Chapter 3
奇跡的な一週間が過ぎた。爆撃はしばらく途絶え、仕事はスムーズすぎるくらいにうまく運び、ジョニーが聖アントワーヌ通りにある託児所へ行き、ロージィと話をするのは、夕刻の習慣になった。
会えばロージィは、父親の話ばかりする。だが、それは決して退屈な時間ではなかった。とりわけジョニーの興味を引いたのは、ロージィの父親―いささか山師的なフランス人が、若い時に一財産作ろうともくろんで、仏印時代にカンボジアの密林の奥にある伝説のクメール寺院へ侵入したという話だった。
「その道はね、もうなくなっていたものなの。
昔の王様が、お寺へお参りに行列を組んで通った道だから、王道と呼ばれていたんですって。
でも、王道ったって、何百年も前の話でしょ。
ジャングルの木が、好き勝手にあちこち伸び放題で、とても歩けるもんじゃなくて、暑いし虫だらけだし虎が出るかもしれないしで、頭が変になりそうだったらしいわ。あたしは街で育ったけど、田舎から来た子はね、ジャングルには絶対入っちゃいけないって小さい時に教わるんだって言ってたもの。」
ジョニーは、ゆっくりと頷く。密林の恐怖なら、体験済みだ。もっともジョニーは、自然そのものよりも、自然の作る闇と一体化した敵のゲリラの方が怖かったのだが、それはロージィに言ってもしようがない。
「で、王道を切り開いた先に、寺は見つかったんだろ?」
「もちろん。見たこともないくらい綺麗な…神秘的っていうの?とにかくすばらしい建物だったのですって。名前がまたいいのよ、すてきなの。バントアイ・スレイ―処女のとりで、という意味なんですって。マリア様のお寺だったのね。」
ロージィは、うっとりと宙を見つめた。
その表情は、たとえようもなく可愛らしかったが、クメールの寺院とマリア様は何等関係がないに決まっているので、ジョニーは笑いをこらえて聞いていた。
アジア人は、聖処女などというご都合主義的な概念とは無縁に生きているし、大体数百年前のクメール寺院ならばヒンドゥー教文化の範囲内であるだろうから、エロス的な美に満ちているはずである。たとえ、『処女のとりで』であったとしても…しかし、そのイメージは、今自分の傍らに座っているロージィの姿と、ぴったり重なった。無垢で清浄な美を保持しつつも、自然のエロチスムが芽生え花開こうとする、その均衡のあやうさ。それを感じ取った瞬間、ロージィの中に異教世界の巫女だか舞姫だかを、ジョニーは確かに幻視したのだ。
「ロージィ」
ジョニーは、ロージィの手を取った。
「それは君の寺だ。君こそが、そこへ住むのにふさわしい。」
あまりに下手くそな口説き文句としか思えなかったが、言わずにはいられなかった。幸いなことに、十三才の女の子には、充分効いたようである。
「ありがとう、うれしいわ。」
ロージィは実に気をよくしたようで、取られた手を握り直したり、ジョニーの手と自分の手の大きさを比べて、その違いに驚嘆したりしながらも離さず、おもちゃのようにもてあそび、とりとめのない事を話し続けた。目下の悩みは、自分の部屋にカーテンがないことだと言う。
「マスールにお願いしたんだけど、お忙しいらしくて、すぐに忘れちゃうのよ。あたし一人じゃ作れないしね。」
今度会う時は、自分が持って来ると約束して、ジョニーは立ち上がった。そろそろ夜の仕事を始める時刻が迫っていた。ロージィは、庭の薄紫色の花の中に立って、手を振って見送った。
つかの間の静かな夜が終わった。夜間外出禁止令が解かれて、歓楽街はにぎわいを即座に取り戻し、あやしげな快楽の魔手を、くらげのように四方八方に伸び散らかしていた。
―ヘイ、ジョニー。遊んでいきなよ。あたし清潔、安くしとくよ。
―No,can do,No,can do.
