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後編
 数日後、
「月城さん、ちょっといい?」
 改まった口調で南が声をかけてきた。
 嫌な予感がする。また、美雪が何かしでかしたのだろうか?
 加奈子がとっさにそう思ってしまったのには理由があった。どういうわけか彼は美雪を避けているらしく、過去にも何度か間に挟まれたことがあったのだ。
 平気でずけずけと物言う彼も、美雪だけは苦手のようだった。陰で文句を言うことはあっても、本人を前には何も言おうとはしない。仕事のことでどうしても彼女に接する必要がある場合は、雛鳥にでも触れるかのように、怖々としている。少なくとも加奈子にはそう見える。
 実は、以前は惚れた弱みなのではないかと勘ぐっていたのだが、南に恋人がいることが判明し、そうではないことが分かった。
 だとすれば、せいぜい下手に関わって、泣かれでもしたら困るといったところだろう。
 しかし、これまでに南が泣かせた女子社員はゼロではなかった。正直なところ、加奈子だって泣かされたクチだ。
 それなのに、今さらの如く美雪には泣かれたくないと思うのは、彼女が男性の庇護欲をかき立てる存在だからにちがいなかった。
 彼女を泣かせたとあっては、周囲の男性陣が放っておかないだろうし、何より彼自身もまた男なのだ。
 彼女のあの大きな瞳で潤まれることは避けたいのだろう。
 彼の気持ちも分からないではないが、いちいち面倒に巻き込まれる加奈子からすれば迷惑千万な話だった。
「なんでしょうか?」
 誰もいない少人数用の会議室に通され、勧められるままに椅子に座ったものの、一向に話し出す気配のない南を急かすように水を向けた。
「ああ。その……非常に言いにくいんだけど。早めに話しておいたほうがいいと思ってね。その、君のためにも」
 言いよどみながら、南は手にしたボールペンをくるくると器用に回した。彼は気分が落ち着かないとき、身近な物をいじる癖があるのだ。
 加奈子は彼の手元をぼんやり見ながら、話の続きを待った。
「月城さん、最近仕事はどう? 大変?」
「忙しいときもありますけど、順調です。特に問題はありません」
 話の流れが見えず、加奈子は注意深く答える。どうやら美雪の話ではなさそうだった。
「そう。実はね――」
 思わせぶりに、南はそこで言葉を切り、
「最近、君の評判があまりよくないんだ」
「え?」
 一瞬、意味が分からなかったが、その言葉の意味を理解すると同時に心臓のあたりにひやりと冷たいものを感じた。
 別に自分が人気者だとは思っていないし、一部から口煩い女だと思われていることも承知している。
 しかしそれは個人的感情によるもので、会社から見た加奈子の評価に関係するはずがなかった。つまり一個人が抱く個人的な嫌悪が、オフィシャルなものに変化するはずがなかった。少なくとも加奈子はそう考えていた。それに口煩いだけなら、南だって、経理部門の高橋だって負けてはいない。
 けれど今、業務時間中に、あえて先輩社員の口から告げられたということは、もはや個人的な嫌悪を向けられているだけではないということだ。
 自分だけが不当に(おとし)められたような気がした。
「どういうことですか?」
 動揺する気持ちを抑えながら、落ち着いた口調で問うた。唇が震えた。
「本当にこんなことを言うのは心苦しいんだけど……その、管理部門だからって少し態度が横柄すぎやしないかって。正式に苦情がきてるわけじゃないけど、そういう話を耳にしてね。君が一生懸命仕事してくれているのは僕はよく知っているけど、噂や評判って怖いから。下手すれば君の評価や今後の査定にも関わるかもしれないし。少し気をつけたほうがいいと思うんだ」
「誰ですか? 一体、誰がそんなこと……」
 怒りとか悔しさとか恥辱とか、込み上げてきたあらゆる感情のすべてを握りつぶすかのように、加奈子は膝の上で拳をぎゅっと握った。
「だからね。誰とかそういうんじゃないんだ。噂のレベルだから」
「でも、そういう話をしていた人はいたんですよね?」
 歯切れの悪い南に食いつきながら、ふと美雪の隣で加奈子を睨んでいた日野のことが脳裏をよぎった。
「それはそうだけど。誰が噂していたか知ったところで何の得にもならないよ。その人が言いだしっぺだとも限らないわけだし。単に耳にしたことを話していただけの可能性だってあるんだから。それよりも――」
