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傘をたたむとき

作者:雲鳴遊乃実
どんなに手を伸ばしても届かないものがある。空の星はもちろんのこと、雲や、飛んでいく鳥だって僕の指先にも引っかからずに去って行ってしまうだろう。
捕まえるには覚悟がいる。一方の僕には覚悟がなかった。だからあの日電車の中に入っていく君の背中を見つめているしかなかった。ほんの数cmの硝子によって、僕と君は分断されていた。
もしも五秒前に僕が覚悟を決めていたら飛び込んでいたかもしれない。
あるいはそれは夢想かもしれない。
とにかく電車は遠く、山を貫くトンネルを潜っていった。山の向こうには海がある。海沿いの道をひた走り、電車は南へと下っていく。
その先の景色を僕が見たのはもっとずっと大人になってからで、頭の中にいる君はまだ子どもの姿のままだった。都会に出た僕が君を探そうにも、思い出だけではどうにもならず、ついでにいえば忙しかった。日々書類を作り回し積んでいく仕事を面白いと思うことはなくて、苛立ちを紛らわすべく入った居酒屋で些細なことから喧嘩をした。何かしらの嫌みを言われて、とにかく相手を黙らせようとした。
大事にはならず、前科はつかなかったものの、会社は許してくれなかった。真っ黒なスーツをぱりっと決めた上司が蟻みたいな顔で顎をきいきい言わせて僕を解雇した。言い逃れのしようもない。
都会に放り出された僕は、田舎に引っ込んで老いた両親の厄介になるのも忍びなくて、どうにかならないかと仕事を探した。生活の足しにするべく飲食店でアルバイトをし、声を張り上げた。後がない、と思っていたのが功を奏したのか、僕は次第に良い評判を浴びた。社員は一目を置いてくれたし、学生である後輩たちは僕を頼ってくれた。久しぶりに居場所ができた気がした。相変わらず仕事は見つからなかったけれど、とりあえず錨を突き刺しておく場所は見つかった。このまま水流に流される前に、次の中継地点を探せればいい。無理矢理にでもそう考えて、瞑想して、眠れない夜を徐々に休息時間へと変えていった。

「俺、田舎に彼女がいたんですよ」
 仕事終わりの従業員控え室で、比較的仲の良かった後輩のS君が、雑談混じりに遠くを見てそう言った。それまでどんな話をしていたか、はっきりとは覚えていない。とにかく他愛ないことだったのに、S君の調子が急に溜息交じりのやや重いものとなったから、印象に残った。
「過去形ってことは、別れたのかい」
「いえ、よくわからないんです。俺はずっと付き合っている気でいたんですけどね。向こうはどう思っているんだか。メールはもう返ってこないんです。今度帰省したときに会えるかな、って考えてはいるんですけど、なんかもう、疲れた、っていうか」
 冗談めかしてS君は笑った。疲れたという割には、悲しそうではない。今のこの状況を弱々しく楽しんでいる。そんな矛盾がS君を道化たらしめていた。なんだか申し訳なくなって、外に出てから、コーヒー缶を奢ってあげたら、すぐには飲まずにしばらく手で持っていて、結局そのまま分かれ道を僕と別に歩いていった。暗い夜道の向こう側に、電灯がぽつぽつと彼の行く先を照らしていた。暗がりへと、彼は消えていった。

