天高くそびえる堅牢無比かつ難攻不落な魔王城と、その屋根からおりれなくなった猫ちゃん
『魔王様、魔王クトゥラ様!』
「なんだ、騒々しい」
玉座でくつろぐ吾輩の脳裏に、部下の悲痛な念話が響いた。
『勇者マルス、賢者クレオと名乗る二人の人間が、この魔王城へ乗り込んで参りました! 魔王軍総出で迎撃しておりますが、ただいま七層まで突破された模様で――』
吾輩は浮かしかけた腰を、溜息とともに玉座へ戻した。
余りに切羽詰まった声を出すから何事かと思えば……そんなことか。
『い、いかがいたしましょうか』
「いかがも何もない。その程度のことで取り乱しおって、情けない。忘れたか? この魔王城は、百層からなる難攻不落の大迷宮だ。勇者と賢者とは大層な二つ名だが、七層程度で手こずるようでは、文字通り吾輩の足下にも及ばぬ」
『しかし、勇者と名乗る者ども、人間にしては異常な強さで……万が一があってはならぬと……』
「くだらん。吾輩は貴様の泣き言を聞くために念話を許しているのではないぞ。こんな些事にいちいち吾輩の手を煩わせるな。たった二人の人間ごとき、貴様らだけでなんとかしてみせい。その程度あしらえぬ軟弱者は、我が魔王軍に必要ないわ」
『は――ハッ! 御意に!』
フン、たかだか人間の侵入を許した程度で泡を食いおって、肝っ玉の小さい奴め。
とはいえ奴の無様も理解できんわけでもない。我が魔王城はこれまで、いかなる規模の侵入者であっても、城門に触れることすら許さず跳ね返してきたからな。
――……――。
たった二人で魔王城に侵入してきたとなると、その勇者とやらは確かになかなかの手練れと言えよう。部下の動揺も無理からんことだ。
――み……みゃ……――。
奴らの刃が我が玉座に届くことは万に一つもなかろうが、最近たるんできた魔王軍に渇を入れるには絶好の気付け薬かも知れん。ここは一つ、勇者の手並み拝見と行こう。よしんば吾輩のもとまで辿り着いたとして、このあらゆる攻撃を無効化する闇の衣を打ち破る術は奴らにはあるまい。
――みゃ……みゅ……みぃ。
――なんだ、さっきからこの声は? 窓の外から聞こえるが……玉座の間は雲海を遙か眼下に臨む高度にあるのだぞ。何者であろうと到底辿り着けるものではない。気のせいかもしれんが、念のため確認しておくか。どれどれ……。
みぃ……みぃー。
えっ。
みゃう、みゃあう。
ええええ~~~~~~~!? 何あのかわいい生き物! 超ちっちゃい、超モフモフしよる、超てこてこ歩きよる! あんなの吾輩の部下はおろか、魔界上野動物園でも見たことないぞ!?
みゅう?
はああ~~~~~~ん! 吾輩を見よる! 吾輩を見て首をかしげよる! 容赦ならんかわいさ、防御無視のかわいさじゃないか! えっ、なに、奇跡? 神様からのプレゼント? 吾輩、けっこう神とか冒涜してきた方だけど、神の方からすり寄ってきた?
……いや、待て。落ち着け。落ち着いて窓に張りついたほっぺを剥がすのだ吾輩。
よく考えてみろ、我が玉座の階層まで辿り着いた時点で只者ではない。もしかしたら勇者の罠という可能性もある……まずは我が魔眼による解析で、きゃつの正体を暴くべきだろう。
みー?
――ふむ、なるほど。猫、という名の生き物か。本来、魔界はおろか吾輩の世界に存在しないものだな。時空の歪み……そういったものに巻き込まれ、異世界より召喚されたか。であれば、唐突に玉座の間まで辿り着けたことにも合点が行く。戦闘力は皆無のようだし、捨て置いても害は無い……か。
みー、みー!
みゃああああああん! ダメダメダメダメ捨て置いちゃダメえ! こんなかわいいの捨て置けるわけないだろうがアホか! だいたい吾輩がこんなアホみたいに高い魔王城作ったのも、玉座に詰め込んだファンシーグッズを見られたくないからだからな!?
みっ、みゅ、みゅう……。
ああああそんな声で鳴かないで猫ちゃん、どったの? 猫ちゃんどったの? 降りられなくなっちゃったの? そうなの? よしよし、待っててね、いま、魔王のおじちゃんが助けてあげるからね!