「分かりました」
 加奈子は声を詰まらせながら答えた。
 これ以上、南と押し問答したところで何の解決にもならないし、時間の無駄だと思ったのだ。たとえ日野が告げ口をしたのだとしても、どうすることもできない。何より熱くなった目頭から涙がこぼれないよう、必死にこらえることのほうが加奈子にとっては重要だった。
 南に表情を見せないように俯いたまま、さっさと会議室を出ると、階段の踊り場から聞き覚えのある甘ったるい笑い声が聞こえてきた。思ったとおり美雪の姿があった。
 彼女の隣にいるのはデザイン室の三浦だ。若手のホープでイケメンだと、社内の女子に人気がある。デザイン担当なだけにファッションセンスもよい。
 三浦が何か言うたびに、美雪の媚びたような高い笑い声が響く。時折、彼女の手が彼の腕に触れる。彼のほうも満更ではない様子で、彼女を楽しませようと、懸命に話を盛り上げようとしているようだった。
 彼がポケットから何やら取り出すと、またもや「めっちゃ可愛い」と言って美雪ははしゃぎ、そんな彼女を三浦は優しく見つめている。
 その光景が、加奈子の目には自分のいる場所とは違う遠い世界での出来事のように見えた。いつもなら「男に媚びるなんて馬鹿みたい」くらいに思って眉をひそめるだけなのに、今日は違った。
 自分だけがその場へ取り残されたようなやりきれない思いが、胸の奥に黒い染みを作り、それが徐々に広がっていく。嫉妬だ、と加奈子は思った。それを嫉妬だと認識できる程度には冷静だった。
 別に三浦に特別な好意を持っているわけではない。髭の薄いすべすべした頬は素敵だと思うが、それ以上でも以下でもない。だから彼の隣に立つ美雪に嫉妬したわけではない。
 ただ、美雪の立つ場所がまるでスポットライトが当てられたように明るく輝いて見えて、それがたまらなく眩しく映ったのだった。

 その夜は無性に飲みたい気分だった。
 加奈子は翔太に声をかけ、普段よく利用している居酒屋で待ち合わせた。もちろん、美雪も当然の顔をしてやってきた。
 他愛もない話をしながら、加奈子はくいくいと冷酒を喉の奥へと流し込む。
「今日はまた、ずいぶんピッチ早いなあ。なんかあったのか?」
「別に」
 加奈子は端的に答えた。翔太にも美雪にも、南に言われたことを話すつもりはなかった。どちらかといえば知られたくない。言ってみれば加奈子にとっては恥部で、それを同僚に向かって晒せるほど強くはない。プライドだってある。しかも美雪に嫉妬したなどと、口が裂けても言えない。
「本当か? なんだか荒れてるように見えるけど」
 珍しく翔太が徳利を手に、加奈子のお猪口に傾ける。普段は互いに手酌なのだが、一応、気遣ってくれているらしかった。
「なんでもない」
「きっと忙しかったんだよね? カナちゃん?」
 横から美雪が口を挟んできた。
「ん……まあ、ね」
 曖昧に返事を濁す。そのうちに二人とも諦めたのか、加奈子への探りはやめ、芸能人のゴシップネタへと話題を変えた。
 加奈子にとっては気が楽な話題だったが、飲んでも飲んでも気分は一向に晴れなかった。それでも、酔いは確実に回り始めていた。頭の中がぼんやりと霞がかったようで、呂律が怪しくなってきている。目蓋も重い。酔っている自覚はあるのに、お猪口を手放せない。自覚はあっても判断力が鈍っている。酔っている証拠だった。
「……ねえ。ところで南さんのこと、どう思う?」
 加奈子のあまりに唐突な問いかけに、ふたりは顔を見合わせた。
「南さんって、お前の先輩?」
「うん。そう」
 翔太は複雑な表情を浮かべ、
「そうだなあ。なあ、これってオフレコの話?」
「もちろん」
「じゃあ言っちゃうけど、あの人、性格やばいよな。俺、この前呼び出されたんだけど、怖えーのなんの。しゅうとめかっていうくらい細かいし、うるさいし、しつこいし。あれ、絶対ストレス発散してるよ」
「えー。みいは、怒られたことないよ」
「それは、羽田だからだよ。あの人、お前に気があるんじゃない?」
「そんなことないよお。それより、みいは経理の高橋さんのほうが怖いなあ。いっつも怒られちゃうんだよね」
「お局だからな、あの人は。噂によると若い女子社員には徹底的に厳しいらしいぞ。まったく、うちの会社は性格悪いの揃ってるよなあ」
