振り向いてはいけない。
きっとあなたは立ち止ってしまうから。
見てはいけない。
きっとあなたは切なくなってしまうから。
この手を放してはいけない。
私が、寂しくなってしまうから・・・。
*** *** ***
僕は目を覚ました。
そして気づけば彼女がいた。
僕等は知らずのうちに駆けており。彼女はただただ先頭を切って、僕の手を引いていた。
「ちょっと、待ってくれよ」
風を切る音がうるさくて、僕は大きく声を上げる。
「君は誰だ。何で僕は走ってる」
彼女は振り向きもせず、立ち止まりもしない。
ひたすら先を見据えながら、必死に走っている様子だった。
「急ぐの、だから走るの!」
黒く短い髪は風にのり、後ろをかける僕には彼女の白いうなじがちらちらと見えた。
「わけが分らないよ。君は誰だ。ここはどこだ」
走っているにもかかわらず、僕の息は上がらない。そのことに、鈍感な僕は気付かない。
「私はワタシ、ここはここよ、」
本当に訳が分らなかった。
自分の声が何かにかき消されるかのを恐れるように、彼女の声はすべて張り上げられていた。
おかげでその声ははっきりと僕に届くのだけれど、何分言っている事が僕にはよく理解できない。
僕はそんな彼女から目を離し、様子を見ようとあたりに目をやる。
動いた視界に、一瞬何か、白いものが見えた。
「だめ!」
その声で“はっ”と彼女に視線を戻す。
不思議だった。
彼女は前を向いたままなのに、僕があたりを見回そうとしたことにはっきりと気づいていた。
「だめ、見ちゃだめ。周りを見てはいけないの。後ろも、だめよ。絶対に見ちゃだめ。前だけを見て。あなたは振り返ってはいけない」
彼女の声。大きく張り上げられた、必死の声。 彼女は白いワンピースを着ていた。それは白い肌と同化し、まるで彼女の羽だった。
「大丈夫。あなたはきっと私が帰す。だから見て。私の背中だけでもいいから。絶対に止まらないで、走って!」
なんでだよ。いったい何がどうなってこうなるんだよ。
僕は言われたとおり走った。立ち止まらないよう、振り向かないよう。
そして気づけば泣いていた。
僕は問う。
「なんで、何でこんなに悲しいんだ。教えてくれ。君は理由を知っている」
彼女は答えた。
「悲しいからよ。あなたは悲しんでるの。別れに涙し、旅立ちへの恐怖に対し」
彼女はやはり振り向かない。そしてやはり知っていた。
「わけがわからないよ・・・」
この言葉は走る僕らに追い越され、背なかの向こう、はるか遠くに飛ばされていってしまった。だから彼女の耳には届かない。
―――たつや、
「え?」
名前を呼ばれた気がした。それは走っている間、記憶のはるか遠くに追いやられていた僕の名前だった。親からもらった、生まれたころから忘れたことのない僕の名前。
僕は首を回した。
白い世界の中、僕の視界がぐらりと傾く。白しかないはずのはるか向こう。白の奥に、何かあった。
僕の目に映ったのは白い、
「ダメ!」
彼女は泣きそうだった。
だから僕は前を見た。後ろにあるものをはっきりとらえるのも出来ないまま。彼女の言葉に従った。
やがてたどり着くトンネル。
そこに入って気づく。今まで僕らの駆けてきた道。それは何て白い場所だったのだろう。不自然なくらいに真っ白で何もなく、彼女という存在も同等に真白だった。黒い髪を抜いては。
今駆ける場所は黒。黒一色。人はこれを闇と呼ぶのかもしれないが、僕にとっては黒だった。
ドジな誰かがインクをこぼし、画用紙の上にできた世界。
彼女は僕へ、励ますように声をかけた。
「もう少し、もう少しだから頑張って…!」
何をがんばるのか。この場では走ることを示しているのかもしれないが、何でだか違う気がした。
とりあえず頷く僕。頑張ってと言われた。だから頑張ろう。
僕等はひたすら走り続けた。
―――たつ、や
あの声だ。聞き覚えのあるあの声。それは僕の頬をやさしくなでつけ、首を後ろの方へとそっといざなう。
僕の視線は後ろに流れる。
