの大きさのそれは、甲高い声を撒き散らしながら、それでも外敵の存在を感知するだけの知能があるのか、身も世もなく逃げ惑った。
 男が足で踏みつけると、動き封じられたそれは、ばたばたと四肢をばたつかせる。
 それが精一杯の抵抗であるらしく、背中から串刺しにすると、びくびくと大きくのけぞり、以降は痙攣を小さくしていって、やがてまったく動かないなる。
 ただそれだけの無力な存在だ。幼生体は。
 だから母体が強いのだろうか?無力な幼生体を捕食者や男のような者から守るために?
 いや、むしろ逆か。幼生体の頃は脆弱であるから、強い成体の庇護を必要とするのだ。
 そこで、ふと調査部の連中の考えそうな事が頭をよぎる。

 連中にも母性本能はあるのだろうか?

 もしあるならば興味深い。たとえば死んだ幼生体を宙吊りにでもしておけば、その母体をおびき寄せることは出来るだろうか?そう、先に『巣』を発見し母体が食料調達に外に出た隙に、幼生体を確保する。
 そう考えてから男は気づく。
 『巣』を発見するのは、そう簡単な事ではない。今回にしたところで、半ば以上、偶然の産物だったのだ。そうそう僥倖が何回も続くはずがない。

 『巣』が発見された事例は数えるほどしかない。
 そういう意味で、今回は男にとっても初めての経験である以上に、調査部の連中にとっても貴重なサンプルになるに違いない。
 幼生体の生態には、まだまだ未知の部分が多い。たとえ、死体でも連中は十分よろこぶはずだ。 
 実際、幼生体と成体の外見の特徴には大きな差異がある。
 黒い長毛をひきずる爬虫類のような姿をした成体――それゆえに毛ガエルとかウロコ猿とか呼ばれている――に比べて、幼生体は、どちらかといえば哺乳動物に近い。見るからに化け物然とした成体に比べて、幼生体はむしろ本物の毛長猿を思わせる。
 戦闘能力の差には雲泥の開きがあるし、サイズも違う。成体が大人の人間の二倍ほどの大きさであるのに比べて、幼生体が乳幼児ほどにも小さい。
 ウロコ猿の成体と幼生体は、まったく何から何まで違うのだ。これが成長した暁にどうやったら成体の姿になるのか、と不思議なくらいに。
 おたまじゃくしが蛙に、サナギが蝶に孵るように、変態でもするのだろうか?


 いずれにせよ、と男は一人ごちる。
 連中の『巣』を発見、排除した功績は大きい。
 これで男の名もあがる。組織を通しての依頼の数も今以上に増えることだろう。これから、きっと忙しくなる。
 だから今の仕事を調査部の奴等に受け渡して一段落ついたら、久しぶりの休暇を取ろうと男は決めた。
 街に戻ったらは、まずは何を置いても、猿どもの血ですっかりべとついてしまった服を着替え、体を清めて……そう、久しぶりに酒を思う存分あおろう。
 それが終った後は、柔らかいベッドで思う存分寝たい。殺戮に火照った体を冷ますために女を買うのもいいが、それは報酬を受け取った後でも出来る。
 血脂に傷んだ剣を鍛冶屋にもっていくのは、さらにその後になるだろう。


 ―――二十八体目。
 死骸を足で小突いて裏返そうとしたところ、対象とは全く別な方向から足首を掴まれた男は虚をつかれた。
 ほぼ反射的に、掴まれた足首を振ると、呆気ないほどに勢いよく吹っ飛び、むき出しの岩肌に叩きつけられて落ちた。
 それは、二十八体目ではなく、来るべき二十九体目だった。どうやら二十九体目はまだ生きていたらしい。
 男は低く舌打ちをする。
 とんだ手抜かりだ。仲間の死体の下にでも隠れていたのか。
 男は壁に打ち付けられて転がった二十九体目に近づいていった。
 二十九体目――もとい、ウロコ猿の幼生体は、やはりまだ生きていた。
 他の幼生体より、心なしか大きい。むろん、成体のサイズには比べるべくもないが、そこらに転がっている幼生体の死骸に比べれば一目で大きさの違いが分かる。おそらく群の中でも先に産まれた個体なのだろう。
 幼生体は震えている。
 人間の子供が恐怖した時にそうするように、胸の間に両腕を交差させ、男を仰ぎ見る。その仕草に男は違和感を覚えた。
 爬虫類よりは哺乳動物を思わせる、黄色い両目は感情を宿して潤んでいるようにさえ見えた。


 こいつは何だ? 