ジョニーは、親しい娼婦達の誘いを適当にあしらいながら、夜の街をぶらついた。そこへ、やはり顔見知りの、初老のフランス人が声をかけた。
元植民地の都市では、必ずといっていいほど見かける男達の一人。主に裏の事情に精通し、表に出ている人間からは、軽蔑されながらも一目置かれ、ひそかに重宝がられる存在。
「ムシュ・クロード」
軽く挨拶した。クロードという名前しか知らない。
「ジョニー、君にちょっと話したい事がある。」
クロードはジョニーを、傍らのカフェへと誘った。別に親しくもないこの男が、いったい自分に何の用があるというのだ―ジョニーは訝ったが、クロードは面白がっているような顔付きで座ると、勝手にコニャックを二つ注文し、ゴロワーズに火を点けた。
紳士然としたところと、やくざな雰囲気が混然一体となって、何がしかの魅力になっているのは認めないわけにはいかなかった。ニューヨークにいた頃でも、こういう型の男にはお目にかかったことがない。この街ならではの、不思議なボヘミアンだろう。
「この街は気に入ったかね。」
薄ら笑いを浮かべながら、尋ねるクロードに、ジョニーはいきおい不愉快になった。長すぎる脚を投げ出すようにして、軽く頷く。
「…面白いところですね。」
「確かに面白いところだ。ソドムを知っている訳じゃないが、ここはそれに匹敵する魅力がある、そうは思わないかね?」
コニャックが運ばれてきた。クロードはグラスを持ち上げると、乾杯するような仕種をして、言った。
「君のローズに。」
ローズ?ロージィのことか?
「なぜ彼女のことを知っているんです?」
愚問なのかもしれなかった。この男が一目置かれている原因は、おそらくその情報収集能力のすごさにあるのだから。
「ローズを気に入ったようだな。」
クロードは、それはよくわかるという風に頷くと、コニャックを一口飲んだ。ジョニーは、黙っていた。
「あの子の行く末が気にならんかね。」
「修道院に入って、いずれパリへ行くと聞いてますが。」
「マスール・テレーズから聞いたか。」
「大変魅力的な女性でしたね。」
「あの女はCIAだ。君の手に負える玉じゃない。それに、本命はローズだろう。」
ジョニーは、向かっ腹を立てた。
「あなたの言う事はさっぱりわからない、CIAだとか本命だとか。第一おれは、変態趣味でロージィに近づいたんじゃありませんよ。あの子は友達だ。あんな環境にいるから少々変わってはいるが、ちゃんとした教育を受けさせれば…」
「レディになると?そうかもしれん。君のような不良青年が言うのもおかしな話だが。」
クロードは、喉の奥で笑うとコニャックを飲み干し、おかわりを注文した。
「君はローズの助けにはなれない。あの子は、今日明日にもショロンへ行くんだよ。楊大人―君のボスのお得意さんには一人息子がいる。そいつの愛人として、行くんだ。」
「あの子はまだ子供ですよ。」
「それこそ、変態趣味というやつだ。まあ、我らがテレーズは何とか阻止しようと必死らしいが、何分にもこの件は任務とは関係のない事だから、難しいだろうな。」
話が荒唐無稽に過ぎて、にわかには信じ難かった。
目の前にいるクロードの話しぶりには、どこか人をからかうような調子があり、若干嫌みでもあって、ジョニーは、たった一杯のコニャックですっかり悪酔いしたような気分に陥った。返す言葉も思いつかぬまま、ぶ然としついるジョニーに、クロードは顔を近づけた。酒臭い息が吐き出される。
「午前四時に、ローズに迎えが来るそうだがね。悪いことは言わん、あきらめることだ。」
その時、白人の男達数人が、賑やかに近くのテーブルにつき、中の一人がクロードに声をかけた。長期滞在組のジャーナリスト達らしい。それをしおに、ジョニーは立ち上がると、彼等に誘われテーブルを移動したクロードに、しわくちゃのピアストル札を渡し、出口へ向かった。ジョニーの背中に、クロードの声が飛ぶ。
「午前四時だ。それがチャンスだ。」
何も答えず、ジョニーは店を出た。 |