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トイレの花子ちゃん

作者:文月みつか
 前期、中期、後期、独立日程と、可能な限りの数の国公立大学を受験して落ち続け、最後の最後に半ばやけくそ気味な気持ちで受けた苦手な小論文のみの試験で、どういうわけか合格した。その時期に進路が決まっていないのは同じようにあちこちで戦いつかれたものばかりだったろうから、私はその中でもまだ体力のあるほうだったか、あるいはあまりに支離滅裂で意味不明だが勢いだけはある文章を読んだ採点者が、いいように誤解してくれたのかもしれない。試験で書いた小論文の内容はさっぱり憶えていないが、尖った鉛筆でありったけの怨念をこめ、原稿用紙に文字を刻みつけた感覚だけは生々しく手に残っている。
 合格者の受験番号の一覧に自分の番号を見つけたときは、喜ぶというよりは信じられない思いで、なにか得体の知れないものにだまされからかわれているのではないかという気がした。合格通知が届くまで、その疑いは晴れなかった。
 だが、いまこの状況はどうだ。
 たった数週間前のあのときのサプライズをもしのぐ、目の前の現実。

 4月から念願の一人暮らしが始まり、慣れない料理の腕を上げようと虚しい努力をしていた。近所のスーパーで安い食品を買いまくり、いったいこれはどう組み合わせれば料理になるのだろうと早くも後悔しながら、まだ住んで5日目の安アパート「ダンデライオン」の一階、102号室に帰宅。
 ずっしりと重い買い物袋を床におろし、腕をもむ。一休みしたいところだけれど、すでに日は暮れつつある。このまま横になって寝てしまったら夕飯を食べそこなうかもしれない。
 牛乳と卵をスカスカの冷蔵庫におさめ、とりあえず顔を洗ってシャキッとしようと洗面所へ行ったところで、トイレの電気がつけっぱなしになっていることに気づいた。
 しまった、もったいないことしたなと電気のスイッチを押す……が、なぜか明かりは消えない。壊れてしまったのか?それに、ドアにカギもかかっている。ノブに表示された、使用中を示す赤い色。
 まさか……と一瞬不吉な想像が頭をよぎる。
 いやいや、落ち着け。
 私はトイレからゆっくりと一歩あとずさる。
 出かける前に玄関のカギはきちんと閉めた。四畳半にある唯一の窓だって、開けっぱなしになどしていない。それにほら、押し入れの隅の通帳も、本棚の上のブタさん貯金箱も無事。だいたい、侵入した家でのんびり用を足していく泥棒なんていないだろう。
 たぶん、最後にトイレのドアを閉めたときに、はずみで鍵がかかってしまったんだ。築40年の古いアパートだからそういうこともあり得る。うん、そうにちがいない。
 私は深呼吸してから、トイレのドアノブに手をかけ、ガチャガチャと左右に回した……開かない。
 それなら、と財布から10円玉を取りだす。このタイプの鍵はくぼみに平たいものを差しこんでくるっと回せば、たいてい開く。安全性の低いカギだけど、今回ばかりは助かった。
 カチャリ、とロックの外れる音がした。
「よしっ」とこぶしを握ると、すかさずカチャンと再びカギがかかる音がした。
 ……ㇵッ!?
 なんだ今のは。たしかに、開いた。そして閉まった?
 もう一度10円玉を差しこんでひねる。カチャリと音がして、またカチャンと閉まる。
「どういうことだ!?」
 私はドンッとこぶしをドアに叩きつけた。
 すると、「コンコン」と明らかに内側からノックが返ってきた。
「入ってまーす」
「……うにゅっ」
 予想外の声がして、舌をかんだ。入ってます、だと?
 だれが、いったい、どうして!?
 額を冷たい汗が流れる。
「あ、あのう、ここは私の家なんですけども……」
「知ってる。春野つむじちゃんのおうちでしょ?」
「お、おう……」
 なんだコイツは。なぜ私の名前を知っている。知り合いか?
