第四夜
廃寺の阿弥陀堂は、床板を突き破って青竹が生えるほどに荒れていた…。
その朽ちた板敷きの中央に、油皿に灯された炎が明々と揺らめいている。
男が六人、灯火を中心に車座になっていた。彼らから放射状に伸びた影は、やがて阿弥陀堂全体を取り巻く深い闇とひとつになる。
その暗く淀んだお堂の片隅に、いつの間にか古びた葛籠が置かれている事に、気付いた者はいなかった…。
「…お頭の蟲が殺されたらしいな」
ひときわ大きな影が、地の底から沸き上がるような低い声で言った。風魔一党の大禿である。この容貌魁偉な忍者は、僧形ながら、戦場を往来する武将のごとき殺伐とした雰囲気を漂わせていた。太く跳ね上がった眉は、彼の気性の荒さを物語っている。
「蟲は斬っても突いても死なぬと聞いておりますが………、やはり、甲斐のくノ一の仕業でしょうか?」
他の五人は、みな鎖帷子を着込んだ上に、暗紅色に統一された上衣、袴、胴締、頭巾で身を包んでいた。
「…であろうな」
大禿は、濁酒の入った甕を側らに引き寄せ、柄杓ですくっては口に流し込んでいた。
「延沢村の川縁で、腹の裂けた女を葬った土饅頭が見つかっております…。恐らく、奴らの仲間でしょう…」
「ふん…」
大禿は、鼻息を荒くした。
「甲斐のくノ一などは恐れるに足りぬが、何とか、奴らを捕らえて信玄坊主の生死だけは確かめたいところだ…」
「しかし、もし信玄が死んだとあらば、今頃、甲斐の国中が大騒ぎになっておるのでは…?」
「ふふふ…、それよ……。その事を確かめる為、今、お頭が伊吹の鬼童丸に会いにいっておる」
「伊吹の鬼童丸……!? 鬼童丸と言えば、越後の軒猿ではありませんか!」
軒猿とは、越後の戦国大名、上杉謙信が使う乱波の事である。
「もし、甲斐に変事の兆しがあれば、謙信入道とて黙ってはおるまい。必ず、軒猿どもに事の真相を確かめさせておるはずじゃ…」
「しかし……。軒猿どもが我らに協力しますかな…?」
三年前、先代北条氏康の遺言により、氏政は上杉謙信との同盟を破棄し、武田と手を結んでいた。その事により風魔一党は、この軒猿とは敵対関係にあったのだ…。
大禿は、柄杓ですくった濁酒をちびりとやった。
「ふふふ…。俺は政の事はよく分からんが、まあ……敵の敵は味方という事だ…。信玄坊主が世を去れば、我々とて武田に義理立てする理由はなし…。再度、上杉と組めば良いだけの話だ…。ふはははっ! バカと関東管領は使いようというやつよ」
頭巾の下から、くぐもった下忍達の含み笑いが漏れた。
暗がりに置かれた葛籠の中から、この会話にじっと耳を傾けている者があろうとは、誰一人知るよしもなかったが…。
じりじりと鯨油の燃える生臭い煙が立ち上っている…。
「明朝、払暁とともに三国山の峰越に狼煙が上がったら、俺は、急いで城へ走らねばならん。お前達は、二之宮で申阿彌と落ち合え」
大禿が鋭い目つきで一同をぐるりと睨み回した。
「……その時は、武田と戦ですな?」
「そうじゃ…。我が北条は、上杉謙信と再び同盟を結び、南北から甲斐の武田を挟み撃ちにする!」
その時、下忍の一人が頭上をひらひらと舞う金色の蝶を見た。それは、幻のように儚げな姿であったが、揺れる灯火を淡く反射しながら、きらきらと妖しく煌めいていた…。
しゃん
鈴を振る音がする…。
「…む!」
風魔一党は、はたと会話を止め、ぎらついた目を宙に泳がせた。
虫の鳴く声が深みを増す…。
しゃん
再び鈴の音がして、彼らの顔が緊張でこわばった…。
大禿は、音のする方角を指さし下忍達に目配せをした。忍び装束の五人は素早く板壁にへばりつき、物見の格子窓から外の闇を覗った…。
「ややっ、巫女姿の女が一人おりますぞ!」
しゃん
大禿は、柄杓ですくった濁酒をぐいっと一気に飲み干した。
「甲斐のくノ一め……。どうして、ここを嗅ぎつけた…?」
下忍達は、互いの顔を見合わせ頷きあった。
「…妖しい奴だ、油断するな」
そう言って彼らは、朽ちた阿弥陀堂の扉を押し開け、風の如く漆黒の闇に躍り出た。
刹那、鼓膜を破る爆音が轟いた!
