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天と地の境目

砂の記憶

作者:天崎 剣
 潮風を感じるのは久しぶりだった。誰もいない真夜中の港、漁火が遠くに見える。車窓を全開にして、潮の香りを感じた。子供の頃親にせがんでまで連れてきてもらった大好きな海は、今は暗くどこまでも深い闇でしかない。ふかしたままのエンジンと、鳴りっぱなしのラジオ。さっきから何度も港をグルグルと走り回っている。安月給で必死に払い続けている車のローンもまだ終わらないうちに、俺はこの車とともに海に沈もうとしていた。
 アクセルを踏めば、そのまま踏み切れば、俺はあの重圧から開放されるはずだ。
 ここ数日、脳裏を支配する、同じ光景、同じ声。
『君しかいないんだよ。わかるだろ、みんな、守るべき家族がある。君には何もない、そうじゃないか。これが、何を意味しているのか、利口な君にはもうわかっているはずだよね』
 部長の脂ぎった顔が目に浮かぶ。経理課長も、営業課長も、信頼していた同僚さえ、やっぱり同じことを言った。俺が何をした。何がどうなったら、俺が責任を負うことになるんだ。考えてもわからない。いや、答えなんてとうにわかっているはずなのに、わからない振りをしているだけかもしれない。
 勤めているスーパーが東証二部に上場し、波に乗りかけているところで判明した産地偽装は、経営基盤を揺るがす大事件に発展した。連日のマスコミ報道、客の買い控え、株価の暴落。幾ら弁明したところで、信用を取り戻すのは容易ではない。必然的に赤字になっていく決算を何とか黒字に止めたい社の上部層は、請求書の偽造、捏造を指示、資金の流れを複雑にすることで見せ掛けの黒字を作ることを秘密裏に決めた。そして、その実行役を買って出る、都合のよい社員を探し──、俺に白羽の矢が立つ。
 両親が早くに死に、一人身だった俺には確かに守るべき人間はいなかった。それなりに責任ある立場だが、捨て駒になるには丁度いい。そうか、そういうことだったのかと肩を落としたところで抵抗する術はない。
 夜、みんなが残業を終えて帰ったのを見計らい、経理部長とそれ以下数人がわっと俺のパソコンデスクを取り囲んだ。
十川そがわ係長」
 闇が迫ってくるような、ぞわぞわとした感覚。
「赤字になりそうなんだよね。このままじゃ、不味いんだよね。客の信用もあるしさ。株主との兼ね合いもあるしさ」
 部長の後ろから、経理課長がへこへこしながら書類を差し出した。
「ほら、こんなに赤字じゃ、説明のしようがない。どうだろう、この数字を、こう、してもらえないかな。それからこっちを、こうして……」
 粉飾決算の指示だ。だめだ、逃げないと。思っていても、体が固まって言うことをきかない。
「頼むよ、ね」
 念を押し、去った後も、数日置きに「あれはどうしたかな」と確認に来る始末。不正を不正だとわかっていながら手を染めるような、そんな人間には、本当はなりたくなかった。
 住んでいた社宅から夜中にコッソリ抜け出し、俺は港を目指した。
 小刻みに震える手で、数字を偽装した感覚が生々しく思い出され、薄笑いを浮かべながら「よしよし」と頷く部長や課長の顔が何度も何度も脳裏に広がった。偽装なんてすぐにバレるとなぜわからない。産地偽装があったときだって、洗いざらい調べられたくせに。今度は俺を巻き込んで何をするつもりなんだ。死にたい、死にたい、死にたい、死にたい。
 罪の意識に押し潰され、俺は一縷の希望も見出せなくなってしまっていた。
 だから、大好きだったこの海に飛び込んで死のうと──。
 ハンドルを握り直し、ギアをドライブに入れなおす。たぎる脂汗の一滴が、つうと鼻の筋を這ってあごから落ちた。がたがたと鳴る奥歯をぎっちりかみ締め、俺はアクセルを思い切り踏み込んだ。薄暗い港のコンクリの上を、ヘッドライトの光が照らし、それが急に途切れる。銀色の車体が一瞬浮き、そのまま俺は、海面に打ち付けられ、意識を失った。

