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世界に一番遠い島
作:高橋和絵


 本土の南、青い海の真ん中に私たちの島はある。
決して大きくはなく、生活も便利とは言い難かったけど、
毎日がゆっくりと過ぎていったそこでの暮らしに、
私は今でも少しの懐かしさと、ある種の羨望を隠せずにいるときがある。
私はおじいちゃんと二人暮らしだった。
父や母もいたが、どちらも戦争に取られてしまっていた。
だけど、寂しいことはなにもなかった気がする。
幼く活発な私には、あの島はどうにも狭すぎ、
木々も、海も、空も、木の葉も、波も、雲のひとかけらさえもが私の友達であり。
私の一部であった。


 『じーちゃん!ぐんたい島いってくるね!!』
幼い私は降り注ぐ日の光の下、
連日のように近間の要塞跡へ遊びに出かけていた。
当時島民から軍隊島と呼ばれていたその海上施設は、
前の戦争で軍が島民の反対を押し込め建造したものだそうだ。
多額の資金と人命を費やし運用された要塞も戦後は放置され、
今では私たちの基地となっていた。
 『ほれ、まてまてー、じーちゃんとの約束があったろーに、ほらいってみな』
そしてこれも毎日の日課。
元は軍の施設、今思うと当然のことかもしれないが、
幼い私は歩みを止めるもの全てにちょっとだけ怨みがましい目線を向け、時には反抗したりもした。
 『……うん、ぶきみたいなモノを見つけたらさわらないっ』
 『それと?』
 『と、じーちゃんが行ってもいいって言ったとこいがいは行かない!』
1分1秒が焦れったい私。
 『うーし、じょーできだ。じーちゃんも漁に行く前にそっちよるからさー、良い子にして遊ぶんだぞ』
おじいちゃんはそのごつごつした大きな手で私を撫で、それを振り払うように駆けだした私の姿を、目を細めながら幸せそうに眺めていた。
途中、まだ準備のできていない友人を引きずるように連れていき、
私たちは海へ駆けだした。
商店街を抜け、茂みを越える。
ドコまでも続く水平線が私たちを迎え。
静かに繰り返す波の音が日々の変わらぬ海岸を演出していた。
サンダルがキュキュっと砂を噛み、砂浜全体が私たちを歓迎している。
私たちはその中を駆け抜け、施設へと伸びる桟橋に駆け寄っていった。
波が足を時折なで、跳ね上がった砂がこびりつく、
桟橋は腐敗が進み、所々が抜けていたが、
私は既にその歩幅だけで渡りきれるようになっていた。
 『ちょ、ちょっと、まってよぉー』
そりゃ、私ほどの自然児ではなかった友人。
 『あけみー遅いよー。そんなのろのろしてちゃー日がしずんじゃうよー』
私はそんな彼女をよく茶化していた。
施設の入り口は封鎖されており、私たちは外部の階段から屋上へ向かう。
段を上がるごとに海面が遠くなり、強い波風が私の髪をなびかせる。
一段一段、カンッ、カンッと風に響き渡る乾いた金属の音が、私の期待を盛り上げていった。
怖がる友人をひとり放置して、私は風を突っ切り屋上へ飛び出す。
  