 男は思った。
 あのウロコ猿が、あの、食欲と闘争本能しかないはずの化け物が、いま自分の面前で脅えている? 毛むじゃくらな腕で体を抱いて、ガタガタとおこりがついたように震えている姿は、脅えているというより他、形容の仕様がない。
 こいつは、一体全体、何の冗談だ? 
 成体になった暁は、四肢をぜんぶ落とそうと、首を刎ねられようと、心の臓を刺し貫かれるまでは活動をやめない下等生物が、「恐怖」を知っているとでもいうのか?
 面白い、と男は笑う。
 幼生体は面白い。
 殺すに易い脆弱な存在であるばかりか、たかだか人間一匹と剣一振りに『恐怖』まで表現してくれるのだ。いずれは自分達を食い殺すようになる、獰猛で凶暴な化け物が、だ。
 こんなに面白いことはない。
 男は一歩一歩、近づいていく。ウロコ猿はますます体を硬くして後ずさりするが、やがて背後の壁まで後退した時点で行き止まりとなった。
 男は剣を振り上げると、ウロコ猿は胸の前に当てた両の腕を、ぎゅっと握り込む。
 こちらを上目づかいに仰ぎ見る、しょぼくれた黄色い瞳に『死にたくない』と書いてある。
 まるで人間を相手にしているかのように、その表情が読める。今までなかった事だ。
 「……な…ぃ、で」
 男が剣を振り下ろそうとしたとき静寂の空洞に落ちたのは、喉の潰れたヒキ蛙のようにかすれた、『声』だった。
 下等生物の意味不明の鳴き声ではなく、それは、れきとした『声』の響きを伴って聞こえた。

 「……ころ、さ、ない…で」
 幻聴でないことを示すように、ウロコ猿の幼成体は繰り返す。耳まで裂けた口をあぐあぐと、開閉させて。その奥から必死になって『声』を絞り出す。
 その時になって、初めて剣の柄を握った手が汗ばむのを男は自覚した。
 面白い、だけの問題ではなくなってきている。
 たどたどしくはあるものの人語を話す。これは本当に前例のないことだ。感情の萌芽らしきものが認められる……などという、いわば男の主観に基づく印象とは話のレベルが違う。
 いや、と男は思い直す。性急な結論は禁物だ。
 オウムが人語を真似るのと、一体どれだけの違いがあるのか怪しいものだ。
 ウロコ猿どもは食料となる人間を何度となく巣に持ち帰って、幼生体ども喰わせていたのではないか? 奴等が好むのは生餌なのだから、この推測は妥当だろう。
 だとしたら、いまわの際の犠牲者達の言葉を、ウロコ猿の幼生体どもが覚えて繰り返しているだけなのかもしれない。
 オウムのように真似しているだけで、発している言葉の意味が分かっているという保障はどこにもない。
 「わ、たし……し、しに、たくない」
 男が考えている間に、ウロコ猿は重ねて言った。
 「しに、たたくない」
 目から涙……いや、眼球から分泌液が流れ出している。
それがただの生理現象ではなく、感情の発露だと誰が言い切れる?なにせ相手は本能でしか動けない下等生物なのだから。
 先ほどまでは、下等生物の『恐怖』の表情に愉悦を覚えていた男も、除々に余裕を無くしていく。
 だが次の言葉を発した時点で、男は下等生物の感情を、分泌液を『涙』だと認めていたのかもしれない。
 「お前は、一体なんなんだ?」
 男は呻くように聞いた。なぜだか、そうする事に敗北感を感じた。
 ウロコ猿に質問を投げかける自分の姿など、つい今しがたまで、男は想像もしていなかったのだ。
 「あなた、ころした。たくさん、ころした。わたしの……みんな、殺した。みんな、わたし、あなた、こわい。ころさないで」
 なんだ、これは。このウロコ猿は特別なのか?