その衝撃は大地を揺るがし、伽藍を構成する建物をかたかたと鳴らした。やがて舞い上がった土砂とともに、吹き飛ばされた下忍の千切れた手足がばらばらと降り注いだ。
「き、気を付けろっ! 埋め火が仕掛けてあるぞ」
「おのれ、いつの間に」
埋め火とは、竹で編んだ箱の中にぎっしりと火薬を詰め、火種の入った竹筒とともに埋めておく物で、敵がこれを踏むことにより、火薬に着火して爆発する仕掛けである。
再び爆発音が轟いた。
下忍達の悲鳴か交錯し、白い煙とともに黒色火薬の燃える臭いが辺りに立ち込めた…。
阿弥陀堂の中では、大禿が外の様子を気にするでもなく、依然、灯火の前にどっかりと腰を下ろしたまま柄杓の酒を口に運んでいた。
「飛んで火にいる……くノ一か…。ふふふ…」
その時、金色の蝶が彼の視界を横切った…。
蝶はゆっくり彼の頭上を旋回すると、天井の暗がりへとひらひら舞い上がっていった。それを目で追っていた大禿の顔が驚愕の色を現す。
……梁に女がへばり付いていた。
「お…!」
大禿が気付いた時には、猿のごとく飛び降りた女の右手に光る苦無が眼前に迫っていた。
「むうんっ!」
咄嗟に彼は、それを左手で受け止めた。苦無は、大禿の手の平に根本まで深々と突き刺さった…。
「ちっ…、受けたか」
野良着姿の若い女が悪態をついた。甲斐の歩き巫女、菖蒲である。
彼女は、空いている方の手で懐から棒手裏剣を取り出すと、再び大禿の喉元を狙って突いた。
「死ね!」
「ふん、小癪な」
大禿は、もう片方の手をかざして菖蒲の攻撃を受け止めた。燻し銀の棒手裏剣は、またも、彼の手の平を刺し貫いたところで止まった。
奇しくも、己の両手を貫かせて涼しい顔をしているこの大兵の忍者に、さすがの菖蒲も鼻白んだ…。
「くっ、化け物め…」
慌てて飛び退こうとする菖蒲であったが、その動きは大禿に封じられていた。彼は武器が突き刺さったままの手で、菖蒲の拳をしっかと握りしめたのである。剛毛に覆われた厳つい指が菖蒲の華奢な拳にめりめりと食い込み、彼女の美しい顔が苦痛に歪んだ…。
「ふっふっふ…、よくぞ気配を消してここに忍び込んだものだ……。さて、どうするか……」
大禿の双眸が不気味に光った。
「こうしてくれようっ!」
「ぎゃあ…」
大禿は、その怪力で菖蒲の両の拳を握り潰した。ぐしゃりと骨がひしゃげる音がした…。
「あ……ああ………」
菖蒲は、あまりの苦痛に二、三歩後ろによろめいて立ち止まり、茫然自失のまま立ち尽くした。
大禿は、手に刺さった武器を口にくわえて引き抜くと、今度は、その大きな手で菖蒲の細い両肩を掴んだ。
「えいっ!」
「ひぐぅ……」
ごりっという嫌な音がした。両肩の関節を外された菖蒲は、もはや逃れる気力も失せ、へなへなとその場に座り込んだ…。
「言え、甲斐のくノ一! 昨年、破竹の勢いで三方ヶ原の家康を蹴散らした武田騎馬隊が、突如、三河野田城から反転して甲斐へ引き上げた理由は何だ?」
菖蒲は、弱々しい瞳で大禿を睨み付けたまま黙り込んでいる。途端に、大禿の額にミミズのような血管が浮き上がった。
「ええい、面憎い女だ!」
そう叫ぶと大禿は、力なくへたり込んでいる菖蒲の端正な顎を蹴り上げた。
「ぐうっ…」
菖蒲は、仰向けにひっくり返り、暗い床板に頭を打ち付けて四肢を投げ出した。大禿は、彼女の上にかがみ込むと乱暴な手つきで野良着の前を開いた…。
油皿で燃える鯨油の炎が、ゆらゆらと菖蒲の白い腹や豊かな乳房を照らし出した…。