真っ黒の世界。真っ黒の向こう側。
黒の中に白を見た。そしてガラス張りのその中には、
「ダメェェェ!!!」
彼女のつらそうに絞りだされた声に、僕は自分がいま何をしようとしたのか思い出しハッとする。
そんな僕に、彼女は語りかける。
「大丈夫、大丈夫だから。お願い、君は自分を強く持って。君は強い。私とは違う。だから、だから戻ろう!!」
彼女の力強い言葉は僕の背を押す。
だから僕は思う。
違う。本当に強いのは君だ。だから僕は君がいなくて悲しんだ。君のいなくなった世界に絶望したんだ。
これは僕の無意識の思想。
それに気づいて僕は眉を寄せる。
「ねえ、僕は、君とどこかで会ったみたいだ」
それを君は、覚えているかい?僕はなぜだか覚えてないんだ。
この言葉にも彼女は足を止めない。
「そうね、けど、大丈夫。あなたは強いから。きっといつか思い出す」
そうかな。
自信のない僕の声は、やはり風に飛ばされた。
黒い道はどこまでも続いた。終りの見えないそれはやがて灰色となり、白に戻った。
「もうすぐ」
彼女の声。明るい光。
僕はただ前を走る彼女を見つめた。
「大丈夫!もう少し!もう少しだから!」
その言葉は僕を落ち着かせ、安心させた。
―――達矢
「お、かぁさん?」
だが、その僕を呼ぶ声は、前を行き僕の手を引く彼女の声より強かった。それはとうとう僕の肩を掴み、僕の足を止めた。
その瞬間、強い風が僕らを叩いた。
走りぬけてきたはずの黒が、白に出た僕のもとに駆けてくる。
それはまるで影だった。影は地面を這って僕の足もとにやってくる。
「だめ、走って!」
彼女は僕の手を引いた。焦って、急いで。
止まっていた僕の体はがくりと動き、また彼女にひかれ走り出す。
だがもう手遅れだった。
止まってしまった僕。
振り向いてしまった僕。
僕は顧みてしまったのだ。今の状況を。なぜこんなことになったのかを。
*** *** ***
少女がいた。
病気な彼女。
笑顔な彼女。
彼女はいつの間にか僕の前から消えていた。
『好きだよ、』
いや、違う。
僕はそれを見ていたはずだ。
手術に失敗して、余命を告げられた少女。
彼女は最後に儚く微笑み、僕の目の前で、窓から飛び立った。
*** *** ***
事故だった。
交通事故。
でっかいトラック。
小さな自動車。
振り向いて見つけた白は、ぐしゃぐしゃにつぶれた車。
中に見える家族。
走る自分。
走る僕。
置き去りにされた家族と車。
*** *** ***
振り向いてしまったのだ。
だから彼女は見るなといった。
見れば、きっと僕は戻ろうとするから。戻り、家族と共に逝こうとするから。
だから彼女は振り向くなといったのだ。
だが、もう遅い。
そしてかまわない。
これが運命だったのだ。
僕に課せられた運命。家族と迎えた最後の時。
僕は、僕だけ助かろうなんて思わない。
「やめて!」
彼女は叫んだ。
目に涙をためて。
影にまかれる僕に向けて。
「やめて!やめて!やめてぇ!!!」
泣きながら僕の腕を引き、必死に走り続けようとする。
だが僕の足は動かなかった。
影が石としていたからだ。
僕の体は、影の触れた場所から石となっていた。
色を失い、白でも黒でもない半端な色、灰となり、僕を固く冷たく重くしていく。
「だめ、あなたは生きるの!」
彼女の涙はまるで真珠。
「無理だよ。だって、皆をこんな場所に置いて、一人で何て帰れない」
それに、そしたら僕は一人になってしまう。
その言葉ははかなく揺れた。
黒は不安。影は絶望。それらは僕の気持ちを重くする。だから僕は石になる。石にり、固くなって冷たくなる。
この世界は僕の心情や気分、感情、といったものにとても敏感なのかもしれない。
彼女は石になっていく僕へ抱きつく。
優しく包み込み、こんな僕へ真珠を流す。
「お願い、生きて。あなたは強い。だから、大丈夫。一人になることを恐れないで、…その優しさで、自分を犠牲にしないで!」
僕はそっと目を閉じた。
もう手遅れだと思った。
