透明人間現る
僕がその壺に出会ったきっかけは、叔父の失踪だった。
叔父は、ある日突然に失踪した。
隣町で暮らしていた叔父は、父とは一回り以上に年の離れた兄弟だった。
父は随分と早くに結婚したから、叔父と僕の方が年が近いくらいだった。
そのせいか、叔父は僕に甘かった。僕も叔父というよりも、年の離れた兄のように懐いていた。
時々は、兄貴ぶられてうっとうしいなんて思いながらも、それなりに仲の良い関係だったと思う。
僕が高校生になってしばらくした頃に、叔父と連絡が取れなくなった。一カ月以上も連絡がつかないので心配して叔父の家に行くと、叔父の家はさっきまで人がいたようなまま、叔父だけが急に消えたようにいなかった。
一人暮らしだった叔父。
ついさっき布団から出たばかりのまま、枕元にはコーヒーも飲みかけのまま。靴も玄関に転がったまま。
叔父だけがいない部屋がそこにあった。
ただ一つ、奇妙な壺が机の上に置いてあった。
20センチくらいの高さの、錆びたような色をした壺だった。
壺の横には汚れた布。
少しだけ、その壺は布で磨かれたようだった。
「叔父さん、どこに行っちゃったんだろう」
僕の呟きが、叔父の部屋に虚しく響いた。
何となく、だった。
布を手にして、壺を拭いてみた。
きっと叔父も壺を拭いていたんじゃないかと思ったから。
途端。
壺からモクモクと煙が立ち込めた。
ゴホッゴホッ。
僕が咳き込んでいると、高い声がした。
「あなたの願いを一つだけ叶えてあげます」
幼い可愛らしい声。
「え!?だ、誰?」
いつの間にか煙は消え、机の上の壺に腰掛ける小さな、そう、まるで妖精のような生き物がいた。
銀色の髪をして、白いワンピースを着た10センチくらいの美しい少女。
背中には一対の透明の羽根がパタパタとはためいて、真っ青な瞳が僕を見つめている。
「壺を磨いた人間の願いを、一つだけ叶えるのがルールなの。
さあ、あなたの願いを言って」
小さな少女が、コクリと首を傾けて言った。
まるで鈴が鳴るような、透明な声だった。
「も、もしかして叔父さんも願いを何か願ったの?」
「あなたは前回の人間の血縁なのね。
その人間なら、よくある願いを言ったから叶えたよ」
「な、何を願ったの?」
「透明人間になりたい、だったよ」
僕は思わず脱力した。
それは叔父がいつも口にしていた願いだったからだ。『透明人間になってのぞきがしたい』なんてことばかり言う叔父だった。
何というか、叔父らしい。
まあ僕だって叔父の気持ちがわからないわけじゃあない。
透明人間になれば試験ものぞき放題で、女湯だって堂々と見に行くことができる。飛行機に乗り込んで世界中を旅することもできるだろう。
透明人間になったのなら、今ごろきっとどこかの女湯にいるか、海外旅行をしているのかもしれない。
少女がニッコリと笑って言った。
「あなたも透明人間になりたいの?」
僕はその言葉に頷きかけて、ふと質問した。
「願いを叶える代償ってあるの?」
「ううん、そんなものいらないよ。
壺を磨いたら、願いが一つ叶うだけ」
壺に腰掛け、脚を揺らしながら少女が言う。
代償がいらないなら…………。
あれ?でも……。
「よくある願いって、今までも何人も透明人間になったの?」
「うん、その願いは人気あるよ」
少女の肩が、まるで笑いをこらえているかのように震えた。
僕は、ふと面白いことを思いついた。
「ねえ、僕だけ透明人間が見えるようになるってできるの?」
「もちろん、できるよ。
でも、たった一つの願いがそんなことでいいの?」
透明人間になった人たちを、僕だけがこっそりのぞくことが出来る。
それは、とても面白そうだ。
叔父のマヌケな姿も見られるかもしれない。
いつも兄貴ぶってくる叔父のそんな姿が見られるなら。
「うん、透明人間を見えるようにして」
僕のその言葉と同時に、また壺からモクモクと煙が立ち込めた。
そして、煙が引いた後には、壺は机の上から消えていた。
ついさっきのことが、まるで夢だったかのように思える。
いや、本当に夢だったのかもしれない。
第一、妖精なんているわけがない。
白昼夢を見たんだろうか。
そう思って、僕は立ち上がって叔父の部屋を見回して、絶句した。
くしゃくしゃになった布団の上に、何かいる。
黒く、干からびて、薄い透明な何か。
「え……あ、あれ?」
よく見ると、それは干からびた人間のようだった。
慌ててスマホを取り出して警察を呼ぶ。
「あ、あのっ、し、死体が…………」
サイレンを鳴らしてやってきた警察官に、僕は酷く叱られた。
──何もないのに、イタズラで警察を呼ぶんじゃないって。
布団をひっくり返す警察官の手は、黒く干からびた人間にぶつかることがなかった。
干からびた人間は、僕以外に見えなかった。
街の中で僕は時々、干からびた人間を見かける。
干からびていないけれど、薄透明でフラフラとしている人影も見かける。
それらは、必死になって水を飲もうとして、水は透明人間をすり抜けてる。
ファミレスで、誰かが注文したハンバーグに必死になって齧り付こうとして、机ごとすり抜ける。
見えるだけの僕には、何もできない。
何度も助けようとして、でも僕の手は透明人間をすり抜けていく。
あの妖精のような少女が現れた壺は、何だったんだろう。
もし、もう一度あの壺を見かけたら、僕はためらわずに願うだろう。
──透明人間を見えなくしてください。