僕の傘へ、どうぞ。PDFで表示縦書き表示RDF


僕の傘へ、どうぞ。
作:くまごろー


(一)

 見渡すかぎりの白い氷原を行く大型雪上車の長い一列が、大きな円陣を組んで停まった。車を降りたオレンジ色の防寒服の人たちは、磁石に吸い寄せられる鉄粉のように中央の巨大なドームに入っていった。
 ドームのてっぺんで冷たい風にはためいているのは国連旗のようにも見えるが、近づけば違いがわかる。正距方位図法で描かれた旗の中心は、北極ではなく南極大陸だ。もう北半球中心の時代ではない。この建物が出来てから宗教紛争や国境紛争は過去のものになりつつあった。
 雪上車に遠巻きにされたドームは墓所で、人々は世界各地からやって来た墓参団だった。地球上には死者を偲んで祈れる場所が今ではここしかない。建物には国別、宗教別のゲートがあるが、それは迷子を出さないためのもので、他にさしたる意味はない。ヒンドゥ教のゲートからキリスト教徒が入っても誰も(とが)めない。それはむしろ微笑ましい光景で、何教徒が何教のゲートを出入りしようとそれは同じだった。
 防寒服を脱いで席を埋め尽した善男善女は、何の飾りもない巨大な金属製の円筒に向かい、頭を垂れて合掌する。聖職者らしい服装の者がいない。司祭も、僧侶も、牧師もいないし、ラビも、神官も、修験道の先達も巫女の姿も見当たらない。墓参は死者を(いた)むというよりも、死者と係り持った自分を確認しに来るようだ。儀式ばったようすはないが、自己と他者が存在しての世界だという深い思索に裏付けられた祈りのようだ。人類の世界はひとつになり始めていた。
 国の要人であれ犯罪者であれ、国連難民高等弁務官であれアムステルダムの裏町の娼婦であれ、人間は死ねば火葬にされる。骨灰の一部だけが本国で取りまとめられて、ここ南極に合祀(ごうし)される。故人が裕福な生前を引きずり、財力に物を言わせようとしても、墓所を個人の所有したり、そこに納骨することは許されない。残りの骨灰は魚の骨や卵の殻と同じゴミとして廃棄される。遺族が手を合わせる巨大な骨壷には、故人の生前には縁のなかった厖大(ぼうだい)な数の赤の他人の骨が入っている。自分にゆかりの人たちの冥福を祈ることは、そのまま敵やヤクザ者や殺人者たちの冥福もあわせて祈ることになった。人類は、生前の不平等をついに克服するには到らなかったが、死んでからの平等だけは約束されるようになった。
 なぜこんな風になったのか。話は十七年前にさかのぼる。今から思えば、偶然としか思えない人たちがあの時に集っていた。何よりも国際平和の理想に燃え、その方法論を真摯に模索した人たちだった。もちろん無神論者もいたが、例外なく人類と宗教とを真剣に考える人たちだった。私心のないところが彼らに共通していた。それは彼らの立場に由来していた。一国の国益と世界平和を個人の内に止揚して、おそらく本国の、いやどの国の元首よりも正しい判断をする人たちだった。二〇二三年の国連総会でのことである。

(二)

