お読み頂く前に。
この作品は、『春エロス2008』の企画に出品するために書かれたもので、15歳以上の方は、閲覧出来ない事になっております。あらかじめご了承下さい。
第二夜
秋の空高く、鳶が幾何学模様を描く。
焼畑の煙が、紺色の空に一直線に吸い込まれていった……。
足柄峠の稜線は、すでに緑から黄色に移り変わり始めていた。もうすぐ山は、一面紅葉の錦に彩られる。
そよ風は土の匂いを運び、肥沃な足柄平野は、去年と変わらず豊作の喜びに沸いていた……。
名君と言われた北条家三代氏康は、三年前すでに世を去っていた。当代の氏政は、何かにつけ凡庸な人物ではあったが、それでも手堅く北条の三つ鱗を守り続け、その治世は、今や爛熟期を迎えようとしていた。
ただ、広く世を見渡せば、群雄割拠、下克上の時代が連綿と繰り返されている。親を殺し、子を流し、娘を貢ぎ、同胞を裏切る。それらはすでに世の倣いとなっていた。
戦乱の火種は、常にどこかで燻り続けている……。
ひとたび戦ともなれば、人も、家も、田畑も、生活も、全てが馬蹄に踏みにじられる事になる。
血生臭い時代であったのだ……。
若い女の嬌声が聞こえる……。
狩川の急流に素足を洗わせている娘がいた。
薄い藍色の着物を腿までたくし上げて腰紐で結び、白い足を冷たい水に浸けながら、身体を折り曲げてさかんに汚れを手で洗い落としている。終始、白い歯を見せて笑っていた。
「相模の男は、だらしないねえ……。私がちょいと締め上げたら、ひいひい女みたいな声で哭きやがった」
「ええっ! あの毛深い猪首がかい?」
もう一人の、白装束に手甲脚絆という巡礼姿をした娘が、錫杖で近くの草原を指した。そこには、血の気のない裸の男が目を剥いて仰向けに転がっていた……。
「ありゃあ、下忍だったよ」
「じゃあ、何も収穫は無かったんだね?」
「ああ……。甲斐には興味無いってさ……」
「下忍は、哀れなもんだねえ……。使い捨ての道具だから、世の中の事なんか何も知っちゃあいない」
足を洗っている娘は、からからと小気味よく笑った。
「いいじゃないか。地獄へ堕ちる前に、極楽へ行かしてやったんだから」
白装束の娘は、不意に真顔になって言った。
「ねえ、千鳥……。桔梗は、どうして来ないんだろう? 今まで、遅参した事なんて無かったのにさ……」
千鳥も黙り込んだ……。
川のせせらぎと、小鳥の囀りだけが耳に届く。狩川は、やがて酒匂川と合流し相模湾へと注ぐ。瑠璃色の糸トンボが視界を横切った……。
「水鳥じゃあるまいし……、いつまで行水してるんだい?」
野良着を着た娘が近づいてきた。手拭いを姐さん被りにしている。
「だって、あの男の匂いを取らなけりゃあ、次の客が寄って来ないだろう?」
そう言って千鳥は、着物の裾を腰まで捲り、下半身を全て川面より沈めた……。
「きゃあ、冷たい!」
白装束の娘が、溜息交じりに言う。
「ねえ、菖蒲……。桔梗は、どうして来ないんだろう?」
菖蒲は、被っていた手拭いで白い項の汗を拭った。
「あの娘が戻らないと困るねえ……。一番、重要な仕事を任せてあるんだから」
鳶が鳴く。
不意に、絹を裂く様な悲鳴が走った。
千鳥が、河原の小石を蹴散らしながら転げ回っている。他の二人が慌てて駆け寄った。
「どうした、千鳥!?」
「ひいっ! わ……私の中に何かいる……。助けて……ひいいぃっ」
脂汗を額に滲ませた千鳥が下腹部を押さえ、身体をくの字にまげて苦悶している。どう見ても尋常な様子ではなかった……。
「お願い、双葉! 浮穴媛様を呼んできてくれ」
「はい」
白装束の双葉が去ると、菖蒲は千鳥の肩を抱き起こし、彼女の顔の汗を拭きながら声を掛けた。
「がんばれ、千鳥! 今、助けてやるから……、もう少しの辛抱だ」
しかし千鳥は、狂ったように臍の下の辺りを掻きむしった。
「ここにぃー! ここに何かいるーっ」
恐怖に目を大きく見開き喚き散らす。引っ掻いた下腹の皮膚が裂け、血が滲んだ……。
「千鳥っ!? しっかりしろ、千鳥!」
「い、い、い、痛、痛い、痛いいぃぃぃっ!」
きええええぇぇぇっ!