 突然変異? 亜種? いや、幼生体は、おしなべて人語を解すのか?
 なら、いままで、斬り殺した分は? 知能を示す機会がなかっただけか?
 ありとあらゆる疑問が脳裏を満たし、氾濫し、男の口を開かせる。
 「お前は、どうして人の言葉を―――」聞きかけて、男はかぶりを振る。「いや、いい。そんなことは調査部の連中の仕事だ」
 自分の仕事はウロコ猿の始末とその経過報告の提出であって、その生態の研究ではない。
 少なくとも、このウロコ猿の死体を調査部の連中に報告書つきで突き出せば、人語を発することが出来る喉の構造かどうかは分かるだろう。
 身体的構造の点で発声が可能であれば、別に魔法を使ったわけでなし、恐るるに足りない。
 自分はただ自分の見聞きした事を、報告書に書けばよいだけだ。
 そして、この次、猿どもがいきなり人語を話し始めたとしても、惑わされないようになれば良いだけの話だ。
 考えるな。疑問に思うな。
 仕事の最中に、他の事に心を奪われれる事は自分の寿命を縮めることだ。
 男は剣の柄を握りなおす。視線を排除すべき対象に再び向ける。
 ウロコ猿の黄色い瞳は先刻よりもおおきく見開かれ、泣きぬれた頬は、闇の中にあって白く 浮かびあっているようにさえ見えた。
 馬鹿な。連中の体毛は薄汚い鼠色だ。このウロコ猿の幼生体が、他の個体よりも、色素が薄いだけの話だ。
 「どうして、あなた、わたしたち、ころすの?」
 さっきよりも発音が上手くなっている。それに滑らかになってきている。言葉の使い方が洗練されてきている?
 進化? 急速に適応しているのか? 知能がある? 言葉を、言語の概念をこうも素早く習得できるものなのか? 
 「どうしてころすの?チョウサ、ブノレンチュウのしごと、だから?」
 人間の幼児なみの知能は備わっているのか?
 「違う」
 と答えている自分を男は発見していた。
 「お前達が、人を襲い、人を喰うからだ。だから、私達はお前を始末する」
 何を答えているんだ?と男は自分で自分を叱咤する。何をまともに取り合っているんだ。相手はウロコ猿だぞ。
 「でも、わたしたち、たべないと生きていけない。人、たべる。いきていく。たべないと、おなかすいて、しぬ。みんな、いきていく、けんりある。わたしたち、生きてくけんり、ある。あなたとおなじ」
 「生きていく権利?」
 ウロコ猿の権利!?