 逃げられる。これで、現実から逃げられる。
 こんな簡単に逃げられるのなら、あんなにも追い詰められる前に逃げてしまえばよかったのに。
 沈んで、海の藻屑になった頃、きっと地上ではスーパーの粉飾決済の話題で持ちきりなっているはずだ。行方不明の社員が全てを負ったのだと、小さく見だしに書かれて、それで終わり。その後どうなろうが、俺の知ったことではない。


「──っちゃん、おっちゃん、大丈夫か、おっちゃん!」

 誰もいない海で、俺を呼ぶ声がした。いやまさか、幻聴に違いない。車ごと突っ込んで、助かるはずはないんだ。シートベルトもしっかりつけて、浮かばないようにしたんだから。

「おい、こんなところで寝てたら、茹で上がっちまうぞ!」

 冷たい海に沈みながら、『茹で上がる』わけなんかない。海の底で誰かに見つけられるまでじっと眠り続けるのだと──、思う割に自然に呼吸している。言われてみれば、背がじりじりと熱く、全身が汗ばんでいるではないか。
「おい、聞いてンのか、おっちゃん!」
 ドンドンと車体を叩く音に違和感を覚えた俺は、恐る恐る、伏していたハンドルから身を剥がした。
「やっと起きた!」
 運転席横の窓から、十代の少年の顔が覗く。日焼けをした短い黒髪のその少年は、いたずらっぽそうに笑った。
 気張っていた肩から一気に力が抜け、口からこれでもかというくらい大きな溜め息が漏れた。両手で顔を覆い、ぐしゃぐしゃとかき回すと、涙と鼻水と思しき液体が手のひらにまとわりつく。
「な……んだぁ。死に切れなかったのか」
 意気消沈しながらシートベルトを外し、俺はおもむろに運転席のドアを開けた。途端に、もわっとした風が車内に流れ込んでくる。熟されたような熱気だ。いつの間に日が高くなってしまっていたのかと思いながら俺は、何気なしに地に降り立った。
「おわッ、な、なんだこれ!」
 砂だ。俺は一瞬足をすくわれ、車のドアに寄りかかった。が、焼けるように熱いそれに更に驚き、バランスを崩して砂地に転がった。砂も、やはり焼けるように熱い。鉄板の上で水が撥ねるように転げまわる俺を見て、少年は腹を抱えて笑った。「笑い事じゃない」と言ったところで、彼のツボに見事にはまったらしく、止む様子もない。
 立ち上がり、砂を払って周りを見渡す。
「砂漠」
 一面の砂地、そして抜けるような青空。俺が飛び込んだのは、海ではなかったのか。そもそも二輪駆動の普通車でこんな砂地に入れるわけがない。
 わけもわからず、車の周りをぐるぐると回る俺に、少年はやっと笑うのをやめて声をかけた。
「おっちゃんもさ、殺されたクチ? それとも、自分で命を絶ったクチ?」
「はぁ?」
「ここはさ、そういう人間か来るところなんだよ」
 心臓がどくりどくりと大きな音を立て、呼吸が荒くなる。図星だと、どうして人間の身体ってヤツはこうも正直に反応するのだ。赤面した顔を恐る恐る少年に向ける。
 確かに色々不自然だ。飛び込んだ記憶の後に砂地にいるのも、この異常な暑さも、少年のいでたちも──。ゲームの世界でよく目にするようなナイフの鞘を腰に差し、古風な水筒を肩にかけている。全体的に色合いの悪いセピアのハーフパンツは薄汚く、足元には革のサンダル。
「とにかく、早くここを出よう。長居するとサンドワームが来る。さ、早く」
 戸惑う俺の手を、彼は無理やり引っ張った。
「サンドワームって、あの、デカイ砂ミミズみたいなやつか?」
「そうそう、それ、喰われたらお終いだから!」
 砂地の陰に待たせていたらくだのような生き物の背に俺を乗せると、その手前に飛び乗って思い切り手綱を引く。
「掴まって、振り落とされないでよ!」
