59歳のアリス
穴に落ちた。
なぜ落ちたのか、どこに落ちたのか、全くもってわからない。
月末の日曜に誕生日を迎える俺は、金曜の本日をもって定年退職となった。
その日、退職祝いで仲間と飲みに行くことになり、すっかり酔っ払った俺はネクタイを頭に巻いて千鳥足で街中をふらついていた。
気がついたら、耳の辺りをものすごい勢いで風が通り過ぎていく音がして、はっと我に返ると、よくわからないが落ちていたのだ。
それにしても長い。落ちている、その感覚はあるのだが、いつまでたっても下が見えない。
底知れない真っ暗な闇が続き、頭のネクタイが上へ上へとたなびいていることと、胃が浮くような感覚で落ちているのだとわかる。
いつまで落ち続けるのだろう。
まさかとは思うが、俺は死んでしまって、地獄へと落ちている……そんな想像までしてしまい、鳥肌が立つ。
四十年も働いた会社をやっと退職し、明日から悠々自適な暮らしが待っているのだ。それなのに今日死んだら、後悔することこの上無しだ。死んでたまるか。
俺は「うんせ、うんせ」と手をかき足をかき、上空へ上がろうとする。だが、やはりそれは無駄なことで、体はどんどん重力に従い、下へ下へと落ちていく。
ああ、神よ。俺はなにか悪いことをしたか?
天罰ならこれでもかとくらったじゃないか。
三五歳という若さで髪の毛はどんどん後退し、今やすっかりつるっぱげだ。リストラ寸前まで追いつめられた会社では、窓際が俺の憩いの場と化し、俺の分のお茶なんて誰も用意しちゃくれない。同期の木村は先月定年退職したが、それはそれは豪勢に祝われ、花束は抱えても持てない位もらっていたのに、俺ときたら、俺の拳ほどのちっこい花束ひとつだけ。退職祝いの飲み会だって、参加者は同じ部署の四人だけだった。これを天罰と言わずして、なんだというのだ。
なんだかとても切なくなって、涙が込み上げてくる。俺って、けっこうかわいそう。
ぐしっと鼻をすすった時だった。尻にかさかさした何かが刺さったのだ。痛くはなかったが尻をなでなでしながら立ち上がる。そこは敷き詰められたわらの上だった。
「おっさんが落ちて来たわい」
目の前には腕組みをした小さなじいさんがいた。
真っ白な髭と、軽く嫉妬の感情が芽生えるふっさふっさの真っ白な髪。うっすらと生えた眉毛も真っ白だ。背は100センチも届かないんじゃないか? 緑色のベストを着た姿は、小さな頃に絵本で見た小人そのものだった。
「あなたは閻魔大王さんですか?」
「それはないじゃろ、どう考えても」
しかし、俺はあんなに落ちたのだ。ここは地獄と見て間違いないだろう。針の山も血の池も無いが、地獄なんてものは人間の想像に過ぎない。真実の地獄というものは、目の前にある、このような洞穴をちょっとアレンジしてアメリカンカントリーのお洒落なお部屋にしました風なのかもしれないではないか。
「ここは地獄ですか。私は生まれてこの方、悪さのひとつもしたことがないので、確実に間違いだと思いますが」
「絶対嘘じゃろ。それに、ここは地獄ではない」
「じゃあ、天国ですか!」
それはそれでショックだ。
天国といったら、この世のものとは思えない(天国なのだからそうなのだろうが)天女がこれでもかこれでもかとわんさかいて、俺を囲んでハーレムハーレム右も左も前も後ろも美女三昧だと信じていたのに。ここが天国だったら、俺にとっては逆に地獄だ。
「天国でも地獄でもないわい。ここは夢工房じゃ」
「ゆ、夢工房? 美女工房ではなく?」
「……夢工房じゃ。子供の夢を膨らませる工房じゃ」
よくわからないが、地獄でも天国でもないらしい。ということは俺は死んだわけではなさそうだ。よかったよかった。明日からの快適ライフを逃さずにすんだ。
「しかし、夢も希望のかけらも無さそうなおっさんが落ちてくるとはのお……おかしいのお」
「夢もかけらも無い!? 何をおっしゃいますか! 私は明日からの自堕落な日々を夢見て、家でぐーたら過ごす日々に希望を抱いていますよ!」
「それは夢でも希望でも無いわい! ただの怠慢じゃ!」
おお。言い得て妙だ。
「なんでこんな廃れたおっさんが落ちてくるんじゃ……。わしが必要としてるのは夢と希望に溢れた子供なのに」
「廃れてなどおりませんよ! いいですか? 男というのは何歳になろうが少年なのです。子供の頃のキラキラを忘れないのが男というものですよ」
「ほう。そういうもんなのかのお」
「そういうもんですよ」
おじいさんは納得したように「うむうむ」と顎をなで、俺を値踏みするように視線を向けてくる。
見るがいい。俺の輝いた少年のような目を。言っちゃ悪いが、俺はいくつになっても少年だ! ハンバーグが大好きだ! ポケット○ンスターにはまっている! 未だに少年ジャ○プを愛読し、漫画は1000冊持っている!