 傑作だ。腹の底から笑いがこみ上げてくる。
 男は吹き出す。またもや相手に応じている自分を忘れて。
 「……いいだろう。生ある物は神の御許にみな平等っていうしな。どんな生き物にも生を真っ当する権利はあるんだろうさ。そして、その生の権利とやらがしのぎをけずってるのが、俺達の世界だ。喰うか喰われるか。しょせん、この世は弱肉強食。強い方が喰い、弱い方が喰われる。今回は俺の方が強かったって事さ」
 認めなければいけない。この幼生体に知能らしきものがあることを。
 ふと思い出す。調査部の連中が聞かれもしないのに、並べ立てる薀蓄の一つに、変な生態の虫の話があった。
 その昆虫は、幼生体の内は、脳を持っている。非力な幼生体の内は外敵も多く、生存競争に勝ち残るためには、知能を持っていることは有利に働くからだ。
 だが、成体に変じ強力な捕食者となった後は、もはやエネルギーを大量に消費する脳は不要の産物に成り下がり、エネルギー効率をよくするために、脳は急速に退化、収縮、エネルギー源として本体に吸収される。
 つまり、成体になった暁は自らの脳をすら貪欲に喰ってしまう虫。
 ウロコ猿もそうであったとしたら? 非力な幼生体の頃は、それなりの知能が備わっているだとしたら? 愚にもつかぬ思いつきが男の頭をかすめた。
 「お前達は弱かった。だから死ぬ。それだけの話だ」
 「でも、あなたはわたしたち、たべない」
 「当たり前だ。お前達と一緒にするな」
 「たべないのに、なぜ、ころす?」
 男は一瞬、言葉に詰まった。 
 ウロコ猿は人間を食料として殺す。ならば、なぜ人間はウロコ猿を食べもしないのに狩るのか?
 「ほうっておけば、いずれお前達は、人間に仇をなすからだ。喰うからだ」
 喰う?……違う。喰ったからだ。
 違う。何だ? 何で俺はこんな事を思う。
 なんだ。この感覚。奇妙な概視感が男を襲う。
 「いずれ? さきの話。ずっとさきの、たしかじゃない話」
 この声。ざらついた、ひき蛙のような声になぜ俺は懐かしいなどと感じる。
 音が聞こえる。かすかな雑音のような。ざわざわと音が体の底から這い上がってくる。
 「それで、おかさんやみんな、殺したの?」
 「お母さん? みんな?」
 男は引きつった笑いを浮かべて、剣を振って空洞内を指し示した。
 「みんなというのは、ここに転がっている、醜い猿どもの話か? そうか、そうだな。こいつらはお前の母親やきょうだい達だったな。どうだ。身内を殺された心境は?」
 かすかに聞こえる耳鳴りのような音が男の神経を苛立たせる。剣を放り出して耳を押さえたい衝動。
 「……いたい。ここが」
 そういって白く伸びた五本指をウロコ猿は、ぎゅっと胸にあてる。
 「いたい。とても」
 癇に障る。子供のような話し方。声まで……人間の子供のようになってきている。
 薄暗い闇の中で、浮かび上がる相手の体は、心なしか大きくなっているような気さえする。その体毛も頭部を除いてだんだん薄くなってきている。いや、抜け落ちているのだろうか?
 「俺が憎いか?」
 「にくいってなに?」
 「相手を殺したいと思うことだ」
 「私があなたをころしたい? わからない。でも、生きたいとおもう」
 「……人を食い殺してもか?」
 音が聞こえる。ぴちょん、ぴちょんと血の滴る音に混じって、別の種類の音。誰かがこの洞窟にやってきたのか?
 ひょっとして新手? 化け物の生き残りがいたのか? 