 その生き物は甲高くいななき、前足を大きく上げると、ものすごいスピードで走り出した。右に左に大きく揺れ、少しでも気を抜くと確かに振り落とされてしまいそう。俺は、自分より小さな少年の腰にへばりついた。暑さと互いの汗と獣独特の癖のある臭いが混ざり、更に容赦なく上下する。振動に耐えかね、意識を失いそうになりながら、俺は必死に掴まった。
 少しずつ慣れてくる。風を感じ始めた。海岸のひんやりした空気には程遠いが、熱風の中に一筋、涼しさが混じっているような気がしてくる。やがて、視界の向こうに町が見えてきた。やっと救われると、俺は胸を撫で下ろした。
「オアシスで、少し休もうか」
 やっとの思いでその背から降りた俺を、やはり少年は無理やり引っ張って町の中心部へと向かわせた。
 見れば、様々な肌、文化圏の人間が入り混じっている。赤子から年寄り、白人黒人はもとより、アジア密教系からイスラム圏と思しき男まで、実に様々。しかも、耳を澄ませばなんとなく彼らの言葉がわかる気がするのが不思議でならない。やはりここは、少年の言うように『そういう場所』なのか。
 屋台が沿道に軒を連ね、日差しを遮るのがありがたい。食べ物や飲み物から衣類、防具らしきもの、刃物など、まるでゲーム世界のよう。長袖の白ワイシャツにスラックスの自分の姿が妙に恥ずかしい。
 たどり着いた先に、大きな噴水があった。その縁にたくさんの人が腰掛け、涼んでいる。手にすくって水をひと含み。冷たい感触と食道を通り抜ける水の感覚は、自分が死後の世界にいるとはとても思えないほどリアルだった。
「死後の世界? それはちょいと違うよ。まぁ、大体合ってるけど」
 少年は『コウタ』と名乗り、屈託のない笑顔で笑い飛ばした。
「自ら命を絶ったヤツ、死にたくて死んだわけじゃないヤツ。そういうヤツらしかここには来ない。天国とか、地獄とか、行き先のはっきり決まってるヤツは、こんなとこに寄り道しないでさっさと行くはずだからね。オレは砂漠に迷い込んだヤツをオアシスに案内する仕事をしてるんだよ」
 すると俺も、死んだのは間違いないと、そういうことなのか……。
「ソガワのおっちゃん、家族とか、残してこなかったの?」
 縁に腰掛け、水を手でかき回しながら、コウタは上目遣いにそんなことを訊いてきた。
 俺はただ恥ずかしそうに、「そんなものはいないよ」と笑う。そして溜め息を一つした後、ぼんやりと高い太陽を見上げながら、なぜかしら昔の、ずっと押し込めていた記憶の欠片を思い出した。
「まあ、そうだな。よくよく思い出せば、二十歳の頃付き合っていた彼女に『子供が出来た』と言われて、そのまま音信不通になってた。そろそろ終わりだな、と思っていた時期だったから、それ以上詮索も後追いもしなかったけど。どうなったんだろう。もしその子が生きていたら、俺の『家族』なんだろうか」
 責任感のない男だと思われても仕方がない。学生の時分、どうしたらいいのかすらわからなかった。あの時引き止めていたら人生も変わっていたかもしれないが、後悔したところで、彼女もその子供も、別の男と上手くいってるんだろう。そう考えるのが自然だ。
「へぇ。おっちゃん、今、いくつ」
「三六」
「じゃあ、生きてれば子供は十六か。俺と同じくらいだね」
 びくりと身体に電気が走る感覚。言われて気が付いた。俺は、そういう歳なんだと。
 仕事ばかりで鬱になっていた現実。満たされない私生活。ずっと一人で生きてきたような、そんな感覚が当たり前だと思い込んでいたが──、彼女と上手くいっていれば、俺も一人の父親として家庭を持っていたはずだったのか。
 両手で顔を覆った。うな垂れた俺の背を、コウタの小さな手が撫ぜた。
「おっちゃん、大丈夫? ここ暑いから、どこか木陰にでも行こうか」
 違う、違う、そうじゃない。必死に首を横に振る。
 心配そうに覗き込むコウタの目が、なぜかものすごく、怖かった。