 本会議の始まる前のロビーで、皮膚の色の違う十人ほどが談笑し合っていた。総会に所属する第三委(社会・人道・文化)のメンバーたちだ。アフリカ人が顔見知りらしいアジア人に話しかけていた。
「また総会となると、例外なしにみんな自国への利益誘導演説だなぁ」
 アジア人が日本語訛りの英語で答えた。
「あゝ、プレッシャーだな。国から派遣された以上、国に奉仕しなきゃならないのは仕方がないのさ」
 コンゴ人のマイク・マケテナイが同意を求めた。
「俺たちはまるでガキの使いだな。そう思わないか?」
 背の高い白人がうなずいた。ノルウェーのヘンリク・アキマセンネン。彼は無神論者だ。
「自嘲的にならざるを得んな。まったく何のために僕たちはここに集まるんだか……」
 アジア人がアキマセンネンに尋ねた。
「君んとこ、国家反逆罪でも死刑にはならないんだろ?」
「やっぱり無期懲役だと思うけど、なんで国家反逆罪?」
 日本人は書類入れから紙を取り出して、その下半分を使って英文でサラサラと何か書きつけた。アフリカ人、ヨーロッパ人、他のアジア人がコーヒーと受け皿を持ったまま肩ごしに紙をのぞきこんだ。
 ……人種・宗教の相違を克服したと信ずる我々一同は、今ここに、人類がこれまで高く掲げながら達成し得なかった人類の崇高な理念である国際平和構築の礎たらんことを決議した。我々の真の任務はこれを()いて他にないと信ずる。従って本国より課せられた如何なる使命にも優先させて、世界平和実現のために具体的に貢献することを各自署名を以て誓約するものである。我々を国家反逆者と呼ぶなかれ。我々こそ来るべき世界連邦の旗手なればなり……
 同じような思いをしている代表たちだったのだろう。書かれた文章を読んだ数人から拍手が起こった。コーヒーで手のふさがっていた者たちは、ワンダフル、ハラショ、スプレンディダ、ヘンハオ、チョッター、トレビアンなどの言葉を口にした。
 日本人の男は声援を満足に感じて、ボールペンをねじってシャープペンシルにすると、英文の上の余白に大きな環を描いた。
「その輪はなんだ?」
「ジス・イズ・アンブレラ・ジョイント・シグネチャ、あっはっは。署名を輪にすれば主謀者が誰かわからなくなるだろ? こうするんだ」
 日本人はシャープペンシルを再びねじってボールペンにした。紙を斜めにして四時方向に自分の名前をきれいなローマ字で書いてみせた。
「ほ〜お、グッド・アイディアだ」
 その場の大使たちは皆うなずき、先ほどより大きな拍手が起こった。
 本会議開催のアナウンスがあって、集っていた代表たちはロビーから本会議場に連れ立って行った。スピーカーの声にあわてた日本人はテーブルのコーヒーをこぼしてさらにあわてた。ポケットからハンカチを取り出し、テーブルと床のジュウタンを何度かこすって小走りに本会議場に向かった。
 ……今日は〈クジラ〉だったな。調査捕鯨の枠を拡大してもらわねば……。クジラを食べない連中は、クジラを食べる日本を異文化の国だとは考えてくれない。クジラを食べること自体を非文化だと思っている。こんなのハナっから噛み合うわきゃねぇんだ……
 かつて世界一の捕鯨国だったノルウェーのアキマセンネンだって反捕鯨の世界的時流のなかで果たして康祐に賛成してくれるかどうか……。

(三)

 見坊康祐は、官僚の作った文書を棒読みして、通りいっぺんの演説を終えた。海を持たない内陸国の女性代表たちは康祐を人喰い人種を見るような眼でにらんでいた。自国と係わりのうすいものなら、それだけ冷静に判断できると彼は思うのだが、超国家のはずの国連でも会議場は相変わらず国どうしの駆け引きの場だった。
 ……会議っていうと決まって胃の具合が悪くなるんだよなあ。くそッ、ムカつく。ああ、読むだけは読んでやったさ…… 
 康祐は会議の後、いつもながらの不全感に悩まされる。
 
「ああッ、ヤバイッ!」
 康祐は会議場に入る前のことを思い出して、とっさに走りだした。出口に向かう各国代表たちを乱暴に掻き分けて、まっ先にロビーに飛び出した。
「ここだ、ここだっ。れれ? ね、ねぇよ。紙がねぇよ。どこだよッ、紙はッ!」
 康祐は青ざめた泣き顔で、黒人の女性事務職員に尋ねた。
「紙を見かけなかったか?」
「紙? 見かけませんでしたよ」
 康祐は目を皿にして辺りを探しまわった。床には紙はもちろん、コーヒーのシミひとつ見当たらない。保安課に電話を入れてみたが書類の拾得物は一件も届けがないと言う。康祐はうなだれて、深いため息をついた。
 ……俺も終りだ。もう日本に帰れない。シュレッダーで細断されていない限り、この建物内で書類は抛棄されることはない。あれが他人の手に渡ったら……。