 いや、これは違う。これは、今ここにある音ではない。
 この音は、昔聞いたものだ。昔……
 「あなただって、いろんなもの、食べる。しょくぶつとか、どうぶつとか。いろんなもの、殺しても、食べても、生きたいとおもう」
 「違う。お前達と俺達は違う。お前達は、ただ食欲のままに行動する下等生物だ。後先考えず、ただ、本能のままにしか行動できない。哀れな生命体だ」
 「でも、痛みある。心ある。なかま死ぬ。かなしい。痛い。ここが、くるしい」
 違う。そんな事あるはずがない。お前達は下等生物だ。
 「お前はただ人間に擬態しているだけだ。そうする事で俺の心を惑わそうとしているだけだ。人間を擬態することで助かろうとしているだけだっ」
 音が聞こえてくる。記憶が這い上がってくる。音が響いてくる。体の底から。耳の奥から。
 −−ごりごり。ぴちゃぴちゃ。
 血の臭気と、ちぎれて飛んだ小さな手足。ごりごり。
 「あなた、私が憎い? だから、殺す?」
 「うるさいっ」
 ぴちゃぴちゃ。
 もはや原型をとどめていない体に顔を埋め、牙を突きたて、肉を引き裂く、黄色い目をした化け物。
 あのとき俺はただ見ていた。彼女が食われていくのを、為す術もなく。俺は小さく、俺は無力で、俺は臆病だった。
 だから−ーー
 「俺の……俺の妹はな、お前達に食い殺されたんだよ。俺の見ている目の前で、だ……あの日以来、俺の頭の中から離れないんだ」
 俺は守れなかった。守れずに死なせた。いや、喰わせた。奴等に。
 見ていただけだった。俺が奴等に喰わせたのと同じだ。
 だから今、生きている。
 ごりごり、ぴちゃぴちゃ。
 だから、この音が聞こえる。
 「音がずっと離れないんだよっ」
 ごり、
 「お前達が、俺の妹を喰った音だよ!」
 一気に叫び終わって相手を見ると、相手の黄色い瞳に怒りの色はなく、むしろ哀れむような色さえ浮かんでいた。
 妹を喰い、俺を生かした黄色い瞳。
 永遠ともいえる時間をかけて、奴は俺の妹を喰った。やがて食い終わり、妹の体からゆっくりと顔をあげたウロコ猿。飽食のあとの、怖気だつほど緩慢な動作。
 妹の一部だった臓物を口元にぶらさげて、奴は鈍重そうな視線をさまよわせ、そうする内に俺を見つけた。
 「俺を哀れむな! その黄色い目で俺を哀れむなっ、下等生物のくせに!」
 「かとう……私たち、かとうか?」
 「でなければ、なぜ俺を生かした? なぜ俺を殺してくれなかった?あの時っ!」
 「あの、とき?」
 そう、奴等は下等生物だ。そうでなければ、どうして、あのとき俺も一緒に喰ってくれなかったのか?
 奴等は……奴等は、妹を喰った後、為す術もなく震えている俺を一瞥しただけで、何もせずに去っていった。なぜか? 腹がいっぱいだったからだ。 信じられるか? 腹がいっぱいだったからなんだ。
 「お前等は、お前等はどうしようもなく、愚鈍で、知能なんか欠片もない―――っつ」
 だから殺す。だから剣を振るう。その背中めがけて剣を突き立て、引き抜いては何度でも何度でも振り下ろす。
 剣先で臓物をひきずりだし、死体を壁に叩きつけ、長靴で踏みつけ、踏みにじり、原型をとどめなくなるまで、何度でも何度でも何度でも−ーー
 「……ふ、くしゅう? 殺されたから殺す?」
 「違う」
 殺されたから殺すんじゃない。生かされたから殺すんだ。
 「……でも、あなた、私のお母さん、殺した。たくさんの兄弟もみんな殺した。いままでも、たくさん殺してきた。それでも、まだ、復讐、足りないの?」
 「ああ、足りないね。全然足りない」
 足りないんだ。だって、どれだけ殺してもこの音はおさまらないんだ。
 ごりごり。ぴちゃぴちゃ。
 剣の柄をちぎれんばかりに握り締める。
 この音を断ち切る方法はなくとも、一時的に収める方法ならあると男は経験的に知っていた。音が聞こえるたびに、そうしてきた。そうせずにはいられなかった。
 だから男はこの稼業にあり、今ここにいる。
 男は剣を振り上げる。静寂を自分の手に、耳に取り戻すために。