 翔太がわざとらしく口を尖らせると、美雪は手を叩きながら笑った。それにつられるように、翔太も豪快に笑う。
「じゃあ、私は?」
 加奈子が言うと、ふたりの顔から一切の笑みが消え、その目を加奈子へと向けた。一瞬、空気が凍りついたように、彼らの動きも止まった。それが唐突なことで驚いたせいなのか、あるいは聞かれて回答に窮したせいなのかは分からない。
 一息置いてから翔太が慌てたように、
「お、おいおい。待てよ。本当にどうしたんだよ? 月城。なんか今日は変だぞ。なんで今の話にお前が出てくるんだよ? そりゃあ、お前も生真面目だし、厳しいところもあるかもしれないけど、理不尽さはないだろう? あの人たちと月城が同列なんて考えたこともないよ」
「そうだよ。カナちゃん。カナちゃんは怖くないし、性格だって悪くないよ。だって、みい、カナちゃんのこと大好きだもん」
「ふうん。そう。それはどうも」
 加奈子は抑揚のない声で礼を言った。
 正常な思考力が損なわれているのだろう。自ら発した質問のはずなのに、それに対する答えへの興味はなかった。ただ心の奥のそのまた奥のほうで言いようもない寂しさのようなものが渦巻いていた。やはり酔っているのだ。
「カナちゃん?」
 耳元で美雪の心配げな声がした。目の前にはピンク色の花柄のハンカチが差し出されている。なんだろうかといぶかしみ、すぐにその理由を知った。
 加奈子は泣いていたのだ。
 恥ずかしすぎて、涙を堪えようと目に力を入れる。なのに、一度溢れ出した涙が止まることはなく、文字通りとめどなく溢れ続ける。何のための涙なのかは自分でも分からない。
「……ごめん」
 差し出されたハンカチを顔に当て、呟いた。
「いいよ。つらいなら、いっぱい泣いちゃえ。みい、今日はとことん付き合うよ」
「おう。鬼の目にも涙、だな」
「ちょっと翔ちゃん! カナちゃんは鬼じゃないでしょ」
「まあな」
 彼らのやりとりが加奈子を元気付けようとしているものだということは、どろどろに蕩けてしまった頭でも理解できた。入社して初めて、友人というのは大切なのだと思った。美雪に対してさえ、一種愛情のようなものを感じた。
 結局、泣き止んだのは終電間際のことだった。

 翌朝、加奈子はひどい二日酔いに見舞われた。それに目の腫れも相当なもので、自分が晒してしまった醜態が悔やまれて仕方ない。
 泣いたのは不覚だったが、あれは酒が引き起こした事故のようなものだ。決して南に言われたことが原因ではない。己を見失うほどに飲んでしまったのはそのせいかもしれないが、あんな誹謗中傷めいたものに涙するほど自分が弱い人間だとは思っていないし、思いたくもなかった。
 けれど同僚の目の前で大泣きしてしまったことは事実で、その恥ずかしさといったらたまらない。それに酒に呑まれてしまったことも、気まずかった。
 いっそ会社を休もうかとも思ったが、何だか逃げのようで気が引けた。それに迷惑をかけたことは早めに謝罪するに限る。
 加奈子は土気色の顔と目の腫れを隠すため、いつもより少し濃い目にメイクをし、出勤したのだった。
 ズキズキ痛む頭を抱えながら、まずは翔太と美雪へメールを入れ、それから仕事にとりかかる。
 人と接するときには態度に気を付けるようにはしたが、だからといってにこやかに愛想を振りまくことはできなかった。二日酔いのせいだけではなく、誰も彼もが自分を貶めようとしているように見えて、緊張と不審を振り払うことができなかったのだ。
 美雪のようにちやほやされたいとは思わないが、誰とも分からない他人から悪意を向けられることは結構なストレスだった。
 午後になり、頭痛も治まってきた頃に二人からメールの返信が届き、加奈子は仕事の手を止めた。内容はほとんど同じで「気にしていないからまた飲みに行こう」というものだった。
 それが彼らの本心かどうかは分からなかったが、それでも嬉しかったし、ほっとした。

 経理の高橋はバツイチのアラフォー女性だ。加奈子とはひとまわり以上年齢が離れているが、割と気が合って、月に数回、一緒にランチへ行く。
 彼女もまた気難しいと評判で、社内では敬遠されがちな存在なのだが、加奈子には親切だった。加奈子にとっては南よりはるかに取っ付きやすく、先輩として、同性の同僚として親しくしている。