 見坊康祐はダウンタウンのジャズ・バーでひとりヤケ酒をあおっていた。
 ……冗談にもあんなことをするんじゃなかった。ふだんから気持のどこかでおかしなことを考えているから魔が射したんだ。僕はどうしたらいいんだ、これから……。
 コンボがゆったり、ゆったりラッパを鳴らしている。ペットとサックスのユニゾンだ。
 ♪ディープ・リバー、マイホーム・イズ・オーバー・ジョーダン…… 
「なにがジョーダンの向う側だよ、僕にはもう帰る家なんかねぇだろがーッ」
 となりのテーブルの黒人が二人、康祐を(にら)んだ。静かにしろ、だ。
「おうっ、やっぱりここだったか。コースケ、なんで電話に出ないんだ。それより、これを見てくれっ」
 コンゴ人マイク・マケテナイだった。
 テーブルに突き出されたのは康祐が必死で探していたあの紙だ。地獄に仏のマケテナイに康祐は大げさに抱きついた。
「お、おぉ。マイク。ハウ・ナイス・オブ・ユー。ユア・マイ・ベスト・フレンド。サンキュー・ベリマッチ」
 康祐が紙を取ろうとするとマイクはサッとその手を引っこめた。
「な、見たろ? もうこれだけ署名が集ったんだぞ」
 マイクは時代劇の役人のように紙の上下をもって得意そうに康祐の目の前にかざして見せた。
 康祐の署名から始まった連判状は、数名分のスキマを残してほぼ完全な円形になっている。
 康祐がスキを見て紙を破ろうとすると、マイクは紙を持ったまま体をひねってかわした。
「何をするっ、コースケ」
「頼むッ、マイク。僕には妻も子もあるッ。お願いだ、それを返してくれッ」
「コースケ、君はこれを冗談にしようというのか? それはないぞ。ここにサインした連中はどうなる? みんな君に一杯食わされたのか? それでは済まないよ」
 マイクの眼が厳しかった。
「お前、どうかしてるよ。みんなだってそうだ。そんなことができるわきゃねぇだろう。できっこねえんだから冗談だろっ。クレージーだよ、お前ら。国に帰ったら裏切り者で処刑されるぞ。どれだけ苦労して今の地位まで()い上ってきたんだ。考えてみろよッ」
 康祐は不安が現実になっていく怖さを感じた。

(四)