 動揺はおさまらないが、それが少し高めの、あどけない女の子の声だったので、私はいくぶん肩の力を抜いた。
「そういうあんたは、だれなの?」
「あたし、凡陽小学校のトイレの住人、桜井花子。通称、トイレの花子さん」
「トイレの花子さん?……」
 からかわれているのだろうか。
 でもたしかに、聞き覚えのある名前ではある。
「花子さんが、どうしてうちのトイレにいるわけ?」
「よくぞ聞いてくれました!」
 と、声は黄色く色めきたった。
「あのね、あたし、トイレの中に閉じこもって、だれかが来たらノックをしたり声をかけたり、ドアが開かないようにしておどかすのが仕事なんだぁ」
 桜井花子は夢いっぱいの乙女のように語る。
「だけどね、最近トイレがリフォームされて。床も壁も、パステルピンクのきれいなタイルに貼りかえ。個室の間仕切りももちろんすべて作りかえ。便器だって清潔感あるつるっつるの洋式のものだけになって、おまけに音姫まで完備されてるの」
「それは、快適になっていいじゃない」
「よくない!ちっともよくないの!」
 桜井花子は憤慨し、おそらくスリッパで「ボン」とトイレの壁を蹴った。
「あんなきれいなトイレ、だれも怖がらないじゃない。ぜったい、前のほうがよかったよ。灰色がかった冷たい壁を照らすくすんだ照明、傷と落書きだらけの間仕切り、シトラスのどぎつい芳香剤の香り、なんだかわからない液体のあと、ヒビの入った洗面台、和式トイレの曲がったままのレバー、ひんやりした金属的なペーパーホルダー……ぜんぶ完璧だったのに!」
「うーん、やっぱりリフォーム後のほうがいいと思うけど。花子さんにとってはあんまり都合がよくないわけだ」
「そうなんだよ。あんなに明るくてきれいなトイレじゃ、だれも気味悪がってくれない。反対に、休み時間のたびにワイワイたむろする子がいて、ピカピカの鏡の前で髪の毛をいじくってる。あたしが一生懸命話しかけても、笑い声と音姫と勢いの増した流水にかきけされちゃう。だぁれも、気づきもしないんだ。このままじゃあたし、消えてなくなっちゃう」
 ぐすん、と鼻をすする音がした。
 私は急に桜井花子がかわいそうなやつに思えてきた。
「あれ……でもあんた、消えてないようね?そんでもって、なぜかうちのトイレにいる」
「えへっ、それはつむじちゃんがあたしのことを憶えていてくれたからだよ」
「なんですと?」
 今の今まで、小学校の七不思議なんてすっぱり忘れていたのだが。
「つむじちゃんさあ、よくトイレにこもりにきてたよね」
「そ、そうだっけ?……」
「うん。休み時間だろうが授業中だろうが、関係なくいたじゃん。おっかない子とケンカになりそうになって飛びこんで来たり、宿題やってないことを先生に問い詰められて逃げこんで来たり、どうしても本の続きが気になって、お腹が痛いふりをして授業の最中に来て、便器に腰かけて読書したりさ」
「そりゃ、あきれたガキだな」
 うーん、でも言われてみればそんなこともあったような
「あんまりしょっちゅう現れるからうっとうしくて、ちょっとおどかして追い出してやろうと思ってさあ、電気を消したり、扉の金具をキイキイ鳴らしてみたりしたけど、つむじちゃんったら全然めげないの。思い切って上からのぞきこんで声をかけたとき、つむじちゃんなんて言ったか憶えてる?」
 はて、どうだったかな。今なら間違いなく悲鳴あげてるけど。
「こうね、目をまん丸にして、『げっ、あんたもサボり?』って聞いてきたんだよ。あたし、間仕切りの上から身を乗りだしてたんだけど、力抜けて落ちたからね。水洗レバーにまともにお尻とももの裏ぶつけて、すごく痛かったんだから……って、ねえ、聞いてる?」
 コンコンと内側からノックが響く。
 私はぼんやりとそのころのことを思い出し始めていた。
 だれもいないはずの、国語の時間。保健室に行くふりをして、お腹の下に隠した本をおさえてトイレにかけこんだ。むせかえるような芳香剤のにおいを解き放つため、窓を開けて外の風を通した。ちょうど桜の木が満開で、薄暗い女子トイレの中にも桜の花びらがふわりと舞いこんだ。ひらひらと灰色のタイルに落ちる花びらを目で追うと、そこに女の子が立っている。まっすぐそろった前髪におさげの、色白美人の女の子。笑うと片えくぼができる。なぜかトイレでしか会ったことはないけれど、よく話しかけてくれて、いつのまにか仲よくなった。私の本を貸してあげたり、きらいな子の悪口を言いあったり、トイレの張り紙の裏に落書きしたり……ほんと、ろくでもないガキだったけど、楽しかった。