「どっからどう見ても廃れたおっさんなんじゃが……」
どこが少年なんじゃろな、とおじいさんは首をひねる。失礼なおじいさんだ。
「ま、ものは試しじゃ。わしの頼みを聞いてくれるかの?」
「なんですか?」
産まれ落ちて五九年、自慢じゃないが人に頼られたことがない。
妻の知代でさえ「人という字は支えあってんじゃなくて、短い方のやつが寄りかかられてるだけなんだよ。わかる? 短い方があたし。あんたは長い方のやつで、人に寄りかかって楽してる頼りない男なの!」と言ってきたことがあるのだ。
う、泣けてくる。
人生初の「頼られ体験」だ! おかしな世界に来てしまったようだが、受け入れようではないか!
「わしの仕事はの、この夢風船を膨らませて、子供達の夢を膨らませることなんじゃ」
じいさんの手にはまだ膨らませていない赤い風船があった。どこからどう見てもただの風船だが……。
「最近、夢の無い子供ばかりで夢風船が膨らまん。だから夢溢れる子供の力を借りて、夢風船を膨らまそうと思っての。こうして穴を掘って、子供が落ちてくるのを待ってるんじゃが。落ちてくるのはあばずれ女やはげおやじ。なんでなんじゃろうなあ」
はげおやじとは俺のことだろうか?
頭をなでると、手がぬるりと脂を纏う。俺の頭は脂性だ。だからはげちゃびんになったのだ。すべては脂が悪いのだ。脂ごときのせいでハゲオヤジと呼ばれてしまう俺はなんと哀れなのだろう。
「お前さんが本当に少年の心を持っているなら、夢風船が膨らむはずなんじゃ。手伝ってもらえんかのお?」
「わかりました。出来る限り手を尽くしましょう」
「よし、夢を語るんじゃ」
風船を口にくわえたおじいさんがハムスターのように頬を膨らませ、俺に合図をしてくる。
夢。そうか、夢か。
「追いかけてくるんです、寅さんが」
「は?」
「昨日見た夢です」
「永遠の夢を見せてやってもいいんじゃよ?」
冗談だったのに。おじいさんの小豆のようなつぶらな目がギラリと光って俺を責め立てる。平伏して「すいません」と謝ることしか出来ない。
「私の夢ですが……新しい服を買ってもらいたいです」
「どこの貧乏人じゃい」
「いえ、うちは貧乏というわけではないのですが……妻がブランド好きでして。私の服は百均のものばかりで……擦り切れるまで着させられるんです」
ちなみにパンツは穴が開いたものを自分で繕って履いている。お裁縫は得意中の得意だ。チューリップの刺繍だって縫える。
「……他の夢でお願いしたいんじゃが」
気のせいかおじいさんの目が涙目だ。泣くんじゃない。泣きたいのは俺のほうだ。
「髪の毛が生えてきてほしい」
「無理」
一刀両断された。ハゲは永遠ですか。永遠と書いてハゲと読むですか。
「それでは……妻が私に優しくなってほしい」
「お前さん、夢も希望もないただのハゲじゃ。役に立たん、帰れ」
ぴくぴくと動く眉毛が怒りを露にしている。しわくちゃの顔は無表情に近いのに、その目の冷たさが恐ろしくて、俺は後ずさってしまった。
「さっきから聞いていれば、お前さんが言っていることは夢でも希望でもない。ただのわがままじゃ。ないものねだりのわがままじゃ。そんなものを夢だ希望だと言いたいなら、今すぐその頭をバーコードにしてやるぞ」
俺の頭はバーコードにもならない禿山だ。ハゲワシがいたら俺を仲間と認めてくれるレベルにまで到達した殿堂ハゲだ。そんな俺だってプライドがある。バーコードだけは嫌だ!