 マイクは酔った康祐を抱きかかえて店を出た。
 十二月のセントラル・パークは寒気がこたえた。街灯のあるベンチに康祐を座らせて、マイクは向かい合ってしゃがんだ。大人が視線を子供と同じ高さにして(さと)すときの格好だ。ゆっくりした低い声だった。
「コースケ。君の国じゃ、君が冗談だったと言えば冗談になるのか?」
「だから、すまなかったって言ってるだろ……」
「腹を決めるまで署名は待ってくれ、と言う者が三人いた。そいつらからもアンブレラ・コンパクトの件は口外できないように言質を取った。署名した連中はみんなイチかバチかで賭けたんだぞ。君の宣言文のおかげで行き方を(あやま)ったままでキャリアを終わらせずに済む、目が醒めた、初心に戻れたと涙を流したやつらだ。人類の恒久平和のためなら国家反逆罪くらい何でもないってな。そんな理想家たちがダテや酔狂(すいきよう)で署名すると思うか?」
 マイクはすでに有効なカラ傘連判状を指差した。
 康祐の酔いは醒めていた。憔悴した彼の耳にマイクの声が懐かしい人の名を告げた。
「ラティファさんがアップタウンにアパートを借りてくれるそうだ」
「えっ? 彼女が?」
 ラティファ・アフマドさんは康祐が一目も二目も置いているパキスタン女性だ。彼がまだ駆け出し大使だったころ、にこやかな笑顔でよく話しかけてくれた。慣れない仕事でストレスばかりの康祐はその微笑にどれほど癒されたことか。彼女自身はイスラム教徒なのだが、異なる宗教の大使たちとも無神論の大使ともよく会話をする人で、見識の広さと深さは仲間うちでも有名だった。
 一宗教への帰属意識に固まってしまうと他宗教と衝突を起こす。相手を含めて考えると、一宗教の善意が歴史的愚行になることがある。自分がどの宗教に属していようと、相手と自分を相対的に見られない限り軋轢(あつれき)は避けられない。それでも宗教は長くコミュニティの生活規範であり、本人にとっては信条でもあるので、心の()り所である宗教を根こそぎにはできない。人々の移動距離や異文化に触れあう度合いは、地球上にさまざまな宗教が発生した頃とは比較にならないのだから、これまでの宗教的慣習をそのまま()とするのでなく、一人一人が自分のなかで宗教を捉え直さなければいけない。宗教は一国の王でも大天才でも二人の主人(宗教)に仕えることはできないと教えるが、それはそのまま、自分の宗教以外を信奉する人たちがいるということだ。現在の我々は事実上、複数の主人を認めていながら一人の主人に拘泥(こだわ)っている。このこだわりは捨てなければいけない。個人は「善いものはよい、悪いものはわるい」と言える個人でなければならない。
 康祐はラティファさんのバランス感覚と意志の強さに好感を抱いている。彼女はその信条のせいで自国の原理主義者たちから命を狙われることもあるのだと言う。それでも信念を曲げない。彼女の五十何年かの経験が思考に余裕を持たせているのだが、それを保身のために用いることがない。康祐がラティファさんを素敵な女性だと思うし、理想とするところもよく解る。二人とも学生時代に、どの学派に属さぬ経済学の巨人J・K・ガルバンチュアを読み漁り、同じ影響を受けたせいかも知れない。国連大使の多くが立場を優先させて悩むときでも、彼女なら事態の性質を正しく把握するだろうと思える。そのラティファさんの署名が自分の名前のすぐ下にあることに康祐は感動を禁じえない。彼女が康祐の発案に賛同してくれている。それも、まっ先に。
 康祐の連判状は冗談であったのか? そうとは言い切れまい。では本気であったかと問われれば、これも、そうだとは言い切れない。立場的には冗談でも、心情としては本気でもあったろう。そんな葛藤が連判状という突飛な形をとったのだ。現実の隠然とした力に押し流されながら、若い理想を捨てきれずにいる同僚たちが立場を超えて署名を寄せてくれたのだ。それはノスタルジアというのとも少し違う、実現の可能性のある理想かも知れない。
 ……そうか、もう動きだしてしまったのか……


(五)

