季節は秋に変わった。いや、もう後数ヶ月も経たない内に季節は冬の訪れを告げるだろう。そんな中、私の気分は最悪だった。まるで永久凍土の様だ。うまく言えないけれど、今の気持ちを形で伝えるには、そんな表現が十分似合っていると思う。
「私なんかが、こんなにも眩しい世界でぬくぬくと生きていても良いと言うのかしら? 笑っちゃうわ」
目にした光景が眩しくて、思わず自分を自虐的な部分に位置付けてしまった。それは小学校からの帰り道、丁度正門を抜け出した時の事だった。
私の性格上、何か良くない出来事に遭遇してしまった時には、決して良いとは言えない事をついつい口にしてしまうって、自分でも自覚しているわ。だからって、決していつもそんな事を呟いているって訳じゃ無いわよ? ただ今日は気分が良くないのよ。何かあったとしても、最近はうまく消化出来ていたつもりだったのに。
どうしてかしら? 駄目ね、私……。
今、私の目の前には一緒に帰宅の途に着いている自称・少年探偵団の同級生三人組が、そして彼らと同じく、隣りには少しばかり私と“似た境遇”の少年――彼も自らを探偵だと自称している――が肩を並べて歩いている。いつもこの五人で行動しているの。
三人組の方は何やら賑やかに、楽しそうにわいわい話をしながら歩いている。隣りの彼はそんな光景を見、呆れつつも笑っていた。その光景を見ながら、私はまた自虐的な事をそっと口にしてしまう。勿論誰にも聞こえない様に小さな声で。気持ちを悟られまいとしているつもりだった。
……あら?
私の顔に何か付いているとでも言うのかしら。いつの間にか皆が私の顔を覗き込んでいた。
「何なのよ江戸川君」
「何暗い顔してんだよ。もしかして何かあったのか?」
「……いいえ、別に何も」
暗い顔なんかしているつもりでは無かったんだけれど、隣りにいた江戸川君こと工藤君が心配そうに私に聞いてきた。きっと親切心からなんでしょうね。それなのに私は素っ気ない返事をしてしまった。そのせいで工藤君がムッとした表情を浮かべたのが分かったわ。それにつられてだと思うけど、他の三人も口々に声を掛けてきた。
「哀ちゃん? 何かあったんなら、良かったら歩美達に話してくれないかなぁ」
「灰原さん、元気がありませんね。一体どうしたって言うんですか?」
「どうしたんだよぉ灰原? まさか給食ん時に、メシ、食い足りなかったのか?」
彼らが私の事を心から心配してくれているのは、痛い程伝わってくる。嬉しくもあるけど、今の私は、そんな気休めなんか聞きたくないと思ってしまう。
「もぉ元太君ったら! 哀ちゃんがそんな理由で怒るわけないよ。……ね、哀ちゃん?」
「……」
「哀、ちゃん?」
「うるさいわね! 私の事なんか放っといてよ!」
「灰原? オメー急に何言ってん――おい灰原ぁっ!」
「は、灰原さーんっ!」
つい怒鳴ってしまった。皆、驚いた顔をしているわ。
けれどどうしたらいいのか分からなくて、驚いた彼らが呼び止めているのも聞かずに、今までに無い位全速力でその場から走り去ってしまった。
闇が光から逃れる様に、追いつかれまいと走った。
走った。
……とにかく走った。
走り過ぎて、今自分がどこに居るのかさえ分からなくなった。それでも人間という生き物は不思議なモノで、私はいつの間にか、私が住んでいる家の前に辿り着いていた。
急いで門を開け、閉じたと同時に玄関に向かっていく。家の中に入るとすぐに玄関の鍵を全部閉めた。
――どうか誰も、私に近寄らないで……声を掛けないで……私、なんかに……関わらないで……
肩で息をしながら心の中で呪文の様にそう唱えた私は、誰からの連絡も受け取りたくなくて、手にした携帯電話の電源を切った。