 でも、卒業の日が近づくと、花子ちゃんの姿はだんだん薄くなっていった。
「中学に行っても遊ぼうね」と言ったら、花子ちゃんは寂しそうにうなずいた。
「大丈夫、ぜったいまた会えるよ。私、花子ちゃんのこと大好きだし」
「でもきっと、忘れちゃうよ……つむじちゃんが大人になったら」
 花子ちゃんはぐっと泣くのをこらえていた。全開の窓から、桜の花びらがひらりひらりと、花子ちゃんの涙のように落ちてきた。私はそれを両手でキャッチして、二カッと笑顔をつくって強がった。
「この花、押し花にして栞にするからさ。本をひらいて見るたびに、花子ちゃんのこと思い出すよ。だから、次に会うまで、笑ってさよならだ」
 すると、花子ちゃんはようやくあのかわいらしい片えくぼを見せて、「ぜったい、約束だよ」と笑った。
 窓の外でつむじ風がぶわっと桜の木をゆらし、まだ咲いたばかりの花びらを雨のように散らした。
 それきり、花子ちゃんは私の前から姿を消した。

 私ははじかれたように立ち上がり、四畳半の本棚をあさった。
 小さな文庫本。あれだけはお気に入りだったから、読む気はなくてもお守りがわりに持ってきていた。
「あった、これだ!」
 『トム・ソーヤーの冒険』を、黄金の宝でも見つけたように掲げて叫ぶ。はやる気持ちでパラパラと黄ばんだページをめくると、パサッとそれが落ちた。
 あのときつかんだ花びらを押し花にして透明なシールで閉じこめた、手作りの栞。花びらは時の経過を忘れたように、まだ鮮やかにうす桃色をとどめていた。
 私は栞を手に、トイレのドアの前に戻った。
「花子ちゃん、私ちゃんと憶えてたよ。女子トイレでいっしょに笑ったことも、授業をサボって本を読んだことも、いじわるな子をおどかして仕返ししたことも。卒業の前に、笑顔で別れたことも。どうして今まで忘れていたのか不思議なくらいに」
 静かに息をのむ。
「……あっ、ありがとう。すごくうれしい」
 ガラガラとトイレットペーパーをまきとり、鼻をかむ音がする。
 そこまで喜んでくれるなんて、照れてしまう。
「やめてよ、こっちは忘れてたのが申し訳ないくらいなんだから」
「あっ、ちがうの。あたし、花粉症だから」
 まさか、お化けもアレルギーになるというのか。
 再び、チーンと鼻をかむ音。
「ああよかった。これでもう18人目だったんだよね。そろそろ心が折れそうだから、あきらめて新しいトイレに帰ろうかと思ってたところだったんだけど。最後の最後でいい子にめぐりあえてホッとしちゃった」
「……18人目、だって?」
「うん。何年かに一度、つむじちゃんみたいにお友達になってくれる子がいたんだけど、その子たちの家のトイレも行ってみたの。そしたら、時間が経ちすぎていて思い出してもらえなかったというパターンが12人。残りの5人は比較的若い子で、しゃべってるうちになんとか思い出してくれたんだけど、気味悪がられたり、家族もいることだし同居はちょっと、って断られたりでさぁ」
 18人目……じゅう、はち人目……
「その点、つむじちゃんは一人暮らしみたいだし、あたしのことを今も友だちだって言ってくれたし、問題なしだね!それに、この古くてちょっと寂しいたたずまいの家も、あたしの好みにぴったりだよ。そういうわけで、どうぞよろしく」
 どういうわけで、何をよろしくされているのだろうか……
「ひょっとして、うちのトイレに居座るつもりなの?」
「あ、食費はかからないから心配しなくていいよ。つむじちゃんが用を足したいっていうときは、ちゃんといなくなるし」
 ……私の感動を返して。
「そういうこと言ってるんじゃないんだけど!なんでもう住み着く気満々なのさ。私はいっさい、許可した覚えはないから。せっかく一人暮らしするために地元を飛び出してきたのに、これじゃ話がちがうじゃないか」