何よりも自分があきらめてしまったから。
僕を冷たく重く、生き物とは程遠い存在にしているのは僕自身だという事に気づいてしまったから。
華奢な彼女の背中に腕をまわし、そっと、そっと包み込む。
「怖い。無理だよ。僕は一人じゃ生きられない、」
彼女はギュッと腕に力を入れる。
「無理じゃない!無理じゃないの!あなたにはできる!だからここまで走ってこれた!涙を流しても走り続けた!あなたは強いの!だから目を開けて!!」
僕の瞼はそっと揺れる。
「私は、君に笑っていてほしいの!辛くても走り続けていてほしいの!今までみたいに、君は君を強く信じて!!………ずっと、・・・ずっと、そんな君を見ていたかったんだよ?」
後の言葉が小さくかすれていた。
そんな彼女の声が僕の耳から体内に入り込みぬくもりを広げていく。
できるだろうか、僕に。
家族と引きはがされて、生きてく人生。僕は弱い。実際に、その恐怖にまかれ石になろうとしてる。家族を失う悲しさに、この身はどんどん冷えて行く。怖い。
「大丈夫、自分を強く持って、」
懇願する彼女。
生きてと願う彼女。
そんな彼女が今、どんな表情をしているのか僕はふと気になった。
泣いているかもしれない。
いや、だってさっき、実際に彼女は泣いていた。
「私も手伝うから、」
彼女が泣いていた。それが今更ながらとても悲しく思えた。
「大丈夫。君は私が羨むくらいに強いんだから、」
泣かないでほしかった。
あの頃のように笑っていてほしかった。
「大丈夫、…大丈夫、」
彼女の声。彼女のぬくもり。すべてが僕の何かをやわらかくほぐしていく。
不思議な気分だった。
知らないうちに、僕の頬には涙が流れ、悲しくもないのに泣いていた。
そっと目をあけ、見た、あの頃のまま変わらない幼い彼女。
彼女は笑っていた。とても温かく、この世界と同じような真っ白な微笑み。
最後の時の、あの胸の痛むような切ない笑顔ではなく、光を見るような温かくやわらかい瞳で。
―――ほら、君はやっぱり強い
そっと笑った彼女。
変わる色。
白い肌は灰色に。
黒い髪も灰色に。
なんで彼女はここまで優しいのだろう。
彼女と瞳があった瞬間、僕はすべてを理解した。彼女はすべてを吸ってくれたのだ。僕の不安も、悲しみも、切なさも。
僕の灰色を吸い取って、彼女は僕の代わりになった。
彼女は石になり、僕は、僕となった。
石になっても温かい彼女。その瞳はまっすぐに僕を見ていた。
―――生きて
彼女の瞳はそう紡ぐ。
僕は自分の足を見る。
さっきまで重く冷たく、色を失っていたそれ。
だが今は、さっき以上に速く走れる気がした。
―――前を見て
僕は前を見た。
その先にあるのは、何も見えない白だった。
―――ただ走って
僕は足を踏み出す。
さっきまで彼女の引いていた手が、ほのかにぬくもり温かい。
―――君は強い
僕は強くない。
君がいたから何でも乗り越えられてきたんだ。
そして今も。
『好きだよ、』
僕は強くなれるだろうか。
なれたとしたら、それは君のおかげ。
*** *** ***
電気屋に並ぶテレビの行列。それは見る人もなく電源をつけられ、ばらばらの画面に同じ映像を映し出していた。
『―――生存者は一名。4人家族を乗せたこの車は、里帰りの途中山道で大型トラックと衝突し、道路から外れ切り立った崖に落下。息のあった長男の秋元達矢君はすぐに病院へ運ばれ、重態の上なんとか一命を取り留めたもよう。彼は病院に運ばれた3日後に目を覚まし―――』
僕が目覚めた白い世界。
そこは病院という名の現実。
残った僕は一人だけ。
家族も彼女も、あそこに置き去り。
すべては石となり、すべては冷たく僕にのしかかってきて。
彼女の笑顔も、家族との記憶も。
全部全部、悲しい現実。
僕はここで―――
ちゃんと生きるよ
*** *** ***
約束をした白い世界
僕はそこで夢を見た
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