 その日は、会社近くの十席程しかない小さなイタリアンレストランへ行った。スープにサラダ、それにパスタが付いて八百円とかなり手頃で、味も良く、お気に入りの店だ。
 日替わりのボンゴレ・ビアンコを口に運びながら、
「ああ、そうだ。月城さん聞いた? 羽田さんのこと」
 唐突に高橋が言った。
「何のことですか?」
「彼女、なんでも大口の受注を取ったらしいわよ。営業部内じゃちょっとした騒ぎになってるって」
 まったく知らなかった。本人からも何の連絡もない。
「そうなんですか。知りませんでした」
「そう。彼女、細かなミスは多いけど、やるときにはやるのねえ。やっぱり女は可愛いと得よね」
 その声に含まれるトゲに加奈子は気付いたが、あえてそれに気付かぬフリをしながら、曖昧に返事した。
 内心は複雑だった。美雪とは同期とはいえ、所属も違うし、住む畑がそもそも違う。だから比べる必要はまったくないのだが、聞いた瞬間、「負けた」と思った。そしてそれが無性に悔しかった。
 ――美雪のくせに。
 そう思うのは、加奈子が美雪を自分より下だと見下しているからにほかならない。不思議だった。いつから、何をもってそう思ってしまったのか。
 彼女の仕事内容なんてほとんど知らないし、人事に関わっているわけでもないから彼女の給与明細の中身なんて分かるわけもない。互いに役職についているわけでもない。どちらが上か、下かなんて決める要素は何ひとつとしてないのだ。
 なのに、知らず知らずのうちに、加奈子は美雪を自分より下だと判断し、その彼女が功績を挙げたというだけでイライラしている。焦りを感じてしまう。そしてそんな自分に嫌悪を覚えている。
「いやね。あの手のコは、色仕掛けみたいなことも平気でやるじゃない? 今どき流行らないんだけどね。それでもオジサンはそういうのに弱いのよ。絶対にそうよ」
 じゃなきゃ、あんな小娘がそんな手柄を立てられるわけないじゃない? 言葉にこそしなかったが、高橋の心の内がはっきりと聞こえたような気がした。
 それに同意すれば、少しは気持ちが晴れるのだろうか。もはやゴムのような味しかしなくなったパスタを飲み込みながら、加奈子は考える。
 可愛いだけで仕事が取れるなんて、楽よね。そう思えば、自分の自尊心は救われるのだろうか。いや――。
「そうだ、高橋さん。この前ですね――」
 加奈子は高橋の言葉に肯定も否定も示さず、さりげなく話題を変えることにした。
 美雪の仕事に対する誠実さは加奈子とて認めるところで、相手にそれが伝わったのだろう。今回のことはそう考えるのが自然だった。 高橋と一緒になって美雪の悪口を言ったところで、自尊心は救われるどころか、余計にずたずたになる。それにきっと自分を許せなくなる。そんなことは火を見るよりも明らかなのだ。

 美雪の一件は、若手社員には良い刺激になったらしく、自分のことのように嬉々と話す姿を女子トイレで何度か見かけた。
 逆に中堅の男性社員からは、やっかみの声があることを偶然知った。
 コピー機の紙詰まりを直している間、後ろから小声で聞こえてきたのだった。
 その内容は経理の高橋が言っていたこととさほど変わらない。若くて可愛いから、色仕掛けで仕事をとったのだろう、と。ただ、高橋と違うところもある。彼らは美雪にではなく、女に大きな仕事をとられたことが腹立たしいのだ。結果、彼らの言い分は「女は楽でいいよな」と、そこに集約されていた。
 バカバカしい。加奈子は苦々しく思った。
 自分たちは上辺うわべの誠意だけで、仕事だって通り一遍で済ませようとしているくせに、美雪の努力を認めようともしない。女に仕事をとられたくらいで、ネチネチと小うるさいことこの上ない。「女は――」なんてうそぶいている暇があるのなら、さっさと客先へ行けばいいのにと心底思う。何とか取り出すことに成功した、詰まっていたコピー用紙を丸めて投げつけてやりたい気分だった。
 そのとき、加奈子は無性に美雪が気の毒に思えた。
 彼女は仕事の要領はよくないかもしれない。ミスだって多い。けれど、ちゃんと積み上げてきたものがあったのだ。きっと、加奈子も知らない隠れた努力があったに違いない。
 なのに、女だというだけで、可愛いというだけで、彼女の努力も客へ向ける誠意にも誰も見向きもしない。これを気の毒と言わずして何と言えばいいのだろう?

