第三夜
廃寺がある。
茫々たる草木に覆われ、風雨に晒され半ば朽ち果てた壁には、赤黒いヤモリが這い回っている。
主を失って久しい古寺には、饐えたような死の臭いだけが取り残されていた……。
しゃん
暮れきらぬ秋空に夕星が輝いてる。
凶事の兆しだ……。
足柄坂の裾野で鹿追いの火が三つ四つ……、まるで狐火のように儚く揺れていた。
逢魔が時とは、すなわち大禍時……。
朧な夕景は、もはや天女と鬼女の見分けもつかぬほど闇に浸されていた。
しゃん
虫の聲に重なって鈴を振る音が聞こえる。
夕闇に溶け込むように、崩れかけた楼門の脇に巫女が立っていた。市女笠の前を上げ、じっと闇を睨んでいる。その手には、稲穂を形どった神楽鈴が握られていた。
金色の蝶が、巫女の頭上をひらひら舞っている。あたかも、彼女が振る妖しい鈴の音に操られているかのように……。
しゃん
鈴の音が止む。
それが合図のように巫女の側らに人影がうずくまった……。
「菖蒲か……?」
「……はい」
人影が静かに答える。若い女の声だ。
「双葉もおります……」
影は、二つになっていた。
「跡を尾行られてはいまいな?」
「大丈夫です」
「そうか……。では、聞かせよ」
「はい」
菖蒲と呼ばれた方の娘が顔を上げた。彼女は、長い髪を後ろで束ね百姓の娘に扮していた。
「浮穴媛様のお指図通り、小田原の城兵を籠絡して聞き込みましたが、戦支度のための下知は未だ下されていないようです……。念のため兵糧倉も検めましたが、備蓄は充分なれど、新たに運び込まれた様子はありません……」
菖蒲の淡々とした報告を、浮穴媛と呼ばれた巫女は、ただ黙って聞いている。
「遠山、大道寺、梶原、猪俣など各将の郎党にも同じように探りを入れましたが、これと言って変わった話は聞けませんでした」
「そうか……、もし、挙兵するなら、収穫を終えたばかりの今が最適なのだが……」
「そうですね……、冬になってしまえば、峠を越すのが至難でありましょう」
「やはり北条氏政は、大殿の死を知らぬな……。知っておれば、いかに戦下手の氏政と言えども、この千載一遇の機会を逃すわけがない」
「……恐らくは、媛様のご推察通りでしょう」
浮穴媛は、京人形のように雅で可憐な顔を、少々険しくして二人に言った。
「大殿のご遺言で、我らは、その死を三年のあいだ秘さねばならぬのじゃ……。今はまだ、他の国に戦など仕掛けられては困るのでな……」
「はい……。真田の殿も、同じような事を仰せられました」
「ただ……」
双葉と名乗った方の娘が後を続けた。
「城と風間谷の間で、早馬が二度ばかり往復しました……」
「ほう……」
浮穴媛の切れ長の目が、じろりと双葉を見下ろす。
「して、その者は捕らえたか?」
「……いえ」
双葉が顔を上げる。
「凄まじい妖気を発しておりました故……」
「ふん……」
浮穴媛が鼻で笑った。
「それは、恐らく風魔小太郎であろう」
ひらひらと舞う金色の蝶が、浮穴媛の手に留まった。蝶は、たちまち複雑に折られた紙片と化した……。
「まあよい……。とにかく、奴らがここで毎夜連絡を取っている事は分かっておるのじゃ」
菖蒲と双葉が目を輝かせる……。
「千鳥と桔梗の仇が討てまするな」
「ふふふ……」
浮穴媛は、闇にひっそりとたたずむ伽藍の黒い輪郭を見上げた。
「じゃが、皆殺しにする前に奴らの存念だけは、是非にも聞いておかねばなるまい……」
菖蒲が立ち上がった。
「私が、あの寺の中に潜んでおりましょう」
「いや、お前では駄目だ。桔梗の木隠れさえも見破られたのじゃ。すぐに見つかってしまう……」
浮穴媛の冷酷な目が双葉を見た。
「双葉よ……。この仕事は、お前にしか出来ぬぞ」
「…………はい」
白装束を着た巡礼姿の双葉は、手にしていた錫杖を側らに置くと、目を伏せたままゆっくりと立ち上がった。微かに憂いをおびたような彼女の相貌は、十三夜の月のように青白く美しかった……。