 マイク・マケテナイが言った。
「俺たちの任期のうちにできるだけデカくて、後からひっくり返せないようなことをやる、国連総会の決議としてな」
 ……なんてこった。マイクも他の国連大使たちも何と単純な連中なのか。ラティファさんの理想は解る。しかし僕は名門の政治家の令嬢で育った彼女とは違う。僕は百姓のセガレだ。父も母も僕の出世をよろこんであの世に旅立った。親類のなかでは僕が手本になってさえいる。僕を目指して勉強している子供たちがいる。妻と二人の子供の小さな家庭は何よりも大事なのだ……。
 康祐は「現在」を守るために理想と現実とは違うと思いたい。しかし、現実を維持するだけで務めを終えるのは自分の望んだ生き方だったのか、とも若い時代を振り返ってみる。康祐のなかで理想と現実が若いときのようにぶつかり合う。
 ……やっぱり、ボタンの掛け違えを確認するしかできないのだな。連判状はマイクの宿舎に忍びこんででも取りかえそう。だが、しばらくは様子を見るしかない……
「で、具体的にはどうするんだ?」
「それはこれから会合を重ねるのさ。使いに出された忠犬どもが、いっせいに飼い主に噛みつくんだからな、失敗はできない」
 ……マイクの生真面目さにため息が出る。どうすればこの男の気を変えられるのか……
 康祐は声を落ち着かせて尋ねてみた。
「マイク、子供はいくつになる?」
「一番上がはたち、大学生さ」
「いいのか、おまえが死んじまって……」
 マイクは押し黙ってうつむいた。目にこぼれ落ちそうな涙が溜まっている。康祐は期待を持った。
「はたちになれば、父親がどんな気持だったかくらいはわかるだろ。なぁに、どの国にしても誤解はいっときだ。署名した連中はそんなことは承知だよ。みんな自分の理想と国の代表の板挟みだ」
「いいよな、君は。ウチはまだ幼い」
「コースケ、俺は考えた。子供たちがな、なんであの時、つまり今のことだが、父親がなぜアンブレラに入っていなかったのかと、僕のことで悩んで欲しかぁないよ。命はいつかは尽きる。俺たちがアンブレラを実行してもしなくてもな。命というものは尽きるものだ……」
 康祐はマイクのこの上ないバカ正直が、すがすがしい純粋さでつらぬかれているのを感じてヘンテコな気分になって来る。こころが揺らいでしまう。頭のなかが収拾つかない。
「わかった。張本人の僕が情けないが、マイク、自分を落ち着けるために二日だけ時間をくれ」
 康祐は苦しい申し出をした。
「よかろう。アンブレラだからな、君が張本人という訳じゃないさ」
 ……自国の大義より人類の大義をとる仲間がこれほど多いとはな。人類の愚行の悪循環は断ち切らなければならない。でも、俺たちにはその権限はない。ただの使い走りだ。でも誰かがやらなければならない。立場を超えて大義に殉じる……か。大使たちがこんなにも純粋な狂気の持ち主たちだったとはなぁ……。
「マイク、もう一度その紙を見せてくれ」
「あゝ、自己犠牲の尊い署名だ。ようく見てくれ」
 マイクは今回は驚くほどあっさりと康祐に渡した。
 ……男らしいやつだな……
 康祐は連判状を引ったくって丸めて飲みこんでしまおうという考えが自分の頭をよぎっていたことが恥ずかしかった。
 ……いるのだよな、こういう性善説のお人好しが。こんな俺をすで信用して疑わない、マイク・マケテナイ。お前という男は……
 マイクの雅量に、ラティファさんの考えに康祐の連判状をもつ手が震えた。

(六)

 康祐は二日二晩考えた。
 ……日本の国益を第一に、国民の総意に従って、その障碍となるすべてを排除し……  日本の代表としてスピーチをする度に、心のなかで繰り返してきた台詞だが、「国民の総意」という部分に康祐は実感がない。役人の作った原稿は庶民の感覚からは懸け離れている。保身のために選挙制度までいぢっておかしくしてしまう国が民主国家だと言うのだからお笑いだ。小選挙区で当選した候補者が果たして民意のどれほどを担っているのか。マイク流の言い方だと、僕たちは忠犬ハチ公だ。いっとき国のトップに居座った者たちの言いなりで任期をやり過ごすだけだ。僕の高校時代からの理想はどこへ行った。大学で学んだ国際関係論はどこへ消えた。でも、現実にはこれが民主主義だ、仕方ない……。
 康祐は操り人形でしかない自分の立場が情けなかった。そんな思いが大使になってからも二度や三度ではない。よその国の代表たちの本音を聞きたいとずっと思って来たが、誰も自国に不利益になることは出来ないのだし、出来ないことは口にしないのだった。
 それが、カラ傘連判状が回ってからというもの、各国代表の康祐を見る目が明らかに違ってきたように思える。彼らの視線に勇気づけられるように感じてしまう自分がいる。個人的見解と国の要求は食い違って当然という顔をしていた大使たちが、少しずつ自分の理想を口にするようになって来ている。知っていながら繰り返してきた悪循環から微妙に外れることを話すようになって来ている。……このチャンスに僕は何か、そう、何かしなければならない、と康祐は思う。

