「なぜ生きようとするの? 何も信じられないくせに」
そのどこまでも沈んでいく響きに愕然とした。
目の前に、私がいる。
木立と同化するように揺らめいているダークグレーの影は確かに私、シェリーだった。
「なぜ生きようとするのよ? 何も信じられないくせに」
その影は、恐怖と混乱で怯えている私を冷ややかに見下ろして言葉を繰り返した。無機質でどこまでも冷たい囁きに心の芯が凍りついていく。
同時に、心の奥底の誰にも触れられたくない敏感な部分が悲鳴をあげはじめる。
「もう昔の私じゃない…。今は信じられる大切な人がいるもの」
私は奥底で疼いている悲鳴を覆い隠すように、半ば無意識に声を発していた。
「信じられる大切な人? 自分の素顔は見せていないのに?」
影は皮肉めいた視線を向け薄ら笑った。緋色の瞳が妖しく光っている。
「それは信じられると思い込もうとしているだけ。悲劇のヒロインぶるのはやめてくれない、虫唾が走るから」
風が吹いた。まるで私の心のざわめきを表すかのように木々が揺れ、視界が揺れる。
「信じ込もうとしているだけ…」
「そう。結局あなたは何も信じてなんかいないのよ。人も世界も、自分すらもね」
意識が遠のいていく。
唯一、信じることができていたお姉ちゃんを失って、私は世界から色を失い絶望した。
絶望の闇の中でもがく私に手が差し伸べられた。私は戸惑いながら手を差し出した。その手はとてもあたたかく、私を闇から光に満ち溢れた世界へと引き上げてくれた。
博士。探偵団のみんな。工藤くん…。
「あなたに幸せになる資格はないのよ」
冷たい声が響き、意識が現実へ戻ってくる。
「どうして…?」
「自分の手を見てみたら? その血塗られた両手をね」
視線を手のひらに向けると、どす黒い赤が私の両手を覆い隠していた。
「いや…!」
咄嗟に手をこすり合わせてその忌まわしいものを拭い去ろうとする。けれど、その黒赤色はこびり付いていて拭い去ることはできない。
「過去の自分は忘れて幸せに? 笑わせないでよ。その呪縛は一生消えることはないわ」
月明かりにぼんやりと揺らめく影は、抑揚のない無機質な声で言い放つ。
「それともなに、邪魔な存在の探偵所の彼女を消して大切なものを手に入れるの? あなた得意じゃない、毒殺とか」
探偵所の彼女…。ぼんやりと蘭さんの笑顔が浮かんでくる。まるで天使のようなあの笑顔。
なぜ急に彼女のことを? 辻褄が合わない。そんな私の疑問を見透かすかのように悪魔の囁きが響いてきた。
「工藤新一は毛利蘭を愛している。あなたの付け入る隙は一分もないくらいにね」
「……っ」
「わかるでしょ? 大切なものを、愛するものを手に入れるには邪魔者を消さなくちゃ」
影は口を三日月にして悪魔の笑みを見せた。
「そ、そんなこと…」
「思ってないとは言わせないわ。今までだって、自分の欲求を満たすためにたくさんの人を犠牲にしてきたじゃない」
やめて。思い出したくない。やめて……。
胸がきしむ。心の芯が捻られ、きりきりと悲鳴を上げる。記憶の中の暗黒の扉が軋みを立てて開こうとする。私は必死で抗おうとしたが、もうどうしようもなかった。
空気が冷たく張り詰めていくのを感じる。辺りの木々がざわめき人影へと姿を変え、恨めしげな亡者たちが姿を現した。私が冥界へと葬り去った哀しい亡者たち。
そして、断末魔の呻き声が槍となって私の身体を貫いた。
だずげで
だすげて
たすけて
たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たす
「なぜ生きようとするの? 何も信じられないくせに」
何かがプチンと切れた気がした。
「私には、生きている価値、ないのかな?」
「あなたには何もないもの。生きていても意味はないじゃない」
「そうね…」
私は糸の切れた操り人形のようにコクンとうなずいた。
「あの光に向かって歩くといいわ。そこにあなたの望むものが待っているから」
顔を上げると前方にぼんやりと光が見えた。
「そう。親切なのね」
「だって、私のことだもの」
「それもそうね」
諭すような穏やかな口調が妙に心地いい。
重い足を引きずるように歩き始める。心はふわふわとして軽やかなのに、それとは裏腹に身体は鉛のように重く感じられた。光の向こうには天国への階段があるのだろうか。
「そんなわけないか…」
わた菓子みたいな甘い考えに思わず自嘲した。私が天国へ行けるはずがない。待っているのは地獄の苦しみだろう。
そもそも、お姉ちゃんが殺されたときに神なんてものは存在しないと自分に言いきかせたはずなのに、天国とか地獄とか。そんなことを考えている自分が滑稽に思えた
余計なことを考えるのはよそう。行けばわかる。全てを終わらせたい。全てを消し去りたい。私の存在、全てを。
光が近づいてくる。闇に浮かぶその光はとても美しく思えた。
光は徐々に形を確かなものにし、大きさを増していく。もう少し、あと少しでたどり着ける。
は い
どこか遠いところから声が聞こえた気がした。
は い ば
はいば? はいばら? 灰原?