この家の主で私を住まわせてくれている阿笠博士が朝、用事があるとかで夜遅くまで帰ってこれないと言っていた。それを思い出した私は家中の電話線を抜いた。だって携帯に繋がらなかったら、家の電話に掛かってくるじゃない? 一応インターホンの電源も切っておこうかしら。勿論、博士が帰ってくる頃迄には元に戻すつもりだけどね。
そして私は身体をふらつかせながら、いつも入り浸っている家の地下室に向かっていった。
今日の私がこんなにも暗い気持ちでいるのには、実は理由がある。
今朝の事だったかしら。まだ日が差していない頃、私のベッドの隣りで寝ていた博士のいびきで起こされて、ベッドから起き上がった。私は夜型人間だし、色々と作業した後で夜中の二時頃に寝たんだったわ。そこから約三時間後、つまり早朝五時に目覚めたの。まだ眠かったしもう一時間は寝ようかと思ったけど、博士のいびきはうるさいしせっかく起きてしまったからそのまま起きておく事にしたのよ。
いつもの様に顔を洗い、いつもの様に歯を磨き、郵便受けから新聞を取りに向かい、ゴミ出しの確認をし、朝食の仕度をして……なんて色々とやっていたらいつの間にか朝の七時を迎えていた。いびきを掻いていた博士もいつの間にか起きてきていて、ばっちり身支度を整え終わった後だった様だから「博士、ご飯の準備終わったわよ」と声を掛けてあげた。そしてテレビをつけ、チャンネルをニュース番組に合わせる。
「のぉ哀君、ワシのベーコンの量が哀君のよりも、ちと少ない気がするんじゃが」
「黙って食べなさいよ」
「……はい……いただきます……」
博士の健康を考えた結果、出来るだけ肉は控える様にしているだけなのに、彼はがっかりした顔つきで渋々食べ始めた。そんな彼を見て私はハァ、とため息を吐きながら朝食を食べ始めた。
二十分程経ってニュース番組が『今日の占いのコーナー』を放送していたのを観ていた頃、博士の携帯が鳴った。数分間電話相手と言葉を交わした後、申し訳無さそうに私にこう告げた。
「実はのぉ、急に用事が出来てしまったんじゃよ。今日は夜遅く迄帰れそうに無さそうじゃ」
「そう、分かったわ」
一体どんな用事なのかは知らないけど、彼の言葉を了承し、ふと何気無くテレビの方に目を向けた。
『速報です。たった今速報が入ってきました。本日午前二時頃、五歳年上の姉を刺殺したとして、被害者の妹で容疑者の――』
「え……?」
私は思わず椅子から立ち上がった。目を大きく見開き、たった今報道されたばかりのニュース速報を食い入る様に見つめた。
“被害者は姉で、容疑者はその妹”
その言葉を、その関係を、その真実を聞いて、何故かある人物の事を思い出した。
「お姉ちゃん……」
そう、思い出したのは――私の姉・宮野明美。科学者だった私を組織から抜けさせる為に悪に手を染める破目になったのに、組織に裏切られ、殺されてしまった。私なんかの為に、お姉ちゃんは亡くなってしまったのよ。
十八歳の私・宮野志保は、唯一の肉親だったお姉ちゃんを理不尽な理由で組織に殺された事で怒りを覚えたわ。私は毒薬とでも言うべきある薬を開発中だったのだけれど、そんな組織に抗議する為に、薬の開発を中断したのよ。
すると奴らは、私が組織に逆らったからと、私をある一室に閉じ込めたの。直感で自身の命の危機を察知した私は、奴らに殺されるくらいなら自ら姉の所へ行こうと、ポケットに忍ばせておいた開発中だった毒薬を飲み込んで自殺を図ろうとしたの。そしたら毒薬の筈が、薬の副作用で急激に体が縮み始め、気付いた時には子供の姿に変わっていた。
ビックリしたわ。まさか自分がそうなるとは思っていなかったから。
そしてそこから、必死に逃げ出したわ。“似た境遇”に陥っているかも知れない『彼』なら分かってくれるかも、なんて淡い期待を抱きながら。『彼』の所を目掛けて走ったの。