 夢の中で、昔のことを思い出していた。
 雨の降る畦道を君と一緒に歩いていた。僕も君も傘を差していたけれど、畦道に比して二つの傘は大きくて、並んでいるとどうしても傾けざるをえなかった。お互いの外側を下に傾けたせいで、内側には隙間ができて、そこからさらさらと雨が入り込んできた。
 落ち着いて考えれば、ちょっとでも前後に道を譲れば濡れずに済んだのだろう。でもその日、僕らは濡れることは選んだ。横に並んで一緒に歩いて、そのくせ何も言わずにいた。君はすごく嫌なことがあったんだ。それを僕は知っていた。声を掛けるのは忍びなくて、でも気づいていることは知って欲しかった。だから、なるべく君の顔を見ないように、それでいて君の目に映るように、そのボーダーを探していた。
 濡れた日の思い出だ。反省点は大いにある。このときも僕は踏み出せずにいた。
 踏み出してこない彼女に、すっかり甘えてしまっていた。
 悪いことをした、と思い、目が覚めた僕の枕元で携帯電話が受信をお知らせした。お知らせしたから目が覚めたのかも知れない。寝ぼけ気味の頭で画面を見る。映っている名前は僕の母親からだった。

 いつの間にか、母も父も僕が起こしたちょっとした暴力事件を知っていた。どういう情報網を駆使したのか、皆目わからない。さぞや肩身の狭い思いをさせてしまったのだろうと萎縮したが、逆に父が僕の肩を叩いてくれた。
「いつでも戻ってきていいんだからな、好きなだけ暴れて、都会に傷痕つけるくらいの奴になれ」
 励ましているつもりだったのだろう。大人になった僕に向けるにはいささか反社会的だけれど、僕は雰囲気に飲まれる前に反射的に笑ってしまった。甲斐がない息子で申し訳ない、なんて。
 母と父はやたらと刺身を食べたがり、車を借りて僕が地元で一番大きな寿司屋へと連れて行った。つまりは回転寿司のチェーン店なんで、せっかくだしもっとマシなところを、と薦めたのだけれど、両親は首を縦に振らなかった。「あんた回転寿司好きだったでしょ」と繰り返した。生臭さがとにかくだめ、というタチでも無い限り、寿司がぐるぐると回る様を喜ばない男子はそういないと思うのだが、僕は結局押されて負けた。回転寿司のお皿に載ったぱさついたマグロ、エビ、イカ、タコ、アナゴ。なんだかんだで、堪能している僕がいた。
 帰り道に畦道を横目に見た。あの子と帰っていた畦道。彼女の家へと続く近道だった場所だ。さすがに自動車で通り抜けることはできないけれど、自然と視線が逸れてしまい、口をついて、彼女の名前が出てしまった。
「――って今はどうしているんだろうね」
 誤魔化した、途端に耳が熱くなった。今が日の暮れた後で助かる。昼間だったら真っ赤になっているところが見られていただろう。
 父が「懐かしいなあ」と言い、感慨に耽った。母はしばらく思案してから、「わからないな。もう繋がりが、ねえ」と曖昧に笑った。
 両親にとって、彼女はもう過去の人だったのだろう。
 あるいは僕が、少し名残惜しみすぎているだけなのかもしれない。
 彼女が電車に揺られて田舎を去ってから、もう十年近い時が流れようとしていた。思い出という枷の時効はとっくに過ぎているのだろう。解放されて良い頃合いだ。そう、心のどこかでもわかっていた。

 雨の日の夢が、終わりを迎えた。
 雨が止んだのだ。
 今までの景色とまるで違う場面に、僕は戸惑いながら傘を降ろした。
 気づけば隣の彼女も降ろしていた。
 まだ学生だった頃の彼女が、僕を見て、微笑んだ。そばにいてくれるだけでこんなにも嬉しい、と体現してくれていた。
 彼女は何も言わなかった。僕はもう彼女の声が思い出せなかった。彼女が大人であることは感覚としてわかる。ついでに僕も大人になっていて、割かし散々な道を歩いてきた。
 畦道を彼女が歩いて行く。すぐにそれは終わり、通りへと抜けた。降り注ぐ光が彼女のいる景色を見たし、僕をも包み込んだ。
 目覚めた僕は、昔の僕の部屋にいた。まだ帰省中で、布団を敷いて寝ていた。この部屋をまた使うことに、残念だけど違和感があった。僕はもうここには相応しくないらしい。肌で感じて、息を吐き、静かに眠り、まるで違う夢を見た。

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