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「新テレーズ物語」に先立つ二年前くらいに書いた話です。
At 4 A.M.
作:加賀いつ子



Chapter 1


 何を好きこのんで、ここに留まっているのだろう。
 義務を終えた人間はみな、喜び勇んで故国へ帰ってゆく。もっとも、そういう連中は相当幸運な方で、少なからぬ者は死を賜る。
 ジョニーは、運が良かった。とりたてて優秀でもないかわりに、へまをやらかす事もなかったので、無事に務めを終えると天下晴れて自由の身となった。だが、不思議と故国へ帰りたいとは思わない。待っていてくれる者がいる訳ではなし、ひとかどの仕事をしていたのでもない――で、ジョニーは、この街に残る事に決めた、何となく。
 そう、何となくの正体を見極めるために残ったのだと言ってもよい。決してここが好きになったからではないのだ、とジョニーは考える。
 じっさい、ここはろくでもない街だった。ありとあらゆる悪徳がはびこり、不潔でよどんだ空気は、腐った魚の匂いがした。植民地時代の名残りで広場から放射状にのびている大通りには、瀟洒で美しく、堂々たる建物が並んでいたが、一歩角を曲がれば、毒々しい看板だらけのあやしげな歓楽街にぶちあたる。このような場所は、街の面積に比して明らかに多すぎた。住民達の多くは、異常なまでの活気にあふれており、あたかも一種不埒な情熱に支配されているが如しで、街全体が恒常的な躁状態で包まれていた。 
 もちろん、このような典型的退廃都市には、いわく言い難い魅力もある。
 それは、いわば麻薬のようなものであって、いったん街の隅々をひと通り味わうと、あとはもう他の場所など考えられなくなる。たとえば、この街のそこかしこに点在する阿片窟兼料理屋の二階から細々と洩れてくる煙の副作用によって、いつのまにか中毒患者が作られていくようなものだ。
 ジョニーも、そのような病人の仲間入りをするつもりなのだろうか。
 明確な意志など、なかった。ただ、街を味わい尽くすには、金と時間が要る。時間だけはたっぷりあって、金の無いジョニーは、それだから、身を落ち着けるための諸々の手続きを踏む必要があった。
 さいわい、このような街のことであるから、非合法な儲け話はそこいらじゅうに転がっていた。
また、それらに現実味を与え、秩序立ててゆく組織も慢性的に人材不足であったから、ジョニーがたやすく仕事の口を得る事は可能であった。 その存在自体は、まだアメリカやイタリアのそれほどには知られていなかったが、中国マフィアはこの街でも裏の経済の全てを支配していた。その中の、ある組織と取引をしている同国人をかつての仲間から紹介され、ジョニーは物資輸送の運転手をつとめる事になったのだ。
 ほぼ毎日、郊外と街の中心部を小型トラックで往復する。積み荷の中身には、決して興味を持たぬ事、あるいは他人に知られぬ事。早い話が、密輸品の運び屋である。
 もともとジョニーは、旺盛な冒険心や強烈な欲望といったものを欠いていた。のみならず、道徳心も欠如した男であったから、己が犯罪組織の片棒を担がされていようが、意に介さなかったのである。
 仕事の実入りは、けっこうなものだった。
が、ジョニーは、夜な夜な歓楽街に出て行って、似顔絵描きをやるようになった。
いちおう故国ではアートスクールに通い、正規の美術教育を受けたこともあるジョニーだが、似顔絵描きそのものは真剣にやっている訳ではない。
どう頑張ってみたところで、せいぜいがタバコ銭程度の稼ぎである。
しかし、ジョニーが生来持っている異国趣味エキゾチスムを満足させる、という意味では、なかなかに重要な仕事であった。総じて虚無的なジョニーという男の内に根強く在って、言動を左右するだけの力を持ったもの、それがエキゾチスムであった。 そう、何となく、という気分も、ここから来ていたのだ。ここには何かがある―それはジョニーの無意識が告げる声、いわば直感というやつである。 
 だが一方で、ジョニーの理性は、こう考える。
 この街にあるかもしれない何か、それをたとえば事の本質だとか真理だといったあいまいな単語に置き換えてみても、そんなものは或る意味では、どこにもあまねく存在するのである。 「何も、ここだけに限ったことではない」
 あたかも混沌の中に散在する美の断片のように、真理は巷の汚濁の中に仄見えるものなのだ。能力のある者だけが、それを掴む事が出来る。それで幸福が保証される訳ではないとしても。
 ジョニーはべつだん、自分が真理の探求者であるとは思っていなかった。この、ごった煮的な街のカオスから美の断片を拾い集め、それらを自分なりに再構築してゆくという試みはかなり誘惑的であったが、それ以前に、まずは全てが未知なるものとしてジョニーを魅了する。
 うだるような暑気の中の風景。絶対の青を誇る空。たっぷりと水気を含んだ凶暴な植物群。この街では、なぜか田舎者に見えてしまう同国アメリカの男達、彼等にぴったりと寄り添い抜目のない微笑を浮かべた地元の美しい女達。娟介と洗練をないまぜにした旧宗主国フランス人。感情の欠如した、干物のような老婆、憂鬱病に苛まれた若者、兵隊、警官、ごろつき、太った商人。白い蝶のような女学生の群れ。悪辣な子供達。得体の知れぬ食べ物の匂い、色彩、その味。
 この、二元論も弁証法もはなから笑い飛ばしてしまうような小宇宙は、確かに精神神経を甘く浸蝕してゆく性質を帯びていた。いつしかジョニーは、この街の女のように精力的に働き、この街の男のように優しい微笑を浮かべながら酒を飲み、賭け事を楽しみ、適度にドラッグをやるなどして黄金の日々を過ごした。












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