千鳥は怪鳥の如く吼えると身体を弓なりに反らし、激しく痙攣したまま泡を吹いて動かなくなった。
「千鳥……、千鳥!」
そこへ双葉が駆け戻ってきた。
「千鳥は?」
「駄目だ! 浮穴媛様は!?」
「今、来るわ」
その時、千鳥が菖蒲の手を振りほどいて、すっくと立ち上がった……。
「え……千鳥……?」
呆然と見守る二人には見向きもせず、千鳥は目を吊り上げ、大声で笑い出した。
「ははははーっ! やはり、そうであったかっ。信玄入道はすでに身罷ったかあ!」
本人のものとは思えぬ、がらがら声で嬉々として喋った。
「これはよい! 直ちに御報告いたさねばっ」
「ちょっと……、一体どうしちゃったんだ、千鳥……?」
心配して歩み寄ろうとする二人を、鈴のように凛とした声が制した。
「そこを、どきやれ!」
小石を蹴って駆けて来るのは、緋袴の上に千早を着た巫女姿の娘であった。
彼女は、被っていた被衣をふわりと投げ捨てると朱鞘の懐剣を引き抜き、疾風の如く二人の間をすり抜けた。
「媛様、何をっ!?」
「ぐはあぁっ」
菖蒲と双葉が叫んだ時には、懐剣が柄の部分まで深々と千鳥の胸に突き入れられていた。
「おのれえ……甲斐のくノ一……」
千鳥は、一瞬、浮穴媛に掴み掛かったが、直ぐに体の力を失い河原の上にぐしゃりと崩れ落ちた。
「千鳥!?」
浮穴媛は、静かに言った。
「蟲に入られておった……。どのみち助からん」
浮穴媛が千鳥の胸から懐剣を引き抜くと、血が勢いよく飛び散った……。
「千鳥ーっ」
「待てっ!」
千鳥の亡骸に駆け寄ろうとする菖蒲と双葉を、浮穴媛の凛とした声が制した。二人は、金縛りにあったように立ち止まる。浮穴媛は、しゃがみ込んで千鳥の恐怖に見開かれた目をそっと閉じさせた……。
「この蟲に、我らが秘事を聞かれてしまったなあ……」
「媛様……。な、何をなさるのです?」
浮穴媛は、仰向けに寝かせた千鳥の帯を解いた。次に着物の合わせ目を開くと、白く美しい女の裸身が秋の陽射しに照らし出された……。
「蟲を殺さねばならぬのじゃ」
浮穴媛は血濡れた懐剣を、躊躇いもなく千鳥の臍の下に突き立てた。血飛沫が彼女の美しい顔を汚すが、それを気にもせず、差し入れた懐剣を一気に引き下ろした。
たまらず、菖蒲と双葉が手で顔を覆う。
裂かれた双葉の腹から、赤黒い節足動物がもぞもぞと這い出してきた……。
ぎい
蟲はくぐもった声で哭くと、千鳥の腹からぞろりと抜け出し、川の方へ向かって這い出した。
「逃がすか!」
浮穴媛が蟲に飛び掛かり、懐剣で赤黒い体ごと地中まで一気に貫いた。
ぎいいいぃぃぃ……
うねうねと悶え苦しむ蟲を見下ろしながら、浮穴媛は、ゆっくりと立ち上がった……。
「こいつは、刀剣では殺せぬのじゃ……」
彼女は、おもむろに印を結ぶと、厳かに不動尊大咒を唱え始めた。
オン サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク…………