ようやく『彼』の家の前に辿り着いた所で力尽きてしまったんだけれど、倒れていた私を招き入れてくれたのが阿笠博士だったのよ。
それから私は、博士の提案で『灰原哀』と名乗り始めたの。
実を言うと、今話していた『彼』というのは、さっき私が『江戸川君』と呼んでいた彼――江戸川コナン君なの。彼の正体は高校生探偵の工藤新一なんだけれど、組織の人間の取引現場を目撃してしまった彼は、それがばれて口封じの為に私が作った毒薬を飲まされ、私と同じく体が縮んでしまったのよ。
私が作った薬のせいで、工藤君の人生を滅茶苦茶にしてしまった。何としてでも解毒剤を作ろうと、必死に研究しまくっている。毎日毎晩寝ず、とにかく必死になって。まるで亡霊に取り憑かれているかの様に。でも、そんな私に工藤君は優しく声を掛けてくれる。「大丈夫か? 無理すんなよ」って。「自分のせいにすんじゃねーぞ」とも言ってくれる。嬉しかったわ、そういう言葉とは無縁だと思っていたから。
工藤君の様に優しい仲間に囲まれて、氷の様に硬く閉ざされた心は溶けていった――筈だった。溶かされるんじゃなくて、逆に余計に凍てつく方に向かってしまった。だって、あんなニュースを知ってしまったから。
被害者の姉の方は、私のお姉ちゃんと同じ年頃だった。そして容疑者の妹の方は、私と変わらない、二十歳の女性だった。殺害の動機は調査中らしいけど。彼女達の年代が、私や姉と変わらないのはショックだった事は勿論、どうしても彼女達に自分達姉妹の姿を重ねてしまう。
私はお姉ちゃんの事が大好きよ。昔も、今も、そしてきっと未来も。
彼女達に何があったかは知らない。そんな悲しい事をするはありえないとも思う。
でも、私がこれまでにしてきた事は容疑者の子と変わらない事をして――いや、それ以上に酷い事だったと思う。お姉ちゃんが殺されたのだって、私という存在のせいなんじゃない? それはまるで――。
「私がお姉ちゃんを殺してしまったのと……何ら変わらないじゃない……」
私がもっとしっかりしていたら、お姉ちゃんはいなくなったりしなかったかも知れないもの。私が切っ掛けで死んでしまったのだから……私が、この手で、殺してしまったのと変わらない。
「哀君、大丈夫かのぉ」
さっきからテレビの前で一歩も動じずに立ち尽くしていた私の姿を見て、博士は心から心配してくれていた。私が何を考えていたかなんて知る由が無かったからか、彼はおろおろしていたけど。
私に気を掛けながらも、急いで行かなくてはいけないからと博士は先に家を出発していった。
“心ここにあらず”な感じで私が暗かったのは、そういう事よ。改めて思い知ってしまったから。私のせいでお姉ちゃんが亡くなった、と。私が殺してしまったのと何ら変わらない、と。
家に帰ってきて、再び今朝の事を思い出していたらいつの間にか夜になっていた。博士はまだ帰ってきていないけど、抜いてしまった電話線とインターホンの電源を元に戻してから、いつも以上に疲れた気分だったし、私はいつもより早く寝床に就いた。
寝床に入ってから、何時間経った頃だっただろうか。寝ていたはずの私は、目を覚ますと真っ暗闇の空間に立ち尽くしていた。
「ここは一体……」
前も後ろも、右も左も、上も下も分からない。もしかして……死んでしまったのかしら、私。
フッ、上等じゃない。本当ならあの薬を飲んだ地点で死ぬ筈だったんだ。たった一人の肉親を亡くしてしまったんだし、一人ぼっちになってしまったから生きていたって仕方ないもの。私のせいで死んでしまった人が沢山いるだろうし。
このままここで過ごしていけばいいのかしら。
でも……でも。何で? 何故なの? 急に、恐怖の様な何かに襲われる様な感覚が私に纏わり憑こうとしてくる。私、死ぬのが怖いのかしら? ついさっきまで死ぬなんて上等だと思っていたくせに。
怖い、怖い、怖い、怖い――!
