(一)貧乏暮らし
いきなりでなんだが、何が大変だって、世の中に「思い違え」くれえ酷えもんはねえぜ。なっ、なんでえ、その目はよっ? 一膳飯屋のお光ちゃんの話じゃねえよ。ふっ、今さら若え娘に厚遇てえ年齢でもあるめえ。 腹と口とは違うだろうってか? 乃公だって世間並みの分別盛りだ、口じゃそう言うさ。今日はまっとマジな話さ。
坊主が言うんだから間違えねえところだろうが、人間何をやっても死ぬときにゃ後悔するらしいぜ。それがわかってたら後悔しねえ生き方をしたらいい、ってか? おめえも口が減らねえね。発心通りに事が運びゃ苦労なんぞねえやな。それができねえのよ、人間てなァな。
「他人から後ろ指さされちゃなんねえ。お天道さまに顔向けできねえこたァしちゃあなんねえ」これが親父の口ぐせでよ。それを親の戒めと後生大事に生きてきてよ、その挙げ句が、死にっ際まで口惜しい思いをするって言われちゃ堪らねえよ。
考えてみりゃ、人並みだ、常識だってのを訳もわからず鵜呑みにしてきたな。だって、しち面倒くせえ事をいちいち考えちゃいらんねえだろ? みんなのやるようにやったらいいって、考えもしなかったさ。女房子供におまんまを食わせにゃならねえ。下手ぁぐずぐず考えてる間にゃ身体動かしたほうが早え。仕事の段取りだって、先を考げえるよか始めちまうのが先だぁ。乃公はそうした性分よ。踏ん切りつけて始めちまえッ、ってな。
でもよ、矢張り仕事途中での捗り具合えは気になるのさな。後から始めた仲間の方が捗ってるってことがある。これが間尺に合わねえ。俺ァ、頭を下げて聞いたぜ。するってえと連中の言い種は「熊公は段取りが悪ぃ」と、こうだ。こちとら気が短けえ。段取りなんぞ考げえてる日にゃ、やっつけちまった方が早えと思う。んでそう言ってやると、そこが俺のバカなところだって言いやがるのさ。教わった通りにやってみるてえと、なるほど捗る。それでもまだ連中の方が早え。俺だって職人の端くれだ。頭ァ下げたかぁねえが、その頭をまた下げた。すると今度ァ「その都度てめえで考げえろ」ときやがったよ。なるほど頼るばかりじゃいけねえからそうするしかねえと思ったさ。そんなこんなで考えるクセが身についたときにゃ迷うクセも身についちまったってワケだ。まったく宜いような悪ぃような、なァ。
ああ、簡単な仕事のときァいいんだ。でもよ、ちょいと混み入って来るてえと乃公の頭じゃ埒ァあかねえ。だからって他にやりようはねえやな。腕が悪くたって女房子供を干上がらせる訳にゃ行くめえ? でもなァ腕じゃねえのよ、この節の仕事はよ。機械が乃公の仕事をやっちまいやがる。「現場合わせの熊」と呼ばれて些ったァ知られたもんだったがよ、こんぷゅーたで材料に狂いがねぇから昨日今日の素人みてえな職人にも造作なく出来ちまう。だれもができる仕事じゃあよ、お給金たって知れたもんさァ。
性格が運命になるってなァ真正だな。せっかちな乃公は「見切り発車」で仕事を始めちゃあ、後になって「段取りのつけ直し」だ。段取りをそこそこつけて、また見切り発車。ふたっつの間を行ったり来たり。鉄骨が入る、つーばいほーになる、仕事がどんどん若ぇ衆向きになる。気がついてみりゃ頭ァ禿げてるしよ、ったく堪んねえぜ。