 翔太から駅前にオープンした店の割引券があるから飲みに行こうと誘われた。
 加奈子は前回の醜態を思い出し、どうしようか迷ったが、行くことにした。考えてみれば、まだ美雪に何も言っていない。
 美雪自身が、不当なやっかみを受けていることに気付いているかどうかは知らないが、ちゃんと「おめでとう。頑張ったね」と言ってあげたかった。それは必ずしも彼女のためだけではない。そうすることで、自分も救われる。頑張れる。そんな気がしたのだった。
 しかし、予想に反して、翔太はひとりで店にやってきた。
 その店は、黒を基調としたインテリアで統一された、落ち着いた雰囲気のダイニングバーだった。フレンチ出身のシェフと和食出身のシェフが共同で作る和洋折衷の創作料理を売りにしている。ワインから日本酒までお酒の種類も驚くほど多い。高級感を出しつつ、価格は居酒屋よりほんの少し高い程度になっていて、お財布にも優しい。
 柔らかなダウンライトの明かりが、雰囲気作りに一役買っていた。
「素敵なお店だね」
「え?」
「す・て・き・な・お・み・せ・だ・ね!」
 加奈子は声を張り上げた。
 店のつくりも料理もコンセプトも悪くはないのだが、運悪く大学生のグループに囲まれてしまい、工事現場並みの騒がしさなのだ。ブルドーザーの騒音の代わりに学生の弾けるような笑い声が絶え間なく響いている。時折、人のものとは思えないような甲高い嬌声が上がり、その度に顔が歪んでしまう。何の話をすればそこまで盛り上がれるのか、加奈子には皆目(かいもく)検討がつかなかった。
 翔太とは向かい合わせに座っているが、互いの声が届かず、大声を張り上げるしかない。思わず加奈子は喉に手をやった。
「失敗したなあ」
 翔太は渋い顔でメニューを広げた。
「まあ、仕方ないよ。ところで美雪は?」
「ん? あ、なあ。フライドポテト、食う? チーズソース付きだって。うまそうじゃん」
 加奈子が適当に頷くと、店員を呼び、注文を告げた。
「ねえ、それで美雪は? 一緒じゃないなんて珍しいじゃない」
 さも美味しそうに冷酒をすする翔太にもう一度訊く。が、「そういえばさあ」なんてすぐに話題を変えようとする。
 加奈子がじっと翔太の顔を見つめると、目をそらした。どうも様子がおかしい。
「ちょっと。人が訊いているんだから、ちゃんと答えなさいよ」
 若干苛つきながら、怒鳴った。すると翔太は憮然と「こないよ」と言った。
「都合つかなかったの?」
「いや。その、声かけてない」
「は?」
 何だか嫌な予感がした。まさかとは思うが、翔太まであんな連中と同じで、仕事をとった美雪に面白くない感情を抱いているのだろうか。しかも、それが原因でいつも一緒に飲んでいた同僚を誘いもしなかったというのだろうか。
「なんでよ? あんたまさか……」
 翔太は加奈子から目をそらしたまま、手酌で冷酒をあおり続けている。今日のピッチは、普段の彼からは想像もつかないほど早く、すでにその顔は赤く染まっている。
 そんな彼の態度に疑いは強まったが、そんなはずはないと加奈子はすぐに考えを改めた。翔太がそんなつまらない男のはずはない。だからこそ、入社以来、友人として付き合ってきたのだ。
「そんな黙らないでよ。美雪、忙しそうで声かけられなかったんでしょ?」
 必死でフォローしようとする加奈子に対し、
「……いや。その、多分、月城の想像どおりだと思う。ちっちぇえよな、俺」
 言いながら、顔を両手で覆う。
「ちょっとやめてよ。何なのよ、それ」
「だから所詮、俺はちっちぇえ男なんだよ。あ、すみませーん。冷酒二合追加で!」
 忙しなく動き回る店員に手を振る。
「なに? やけ酒でもする気? でもってそれに私をつき合わせる気?」
「何怒ってるんだよ。月城だって、実はあいつのこと苦手なんだろう?」
 加奈子は絶句した。翔太は気付いていたのだ。加奈子が美雪を苦手としていることに。なのに、ずっと気付かぬフリをしていたのだ。「この狸が!」と罵ってやりたい気持ちをぐっと抑える。