 この空間の時間の流れは一定なのか。腹も減らない、喉も渇かないのはなぜなのか。
 本当はどうでもいいそんなことを考えて、俺は何とか気を紛らわせようとした。とうに忘れていた自分の子供のことなど、どうして思い出してしまったんだ。思い出したところでどうなるわけでもないのに。
 人生を後悔し始めたのはいつだったんだろうか。両親が相次いで癌で亡くなったとき、俺は自分勝手に生きてきた親不孝を仏前で詫びていた。好きで入ったはずの大学を中退して、それでも何とかスーパーに就職出来たとき、祝ってくれる家族は既になかった。社宅に入り、奨学金を返しながら何とかして生き延びた。出世し、係長になることが出来たとき、ささやかながら祝ってくれた恋人もいたが、先日別れた。俺は常に、一人だった。
 昔の彼女との子供がいたとして、俺にその妊娠のみを伝えて姿を消した女の気持ちなんて、どうやったら理解できるだろう。しかも別れ際に発覚した妊娠なんて、きっと誰も望まない。おろしたに決まっていると考え始めてから、子供の存在は俺の中からすっかり消えてしまっていた。
 コウタに出会い、十六の子供がいる自分を想像する。高校生の父親、どんなもんだろう。趣味の話で盛り上がったり、勉強や進路の悩みを聞いたりするんだろうか。好きな女性のタイプが自分と似通っていたり、身なりが自分と似ていくのをしみじみと眺めたりするのだろうか。
「コウタは、家族、いたのか?」
 夕暮れ時、大きなヤシの木陰で、俺はふと尋ねた。
 コウタは俺と同じように顔を曇らせ、「うん、いたよ」と小さく答えた。砂地に生えたヤシの根元に、うっすらと生えた草をむしりむしり、小さく丸く屈んだコウタの背中は、赤子のように震えていた。
「おっちゃんだから言うんだけどさ、オレは、母ちゃんと新しい父ちゃんに、殺されたんだ」
 聞いてはいけなかったと、口を閉じたところでもう遅い。そのすぐそばに屈みこみ、表情を窺うと、やはりうっすらと涙を浮かべている。必死に謝る俺に、コウタは静かに笑った。
「母ちゃんのことは、今でも好きなんだよ。オレのこと、大事にしてくれたしさ。いつも守ろうとしてた。だけど、新しい父ちゃんは、気に食わなかったみたいなんだ。特に、オレの名前が。本当の父ちゃんの名前から一字、貰ったんだって。読み方は違うけど、漢字は同じだって。そこが気に食わないって。『いつまでも、昔の男にすがるような、思い出すような名前の子供なんて捨てちまえ』って、言いながら、新しい父ちゃんはオレを殴った。まだ、五歳だったんだぜ。あざが出来たりさ、骨が折れたりさ、したんだよ。痛くて、痛くて。だけど母ちゃんは、なぜかそんなことをする新しい父ちゃんと別れることが出来なかった。気が付いたら、砂漠にいた。オレは、殺されたんだなって、そのときなんとなくわかって」
 俺は、話し続けようとするコウタの背中を無心に抱きしめた。
「もう、いい。やめろ、やめてくれ」
 念仏のように繰り返す。自分が最悪の人生だったなんて、大間違いだ。コウタが言ってたじゃないか、『自ら命を絶ったヤツ、死にたくて死んだわけじゃないヤツ』の集まる世界だって。わかっていて──いや、俺は理解していなかった。このオアシスにいる全ての人間は、きっと俺より、もっともっと悲しみを知ってるということを。