 どうして私は、こんなわけのわからない現実離れした状況で、必死に反発しているのだろうか。夢でも見ているのだろうか。
「そんなこと言わないで。あたし、あのぴかぴかしたトイレにずっといたら、そのうち消えちゃうよ。お願い、ここが最後の頼みの綱なんだよ……」
 そうだ、これは夢なんだ。タチの悪い、なかなか醒めてくれない夢。
 大学生活という華やかな青春を目前にして、私は足踏みしているのだ。そんなきらきらした世界に行ってうまくやっていけるか不安なのだ。だから、だれか一緒に飛びこんでくれる人がほしいと思っている。それが、無意識に夢の中で桜井花子とありもしない存在を作り上げているんだ。
 だったら拒絶することはない。桜井花子は自分自身だ。
 ……という、よくわからない仮説を立ててみた。いいんだ、どうせ夢なんだから。
「わかった。好きにしなよ」
「えっ、ほんとに?いいの?」
 きっと桜井花子は今、あの二つのくりっとした目を丸くしていることだろう。
「ただし、騒がしくしたらすぐに出て行ってもらう。あと、夜中に出るのも禁止。一人暮らしで夜にお化けが出る家とか、怖くてしゃれにならない」
「うん、気をつける。ほかには?」
「ほかには……」
 私は面倒くさくなった。
「まあ、おいおい考えるとしよう」
「わかった。……つむじちゃん、ありがとう」
 ひゅるんと、春の風が通り抜けた気がした。
「ところで、そろそろ顔みせてくれない?」
 私はドアノブに手をかけた。
「ええっ、やだよ恥ずかしい。トイレの中にいるところなんて、見られたくないもん」
 さんざん人のトイレをのぞいておいて、なにを言うか。
「だったらこっちに出てくればいいじゃん」
「あのね、あたしはトイレの花子さんなんだよ。トイレから出たら、ただの花子さんになっちゃうじゃない」
「私は別にかまわないけど」
「だめったらダメ!存在定義があいまいになって消えちゃったら、どうしてくれるの?」
「えー、それじゃ顔見れないじゃん」
 居候させてやってるのに。
「ごめん……」
 花子ちゃんはしばし沈黙した。
「ほんというとあたし、すでに消えかかってるの。ドアを開けても、対面することはできないんだよ。だからしばらくは、こうしてドア越しにしゃべるだけになると思う」
「なんだ、そうなの」
 私はがっかりして手を下ろした。
「夢でもいいから、花子ちゃんにまた会ってみたかったなあ」
「大丈夫。つむじちゃんがあたしのことを認識しつづけてくれれば、きっとまた会えるようになるよ」
「へえ、そういうもんか」
 お化けの事情は、私にはよくわからない。
「ねえ、気になってたんだけど、あんたも成長してるの?それともやっぱり、あの頃のままなの?」
 「フフッ」と花のような笑い声がした。
「それは今度会うときまでのお楽しみということで」
「なんだ、もったいぶるなぁ」
 そうは言いつつも、私は楽しみだった。ひそかに愉快だった。たとえ明日になったら忘れてしまう、夢の中のできごとだったとしても。
「あ、トイレ行きたくなってきた」
「えっ、このタイミングで?もっといろいろ語りたかったのに……」
「ごめんごめん、またあとで。さ、早く開けてちょうだいな」
 「はいはい」と名残惜しそうな返事がして、カチャリとカギが開いた。
 「入るよ?」といちおう、声をかけてからドアを開く。
 電気はついたままだった。ところどころカビっぽい壁紙も、水色の便座カバーもタオルかけにかかったタオルも、そのままだった。うすっぺらいスリッパも、きちんと両足そろえておいてあった。……向きは逆だけど。
 私はそのままドアを閉め、電気を消した。


 あれからしばらく経つけれど、桜井花子は現れていない。まもなく大学生活がぬるっとスタートし、私は新しい環境に慣れることと授業についていくことに必死で、すっかりあの不思議な夢について忘れてしまっていた。ただ、ときどきトイレの電気がつけっぱなしになっていたり、スリッパの向きが逆になっていることはあったけれど。たぶん私がうっかりしていただけだろう。
 あたたかな春の夕暮れが見せた、優しい夢だった。


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