 加奈子は心を落ち着けようとこほんとひとつ咳払いをし、
「ちょっと、あんたねえ。私のことはこの際どうでもいい。でもあんたは美雪のこと気に入っていたよね? なのに、そんなに簡単に嫌いになっちゃうの?」
「別に嫌いになったわけじゃないさ。たださ、羽田はのほほんとしたところが可愛いし、それが持ち味じゃん。だからさ、なんていうか、今回のことで興がそがれたっていうか。だって羽田がばりばりのキャリアウーマンなんて何か変だろ?」
 あまりの勝手な言い分に、加奈子は頭を抱えた。翔太は酔っ払っている。言っていることもおかしいし、何より呂律が回っていない。彼の言動は酔っ払いのたわ言にすぎない。それにしても、あまりに勝手だと思った。人を、友人を一体何だと思っているのだろう。確かに美雪は守ってあげたくなるような女の子のイメージだし、そう思っているのは翔太だけではない。
 でもそれはあくまで一面のことだ。
 加奈子だって、怖くて面倒な女だと思われている節はあるが、それがすべてではない。可愛いものだって好きだし、少しはぬいぐるみだって持っている。人は他人に見せる一面だけで成り立っているわけではないのだ。
 美雪だって、のほほんと守られる存在である一方、自分の仕事を着実にこなしてきた。彼女なりのやり方で。それの何が悪いというのだろうか。
 他の男はまだしも、翔太がそれを見抜けず、一方的に彼女に落胆するなんてひどすぎる。
「正直、あんたにはがっかりだわ。水もらってあげるから、少し頭冷やしたら?」
 店員におひやを頼もうと振り向くと、
「あ! やっぱりカナちゃんだあ」
 美雪が立っていた。
 あまりのタイミングの悪さに愕然とした。今の翔太に彼女は近づけられない。はっと翔太の方へ向き返ると、さっきまでの愚痴はどこへやら、にこにこと機嫌よさげに美雪に手を振っている。
「二人だけで来てるなんてズルイ。みいだけ仲間はずれ?」
「あ、いや、なんか美雪が忙しそうだったから声をかけそびれたみたい」
 とっさに嘘をついた。が、美雪に疑っている様子はなく、胸をなでおろす。
「それより美雪はどうしてここに?」
「ニューオープンしたって、誘ってくれたの」
 美雪はちらりと後方へ視線をやる。その先にはデザイン室の三浦がいた。彼は加奈子と目が合うと、小さく頭を下げた。
「そうだったんだ」
 先日見た、二人の姿が思い出された。楽しそうに笑い合う二人。そこだけが切り取られたように輝いて見えた、あの光景。
 三浦は社内でイケメンと評され、人気が高いが、美雪とてそんな彼にまったく引けをとらない。
 彼女には、そう、華があるのだ。
 そんな彼女を羨ましいと、妬ましいと、あの時は思った。その気持ちを否定する気はない。けれど、努力ではどうにもならないものを、指をくわえ羨ましがったところで何も始まらないのだ。
 加奈子にはちゃんとそれが分かっている。分かっていてもなお、心に暗い影を落とす。
「そっか……。まあ、楽しんで」
「えー。せっかく会ったんだし、一緒に飲もうよお」
「美雪はそれでいいかもしれないけど、三浦さんに悪いでしょ? 早く行ってあげなよ」
「……うん。分かった。それじゃあ、またね」
 美雪はミニスカートの裾を(ひるがえ)しながら、三浦の待つ席へと戻っていった。
「あーあ。羽田はデートかあ。いいなあ。やっぱり可愛いよなあ」
 翔太がうそぶき、加奈子は盛大にため息をついた。酔っ払いにはこれ以上付き合っていられない。
 こんな日は早く家に帰って、シャワーを浴びて寝てしまいたかったが、水を飲んで少し酔いを醒ました翔太に付き合わされ、気付けば十一時を回っていた。
 そろそろ、と店を出ると、ちょうど美雪と三浦もそこにいた。自然と、美雪と肩を並べ、駅へと向かう。三メートル程先には翔太と三浦の背中が見える。歩道には、同じように飲んで帰るスーツ姿のサラリーマンらしき姿が連なっていた。