と、言ったものの、玉座の窓は開けられるように作られておらんからな……やむをえん、ぶち破るか。
拳に力を込め、窓に向かって一気に放った。ガラスは短い金切り声と共に粉々に砕け散った。よし、少々もったいないが仕方なかろう。では、猫ちゃんを――。
『魔王様! 玉座から得体の知れない音が聞こえましたが、大丈夫ですか魔王様!』
だーめんどくせー! 無視だ無視!
『返事がない……もしや魔王様の身に何かが!? ただいまそちらに参ります!』
「来るなー! 来んでよいわ絶対に来るな、ただのくしゃみだ馬鹿者!」
『ですが! まるで外に出るために仕方なく窓をぶち破ったような音がしましたが!?』
「はあー? 何それ全然違うし全然当たってないしはあー? 貴様は困ったらすぐ玉座のガラスをぶち破ったと思い込むところがあるな! 良くないよ、そういうの本当吾輩良くないと思う!」
『かつてないぐらい必死ですが、本当に違うのですか!?』
「全然違うから貴様は勇者を撃退することだけ考えておれ、しっ、しっ!」
部下との念話を無理やり終わらせた。これ以上妙な詮索をされんうちに、さっさと猫ちゃんを保護せねばな。なるべく音を立てぬよう、窓外の闇へ身体を滑り込ませる。
う、結構、風が強いな。というか結構立ってるのがやっとなのだが、あの猫ちゃん割と平気な顔しとるのは何なんだ。体幹強すぎるだろ。
みー。
よしよし、おいでおいで猫ちゃん。そっちは寒いだろう? こっちおいでおいで。
みゃ?
こわくないよこわくないよホラホラ、猫ちゃんおいでおいであったかいミルクもあるよ毛布もあるから、ね? 大丈夫だからおじちゃん全ての魔族を統べたりもするけど、本当は、全然怖くないからね、ほらほら大丈夫大丈夫。
『魔王様、勇者どもが十二層までも突破いたしました! 奴らが調子づく前にやはり魔王様御みずから指揮を執り、奴らに魔族の恐ろしさを思い知らせるべきでは!』
「大丈夫大丈夫、吾輩こわくないよじぇんじぇんこわくないでちゅからね~」
『魔王様ー!?』
「わー! ビックリしたお前急に話しかけてくるんじゃないよバカ!」
『魔王様こそ一体何があったんですか、急に初孫でもできたんですか!?』
「なんでもないわ、自分の影がちょっと初孫に見えただけだクソが! 何用ださっきから何度も何度も!」
「いや、ですから勇者が十二層を突破したんですよ。さらにあろうことか魔王様を直接出せと挑発しておりますが、いかがいたしますか!?」
「知らん! いないって言って!」
「居留守下手すぎでしょ! 奴らは魔王様を臆病者呼ばわりした挙げ句、魔王様を倒し世界に平和を取り戻すなどと言っておるのですよ!」
「今度にしてもらえ!」
「今度とかなくない!?」
「とにかくそっちはお前たちで何とかせい! 次に吾輩の邪魔をしおったら、心臓抉り出してハゲタカに食わすぞ!」
みっ? みっ、みっ! みぅっ!
あっ、えっ、猫ちゃんが急に吾輩から距離を置き始めおった、いったいどうしたと言うのだ猫ちゃん! ――あっ、さっきの部下との会話か! 違うのだ猫ちゃん、心臓を抉り出すというのは、ハートをキュンキュンさせちゃうぞ的な意味で、決してそんな怖い意味では……。
ふーっ!
ああああああもうめっちゃ警戒しとるじゃないか! 背中の毛がふわっとなっとるじゃないか! そんなに警戒することないでちゅよ~……ん? 何を見ておるのだ、これか? 吾輩の着ておる闇の衣? 闇の衣が怖いのか?
みっ! みっ!
そっかそっか、そういうことか! ごめんね、これ着てると闇の寵愛を受けられてほぼ全ての攻撃に対して無敵なんだが、猫ちゃんが怖がるなら脱ぐから、脱ぎ脱ぎちまちゅからね~……ほら! こわくない、無力! 吾輩、無力!
ふーっ、しゃー!
まだ警戒しとる……一体なにがそんなに怖いというのだ……そうか、目線か! 吾輩の方が身体が大きいから、それで怖がっておるのだな?