ああ、私の名前じゃない。まあ、偽りの名前だけどね。もうそんなことはどうでもいいのよ。今はこの狂おしいほど魅惑的なこの光の穴に飛び込みたい、身を委ねたいの。邪魔しないで。
もう光は眼前だ。なのに身体はさらに重くなり、心の一部が締め付けられるような感覚に襲われる。
邪魔しないで……お願い。
両手を伸ばし、光に向かって最後の一歩を踏み出そうとする。
灰原!
と、その声とともに、横から強い衝撃を感じて、私は倒れこんだ。
なんだろうこの感覚。温かくて力強い、なにか絶対的なものに守られているような心地よさ。たしか前にも一度……。
そう、バスジャックのとき。死へ向かおうとする私を彼が助けてくれて……。
ゆっくりと目を開けると、そこに彼がぼんやりと映った。
江戸川コナン。悪魔の薬で結ばれた秘密の共有者。
「灰原、大丈夫か?」
彼は先に立ち上がり、私に手を差し出した。
半ば無意識に、どこか虚ろに、手を伸ばし立ち上がる。ぼんやりとした視界が徐々に形を成していく。
辺りは闇に包まれていた。その闇に薄っすらと浮かぶ木立。淡い月明かりと、風による葉のざわめきで、その存在をかろうじて確認できる。
そう。今日は博士と探偵団のみんなで、秋の山へキャンプに来ていたんだ。
「もう少しで落ちるところだったんだぞ。ほんとに大丈夫か?」
彼の声に、ライトの光が指す方向に目をやると、
「……っ」
思わず絶句する。その先には何もないのだ。気を抜くと吸い込まれそうになるような断崖。巨大な闇の穴。
亡者も光の穴も、シェリーも消えていた。あの光は幻だったのか。私を恨んでいる亡者たちも、私の影、シェリーも……。
全ては幻に思えたが、ひとつだけ消えてないものがあった。
「……邪魔しないでよ」
私はポツリとつぶやいた。
「灰原…?」
暗がりの中でも彼の困惑した表情が見て取れる。私は彼に冷たい視線を投げかける。
「私は生きてる価値のない人間。死んだほうがいい、いいえ、死ぬべきなのよ」
ひとつだけ消えてないもの。それはタナトスだった。心の大部分を支配しているその黒い衝動は私を饒舌にさせた。
「あなただって本当は思っているんでしょ? おまえのせいでこんな姿になってしまった。おまえさえいなければ、おまえさえ生きていなければって」
自嘲するような笑みを浮かべ彼に問いかけた。彼はしばらく黙っていたが、
「バーロ…」
そのいつもの口癖とともに、彼は強い視線を向けてきた。強い光を帯びたそれは私の心を竦めさせた。
「死んでどうなる? 死ねば全て解決するのか?」
「そ、それは…」
私は言葉をつまらせた。解決なんてするわけがない。死ぬことで逃げようとしているだけなのだから。
「そりゃあ、おまえの過去のことは知らないさ。おまえの苦しみを全部わかることもできない。だけどさ、これだけは信じてくれよ」
彼は私を真っ直ぐに見つめて言った。
「俺がおまえを守ってやるから」
彼の発した言葉は光の槍となって私を貫いた。
「それに、この姿。今じゃけっこう気に入ってるんだぜ。最初は色々と戸惑ったけどな」
彼は無邪気な子どものような仕草をして笑って見せた。
瞳が潤み、視界が揺らいだ。何でそんなに優しいの。その優しさに泣きたくなる。
「踊ろうか」
彼がつぶやくように言った。
「ほら、ちょうどそこに舞台ができてるしさ」
彼の視線を追うと、そこには円状の光が浮かび上がっていた。月明かりと木々の影が織り成す見事なまでのコラボレーションは光の演舞場というにふさわしかった。
「さあ、姫」
彼の芝居がかった声に戸惑いつつも、私の中に生まれた衝動を抑えることはできない。
彼と踊りたい。彼と繋がりたい。彼と結ばれたい。
おそるおそる手を伸ばすと、彼は私の手をとり、光の舞台へと誘ってくれた。