 頭上にはまあるい月が浮かんでいる。
「めっちゃキレイな月だね」
「うん」
 さすがに月を可愛いとは言わなかったことに加奈子は安堵しつつ、頷いた。夜風が熱のこもった肌に心地良く、しばしそれを楽しむ。
 ふと、美雪を見ると、彼女は首を上げて月を静かに見つめていた。月明かりに白く照らし出された彼女の横顔は、女の加奈子から見てもとても綺麗で思わず見蕩れてしまう。急に気恥ずかしくなった加奈子は慌てて言葉を探した。
「あ、そうだ。美雪、大きな仕事とったんだって? おめでと」
 美雪はほんの少し居心地悪そうに笑いながら、
「カナちゃんも知ってたんだ? でもそんな大したことじゃないんだ。偶然だよ。たまたまその会社の社長さんがみいのこと気に入ってくれただけ」
「それだけじゃないでしょ? もっと自信持ったら?」
 彼女の謙虚さに半ば呆れながら、その腕を軽く小突いた。
「でも、本当に何もしてないし」
 困惑を隠せないような美雪の表情とその一言に、加奈子の中で何かが弾けた。何もせずに仕事がとれるわけがない。もし本当に何の努力もなしに仕事をとれたのだとしたら。
 女は楽でいいよな――侮蔑に満ちた声が耳の奥に響く。
「なんで……」
 加奈子はぴたりと足を止めた。
「え?」
「なんでそういうこと言うのよ? 美雪、あんた陰でなんて言われているのか知ってるの?」
 美雪ははっとしたように一瞬目を見開き、
「女は楽でいいよな、とか。そんなところかな?」
 ぽつりと続けた。その口調は普段と変わることなく、そう陰で言われていることに対して腹を立てている様子はない。それが余計に加奈子の癇に障った。
「知ってたんだ。ねえ、それでいいの? 悔しくないの? 私、頑張ったんだからって言いたくないの?」
「……別にいい。まんざらウソでもないし」
「なにがいいのよ? 美雪、あんた馬鹿にされてるのよ? 大体あんたがちゃんとしないから。短いスカート履いて、男ににこにこ愛想振りまいて! そんなことばっかりしてるから、馬鹿にされるって分からないの? 頼むからもっとちゃんとしてよ。胸を張って頑張ったんだって言ってよ!」
 酷いことを、彼女を傷付けることを言っている自覚はあった。
 けれど、ずっと心に積もり積もってきた鬱憤のようなものが一気に噴き出すのを止める術を持たなかった。
 思えば、ずいぶん長いこと溜め続けてきた。彼女への不満や嫌悪、コンプレックス。そういった感情のすべてが混ざり合い、名前も説明もつけられないような大きな渦となった。
 加奈子は改めて美雪が嫌いだと思った。加奈子が持っていないものをたくさん持っているくせに、それを最大限に活かそうとしない。自己演出の術を知らない、あるいはその術を間違えている。もっとうまく立ち回ることだってできるはずなのに、そうしようとはしない。私は馬鹿で可愛いのが取柄の女です。平気でそんな顔をする。
 そういう彼女の態度がどれほど加奈子を不快にしているか、苛立たせているか、知ろうともしない。彼女がそういう顔をすればするほど、加奈子がみじめになっていくことも。
 頑張ったのなら、頑張ったと胸を張ればいい。それで女のくせになんて女を馬鹿にするような男どもを黙らせればいい。しかし、美雪はそれをしない。やれる力が本当はあるはずなのに、それをしようともしない。
 それが加奈子には理解できないし、悔しいのだ。どうしようもなく、もどかしいのだ。
「カナちゃん……ごめん。ごめんね」
 美雪の声はか細く震えていて、一瞬泣いているのかと思ったが、その瞳に涙はなかった。逆に不思議なほど明るく澄んだ瞳で加奈子を見つめている。
「謝んないでよ。謝るくらいならちゃんとしてよ」
「……」
 美雪は口元に小さな微笑を刻んだまま、黙っていた。その微笑は、単に引き攣っているだけかもしれないし、あるいは加奈子への哀れみなのかもしれない。何かを諭そうとするような、そんな表情にも見て取れた。