よしよし、そういうことなら、寝転がってみせよう。ほらほら、ごろんごろーん。敵じゃないでちゅよ~吾輩も猫ちゃんと同じでちゅよ~! ごろろろろ~ん!
み? ……みゃん。
ああああああ猫ちゃんもごろんしたかわいいい! お腹ぷにぷにい! あのお腹ぷにれたらもう吾輩もう死ぬかもしれんな……かわいさのオーバードーズ……かわい死待ったなしだろ……。
もっともっとお腹見せて猫ちゃん、吾輩もごろんするから、ごろーん、ごろろろろろろろーん! ごろっ――。あれっ、なんか、身体が急に中に浮い――。
「どぅおぇっ!?]
落ちかけたところを間一髪屋根のヘリにしがみつく。しまった、ごろんしすぎた。ここが屋根の上ってことを忘れておった!
まずいまずいまずい闇の衣脱いじゃったから、吾輩、今落ちたら確実に死ぬ! 魔王の最後が自分の城の屋根からうっかり落下とか絶対に嫌だ! そんなもん勇者ですら納得せんわ!
みぃ? みっ! みゃっ、みゃっ、みー!
あああああ違う違う違うの猫ちゃん! 吾輩これ遊んでるんじゃないの! 肉球で手をぺちぺちしないで、でもかわいいからもっとして! しないで! してー!
みみゅっ? みっ―――――――……。
わー猫ちゃんが落ちたー!? いかんいかんいかん、猫ちゃーーーーん!
屋根から手を放し、猫ちゃんめがけ虚空に身を躍らせた。
空中でなんとか猫ちゃんを捕まえ、胸元に抱きかかえる。
はあ~~~~あったかい……あったかいしもふもふしゅる……もう吾輩このまま死んでもいい……。
――じゃない! 違うわ! ほっといたらマジでこのまま死ぬだろ吾輩! 死んだらもう二度ともふもふできんじゃないか! 生きる、生きるぞ吾輩は!
「ぬおりゃっ!」
魔力で強化させた腕を城の外壁に叩きつけた。
「あ―――痛だだだだだだだだだだだだ!」
火花を散らし、壁を抉り、爪が半分以上剥がれた辺りで、やっと落下が止まった。
全体重を支えていた肩が外れそうなほど痛い……くそ、絶対これ明日筋肉痛になるだろ……部下にマッサージさせよう。
みー?
腕の中から猫ちゃんが顔を出した。かわいい。
まあ、猫ちゃんが無事だったから良しとするか。
吾輩は猫ちゃんを抱えたまま屋根をよじ登り、近くの窓から城内に戻った。
随分落ちてしもうた。ここは何層目ぐらいだろうか。吾輩いま半裸にマント一丁だし、歩いて戻るのは避けたい。出来れば飛竜使って戻りたい。停竜所のある階層だと良いが……。
うろうろしてると、奥の通路から話し声が聞こえた。
配下の者だろう。ちょうどいい、飛竜と服を持ってこさせよう。
「おい、こっちだ! そこの者、悪いが飛竜と服を――」
「おいマルス、本当なのか? こっちから物音がしたって」
「本当だ。窓をぶち破るような音が聞こえた、おそらくこの迷宮を外に抜ける道がそこに――……あっ」
「――えっ」
「あーーーーーーーーーーー!?」
「えーーーーーーーーーーー!?」
「えっ、えっ、だれ、なに? なんで人間……あっ、まさか、勇者? 勇者かお前?」
「と――とうとう出会えたな魔王、いや、魔王? 魔王だよな? なんで魔王がここにいるんだ? 百層あるって聞いてたんだけど、本当に魔王か? なあクレオ、こいつ魔王?」
「……僕の魔力解析では、そいつは間違いなく魔王だ!」
最悪だ。よりによって、勇者たちと鉢合わせしてしまうとは。
まずい、これは非常にまずいぞ。
……ごまかすか? 今のところあやつらも吾輩が魔王ということに自信が持てないでいるし、トボければ切り抜けられるかも――。
「え、でもこの人なんか半裸なんだけど? 魔王って半裸のまま城をうろうろしてる? そんな娘に嫌われるタイプの親父みたいなことする?」
「僕の魔力解析では、そいつは間違いなく魔王という結果が出ている」
「いやでもなんかキョロキョロしてるし、爪から血出てるし、魔王じゃないだろ。ここで道に迷ったまま老けた先代の勇者とかじゃないの?」