稼ぎの少ねぇ職人の家なんて惨めなもんだ。恥ずかしい話だが、娘はおっかしな若え衆とくっつくわ、セガレは学校サボりゃがるわ、家ン中ァギクシャクの我他彼此だァ。今日日の餓鬼どもァ親の意見なんぞ聞きァしねえ。嬶ァは「アタシらがあんなに育てちまったんだよ、仕方ないないじゃないか」って泣き出すしさ。家が気がかりでも仕事にゃ出なきゃなんねえ。ああ、貧乏人に張り合いも何もあるもんかよ。
楽しみ? カラオケだ。たかが知れてらァ。それだって交際が悪ぃのなんのと仲間に言われながらよ、嬶ァから釘さされて、三度に一度は義理欠く始末さ。バカ娘なら尚のことマトモに嫁に出さにゃなんねえ、セガレにァちゃんと学校出てもらわにゃなんねぇ、老後の蓄え? そんなのがあるもんかよ。はあ、貧乏だけァするもんじゃねえなァ。
夫婦生活? シャレた言い方するね。止めよう、鬼が笑う。乃公がしかけると嬶ァは逃げ回る。更年期だてえが、あんなもんを何年がかりでやってるんだか。あれだけ好きで腰が抜けるほどやったもんをよぉ。貧乏人にゃ女郎買いなんてぇ豪気なこたァ縁がねぇやな。
(二)死の間際
乃公たちから見りゃ、あんたらァ余剰銭がくるような生活をしてるよ。それでも不足だってかい? 吃驚たね。人間の欲てなァ際限のねえもんだてえが、成る程なァ。器量もそれぞれ、悩みもそれぞれ。てんでんばらばらでも死ぬときゃだれも同じだって言ってたな。坊主の名前? 忘れちまったけどよ、話の中身はちゃんと書き付けてあるよ。聞きてぇかい?
あんた、生年月日はいつだね? ふぅん、で、没年月日は? いや串戯だよ、あっはっは。生まれたんだって周りが何時何日って言ったのを鵜呑みにしてるだけだろ? だれだってそんなことァわかりっこねぇんだ。生まれて来たのも確か死んでいくのも確かだけど、ぼんやりした生年月日と没年月日の間しきゃあ生きられねえ。だれも彼もそれぞれ事情を抱えてさ、思い通りにならねえ人生を送ってるたァ言うけどな、真正のところはどうなんだか俺にゃわからねえ。
いや、仕事ならよ、段取りのつけ直しをしながらでも形にして行きゃあ宜い。それが一生となると一回こっきりで仕切り直しもねえ。気がついたときにゃ過ぎちまってるのが人生なんかな。
乃公ァ別に何を信心しようてんじゃねえがよ、ここんとこ町内でヤケに弔えが続きやがってよ。普段なら坊主の戯言なんぞ聞く暇ァねえがな、こう次から次へじゃ、いつなんどき乃公の番が廻って来ても不思議はねぇ、ふとそう思って坊主の話を聞くてえと、こうだ。
これだ、これだ。なに? 字が下手だ? 大きなお世話だ。仮名ばっかりだと? ぶん殴るぞ。
……あやまりといふはほかのことにあらす すみやかにすへきことをゆるくし ゆるくすへきことをいそきて すきにしことのくやしきなり そのときくゆとも かひあらんや……
どうでい? 坊主が言うにゃあよ、年がいってから何にもしねえで待ってゝも、来客ァ死神だけだとさ。年老いるってのは若ぇもんの墓場を見るだけのことだって言いやがる。乃公ァゾクッとしたね。若くたって、そりゃ死ぬよ。「あの若さで勿体ねえ」が決まり文句だ。そんなお悔やみを言ってる人がどうかてえと、金持ちゃ金持ちなり、貧乏人は貧乏人なりになァんにもしちゃいねえな。死神ァいきなり大鎌で首を掻っ切るてえぜ、死ぬってなァ待ったなしだ。
「一体乃公は生きてる間に何してたんだ」って悔いの中で人は死んでいくね、あっちこっちで、そりゃあもうバタバタと。やり直せねぇんだから悔んだって始まらねぇさ。後悔しねぇであの世に行けりゃ仕合わせだろうがな。