「ねえ、ちょっと。何とか言いなさいよ」
 一向に何も答えようとしない美雪に苛立ちが募る。なぜ素直に分かったと、これから頑張ると言わないのだろう。彼女にとってはそんなに難しいことではないはずなのに。
「カナちゃんは、みいのことが嫌いなんだよね? みいがしっかりしないから。でもね、みいはカナちゃんのこと、大好きだよ」
 ようやく口を開いたと思ったら、あまりに見当はずれで思わず脱力してしまう。今聞きたいのは、そんな言葉ではない。
 加奈子が待っているのは、欲しいのは、そんな言葉ではないのだ。
「そんな話、今はしてないでしょう? はぐらかさないでよ」
「そうだ。ね、カナちゃん。今からオールでカラオケ行こ? ふたりで。みいね、ピンクレディーメドレー歌えるんだよ」
 そう言って美雪は嬉しそうに加奈子の手を取った。
 加奈子には彼女の意図がまったく分からない。今は、喧嘩まではいかなくとも、言い争いをしているのだ。そんな仲良く歌いに行くような空気ではないし、そんな気分でもない。しかも酷いことを言われたのは彼女のほうで、きっと傷付いているはずだ。なのに、なぜカラオケなんかに行く気になれるのだろう。この子は本当は宇宙人なんじゃないかと疑いたくなってくる。
「いやよ。私は帰る。帰って寝る。行きたいならひとりで行けば? ううん、三浦さんでも誘いなよ。翔太でもいいし。ふたりともあんたになら付き合ってくれるよ」
 加奈子は面倒くさそうに彼女の手を振り解いた。が、すぐにまた掴まれてしまう。そこには揺るぎのない意思が見え隠れしていた。
「みいはね、カナちゃんと行きたいの」
「うるさい。私はいやだ」
「いやだ。絶対、行くの。だって絶対楽しいよ? めっちゃ可愛いんだから、みいのピンクレディー」
 美雪は真剣に駄々を捏ねていた。彼女がこんなふうに強引な態度をとるのを、加奈子は初めて見た。
 誘いを断っても、「気にしないで」と誘った彼女のほうがいつも申し分けなさそうだった。「めっちゃ云々」とはしゃぐ姿はその辺のギャルのようで、それでいてにこにこと相手を包み込むような温かさがあって、でもいつもどこか遠慮がちで。
 今、目の前にいる美雪は、加奈子の知らない、初めて見る美雪だった。
 ――人は、他人に見せる一面だけがすべてではない。
 そんなことは分かっていたはずなのに、改めてそれを知る。そして、人は他人の物差しで、基準で生きているわけでもない。彼女が何をするのか。どう生きていくのか。それはすべて本人が決めるべきことなのだ。たとえその選択が、他人から見て納得できないものだとしても。美雪の選択が、加奈子の意に沿わないものなのだとしても。
「自分で可愛い、言うな。美雪のピンクレディーなんて聴きたくない」
 文句を言っても、美雪は聞いていないのかどこ吹く風で、満面に笑顔の花を咲かせている。そして、
「みい、翔ちゃんと三浦さんに先に帰ってって言ってくる。ちょっと待ってて!」
 白い歯を見せながら、はるか前を歩く彼らのほうへ走り出した。加奈子が止める間もなかった。
 そんな後姿を見つめながら、たまには強引な彼女のわがままに振り回されてやってもいいか、なんて気分になっている自分自身に加奈子は気付いた。
 それは頭上で蒼白く輝く月の為せる業、あるいは悪戯なのか。それとも単に酔いが回っているだけなのか。考えて、すぐにやめた。そんなことはどうでもいいのだ。
 ただ、知らぬ間に緩んでいた頬を加奈子はそっと手で押さえた。
長いかなと思って、前・後編に分けたのですが、ボリュームの配分を間違えました。すみません。
お読みいただき、ありがとうございました。
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ついったー
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