「魔力解析では間違いなく魔王だ、としか僕には言えない! 個人的には魔王であってほしくないし、なんだこのオッサン、という気持ちは僕も同じだ!」
――いやいやいやダメダメやっぱダメだ。もう既に顔どころか半裸姿見られてるし、こいつらが万が一玉座まで辿り着いたら絶対『あの時の半裸!』って言われるし、もうその後勝ったとしても吾輩の威厳ストップ安間違いなしだ! くそ、やむをえん。
「ククク……よくぞここまで辿り着いたな勇者ども、吾輩は魔王クトゥラ、貴様らの運命もここまでよ!」
「おいなんか自分で魔王とか言い出したぞこの半裸迷子、やっぱり魔王なのか?」
「この件に関して僕はノーコメントだ。これまでも、そしてこれからもな」
こうなってしまっては仕方ない。さっさとコイツらを消して、自分の部屋に戻ろう。
「ここで吾輩に出会ってしまったことを後悔するがいい! 来たれ、灰燼の王!」
「おい、なんだこの魔力、こいつまさか本当に魔王なのか!?」
「今さら気づいても遅いわ! 地獄の釜の底で己の浅はかさを呪うがよい! ――灰燼の王よ、火炎の彼方から出でし者よ、その紅蓮の腕を持ちて、地平の全て汝の王国とし、汝の敵に慈悲なき魔人の一撃を与えよ! 喰らえ、ダムド・フレイム――」
みー。
「にゃああんうそうそうそうそ! うそでちゅよ、こわかったでちゅね、大丈夫でちゅからね~!」
「隙あり魔王、喰らえ!」
「痛いでちゅ!?」
詠唱が途切れたところを、ざっくり聖剣で切りつけられた。
くそ、闇の衣さえあればあの程度の一撃、蚊に刺されたほども感じないのに!
「たたみかけるぞクレオ! なんか知らんが魔力が消えて隙だらけになった!」
「いや、待て。魔王の様子がおかしい、何かをかばっているようだ」
みー。みー。
「おい。あの超かわ――小さな生き物はなんだ。お前の魔力解析でわかるか?」
「『猫』という名の愛玩動物らしい。この世界の存在じゃないな。時空の歪みに飲み込まれて、僕たちの世界に転移してきたようだ」
「なるほど。しかし魔王はなぜあの猫ちゃんをかばっているんだ。超かわいくて、ふかふかのお腹に鼻突っ込んで深呼吸してるだけで脳内麻薬が出続けて廃人待ったなしであることを除けば、奴が猫ちゃんをかばう理由なんてないはずだ……はっ、まさか、魔獣召喚儀式の生贄に……?」
「マルス、鼻血をふけ」
なんだ。なぜ追撃してこんのだ。――まさか、奴ら猫ちゃんに気づきおったのか。
「――卑劣なり魔王! 貴様そんなに可憐な猫ちゃんまでも、残酷な儀式の生贄にするつもりか! 曲がりなりにも魔族の長たるものが、見下げ果てたぞ!」
「何を言っておる、この猫ちゃんはそういうのではないわ!」
「だったら猫ちゃんを解放しろ卑怯者! 貴様はどうせその猫ちゃんをもってかえって生体改造を施し見るもおぞましい魔獣にしてしまうつもりだろう、そんなの猫ちゃんがかわいそう! 今すぐ解放しろ、具体的には俺に渡せ!」
「よくそんなこと思いつけるなさすがのワシもヒくわ! 貴様こそワシの腕の中で幸せそうにしておる猫ちゃんを自分のものにしたいだけだろうが! このちっちゃくてもふもふで暖かくて、おでこうりうりすると嬉しそうに目を細める猫ちゃんが羨ましいだけだろうが!」
「ふざけるな、俺は今まで私利私欲で戦ったことなど一度もないが、貴様だけはどんな手を使ってでも倒す決心が今ついた! クレオ、魔王のお母さんを人質に取る魔法とかないの!?」
「あるわけないし、なんであんたら二人ともナチュラルに猫ちゃん呼びなの?」
このマルスとかいうやつ、完全に吾輩の猫ちゃん目当てだな。勇者なんぞという大層な肩書きを持ちおるから、てっきり世界に平和をもたらすなどと言うかと思えば、とんでもないチンピラじゃないか。おそらく魔王城に乗り込んできたのも、吾輩の集めたファンシーグッズ目当てだろう。