 『とーちゃくー!』

私は、空と海の間に立っていた。







 屋上は不思議と風が穏やかだ。
私はいつものように柵から足を出して縁に座り込む。
柵の向こうでは空と海とが混じり合い、
青一色の世界を作り出していた。
別に何をするわけではない。
私はここで何もせずに、刻一刻と変わっていき、
だけどそれでいて変わらぬこの世界を眺めるのがただただ好きだった。
ゆっくりと寄せては帰っていく波を遥か海上から眺め、
何をするでもなくただ風に運ばれていく雲を眺め、
また、それを眺めている自分もまたどうしょうもなく好きだった。
 『ばぁーかかーおめぇ。暁美ちゃんおいて何ひとりで寝っころがってんだ?』
驚き振り返った先に立っていたのはおじいちゃんだった。
 『あーご、ごめんなさいっ、ゴメンあけみーっ』
両手をあわせ彼女に謝るのは今週三回目。
謝られるのも慣れてきたのか、彼女は少し苦笑しただけで何事もなく許してくれるようになっていた。
おじいちゃんもあきらめたのか特に咎めることもせず、柵に手をかけじっと波を眺めていた。
 『っかし、おめーたちも飽きないなぁ。毎んちこんなトコ来てよー』
笑いながらおじいちゃんは問いかける。
 『じーちゃんは波きらい?』
 『んーや、そんなワケ無いさー。じーちゃんだって波好きだ。むしろじーちゃんは年中波に乗ってるからな、波は友達みたいなもんさー』
そう言ってたたずむおじいちゃんは、少しだけ格好良かった。
 『こーやってなぁ、海と空眺められるンなら軍隊さんにつくってもらって間違いじゃなかったかもなー』
少し寂しそうにそうつぶやいたおじいちゃんは優しく私の頭を撫でた。
今度は私も逃げようとはせず、じっとそしてちょっと微笑んでそのごつごつとした手のぬくもりを感じていた。
 『さて、じーちゃん仕事行かないとな、暁美ちゃんのじーちゃんや他のみんなも待ってる』
おじいちゃんは一度腰をぐぐっと伸ばし。もう一度私の頭に手を乗せて階段へと向かっていった。
 『がんばってねー!おっきーおさかなとってね!』
頭の上で大きく手を振る私におじいちゃんはこちらには顔を向けず、軽く手を振って返してくれた。
階段を降りる音が聞こえなくなるまで手を振り、
精一杯おじいちゃんを送り出した私は、
そのまま力無く倒れ込み再び永遠に続くようなこの空と海との調和に身を委ねていた。
友人もとなりに来て、同じくドサっと座り込む。
二人並んで太陽の下の寝転がる姿は何とも干物のようであったりして、おじいちゃんに笑われたこともあった。
 『私たち、なにやってるんだろうね?』
友人が言う。
 『なにってなにさー、いや、なにもしてないかな。……ヤダ?』
 『ヤじゃないけどさー、ほら世界的に見ても私たちって凄まじくなまけるんじゃないかナー、とか、そーゆーことおもったりさー』
友人のちょっぴり急な、そして大人な意見に私は目を丸くする。
 『そうかな?』
 『そうだよ』
 『じゃあ……やっぱり、ヤダ?』
 『んふ、ヤじゃないんだけどね』
 『そぉ?、まぁ、なら、イイんじゃないかな?』
 『そうかもね、そうかもしれない』

……少なくとも当時はそれで良かったのだと思う。
世界はあの島よりも、そして何処よりも速く、忙しなく動いていて、
学校に通い始めた私はそのスピードについていけなかったりもした。
一日が同じ24時間だなんて信じられないぐらいに、
私たちはゆっくりと生きていたのだと思う。
速く速く、ただ生きることを急がされてきた私たちは、
あの繰り返す波や、流れる雲のように、
意味もなく、ただたゆたうような、
そういった生き方は、もうできないのかも知れない。
意味を探し、目的を探し、ゴールを求めて、安息を求めて、
すぐ近くにあるかも知れない大切なモノを追い越して、
私たちは大人になるのかも知れない。


私は寝転がり空を見ていた。
……真っ青な空だ。
雲がゆっくりと流れていた。
……真っ白な雲だ。
そこには太陽が浮かんでいた。
……真っ赤な、太陽だ。
それらはゆっくり、ただゆっくりと、何かを考えるわけでもなく、大それた目的があるわけでもなく、そこにある。
私たちもあの頃はそんな彼らのように、目的もなく、放置された施設の屋上で、まるで干物のように、日に干され、風にさらされ、そんなことを毎日繰り返し、ゆっくりと生きていた。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
ゆっくり、ゆっくり。
ゆっくり…………。


………………あれ?

気がついた私は周囲の異常さに目をぱちくりとさせた。
私はいつも通り屋上にいる。
いつもから不思議と風の弱いところだが、
ところがその風は今やその場にとどまるように溜まっており、
何と言おう、どろりとしたような、ねっとりとしたような、そんな感じだった。
干され過ぎて頭がおかしくなったのだろうか?
伸ばした手に空気が絡みつき、糸を引いて切れた。
青かったはずの空は今では赤紫色に広がり、黒い雲が漂う……まるで反転したネガような、
そんな不思議な色合いが私の世界を彩っている。
風と波の混じり合っていた海岸の音も、今ではほぼ無音に近く。
まるで耳の中に大きな空洞ができたように、不思議なひびきを残すだけだった。
目を擦っても、あたりは何も変わらず。
立ち上がった私はまるで空気の中を泳いでるようだった。
時間の流れまでがゆっくりになったような、
そんな不思議な世界。