 日が沈み、月が昇ると、昼間の暑さは嘘のように消えうせ、極端な寒さに襲われる。まくっていた長袖ワイシャツの袖を戻し、両手をさすった。息が白い。
 コウタの仲間がいるというテントに案内された。ヨーロッパ系少数民族の衣装を纏ったそこの長は、しわくちゃになった顔と長く伸びた眉を歪めて、新参の俺にこの世界のことを少し話してくれた。
「死者は砂から出で、砂に消ゆる。彷徨う魂は満たされようとオアシスに集まる。時の流れは現世と同じ。歳を取り、いずれ死ぬ。だが、不思議なほど心は死んだときのままで、美しい心は美しいまま、汚れた心は汚れたまま。それはどうして、生き続けるよりも苦しいのだ。自らの想いと、ここに集う死者達の想いに押し潰されないようにしなければ、いずれ道を失い、この世界でも争いごとが絶えぬようになる」
 詩のような言葉と、その低く響く声に、俺は心奪われた。
『時の流れは現世と同じ』ならば、コウタは五歳で殺されてから十一年間ここで過ごしたということになる。それはどれだけ苦しく、長かっただろう。小さな子供の心のまま、彼は身体だけ大きくして、どれだけ泣いたのだろうか。
 俺は少しずつ、コウタを違う目で見始めている自分に気が付いた。最初はどこぞのガキだと思っていたが、もしかしたら──、もし、コウタが俺の息子だったらなどと、淡い期待を抱くようになっていた。
「オレがおっちゃんの息子だなんて、そんなわけない!」
 コウタはまた、腹を抱えて笑った。
「オレの本当の父ちゃんが、こんな疲れたオヤジだったら幻滅だよ!」
 コウタどころか、テントの連中もみんな笑う。「例えばっていうか、冗談の域の話じゃないか!」だなんていう、俺の弁明なんて意味を成さない。