ん、待てよ。猫ちゃん目当て、ということは――。
「ククク……なるほど、そういうことか、なるほど」
「な、何がおかしい! 半裸にマント一丁のくせに!」
「わからぬか? こういう――ことだ!」
マントを外し、猫ちゃんを包んで吾輩の胸元で固定させた。
「こうしていれば貴様らは吾輩に手出しはできんだろう! 吾輩に斬りかかれば、たちまち猫ちゃんを危険にさらすことになる。よしんば猫ちゃんが無事でも、吾輩に攻撃すれば、猫ちゃんは確実に貴様らを嫌いになる! 貴様に耐えられるか……? 猫ちゃんに嫌われた……その後の己の人生が!」
「くっ、そおおおおお! なんて残忍な手を使いやがるんだ、やはり貴様は猫ちゃんを利用していたんだな、恥を知れ魔王!」
「なーにを言っておるのだ、吾輩はただ猫ちゃんを抱っこしておるだけだぞ? 猫ちゃんも吾輩の胸元でこんなに安心して眠っておるのが見えんのか? ほれうりうりうり、うりうりうり」
「げぼぁーっ!」
「マルス、それ何の血?」
「クレオ……すまねえ、俺は……どうやら……ここまでのようだぜ……」
「何が!?」
「勝負あったようじゃな、では、吾輩は猫ちゃんを撫でながら玉座に戻るとするかな。貴様らはそこで己の敗北をかみしめておるがよいわ! フハーハハハハハ!」
「おい、マルス、魔王が逃げるぞ! よだれ垂らしながら白目剥いてる場合じゃないぞ、おい、マルス、マルスってば!」
「へへ……やめろよ猫ちゃん……おひげが……おひげがくすぐったいってば……」
「ダメだ使いもんにならない! くそ、僕の魔法が通じるとは思えないが――喰らえ、マジックミサイル!」
クレオの掌から光弾が放たれた。
フン、貧弱な魔法を打ちよって。弾き返すほどでもない、こんなもの避けてしまえば何の意味も――いや、違う、ダメだ、避けるのはまずい!
吾輩は横をすり抜ける光弾を無理やり手で受け止め握りつぶした。
「ぐうっ! ……い、痛いだろうが、貴様! こっちには猫ちゃんがおるのだぞアホか! 鬼か! アホでなおかつ鬼か!」
「え、っと……僕が聞くのも変だが、今の、なんで避けなかったんだ?」
「吾輩が避けた光弾が壁にでも当たったら破片が飛ぶだろう! そしたら、その破片が猫ちゃんに当たるかもしれんだろうが! せっかくこんなにぐっすり寝とるのに!」
クレオは少し何かを考えていたようだが、ふいに、閃いた、というように拳を打った。
「――サウザンド・マジック・ミサイル」
クレオの周りに無数の光弾が発現し、一斉に吾輩に向かって放たれた。
*
「ぐ、く、くそ……無念……」
「クレオ、これは、いったいどうやったんだ?」
「知らん。なぜか魔法を撃ってたら自分から全弾当たりにきた」
盲点だった。猫ちゃんを胸元に抱いておけば攻撃できんと思っておったが……いざ攻撃されると身体が勝手に猫ちゃんを庇ってしまう……。
みー?
俯せに倒れた吾輩の指先を肉球でつつきながら首を傾げる。もはや指一本たりと動かせぬ。無念だ。この猫ちゃんは、あのマルスとかいううす汚い男の手に渡るのか……もう二度と、この手で猫ちゃんを抱っこもうりうりもできんのか……。
「マルス、魔王に早くトドメを。君の聖剣じゃないと、魔王を封印できないからな」
逃げろ。逃げるのだ。吾輩は猫ちゃんに向かって精一杯口を動かす。あのマルスとかいう奴の手に渡るぐらいなら、逃げてくれ。吾輩の願いが通じたのか、猫ちゃんは突然、弾かれたように視界から消えた。
そうじゃ、それでいい。猫ちゃんが無事なら……吾輩は……。
「魔王、覚悟――うっ!?」
剣を振り上げたマルスの動きが止まった。
顔面を蒼白に染めながら、何かを見下ろしている。
なんだ、なぜ吾輩にトドメを刺さんのだ。……まさか。
しゃー!
視界の端から鋭い威嚇音。――猫ちゃん!