臨終の際にゃ一瞬で一生を振り返るてえじゃねぇか。懐かしい思い出が走馬灯のみてえに、なァんて言うけどそんな悠長なもんじゃねぇらしい。「乃公こそは後悔なんぞしねえ」と強がり言うやつもいるが、果たしてどんなもんだかな。みんな痛烈な後悔ン中でもがいて苦しんで死んでいくんだろうぜ。なァ、死ぬてえと、念はあるのに身体が無ぇんだ。いたわっておきゃよかったものを便利に使ってた身体が無え。身体、欲しいだろうなァ。だれだってこの世に未練を残しながらあの世に連れていかれるんだ。思い違いをしてたばっかりに、やり残しを沢山こさえてなァ、後ろ髪引かれながら死ぬんだろ? 幽霊になってでもこの世に戻って来てえのが人情だろ? 思い違えさえしなけりゃよ、悔いなんぞあるわけねえ。思い違えてなァ酷えもんだよ。
……過りと言ふは他の事に非ず。速やかにすべき事を弛くし、弛くすべき事を急ぎて、過ぎにしことのくやしきなり……
自分が死ぬなんてぇこれっぱかりも思っちゃなかったさ……。坊主の話を聞いて、成仏できる自信が悉皆無くなっちまったのよぉ。冥界に居たたまれずによ、嬶ァや子供んとこへ飛んで帰ってきちゃあ、世話ァかけるような気がしてなんねぇ。四十九日なんてあっと言う間だ。あんたァ、成仏の自信はおありかい?
(三)吉公
同じ長屋に吉公って中学っからのダチがいてな。いい腕してたんだ、時計職人。それがよ、今じゃバッタ屋で千両も出しゃ〈でじたるこーつ〉が買える。仕事がなくなっちまったのさ。吉は無理を承知でタクシーの運チャンになったな。同居の婆ァにカスミを食わせるワケにもいかねぇだろ? それもな、時代だし世の中だったんだなァ。不景気で客足ァ遠退く一方で……。吉の野郎、無理しやがってよ、とうとう体ァ壊したな。吉の野郎がタクシーを馘首になったのを潮に嬶ァの女が逃げやがった。薄情じゃねえか、人三化七め。それを吉は「あんなもんでも余所で拾われて先が幸せになるんなら……」だとよ。如来さまなのか意気地がねぇのか、ったく分んねぇよ。婆ァさんと二人で干涸びてお迎えを待ってるみてえなことを云いやがるのさ。何の役にも立っちゃやれねぇ自分にも腹立つしなァ。何度か憂さ晴らしをやったけどな、吉のやつァ泣き上戸なんで始末が悪ぃんだ。湿っぽい。
「久し振りだァ、熊ちゃん、ありがとよ。ありがとよ」
吉の野郎が昔の仕事をあんまり懐かしがるもんだから、そ、時計修理な。フッと思い出してポケットに手をやった。ちょいと珍しい広告よ。たまたま覚えていてな。てめえの頭の蠅も追えねぇくせに奴のことが気になってたんだな。《時計職人募集》だ。吉公にもやっとお天道さまが顔を突ん出してくれたのよ。スポーツ新聞の求人欄を見せてやった。ところが吉の野郎、「熊ちゃん、ありがと」を繰返すばっかで、少しも乗り気が見えねぇんだ。眼ン玉だけはさすがに皿みてえにして、火でも点くんじゃねえかってほど新聞を睨んでたけど、何しろ声が小せぇ。蚊だってもうちっと大声で鳴くだろうと思えるほど吉公の声ァ小さかった。
「熊ちゃん、だめだよぉ。ローレックスなんかいじったことねぇもの。今どき修理してまで使おうってのは高級品だけだ。国産の自動巻までなら分かるけど……」
「何で、なんでぇ。シケた面すんねえ。応募してみなきゃわかんねぇだろ。吉よ、おめえにゃ立派な腕があるんじゃねぇか。修理だって〈ろれくす〉とやらに限ったもんでもあるめぇ」
するとまた「熊ちゃん、ありがと」だ。じれってえんだよな。