 そうして、数日が過ぎた。
 らくだのような、名前のないあの生き物の背にもまたがれるようになった。オアシスのヤシの並木道を沿うように歩いたり、少し遠くの砂漠の中まで行ったりと、冒険心も騒ぎ始める。俺の乗っていた車はどうなっただろうかとコウタに聞くと、「今頃砂に沈んでいる」とやはり大笑いする。
 砂は、増え続けている。この世界に注がれる悲しみと同じくらいの速さで、どんどん増え、いつかオアシスさえ飲み込んでしまうかもしれないのだと言う。死者たちの営みをあざ笑うかのように、砂漠に住み着く巨大な砂ミミズが時折遠くでとぐろを巻きこちらを見る。沈めばいいと思っているのだろうか、この砂に。死ぬでもない、生きるでもない死者など、砂の底、あるいは砂ミミズの胃に飲み込まれてしまえばいいとでも。
 砂漠の日々は常に緩やかで、一定していた。生きていたときには味わったことのない、柔らかい感覚に包まれている。暑さも、夜の冷たさも、現世での悲しみを忘れさせてくれる。あの、追い詰められた感覚も──、まるで嘘だったかのように。簡単に言うと、平和ボケしかけていた。ここになぜ、武器屋があるのか、防具屋があるのか。わざわざ腰に短剣差して歩かなきゃならない理由なんて、俺が考えていなかっただけ。『美しい心は美しいまま、汚れた心は汚れたまま』という長の言葉の意味を、俺はすぐ知ることになる。
「賊が、賊が出たぞ!」
 静かな朝、突如として動物の鳴き声が響き渡った。噴水を囲む死者たちは転げるように駆け出し、沿道の屋台からは店主たちが店を放って逃げ出してくる。噴水公園で涼んでいた俺は、わけもわからず立ち尽くした。一緒にいたコウタが、顔面を青くして俺の背を押す。
「おっちゃん、何してんだ、逃げないと!」
「何が起きているのかわからないのに、逃げられるかよ」
「意固地だなァ、逃げないと、消えるんだよ!」
 見たことがないくらい、必死な表情で俺に訴える。ただごとではない、そう思わざるを得ない。
 騒々しい足音に振り返ると、ヤシの並木を蹴散らす勢いで、馬のような獣にまたがった集団が武器を振り振りこちらに向かってきていた。なるほど、アレが恐怖の原因なのかと理解する。
「彼らは?」
 いつもの調子で尋ねる俺に痺れを切らして、コウタは俺の腕を引きちぎれるかと思うほどの勢いで引っ張った。バランスを崩し、それでも構わずに逃げようとするコウタの様子は、いつもとは明らかに違った。
「知るか!」
 乱暴に吐き捨て、それ以上答えてはくれない。
 なぎ倒されたテントを避けるようにして、コウタと俺は走った。息苦しくて、心臓がバクバクなるくらい必死に走った。向こうは獣に乗って、怖いくらいの速さで近付いてくる。じわりじわりと距離が縮まり、その姿が視力の悪い俺の目にもはっきりと見えるくらいまで迫ってきた。
 逃げ遅れた男がヤツらに捕まる。長い片手剣を獣の上から振り落として、そいつは男を斬った。血が出る、瞬時に俺は目を瞑った。が、違う。斬られた男は砂になって溶け、風にあおられて散ったのだ。俺は目を丸くした。
「消えるって……、砂になるのか」
 走りながら、汗だくのコウタに向かって訊いた。
「そう、だよ。言わなかったっけ。ここでは、死ぬんじゃない、消えるんだ。元々死んでるんだから、後はどうなるかなんて、知ったこっちゃない。消えたら最後、今まで続いてきた、この意識も、姿も、みんな、なくなっちゃうんだよ……!」
『砂から出で、砂に消ゆる』なるほど、そういうことか。だから逃げるのか。狂気に取り付かれた、何者かもわからない賊に掴まらぬように。消える、消えたくない。
 部長や課長の姿が、突如として目に浮かんだ。その感覚は、部長たちになじられていくあの時のそれに似ていたのだ。気味悪かった、あの目。何を考えているのか、どうしたら逃げられるのか。それだけを考えていた日々。死んでしまえば楽になると、思った俺が恨めしい。──死んで、どうなったのだ。やはり同じように追われ、消えるのか。
 獣の足が、すぐそばまで迫ってきた。鎧武装して剣を高く掲げた狂気の男たちが、血走った目でこちらを見下ろしている。コウタの必死の走りも、もはや無意味。その獣の真下、長剣の攻撃範囲内に取り込まれた。
 剣先が落ちる。
「おっちゃん!」
 コウタの声。俺はコウタの手を腕から引き剥がし、突き飛ばした。
「走れ!」
 砂に滑り込むように転げていく少年の背中、俺の真上に光る切っ先、
「とうちゃ──……」


 身体が、ほどけていく。
 砂になる。
 ばらばらと解体されていく。

 砂は、増え続けている。この世界に注がれる悲しみと同じくらいの速さで、どんどん増え、いつかオアシスさえ飲み込んでしまうかもしれないのだと言う。その中に、俺の意識も一緒に飲み込んで、いつか、コウタも取り込んで、また死者をこの世界に案内するのだろうか。