心地いい。
そんな思いが私を満たしていた。
呼吸をする度に空気は私の中を駆けめぐり、
いろんなモノをからめ取り、持ち去っていくような気がする。
これは……夢なのかな?
思えばそこに友人の姿はなく、
鳥も、虫も、魚も、そこにいたはずの全て息づかいが途絶えているように見えた。
だけど……なんでだろう、寂しくはなかった。
見えないけど、そこにいるような。
触れないけど、そこにあるような。
そんな感じがした。
すっとここにいたい。
ずっとこうしていたい。
そんな思いが私の中に膨らんでいく、それ程に心地よい世界だった。


ふと、海を見ると波間に一筋の光が見えた。
紫に輝く海面を、一艘の船が沖の方へと向かっていく。
あれは……じーちゃんのフネ……?
しぶきを上げて海面を走る船は紛れもない、おじいちゃんの乗る漁船だった。
何もない世界に、ただ一つ私の前に現れたおじいちゃんの船。
その瞬間、なぜだろう、不意に心を寂しさが襲い、
私は息が詰まるような思いだった。
おじいちゃんに会いたかった。
ここなら空を泳げるかもしれない、
手摺りを乗り越え、空気の帯をまといながら、
私は漂うように海へと降りていく。
しかし、おじいちゃんとの距離は縮まることはなく、
船はゆっくりと、沖へ進んでいった。
まってと叫んでも声は出ることなく、逆に空気が流れ込んでくる。
身体はもどかしさでいっぱいだった。
一所懸命に空気をかく手が、焦りと不安で小刻みに震えている。
船は輝く水平線と重なり、しだいにその光に飲まれていく、
微かに消えゆく船に手を伸ばす私。
その手からこぼれ落ちるように、船は消えてしまった。
ゆっくりと光に溶けるかのように。
ゆっくりと海に帰るように。
その瞬間、何か私の中にわき上がるモノがある、
おじいちゃんの隙間をこの世界が埋めていくような気がする。
それは、泣き出しそうな私を慰めるような、心地よく優しいモノだった。
それは、まるで母親のような、私を包み込むモノだった。
……だけど、これで良いのかな?
このままここにいて慰められていても……?
私の身体は、そして意識は、空と海とをアテもなくたゆたい。
雲のように、波のように。
ゆっくり、ゆっくりとそこにあった。
だけど今は、慰めよりも、何でだろうこの寂しさを、大切にしたい気持ちだった。


気付けば、私は声を上げて泣いていた。




次の瞬間、全てがクリアになり、全てが加速された。
ゆっくりとまとっていた空気は、いつも通りに肌を刺し。
波の音は耳を叩いた。
あたりは茜色に輝き。真っ赤に膨らんだ太陽が水平線に消えようとしている。
鳥や、虫や、魚が、そのやかましいまでの息づかいをあげ。
横を見れば友人も、気持ちよさそうに眠りこけていた。
夢から覚めた私はリアルな世界にちょっとだけ興ざめし、
  『……ちぇ』
舌打ちしながらも、長く住み慣れた世界を居心地悪く感じたことに、内心自分を責めていたのだった。
無意識に目元にてをやるが、涙は出ていない。
沈みゆく夕日が、なんだかいつもより綺麗な気がした。



 その日から私の一生はどんどんとその速度を上げていった。
漁に行ったおじいちゃんは、その日から帰って来ることはなかった。
島の人は騒いでいたが、私はまたいつの日かおじいちゃんがゆっくりと、あの笑顔を浮かべながら帰ってくるような気がして、
不思議と悲しくはなかった。
友人に打ち明けところ、案の定呆れられたが、彼女は前向きな私を羨んでくれていた。
その後、私は親戚に引き取られ、島を離れることとなる。
あれから十数年、月日はあっという間に過ぎていった。
大人の私は、孤独だった。
いろんなモノに置いていかれ、
いろんなモノに追いつこうと、
必死で、必死で生きた。
沢山のものを追い越して、そして私は今を生きている。
私は、まだ今でもおじいちゃんは何処かで生きているような気がしている。
そう思うことが私のあの島での数少ない、子どもの頃からの思い出のように感じられ、
そして、その思いを捨ててしまったら、私はもう歩みを止めることができないような気がしていた。

今思えば、あの夢はあの島からの最後の贈り物だったのかも知れない、
これから世界へ旅立っていく、幼い私たちへの最後のプレゼント。
そして、これから世界へ旅立つ私たちを最後に後押してくれたのだと思う。
確かに心地よいあの世界。
だけど、今になっても思い出されるのは、
友人と寝ころんでいた、

あの、現実の波と雲の間だった。














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