 この頃の第三委のメンバーたちは、同じ挨拶の微笑みにも意志がともなっている。仲間には仲間だとピンと来る微笑だ。腹を決めた仲間たちはもう誤解を恐れてはいないのかも知れない。
 日本人のようなアジア系の男が白人女性と話していた。
「ぼくは国連に集るのがむなしいと思うことがあるんだ。力を持たなきゃ正義もへったくれもないと腹の底じゃ分かっているのに、のこのこ出て来るわけだろ……。みんなが少しずつでも本音を分け合えば、そこそこ賢者の集りになるものをさ」
「だから、私たちがここに集まったんでしょ?」
 白人女性はきっぱりと言った。
(トゥイ)(トゥイ)
 長身の東アジア系の男が相づちを打った。
 小柄な男は康祐に振り向いて手を差し出した。
「僕は全于山(チヨン・ウサン)、韓国人だ。君のあの雨傘(ウサン)は見事だったな。よく思いついたよ。なんたって円は完全だものね。西洋人には解りにくいだろうけど、東洋人の僕にはよくわかる……」
「それはどうかなァ。西洋にだってどこにだってあるだろ、みんな賛成してくれたんだし。アーサー王伝説の円卓の騎士の話だって……」
「あ、そうか。僕がせっかちだったか、あはは」
「アンブレラ・ジョイントは日本の封建時代のものだ。いよいよ権力に抵抗しなきゃならないときの百姓の知恵さ。ほら、今の背の高い中国の大使も《造反有理》だと言ってくれたけどね」
 康祐はすっかり反体制からしゃべっている自分に気づいて狼狽した。
 ……な、何を言ってるんだ、僕はッ。百姓一揆の時代とはわけが違うぞ。民主国家日本を代表する国連大使なんだぞ、それを反逆だの造反だのと大それたことを……
 全于山は続けた。
「アジアの封建主義ね。それって君主国も共和国も変わらないよねえ。ウチなんか国連をガキ大将に牛耳られたクラス会くらいにしか見てないよ」
 康祐の頭のなかにアキマセンネンの口ぐせの〈国連ごっこ〉という言葉がちらついた。
 ……形だけだな、俺たちなんて、ホント形だけだ……。
「政治家は結局、利権のためにしか政治をしない。奴らをシラジラシイとかフテブテシイと批判してみても、俺たちだって同じ穴のムジナだよ」
「国連の理念もへったくれもない……。本国の国益と僕自身が国の役にたてるものは違う気がしてならない……」
「気がするんじゃないよ。実際に違うんだ。何とかしたい、どうにもならないの繰り返しさ。でも何とかしたい」
「私たち、そのために集まったんでしょ」
「対、対、対」
「国連も理念どおりに運営されれば、大国のエゴのクッションくらいにはなれるだろうけどね」
「みんな保険料は少なく、保険金はガッポリ欲しいものな」
「払い込み額に物を言わせて国連を私物化しようというアブナイ国もあるしね……」
 背の高い白人男が言った。アキマセンネンだ。
「国連ごっこだな。有名無実の国連でお茶を濁してるだけなんだ。国連的な意味では本国から何も期待されちゃいないんだから、空しいよ。何とかせにゃあ」
 白人女性が言った。
「そのために集まったんでしょ、私たち?」
(トウイ)(トウイ)
 アキマセンネンに劣らない体格のアジア人がいつものように相づちを打つ。


(七)