 「私にも聞こえる。あなたの音。あなたが昔きいた音。いま、あなたが自分で作り出している音。たくさんたくさん、作り出している音。かわいそう。それはもう、あなたをとらえて離さない。だって、今度は、あなた自身が食べているんですもの」
 ごりごり、ぴちゃぴちゃ。
 「違う。食べてなんかいない」
 「いいえ」
 「違う、俺はお前達じゃない」
 「いいえ」
 「違うっ」
 「いいえ、食べてるわ。命を」
 「違う!」
 振り上げた刀を振り下ろす。その小さな頭部めがけて。
 その頭蓋骨をかちわるために。その脳漿をぶちまけるために。その口を止めるために。その音を消すために−ーー振りおろす、正にその瞬間だった。
 「やめてっ!お兄ちゃん」
 と小さな悲鳴が上がって、男は剣を止めた。刃の下から自分を見上げてくるものを、男は目を見開いて見返し、知らず後退りした。
 懐かしいその声は、決してウロコ猿のものではありえなかった。懐かしい、その声は。
 「殺さないでっ、食べないで、助けて、お兄ちゃんっ、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん−ーー」

 カラン、カランと掌から抜け落ちた剣が地面に落ちて転がった。
 そこにあったのは、そこにいたのは、ウロコ猿などではない。
 胸に手を当てて、こちらを仰ぎ見る大きな瞳。白い肌。黒い髪。脅えるように震える、いたいけな肩。ぷっくりと柔らかな頬の輪郭。わずかに鼻の上に浮かんだそばかすさえ。
 「お兄ちゃん、助けて」
 片時たりとも忘れたことはない。耳に焼き付いて離れなかった。
 その声は、確かに―――
 「サーシャ」
 「お兄ちゃん」
 今度こそ手を伸ばす。抱きしめるために。守るために。今度こそ守るために。
 そして――
 「どうして私を助けてくれなかったの?」
 ドス、という異音が男を差し貫いた。
 ゆっくりと視線を自分が抱きしめたものに向ける。そこにいるのはサーシャであるはずだった。
 はずだったのに……なぜ、その瞳は黄色いんだ? 黄色はウロコ猿の色だ。
 サーシャの色じゃない。
 胸に視線を落とすと、鋭利な爪のようなものが鎧の胸板に埋まっていた。男の胸壁を貫いて、背中から出るその爪のようなもの。それが男を刺し貫いた。
 「ど、して? サ、シャ?」
 黄色い瞳のサーシャは微笑んだ。
 「かわいそうな、お兄ちゃん。震えて何も出来なかった可哀想なお兄ちゃん。弱くて臆病なお兄ちゃん。弱いから、弱い自分が許せないから、私たちを狩るのね?」
 「サーシャ、許して、くれ」
 「ええ。許してあげる。お兄ちゃんは私に、人の姿形と感情、思考の雛形を与えてくれたから」
 「……お、れが?」
 唇と声帯が震えて、思うように声が出なかった。地面みると自分が蹲った場所から血が同心円上に広がっていく。
 「そう、形態変化の時期にお兄ちゃんがいたのは私にとって幸運だった。変態を迎えた不安定な体に、生命の危機、幼生体の適応能力、あなたの内に潜む強い記憶が、私にこの姿を与えたのよ」
 「サーシャじゃ、ないのか?」
 男の目からぼろぼろと涙が溢れ出す。
 黄色い瞳の少女は男の頬をそっと両手で覆い、その額に口づけた。
 「いいえ。私は確かにサーシャよ。あなたの記憶が作ったサーシャ」
 「よ、かった」
 何が良かったのかもう男には分からなかった。
 遠ざかっていく音、明度を落としていく視界の中で、黄色い瞳のサーシャが微笑んでいる。
 黄色い瞳とサーシャ。その組み合わせはとても美しいものであるように、今の男には思えた。
 「悲しむことはないわ。お兄ちゃんは、これから、ずっと私と共に生きるの」
 −ーああ。そうしよう。
 その思考を最後に男の意識は途切れた。



 ごりごり。ぴちゃぴちゃ。
 男がその音に脅えることは、もうない。

















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