 波の音がする。ウミネコの涼しげな声も。
 日の光が閉じた目に差し込み、視界が赤くチカチカするので、俺はゆっくりと目を開けた。腕に当たるプラスチックの感触。がばと顔を上げれば、そこはいつもの、見慣れた車の中だった。
「コウタ!」
 俺は思わず声を上げた。きょろきょろ見回し、車内中を探したが、当然のように彼の姿も形もなかった。
 朝の、漁港。釣り客の車が周りを囲っている。
 頭をかきむしり、ぼんやりした頭で車から降りると、釣り客の一人が俺に話しかけた。
「おお、あんちゃん。やっとこさ起きたねぇ。こんなとこで寝ちゃ、身体に悪いよ。ちゃんと布団敷いて寝なきゃなァ!」
 がははと笑いながら、その中年の鉢巻は垂らしていた釣竿をひょいひょいと動かした。
 海の生臭い潮風が、鼻の穴をこれでもかと通り抜ける。風は冷たく、俺はぶるぶると身体を震わせ、ワイシャツの上から体中を撫ぜた。腕時計は、あの、自殺しようと思い立った日の翌日の朝を示している。──もしかして、
「夢、だったのか」
 気落ちした。リアルで、長くて、いろんなことがあったのに。コウタとの時間も、あの溶けていく感覚も、何もかもが嘘だったのか。
 凝り固まった身体を背伸びしてぐいと伸ばした。大きく両腕を伸ばし、左右に開いて深呼吸。
 出社時間が近付いていた。あの、魔物に取り付かれたような部長や課長の顔をまた拝まなくちゃならない。自分がやったことをもう一度思い出すと、急に吐き気が襲った。責任のなすり付けで、俺の居場所なんてもうあそこにはないとわかっていながら、また出社するのは気が引ける。
 さて、どうするか。
 車の側面に寄りかかり、俺は無造作にポケットをまさぐった。連絡なんて取れないように、社宅に携帯電話を置きっ放しにしていたのも忘れて。ゴソゴソと探る手にジャリジャリとした細かいものが当たる。それは指に絡みつき、俺の心を一気にあの場所へ飛ばした。
「砂だ」
 大量の砂がポケットの中に忍び込んでいた。独特の黄色いそれは、この辺りの海岸のものとは質が違う。スラックスの両ポケット、尻ポケット、ワイシャツの胸ポケット、耳や鼻の穴の付近にも少し、砂が溜まっている。
 涙が、止まらなかった。両手が、全身が震えた。
 夢が、今も続いているのか。それとも、今見えているこれが幻覚なのか。
 泣き崩れていく俺を心配して、さっきの中年男が近付いてきた。「どうしたね」と不信そうに覗き込む。
「まァ、色々考えることもあるだろうが、そう気落ちすんなヨォ。人間、生きていれば辛いことも楽しいことも、たくさんあんだからなァ」
 どうやら、夢ではないらしい。俺は、いつの間にかあの世界に迷い込んでいたのか。コウタとの出会いは、嘘ではなかったのか。
『本当の父ちゃんの名前から一字、貰ったんだって』
 あの世界でさらりと聞き流したそんな言葉が巡った。一字。コウ、こう……。不思議とコウタの前では考えなかったそんなことを、今必死に考える。何とかして、彼との繋がりを保ちたいと思っているのだろうか。そういえば、俺、「十川晃そがわあきら」の下の名前も、音読みでなら「コウ」と読む。
 殺されながらもあの世界で必死に意識を繋ぐ、コウタの真っ直ぐな眼差しを思い出した。彼は今も、あの得体の知れない狂気の集団と戦っているのだろうか。消されると思ってコウタをかばったあの時の気持ちが本物なら、俺は現実世界でだって現状を打破できるはずだ。あの賊と違って、部長たちが俺を消せるわけじゃない。内部告発、マスコミへの情報提供、幾らだって手はある。
 空は青い。どこまでも無限に続いている。それはきっと、あの砂漠の上まで続いているのだと言い聞かせ、俺はそっと涙を指で拭った。
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