「いやぁぁぁぁーっ! 誰か助けてぇぇぇぇっ!」
大声で叫びながら、無我夢中になりながら、錯乱状態になりながら、私は暗闇を縦横無尽に走り出した。
出口はどこ? どこ? どこ? どこ? どこにあるの?
……やっぱり私、死にたくない! 今死んでしまったら、死んでしまったら、誰が工藤君を元の姿に戻すの? 誰が罪を償うっていうの? 死ぬだなんて無責任な事、今は駄目なのよ!
前に工藤君に言われたのに、「運命から逃げるな」って。
吉田さんの「わたし、逃げたくない」って言葉を聞いた時には、私が背負っているもの全てと真正面から立ち向かおうと決心したのに。
それなのに、それなのに……!
とにかく夢中で走り続けていたら、いつの間にか目の前に光が見えてきた。あの光こそが、この暗闇から抜け出す為の出口なんだと直感が語りかけてくる。早くあそこに向かわなくては、元の世界に戻れない気がした。
一直線に光に向かった。ただひたすら走った。思いっ切り一生懸命走り続けた。そして、その光に手を伸ばした――。
――駄目よ、志保。死のうだなんて、どうか二度と……二度と考えないで……あなたが“こっち”に来るには早すぎる……
「お姉、ちゃん……?」
――あなた、には心配して、くれる仲間が居るじゃない……だか、ら……心配なんかしないで、生きていても良いんだから……生きて、生きて、生きるのよ……志保、な、ら……大丈……夫、だ……から……
目の前が急に眩しくなった気がして、目を覚ました。朝だ。朝になっている。私、朝を迎えたのね。いつものベッドで寝ている……あ、枕元が濡れてる。大量に汗を掻いたからだとは思うけど、もしかして私、泣いていた?
悪夢を見ていた気がする。でもお姉ちゃんが、私を闇から救い出してくれたんだと思う。だって聞こえてきたあの声は、小さい頃から沢山耳にしてきたお姉ちゃんの声だったんだもの。
「あ、哀君? 大丈夫かの?」
「……はか、せ?」
いつの間にか帰ってきていた博士が、寝ていた私の顔を覗き込んでいた。昨日に引き続き、心配そうな表情で。
「え……っと、私は」
「な、なぁに! ワシが居れば大丈夫じゃ! ワッハッハ」
「……昨日の事、ごめんなさいって謝ろうかと思っていたんだけど随分と調子に乗り過ぎじゃない?」
つい博士の事をじろっと見てしまった。そしたら博士は……ホラ、やっぱり。たじろぎ出したわ。
「! そ、そ、そんな事は無いんじゃよ! えっとそれじゃ、今朝の朝食は哀君の代わりにワシが作るとするかの」
「駄目よ。博士が作ったら、いつの日か皆でキャンプに行った時の炊事の時みたいに、上手くさばけないで終わるんだから」
ふう、とため息を吐いた私だけど、昨日の様な曇った表情じゃなく、多分晴れやかな表情を浮かべていたと思う。目の前にいる博士は不思議そうな表情を浮かべていたけれど、「哀君が大丈夫ならそれで良いんじゃ」と言ってくれた。そして、二人してどちらからともなく、思わず声を挙げながら笑い出した。
今日の朝食は、上手くさばけなくても博士に手伝ってもらおう。勿論笑い合いながら。
……何故かしら。今日だけは、ちょっぴり肉をオマケしてあげたくなったわ。
少ししたら、きっと、昨日の私を心配して、江戸川君と探偵団の皆が家にやって来る気がした。玄関のチャイムを鳴らして。私の名前を呼びながら。
そしたら、彼らにちゃんと謝ろう。私はもう大丈夫だからって。心配掛けてごめんなさいって。
どうか二度と、心配しないで――そう伝えたい。
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