第一八譚 現実と偽りの差
美術室は第三校舎の三階にある。
第三校舎は別名『オバケ屋敷』と呼ばれ、基本的には誰も近付かない。それに『利用率が低い特別教室』を集めていることも手伝って、ひっそりと淋しい感じの校舎である。
楓が思うに、第三校舎の階段はボロい。
所々塗装は剥げ落ち、天井にぶら下がっている『何だか白くてポロポロした物』は(あくまで楓の推測だが)アスベスト。そろそろあらゆる観点から考えて、建て替えた方が良いのでは、と楓は思いながら一人階段を登っていく。
それにしても静かだ。
楓の靴音しか聞こえてこない。
ここまで静まりかえるのもどうかと思う。そこまで七不思議が怖いのだろうか。
楓だって七不思議を気にしていないわけではない。
入学した当初はこの第三校舎に纏わるいろいろな噂を耳にして、おっかなびっくり美術室に通う毎日だったけれど直に慣れてしまった。それでも一応、廊下の電気は常に付けているし、出来るだけ暗くならないうちに美術室から出るようにしている。その甲斐あってかこの二年間、一度も七不思議にあるような光景(踊り場の天井から血が降ってくる等)には遭遇したことがない。
(怖いって言えば、怖いんだけど……)
怖いと言うよりは、不安だろう。
得体の知れない物に対する不安と言うモノは、なかなか払拭することが難しいのだ。
今はもし何かあったら『紫衣』という対抗手段があるけれど、果たして幽霊なんてモノに物理攻撃が利くのだろうか。多分、俗説から考えてみればスカッとなるだろうから頼りに出来ない。
楓は今日も早く帰ろうと心に決めて、
(?)
二階と三階、その間に設けられている踊り場でふと止まる。
「い……の……」
「……いの。どう……誰……来ない……って……」
(……声?)
思わず息を殺す。
気配を消し、念のため手の中に最小化させた大鎌をスタンバイ。不測の事態に備える。まさかこんなところで『鬼ごっこ』で培われたスキルが活躍するとは思わなかった。
普段生徒があまり立ち入ることがない第三校舎だ。
―――なのに声が反響している。
二人分、しかも耳にしたことがあるようでないような、そんな声。
そりゃ校舎なんだから人が居たってなんら不思議はない。が、第三校舎に通い慣れているからこそ、不審に思う。
一体、誰だろうか。
息を殺し、感覚を研ぎ澄まして、
(ああ)
一気に脱力した。
感覚を研ぎ澄ませてみればなんてことのない。
男と女。
どうやら恋人らしい。大方事態は把握できた。
会話の内容は途切れ途切れだったが、聞き取れないこともない。会話内容なんてジグゾーパズルの要領で簡単に予測できる。
(こんな所でイチャつかないでよ……)
楓は思わず肩を落とした。
普段は人気のない第三校舎だが、裏を返せば格好の逢瀬の場となるのだ。
(むう)
気まずくなるのと同時に、何だか腹が立ってきた。
(これから集中したいのに)
美術室は三階だ。だが厄介なことに三階の廊下でイチャついているらしい。堂々と足音を立てて彼らの目の前を通って行けばいいのだが、中途半端に気が引けてしまう。
(どうしよう)
真剣に悩み始めた楓だったが、
―――その悩みはすぐに消えた。
「ね……もう……浮気し……ダメ……よ?」
「だ……らア…………浮気じゃ……ぇ…………。あん……優等生女……より……の……方……ずっと……良いか……」
(え?)
壁に背中を擦るように、階段を出来るだけ音を立てないよう努力しながら、楓は階段をギリギリ彼らに気付かれないだろう地点まで登れば、会話内容がはっきりと聞こえてくる。
「でも、香奈からデートしてたって聞いた〜」
「だからな、アイツが迫ってきたんだよ。大体さ、冷静になって考えてみろって。俺がお前を置いて二組の黒城なんかに走るわけねぇだろ」
聞き覚えのある名前に、楓の心が跳ねた。
「ホント〜?」
「ああ。誓うよ。だってさアイツ相当ヤバイよ。俺が彼女いるからお前とは付き合えないって言ったら逆ギレしやがってさ、もうマジで焦った。清楚な優等生って思ってたけど相当な猫かぶりだよ、ありゃ」
心が、荒れる。
心臓が、握り締められらような感覚が楓を苛んでいく。
「あ〜。そんな噂聞いたことあるな。実は相当遊び好きらしいって。いろんな男とヤッてるらしいし」
「マジかよ……」
「でね〜、今は同じクラスの神田ってヤツがお気に入りなんだって〜」
心が、軋んだ。
思わぬ名前だった。
楓は硬直する。
「神田ね」
「知り合い?」
「アイツと中学一緒だったからさ。中学時代からモテてさ〜」
突如として激しい感情。
熱となって全身を駆け巡る。
それはあまりに激しい感情で、楓は抑える術を知らない。
「噂だとね、神田は乗り気じゃないみたいなんだけどね。何度も黒城さんって言い寄ってるらしいよ〜。黒城も結構可愛いからさ、神田ってヤツもすぐに落ちでしょ」
パキン。
そんな音がしたような気がした。
何かが砕けた。確実に、砕け散った。
自分自身を構成する全要因が『北沢楓』からするりと抜け落ちてしまったような、膨大な喪失感と虚無感。
あの気遣いは何だったの?
あの言葉は何だったの?
あの笑顔は?
あの言葉の真意は?
「――――――――――――――――――――――――――――ッ!!!!」
まやかしだったのか。
感じた『楽しい』は、
浸った『心地よさ』は、
全部、和美のお芝居の元で成り立っていたのか。
まやかしの希望だったと言うのだろうか。
崩れる。
崩れて、消えていく。
そんな中、莫然と楓は思う。
どこかで疑っていたのかも知れない、と。
無意識に、潜在的に。
思えば確かにおかしかった。
和美のような文武両道で将来有望な才能溢れる人物が自分と連むのはおかしいのだ。住む世界や人間としてのスペックが根本的に違う二人だ。特別な理由がなければいっしょにいられるはずがない。
本当は分かっていたのかもしれない。
分かっていたのに、盲目的に、根拠のない事実にしがみついて。今までずっと気付かないフリをしていたのだろう。ずっと直視したくない部分を封印して、勝手に『和美は本当に楓のことを案じている』と決め付けていた。思い込もうとしていた。
楓のことを心配してくれた和美。
それは全部和美が利益を得るために演じていたものだったとしたら。
楓が『黒城和美』だと認識していたのは全部偽物だったとしたら。
「わ、急に抱き付くなって!」
「良かった〜。コウがあんな人でなしに取られなくて〜」
人でなし。
その言葉がグルグルと楓の頭の中を巡っていく。
するすると、壁伝いに楓はへたり込む。
身体を支えていることが辛い。横になってしまいたい。
(人でなし……)
これは、―――報い、かも知れない。
今まで楓がクラスメイトを始め、全てを見下していたその行為に、神様からの天罰が下ったのかも知れない。
ボンヤリとしか動かない頭の中、楓は自嘲気味に、嗤っていた。
何処からこの嗤いが生まれてくるかなんて分からない。
けれど、生まれてしまったから仕方がない。
嗤う。
嗤っていた。
狂ったように。
声も出さず。
淡々と。 |