「ふん…。殺してしまうには、勿体ないような良い女だが…」
大禿は、再び立ち上がると濁酒の入った甕を抱え、中身を少しずつ菖蒲の腹に垂らし始めた。どろりと白濁した液体が、菖蒲の白く美しい体を汚していく…。
「素直に言えば楽に死なせてやる…。言え、信玄は存命か否か?」
菖蒲は口を引き結んだまま目を閉じた。液体の降り注ぐ場所が腹から胸へと移った…。
形の良い豊かな乳房の上で白い液体がぴちゃぴちゃと跳ねる。その、噎せ返るような甘い匂いの液体は、どろどろと彼女の首や脇や臍の上へと流れ落ち、美しい肢体をいつまでも嬲り、汚し続けた…。
次第に彼女の上半身がわななき始める…。
「おのれ、まだ言わぬか……」
大禿の目が冷酷な光を帯びた。
「では、末期の酒じゃ…。ようく味わって飲むがよい」
彼が甕を持つ位置を変えると、そこから流れ出る濁酒が今度は菖蒲の顔面に注がれ、彼女は苦悶しながら噎せ返った。
「ぐえっ…ごぼっ……げほっげほっ……くうぅぅっ……ごぷっ……」
両肩の関節を外され、起き上がる事はおろか身をよじる事も出来ずに、菖蒲はどろどろした液体をその顔に浴び続けた。やがてそれは肺へと流れ込み、彼女の相貌は苦痛と恐怖に大きく歪み始めた…。
「くうぅ……ごぼっ……ひぐうぅ…ぶはあっ……ごぼっごぷっ……ぐぶるうぅ…」
菖蒲の体が激しく痙攣を始める。白い腹がうねうねと波打ち、豊かな乳房が激しく揺れた…。
「行儀の悪い女だ、こぼさずに飲め…」
大禿は、のたうち回る菖蒲を見て、せせら笑った。
やがて菖蒲は、両足の爪先をぴんと伸ばし、体を震わせながら大きく仰け反った。
「くうーっ…ぐぷるるるっ…………………………ごふ………」
そして彼女は、そのまま事切れた…。
大禿はどっかと座り直すと甕を床に置き、菖蒲の顔を覗き込んだ。
彼女の死に顔は、苦痛と恐怖で目を見開いたまま凍り付き、鼻と口からはどろりと白い液体が溢れ出ていた…。
「ふん…、素直に喋ればもっと楽に死なせてやったものを…」
そう言うと大禿は両手で甕を抱え、残った中身を一気に飲み干した。
「外にもう一人いたな…」
大禿は、空になった甕を勢いよく放り投げると、足下に置いてあった薙刀を手にして立ち上がった。
後方の暗がりで甕の砕け散る音がした…。
阿弥陀堂の外にはいつの間に昇ったものか、睨み付けるような下弦の月が廃寺の屋根をてらてらと光らせていた…。
すでに、五人の下忍達は無惨な屍を野に晒していた…。
黒く焼けただれた者…、こめかみに棒手裏剣が深々と突き刺さった者…、手足が千切れ飛んだ者…、首の無い者……。五つの死体は、己の血を大地に吸わせながら点々と散らばっていた…。
その死体に囲まれるように、巫女装束の娘が朧に立っていた。甲斐の歩き巫女、浮穴媛である。雅な美しい顔立ちからは、まるで能面のように全ての表情が消え去っていた…。
「……貴様がくノ一の頭か?」
大禿は、薙刀を振りかざして浮穴媛に歩み寄った。
「ふふふ…、聞きたい事があるのじゃ。決して楽には死なせんぞ」
そう言って獣じみた双眸を光らせたが、しかし、その歩みはすぐに止まった。彼の内にある野生の本能が警鐘を鳴らしたのだ…。
けらけらけらけらけらけらけら…
狂女のような、けたたましい笑い声が闇を引き裂く。
虫の聲がぴたりと止んだ…。
「相模の乱波、風魔の者よ……。その身で受け止めるが良い……。我が、瞋恚の炎を……」
