遠野物語「契約」
前作「石苔」と同様に、遠野物語からのインスパイアです。
ダークスーツの男が名刺を差し出した。
「咲神と申します」
「あれは、本当なんでしょうね?」
挨拶もそこそこに、佐々木はテーブルから身を乗り出した。
「もちろんです。必ず、幸福を呼び寄せることができます。当社のサイトでお読みいただいたと思いますが、再度、説明いたしましょうか」
咲神は書類を広げた。細かい文字がびっしりと記載されていた。
「いや、もう十分に読みましたよ。おかげで、目が痛くてたまらない」
佐々木は目薬を差し、目の間を揉みしだいた。
「わかりました。では、確認いたしますが、メールフォームから送信いただいたプランで間違いないでしょうか」
佐々木は頷き、提示された契約書にサインした。
「座敷童子プランA、三年契約ですね。振り込みの完了ができ次第、派遣いたします」
「今日にも振り込んでおくよ」
咲神は丁寧に頭を下げた。
「あなた!」
「どうした?」
自宅に帰ったところで、妻が廊下をすっ飛んできた。
「落ち着いて、聞いて」
「お前こそ、落ち着け」
鼻水が出ている妻にティッシュを押しつけた。
「お、落ち着いているわよ」
涎も垂れていた。結婚したての頃は、愛らしかった彼女も、時には逆らえないと、佐々木は思った。
「いったい、どうしたんだ」
「宝くじがあたったのよ! 百万円!」
「な、なに!」
佐々木の唾が妻の顔にかかった。
「ちょっと、汚いわね」
彼女はティッシュを数枚取り、顔を拭った。
それには構わず、佐々木は妻の手から宝くじと新聞を奪い取り、番号を確かめた。
「あたってる!」
佐々木の頬がにんまりと垂れ下がった。
契約したばかりのプランで、こんなにも早く効果が出るとは、夢にも思わなかった。
「おい、奥の床の間、掃除しただろうな?」
「え、まだだけど」
「バカヤロウ、ちゃんと掃除しとけって言っただろ! もういい、俺がやる」
佐々木は、掃除機とぞうきんを手に、家の奥に向かった。
「あなた、百万円!」
宝くじを放り出した夫に、彼女は目を丸くして驚いた。
「そいつは、手始めだぞ」
佐々木はにやりと笑い、奥の部屋に消えた。
それからというもの、宝くじは一等ではないが、そこそこの金額が当たり、福引きを引けば自転車やパソコンを引き当てる日々が続いた。
営んでいる自動車販売も、順調に売上を伸ばし、息子は地元の企業に内定した。
「座敷童子さまさまだ」
暑い夏、風の通りが良くない奥の間は、常にエアコンの冷房を入れていた。
「座敷童子って?」
「おう、お前には言ってなかったな」
契約金は銀行から借り入れていた。その元手のこともあり、妻には秘密にしていたが、もう話してもいい頃合いだ。
「そうだったの」
「ネットのことだし、胡散臭いと思ったんだケドよ。ユーザの評価も高かったし、口コミも悪い点がなかったから、いっちょ博打と思ってさ」
「あなた、競馬、競艇、オートはやめたクセに、こんな賭け事みたいなことしてたのね。真っ当になったと安心していたあたしが馬鹿だったわ」
「まあ、そう言うな。もう少しで、元が取れるんだからよ」
一年どころか、ひと夏で回収できそうだった。これが三年続くとなれば、老後の心配はいらない。
「私、海外に行ってみたいのよね。新婚旅行って、熱海だったじゃない」
「アメリカでもヨーロッパでも連れてってやる」
「楽しかったわ」
「まったくだ。じきに、あいつも彼女とサイパンから帰ってくる頃だろう」
夫婦は水入らずでパリへ、息子は彼女と婚前旅行だった。
「おや?」
玄関を開けた途端、足下に冷気が漂っていた。
「あ、エアコン、切り忘れたか」
気候はいつの間にか秋になっていた。冷房はもういらないくらいだ。
「ちょっと寒いな」
佐々木は奥の間へ行き、エアコンのスイッチを切った。
「ごめんください」
「あなた、お客さんよ」
妻に呼ばれて玄関に戻ると、ダークスーツの咲神が頭を下げた。
「咲神さんじゃないですか」
「佐々木さん、あなたどこに行ってらしたんですか」
「え、一週間ほど、パリに行ってましたが」
詰問口調の咲神に、佐々木は少し不快感を感じた。
「それで電話が繋がらなかったのですね。もうしわけないのですが、契約破棄となります」
「は? ごめんなさい。もう一度、お願いします」
耳が遠くなったのかもしれない。契約破棄と聞こえた。
「約款はお読みいただいていますよね。座敷童子がいる間は、一日以上、家を空けてはいけない。そう、記載されていることを覚えておりますか?」
そんな事項を読んだような、読まなかったような気がする。あまりにも詳細な文字だったために、記憶が定かではなかった。
「申し訳ない。忘れていたようです」
意図はしていなかったが、破ってしまったものは仕方がない。
幸い、元は取れていた。また契約しなおせばいいのだ。
「すみませんが、再契約をお願いできますか」
「それは、できません。契約違反をした方とは、今後、一切の取引ができないのです」
咲神のにべもない態度に、佐々木はぽかんと口を開けた。
「もしかして、それも……」
「はい、約款に記載させていただいております」
「そんな!」
がっくりと項垂れる佐々木に、咲神は一枚の紙面を差し出した。
「もうひとつあります。当社の座敷童子ですが、どうも風邪をこじらせたようで、現在、入院しております。これが治療費、及び、慰謝料の明細になりますので、早急にお振り込みください」
桁の多い数字が、そこに書き込まれていた。
「冷房か……」
エアコンの切り忘れが、思いもしない事態を引き起こしていたらしい。
「もちろん、トラブル発生時のことについても、約款に記載してあります。ご一読いただいているはず、です」
微笑む男の顔が、佐々木には物の怪の類に見えた。