就職? だめだった。乃公ァ仕事を半日ひまもらって吉につきあった。あんまりじれってぇからいっしょに掛け合いに行ったんさ。するとさ、この時計屋の社長ってのが憎ったらしい口をききゃがったね。
「はァ、ずいぶんブランクがありますねぇ。技能検定は?」
いや、吉は素直だからな、でなきゃ婆ァと二人で干涸びゃしねぇやな。聞かれもしねえことを正直に言っちまう。〈こーつ〉にゃ自信がねえとかな。おう、長年の朋友じゃあるけどな、こんときゃアイツの頭ァ張り倒してやろうと思ったぜ。
「タクシー会社を辞められてからは?」
な、やなことを聞くヤツだろ? 履歴書の就業期間が途切れてるなァそれなりの事情があるのによ。吉公は自分の子供ほどの社長からは聞きたくなかったんだ。やな言葉だよなァ。
「生活保護ってことですね?」
出ちまったよ。吉公の引きつった頬っぺたにひとすじ光った。
「熊ちゃん、帰ろ」
乃公ァ社長をぶん擲るのを我慢するので精いっぱいだ。
「てめえなァ、雇う気もねえくせに広告なんぞ出しやがってッ」
社長の顔には、貧乏人は盗っ人だ、そう判然と書いてあった。
「熊ちゃん、この人にだって家族があるよ……」
「わかった。おい、社長サンよッ、造作かけたなッ」
気分が悪ぃんで、できるだけ時計屋から離れて一杯やろうと吉を誘った。
「吉よ、人が好いだけじゃ食い殺されるぞ。嫌な世の中だなァ。さ、機嫌直しだッ」
「いいよ、熊ちゃんに御馳走にゃなれないよ、もう余計な散財は止めにしよ」
「ってやんでぇ、乃公もおめえも江戸っ子だろッ。ぢきに三社さまじゃねえか。年ァとっても元気を無くしちゃなんねぇ。なッ」
吉公を励ましながらも熊の心中は複雑だ。自分たちの祭りだった三社さまでも若え衆たちの視線に冷たいものが混じって来たのを感じているからだ。
熊の酌をコップに受ける吉の手が顫えた。顫える手を駆け上った二の腕から背中一面に頼光の彫物。若い頃の念のいった吉公の我慢だ。……なんで社長の前で脱いで見せなかった、吉よ……。
吉が肩に手をやってぼそッと言った。
「こんなもんでも質種になってくれたらなァ……」
……吉ッ、シャレにならねえぞッ。女房がいなけりゃ背負の頼光が順番だってかッ。気概のねえ男の彫物なんざァ間抜けな質屋だって相手にしねえよ、篦棒めいッ。乃公は損得で朋友を選んじゃいねえぞ。おめえの肩ァもってカミさんの悪口も言ってきたんだ。けどよ、おめえがそんなこっちゃあよ。吉公よりゃ二十も若え頼光も、これじゃあ大きに老け顔になっちまったろうぜ。おめえたァは長えつき合いだよ。これっからもおめえたァ昵懇でいてえんだよ。おれたちゃ気が合うんだよ……
熊は吉に会うたびにじれったい思いにさせられる。それでも吉に会わずにいられない。「どうにかなんねぇのか、じれってえなァ」は口ぐせだが、吉の性分だけでそうなる訳ではないことは熊も承知なのだ。
……若えときにひとつ思い込みゃ、後は手間が省けて好都合だとばっかり思って来たが、フタが開くたんびに不都合になってる。面白かァねえが他にどう生きられるもんでもねえ。じれってえのは吉だし、自分だし、世間なのだ。
「吉ッ、ぐっといけ、ぐうっと。何でぃ、ったく、じれってえなあ、もう」
そう言って熊は吉のコップにごぼごぼと酒を注ぐ。(了)
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