「マルス、早くトドメを! 猫なんて放っておけ、その剣を振り下ろせば全て終わるんだ! この距離なら猫に当たることもない、マルス!」
しゃー! なっ、なっ、しゃー!
「く、ぐう、ぐうおおお――……があっ!」
マルスの激しい叫びとともに、鋭い金属音が耳朶を打つ。視界の端で聖剣が転がった。
「……ダメだ! できない、俺には、猫ちゃんが庇っている魔王を斬ることが、どうしてもできないんだ!」
「マルス、何言ってんだ! その、えっと、本当に、何言ってんだあんた!?」
「俺たちの旅は世界を救うことだ、誰一人涙を流さない世界を取り戻すことだ! だから、耐えられないんだ……俺がこの剣を振り下ろすことで、確実に一人、一生忘れられない悲しみを背負う者がいることに!」
「考えすぎだマルス、猫は人間じゃない、三日も経てば忘れる。この戦いで誰が悲しみを背負うってんだ!」
「俺だ!」
「お前かよ」
マルスは立ち上がり、床に転がった聖剣を鞘に納めた。
「……魔王。その命、猫ちゃんに免じて預けておく! そのかわりお前は猫ちゃんを、一瞬たりとも悲しませることなく育てることを約束しろ! 猫ちゃんが天寿を全うしたとき――改めて貴様の命をもらいに来る、わかったな! 行くぞ、クレオ!」
「お、おい、勇者! 待てよ、どうすんだよこれ! 王様にどう報告すんだよ、これ、なあ、なあってば――」
マルスは後ろを振り返りもせず、元来た道を引き返していった。
クレオは、最後まで納得いかないというように首を傾げながらもマルスの後を追った。
身体を起こした吾輩は、頬をすり寄せる小さな英雄を抱きかかえた。
英雄はひとこと、満足げに、みぃ、と鳴いた。
*
「オラァ! 魔王いるか猫ちゃん触らせてもらいに――じゃなくて様子見に来たぞオラァ!」
「貴様は何度行ったらわかるのだ! ノックなしで入ってくるなと言っておろうが!」
「あ、どうもお邪魔しまーす」
「お邪魔しますじゃないよ、百層もあるのに毎回どうやって突破してくるのだ、貴様ら……」
「こないだお前の部下から、玉座直通飛竜の回数券もらったからな!」
マルスは指先でひらひらと回数券を翻した。
「それより猫ちゃんの様子はどうなんだよ。元気か?」
「そこで寝とるわい。撫でてもよいが、あんまり無理やり抱っこしようとするなよ。怒るからな」
「いやあ、マルスのワガママに付き合わせて悪いね。ところで冷蔵庫開けてもいい?」
「お前も最初は常識人かと思っておったのに、もうなんか普通になじんどるな」
「僕としては世界が平和になればそれでいいのさ。少なくとも、あの猫がいる間は、なぜか魔族の動きもおとなしいしね」
「仕方なかろうが、人間界にちょっかいだそうとすると、なぜか猫ちゃんが怒るんだから……。命を見逃してもらったこともあるし、猫ちゃんが生きとる間は、魔王の誇りにかけて約束は守るさ」
「ああ、そのことなんだけど、魔王は気づいてないのかい?」
何がだ、と聞くとクレオは意外そうに眉根をあげた。
「気づいてないんだな。異世界から転移してきたものには、世界の理を越えた特殊な能力が備わってるものなんだ。あの猫にも当然それがあるんだけど――」
「吾輩の魔眼ではそこまで見通せなんだ。貴様にはわかるのか? 猫ちゃんに何か特殊能力が? まあ超絶かわいい時点で、もうぶっちぎりで優勝だが」
「言っていいものかどうか。知りたいというのなら、教えるけど」
「もったいぶるな。そう言われたら気になる」
「――不死だよ」
「は?」
「あの猫に備わった特殊能力は【不死】だ」
クレオはそれだけ言うと、吾輩の冷蔵庫から勝手に取った茶を啜りながら、赤ちゃん言葉で猫とたわむれるマルスを見た。
不死。それが本当なら、吾輩の世界征服の目論見は、猫ちゃんが居る限り叶わぬことになる。いくら魔族は長寿とはいえ、不死とまではいかない。つまり、吾輩はこれから一生、人間共を支配することもできずに、魔界で猫ちゃんと生活していくのか……。
みー。みー! みっ、みゃ!
まあいっか。最高じゃん。