やがて、彼女は長い睫毛を伏せ、やや恥じらいながら着ている物を一枚ずつ脱ぎ始めた……。
薄闇の中、微かな衣擦れの音が耳に届く……。
その姿を表情のない瞳で眺めていた浮穴媛が、独り言のように言った。
「人が、己の気配を完全に消す事は難しい……。たとえ呼吸まで止めたとしても、鼓動は鳴り続け、血は脈打つ……。さすがに、自分の命までは消せぬからな……」
「我らの幻法を破るほどの通力を持った者が、風魔一党にいたとは驚きです……」
菖蒲が溜息交じりに言う。
「桔梗には、可哀相な事をした……。妾は風魔小太郎という男の力を見くびっておったわ」
浮穴媛がそう言い終えた頃には、双葉は、一糸まとわぬ裸身となっていた……。
匂い立つような双葉の白い裸体は、艶めかしさの中にも、やはり狐貉のごとき妖しさを滲ませていた。
やがて双葉は、両足を僅かに開くと印を結んで一心に咒を唱え始めた……。
オン キリク ギャク ウン ソワカ……
オン ギャク ギャク ウン ソワカ……
陰に籠もったような陀羅尼の詠唱が始まると、たちまち双葉の股間から尿がほとばしった。
尿は、彼女の白い腿を濡らしながら勢いよく地へ垂れ、びちゃびちゃと跳ねながら足下に生温かい水溜まりをつくった……。
オン キリク ギャク ウン ソワカ……
オン ギャク ギャク ウン ソワカ……
双葉の尿は、延々と流れ続け、やがて彼女の肉体に変化が現れた始めた……。
豊満な肢体は徐々に萎み、いつしかその質感を失い干からびてゆく。白くたおやかな肌には次第に深い皺が刻まれ、もはや木乃伊の様相を呈していた……。
オン キリク ギャク…… ウン…… ソワカ…………
唱える咒が徐々にくぐもり始め、やがて途切れ途切れとなった頃には、双葉は骨と皮だけの枯れ木のような体になっていた。それは、もはや人ではなく物であった。
ただ、長い黒髪だけが艶やかに風に揺れていた……。
「美事じゃ……」
浮穴媛の呟きに菖蒲もうなずく。
「この姿なれば、もはや人の気配など微塵も感じられまい」
そう言って浮穴媛は、木乃伊となった双葉の枯れ木のような体を草の上に横たえると、ぼきぼきと乾いた嫌な音をさせて関節を外し、四肢をたたみ始めた……。
「双葉よ……、聞こえておるのう……。恐らく北条氏政は、大殿の死を確信するまで動かぬじゃろう……。何しろ五年前には、我が武田勢に城を囲まれ随分と肝を冷やしておるからな……」
もはや、返事の出来ない双葉に向かって、浮穴媛が話し続ける……。
「今、氏政は迷っているはずじゃ……。甲斐の虎と恐れられた大殿が、はたして、そう簡単に死ぬものなのか? これもまた、武田の策略ではなかろうか? とな……」
喋りながらも浮穴媛は、双葉の体をたたみ続け、今やそれは、二尺四方ほどの肉の塊になっていた。
「それで良い……、疑い続けておれば良いのじゃ……。若殿様が御大将として相応しい力量をお持ちになるまで、北条氏政は、穴熊のように小田原城に籠もって大人しくしておれば良い……」
浮穴媛が話し終えた時、そこには異様な物体があった……。
それが、かつて美しい娘だったとは誰も思うまい。干からびた肉塊の中程には血走った眼球が見開かれ、依然、艶やかな黒髪だけが風にそよいでいた……。
浮穴媛は双葉の塊を抱え自分の目の高さまで持ち上げると、もはや瞬きすら出来ない彼女の目を見据え、薄桃色の口を歪めてにやりと笑った……。
「では、双葉よ……。頼んだぞ……」
続く。
お読みいただき、ありがとうございます。
本当は、もっと長いんですがいったん切ります。
一話につき一人殺そうと思っていたのですが、全五話の予定なので、一人生き残りそうです。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。