幽鬼のようにたたずむ浮穴媛は、その瞳から只ならぬ妖気を発しながら左右の手を大きく広げた。
その頭上を、金色の蝶がひらひらと旋回する…。
やがて祝詞が始まった。
右の手には土雷居り 左の手には若雷居り 右の足には伏雷居り 左の足には鳴雷居り
浮穴媛の、夢幻泡影とした五体が眩い光を放ち始める…。
「おお…お………」
大禿は、気力の全てを振り絞って一歩を踏み出そうとするが、すくんだ足は根が生えたように動かない。彼は、総身の皮膚が粟立つのを感じた…。
風がざわつき始める…。
どこから沸き上がったのか、見るからに禍々しい積乱雲が夜空を覆いつくし、時折、雲間を走る稲光が幽冥な下界の景色を地獄絵図のように映し出す。
頭には大雷居り 胸には火雷居り 腹には黒雷居り 陰には拆雷居り
今や浮穴媛の体から溢れ出る光の渦は、翼を広げた金翅鳥のように彼女と重なり、大禿は、その光を直視する事が出来ずに手で遮っていた…。
鈴の様に凛とした声が鳴る。
「并せて八はしらの雷神成り居りき!」
天高く、擂鼓がどろどろと不気味に連打される………。
次の瞬間、黒雲を焼き払って天より火柱が落ち、轟音とともに大禿の体を貫いた!
「うぉーっ!」
大地が震え、土塊が周囲に飛び散った。
大禿の頭上に落雷したのだ。
彼の足下に生える雑草が、高温に焼かれてぱちぱちと燻った……。
やがて、立ち込める白い煙が霧散すると、空を覆っていた黒雲は嘘のようにかき消え、先刻までと同じように月が照り輝いた。
月明かりに照らし出された大禿の黒く焼け焦げた屍は、眼球が抜け落ち、鼻、口、耳、その他ありとある穴から沸騰した血が流れ出ていた…。
「……どうじゃ、死は快楽であったろう?」
浮穴媛は、立ったままの姿で絶命した大禿に冷たい一瞥を投げると、その脇を通り抜け暗い阿弥陀堂へと足を踏み入れた…。
闇に、金色の蝶がひらひらと旋回している。
その下に壊れた菖蒲がいた……。
菖蒲の亡骸には、思わず噎せてしまうような甘い麹の香りが漂っていた。乱れた黒髪、投げ出された四肢、白く豊かな乳房、全てがねっとりと白い液体で汚されていた…。
浮穴媛は彼女の側らに歩み寄ると着物の乱れを直し、両手を胸の上に組ませて呟いた…。
「……ひと足先に、黄泉で待つがよい」
次に浮穴媛は、阿弥陀堂の隅に置かれた葛籠を外に運び出した。蓋を開けて中に入っている物を両手で抱え上げる。それは、異様な物体だった…。
干からびた肉塊……。
その肉塊からは長い黒髪が地へ垂れ、血走った二つの眼球がじっとこちらを見据えていた。
「ご苦労であった…」
そう言うと浮穴媛は、伽藍の前庭にある池にその肉塊を放り込んだ…。
長い間、手入れもされず草木が覆い被さった古池の淀んだ水面には、一面に蓮の葉が浮いていた。その暗い水面を破って、ヤゴから脱皮する蜻蛉のように全裸の娘がゆっくりと立ち上がった…。
濡れた裸体は月の光を受け、青白く幽艶に光っていた…。
娘は、儚げにうつむいた顔を上げ、濡れ色に光る黒髪を白い乳房の上に貼り付けたまま、血の気の引いた唇で呟いた。
「明朝、啓明とともに狼煙が上がれば、それは凶兆です…」
「そうか……」
甲斐と相模を隔てる三国山の峻険な頂に、紫色の煙が一直線に天を衝いたのは、それから数刻後の事である……。
続く。
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