舞台は光に溢れていた。ふと空を見上げると美しい光を放つ月が映った。手を伸ばせば届きそうなくらい大きく、そして美しく見える。さっきまでは闇に支配され、心もとない淡い光しか見えなかったのに。
視線を彼に移す。私は瞬間的に閃いた。
彼だ。彼が、私の靄のかかったくすんだ灰色の世界を、光きらめく世界へと変えてくれたのだ。
見つめていると吸い込まれそうになる蒼明な瞳。優しくて澄んだその瞳は、本来あるべき秋の月とよく似ていた。
優しくて、眩しくて、泣きそうになる。でも、今は――。
彼に身を委ねた。
景色が巡る。世界が回る。光を巡る。
私と彼は一体になったように軽やかに、淡々とワルツを踊る。潤んだ瞳に月の光が重なり、光の粒子が生まれた。
彼の温もりに触れ、光に包まれている。私は絶対的な幸福感を感じていた。
このまま時が止まればいいのに。
「……っ」
私はとっさに動きを止めた。彼の肩越しの前方に、たった一人の観客が見えたから。
シェリー。
「とても美しくて、哀しいワルツね…」
パチパチと手を叩きシェリーは微笑を浮かべた。
月の光や周りの景色が鮮明に映ったのと同じように、シェリーの影もまた鮮明に映った。過去の私が、はっきりと。
「あなたは生きることを選ぶの?」
シェリーはどこか悲しそうな眼差しで問うてきた。
おそらく、彼にシェリーの声は聞こえてはいないだろう。彼は私の手を握ったまま支えてくれていた。彼の温もりが私に勇気を与えてくれる。
私はシェリーを真っ直ぐに見据えてコクリとうなずいた。
木々がざわめき、冷たい風が私の頬を通り過ぎた。私の昂ぶりつつある感情をなだめてくれるかのように。
「この先、死んだほうが楽に思えるくらいの苦しみが待っているとしても?」
シェリーは目を細めさらに問う。線になった緋色の瞳が私の心を惑わそうとする。
今まで、ずっとずっと逃げてきた。苦しみからも悲しみからも、世界の全てからも。もうこれ以上、逃げたくはない。死んで償うのではなく、生きて罪を償いたい。
今のこの前向きな感情は、彼のおかげかもしれない。彼から離れてしまえば消えてしまうかもしれない。けれど、私の中に芽生えているこの光の感情を、今はっきりと実感できる。
私はシェリーに向かい、静かにうなずいた。
しばしの間があり、シェリーは小さく首を振った。
「そう…。もう何も言わないわ。ただし、覚悟しておくことね。この先の悲しい未来を…」
再び、シェリーの周りの木々がざわめき、光の粒子が辺りを彷徨う。鮮明だった影が色を失い、ノイズのようにぼやけていった。
「あなたは私、私はあなた。いつもすぐそばで見ているわ、あなたの選択が正しかったのかどうかをね…」
シェリーの影と光の粒子が重なり、やがて空気と同化するように消えていった。それは、儚く散る花火のように美しく、どこか寂しげに見えた。
彼と繋がっていた手にちからが加わった。身体がこわばり無意識にちからが入っていたのだろう。
「灰原、大丈夫か?」
まるでシェリーとのやり取りが終わるのを待っていたかのようなタイミングで、彼の優しい声が響いてきた。
「ええ、大丈夫…。もう大丈夫よ」
「よかった」
全ては彼のおかげ、愛しい彼の。
いつもは隠している彼への想い、今このときだけは抑えることはできなかった。
「もう少しだけ、踊っていたい。もう少しだけ…」
「ああ」
――工藤新一は毛利蘭を愛している。
幸せなときほど思い出したくないことを思い出すもの。
彼には彼女がいる。光には光が似合う。灰色の私に入り込むことはできないのはわかっている。
それでもいい。この刹那の瞬間だけでいい、あなたを感じていたい。あなたと結ばれていたい。
もう少し、あと少しだけ。
私とワルツを。
|