 見知った顔ぶれがラティファさんが借りたアップタウンのアパートに集まっていた。いよいよ意見を持ち寄る集会だ。第一回は司会を立てない親睦パーティだ。フォークダンスのように次々に話し相手を変えてゆくスタイルで、出席者は自分の思うところを相手に話した。談話会としたのはアフマドさんの発案だが、誰の音頭でもないカラ傘連判状のイメージがあったのだろうか。まずはお互いを知り合い、仲間意識を確認する目的だったが、出席者たちは連判状に署名した時点でそれは出来上がっていたのだ。大使たちはいきなり本題に入っていく。今まで口をきいたことのない者どうしが信頼しきって相手を選ばすに話しかける、聞き入る。アンブレラの威力だ。
「人間に共通のモノって何だろね?」
「共通のモノを大事にすれば、誰にも不都合は起こらない」
「ぼくもそれを考えていた。ある国の文化を選んで保存することが果たして国連の仕事なんだろうか? なんか不公平な気もするが」
「文化を選ばずに均等に敬意を払うというのは如何なものでしょうか、レベルの低い平等論に終始するから第三委はクラス会なんて言われるんでしょう? どの文化が人類の共有すべき財産であるのかはわかりませんが……」
「序列をつけたら国連じゃなくなるよ」
「じゃ、その辺が国連の限界です。国連の理念からかけ離れてしまいますよ」
「我々は自国の利益代表でしかないな。国連の理念はそうじゃないだろ?」
「会議の発言は、どの国も自国の利益を優先させている」
「自国の利益にならないところで他の国々と協調はしにくいけどなあ。そもそも国連の存在意義は……」
「つまり、国連の存在意義から考えると、ぼくたちはやるべきことをやっていない、そういうことになるのか?」
「だからぼくたちはバカな犬ころなんだ」
「首輪がじゃまだねえ」
「首輪を外してみたら? 私たちはそのために集まったんでしょ?」
「対、対」
 ここに民族衣装の老人イブン・モハヤダメジャが加わった。彼はアラビア語で話し、ラティファさんが英語に通訳した。
「表面だけご近所付き合いの愛想を振りまいておけばそれで良い、国連をその程度のもんだと腹のなかでみくびっておる。悪くは言いたくないが、わしの国がそうじゃ。やんちゃ坊主がはばを利かすのは国連の機能が落ちるで困るが、わしらもイスラムだけで固まっておればいい時代じゃないわい。大使の一人ひとりは本国から国連へ送り込まれて来るちゅう、言わばタテのもんじゃが、この集まりは大使連中が横につながろうちゅう話じゃろ? わしはそう思ってアンブレラに署名したぞ。ああ、老いぼれにだって覚悟はあるさ。皆の衆もそうなんじゃろが?」
「ここに集まった誰もがそうですよ。国家のロボットでなく、我々を立場を超えた平和主義者の集団と位置づけられないものかと……」
「私達はそのために集まったんでしょ?」
「対、対、対」
 国連大使たちはもともと立場的不遇を強いられた人たちであった。当てにされていないのである。彼らは慢性的なストレスからカラ傘連判状に署名をしたと言える。
 先ほどから『そのために集まったんでしょ?』と繰り返しているのはロシアのエカテリナ・モロトモワで、『そう、そう、その通り』と相づちを打ち続けていたのが中国の許唯諾(キヨユイダク)。常任理事国の大使だ、心強い。康祐は実に久しく経験しなかった感覚に襲われた。武者震いだった。
 ……理想主義者が理想に殉じないのでは確かに矛盾だな。僕はこの人たちの仲間だ。連帯せにゃ……
 国連大使たちは純朴で誠実な人たちであったから、自分たちの存在に意味を見出せないのは我慢できることではなかったのである。何事かを為さなければ、彼らの意味の空白が埋まらないのだった。

 二〇二三年秋、国連総会の決議は臨時ニュースで各国を駆け巡った。
「特定宗教固有の慣習的な部分を可能な限り排除して、全人類に共通の理想と矛盾しないものを改めて宗教とする。その手始めとして、既存の各宗教宗派に独自の葬儀法はこれを認めず、いずれの国もその主権の及ばない南極大陸を全人類共同の墓所と定めて…………  (了)


政治・歴史・経済……すべてに無知の水野熊五郎が堂々と厚顔無恥をさらしたヨタ話。まったくのフィクションであります。













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