「今の人間どもは、自分の欲望やわがままばっかりに目が行っておる。だから夢風船が膨らまなくなったんじゃ! 子供はの、大人をよく見てるんじゃぞ! 大人の小汚い埃まみれの欲望を見ていたら、夢も何も抱けなくなるんじゃ!」
言ってることはもっともだが、口にくわえたままの風船が膨らんだり縮んだりしているので、笑えてしまって仕方ない。
だが、俺も大人だ。ここで「風船が面白いことになっていますよ」などという指摘はしてはいけないだろうと判断する。
「はあ。そうしましたらば、私はいかがすればよろしいでしょうか」
「なんかあるじゃろうが!『俺は海賊王になる!』とか」
そんな夢を見ている五九歳がいたら、逆に恐ろしいんですが。
ううむ。夢。夢か。ふと、定年退職を迎える前夜、妻の知代とこれからの人生について語らったことを思い出した。
定年したら、二人で海が見える場所で暮らしましょうか。海外に移住するのもいいわよね。とりあえずは海外旅行に行きましょう。それでブランドのバッグ買ってほしいわ。バーキンがほしいの。免税店には必ず寄ってね。退職金でダイヤモンドの指輪を買ってよ……
知代のやつ……昔はあんなにかわいかったのに! 今や強欲の鬼ババアだ。
そうだ、若い頃の知代は清楚でつつましく、少女のような瞳を輝かせた女性だった。
知代にプロポーズした日、俺は知代と二人でずっと穏やかに生きていこうと誓った。「ずっと二人で。老人になっても手を繋いで一緒に生きよう」とそう告げたのだ。
知代はくるくるに巻いた天使のようなヘアを指先でいじりながら、頬を真っ赤に染めて「ありがとう」とつぶやき、「歳を取っても、ずっといろんなプレゼントを頂戴ね。記念日にはダイヤモンドの指輪を送ってほしいの。二人が一緒に歩んだ歴史をダイヤモンドで輝かせていたいの。誕生日にはブランドのバッグがほしいわ。二人の思い出をバッグに積めて持ち歩くのよ。素敵じゃない?」
――ん? あれ? あいつ、昔から強欲まみれ?
「と、とにかくだ! そうだ。私は知代と……仲睦まじく、これからも生きていきたい。知代にプロポーズした時から変わらない夢だ!」
俺がそう叫んだ瞬間だった。
おじいさんの口に含まれた風船がものすごい勢いで膨らみだしたのだ。それは罰ゲームの風船のようにがんがん大きくなっていき、ついにはおじいさんの姿さえ見えなくさせてしまった。
「いやはや、なかなかに素晴らしい夢じゃった。この夢風船と共に帰るがいい。お前さんと一緒に夢風船は人間の世界に帰り、たくさんの子供に夢を持つ力を分け与えるのじゃ」
ちょっと待ってください、罰ゲームじゃないですか。この風船、でかすぎて怖いんですけど! と叫びたい衝動を押さえながら風船を受け取る。
すると風船はふわふわと浮き出したではないか。そのまますいすいと天に上っていく。
「奥さんに伝えるんじゃぞー! あんたの旦那、美女とハーレムを夢見てますってなー!」
あ、それが一番の夢だったかも。
「あなた! こんなところにいたの!」
懐かしい怒鳴り声で目を覚ます。重い体を起こして、ぼやけた視界のままあたりを伺った。
知代が目の前にいるのはわかる。この雷様のような髪型は知代しかいない。
目を細め眉間に力を入れ続けていたら、ようやっと視界がクリアになってきた。
若い頃守ってあげたいと思った華奢な体の面影もない、丸々と太った妻が相撲取りのようなポーズで俺に前に座っていた。
「こ、ここは?」
そう言ってから、我が家の玄関だったことに気付いた。いつの間に帰ってきたのだろう。記憶が無い。
「たく。何時だと思ってんだか。ほら、起きて」
知代に助け起こされ、家の中へ入る。知代の手は、昔と変わらず柔らかくて温かい。
ダイニングのテーブルには、小さな花束とケーキが置いてあった。
ケーキのホイップの上にチョコレートで遠慮がちに小さく、「おしごとおつかれ」と書いてある。
知代手作りケーキではないか。
「お前、作ったのか?」
「さあね」
知代は料理が下手だ。ケーキなんて作れやしない。なのに……。押し寄せてくる熱い涙をゴクンと飲み込み、置いてあったフォークを手に取る。
「ありがとう、知代。これからもよろしくな」
ああ、涙の味がする。そこはかとなくしょっぱい。あはは。知代のやつ、砂糖と塩を間違えたな。古典的なことをする。
だが、これが知代の味だ。
知代の指に買ってやった覚えのない新しいダイヤの指輪が輝いているのは見なかったふりをしよう。
二人の歴史に輝きを添えるために。
夢、か。
あの風船に一体どれくらいの俺の夢が詰まっていたのかはわからないが、俺はまだあんなにも大きな夢を抱いていたのだ。
定年と誕生日を迎える夜。俺は新たに誓うのだ。
妻とのこれからを。妻との二人だけの生活を。そうして、夢を見続けよう。
運命が二人を分かつその日まで。
お読みいただき、ありがとうございました。
この作品は拙作「てのひら(短編集)」の中の「25歳のアリス」という物語の別バージョンの作品です。