真言を唱えるにつれ、蟲の体からぶすぶすと煙が立ち上る。髪の毛の焦げたような嫌な臭いが鼻をついた……。
…………ケン ギャキギャキ サラバビキンナン ウン タラタ カン マン
真言が終わると同時に蟲から勢いよく炎が上がり、ぱちぱちと弾ける音に包まれ、その体は次第に黒く不自然な形に歪んでいった……。
浮穴媛は、ふうと溜息をついた……。
「……千鳥も焼くか?」
彼女の問いに、菖蒲と双葉は力なく首を振った……。
「そうか……。では、ここに埋めてやろう」
そう言って。千鳥の乱れた着物を直した。
「この蟲は、人の体に入り込みその者の意志を操るのじゃ。一度入ったら取り出す事は出来ぬ……」
「密かに川の中で、我らの体に侵入する機会を窺っていたのですね……」
「そうじゃ……。こいつは、普通口から入るが女の場合は陰部からも入る……。お前達も気を付ける事だ」
「風魔一党の仕業でしょうか?」
「それは間違いないが……。しかし、あの口ぶりでは、どうやらまだ大殿の死を知らんようじゃな……」
浮穴媛は、首を捻った……。
甲斐の国主、武田信玄は、戦国の諜報戦を勝ち抜く為に素破と呼ばれる隠密組織を使っていた。それと同時に、身寄りのない少女達を集め忍びの訓練を施し『歩き巫女』と称するくノ一集団に仕立て上げていた。彼女達は、口寄や神楽舞などをしながら諸国を巡礼し、同時に密命を受けて諜報活動にも従事したのである。
今回、浮穴媛達五人の歩き巫女が、武田の智将真田昌幸から受けた使命は、北条氏政が信玄の死についてどれくらいの情報を持っているかを探る事だった。その為に彼女達は、まず、相模の乱波風魔一党に探りをいれたのである……。
「浮穴媛様……。もしや、桔梗も……?」
双葉の問いに、浮穴媛は表情を変えずに言った。
「……恐らくはな」
彼女の能面のように無表情な目が、焼けただれた蟲の死骸を見た。
「蟲術を使うとは、忌々しい奴らじゃ……」
そう言って、死骸をじりじりと踏みにじった。
浮穴媛は、懐から檀紙を一枚取り出した。
「そうじゃ。ひとつ、返礼をしてやろう」
そう言って紙を折り始めた……。
「媛様、それは、神折符ですね?」
菖蒲が聞く。浮穴媛は、無言でうなずいた。
「神折符とは何です?」
浮穴媛は、ちらと双葉を見た。
「そうか、双葉は知らんのだな……」
折りあがった檀紙を双葉に見せた。それは、難しい折り目で不思議な形に折られていた……。
「これが太古真法の神折符じゃ。折り、包み、結ぶ事によって神霊と通感する古神道の秘術じゃ」
双葉が不思議そうに見つめる中、浮穴媛は神折符を手の平にのせ高々と天にかざした。
「折りとは、天降り……すなわち天意の降下……」
神折符が、まばゆい光を放ち始める。
「包みとは、実相……すなわち真・善・美の三徳……」
神々しい光に包まれた神折符は、ゆっくりとその形を変え、やがて一匹の蝶の姿になった。
「結びとは、産霊……すなわち高御産霊神、神産霊神の二柱の神力……」
次の瞬間、手の上の光輝く蝶は、ひらひらと秋空に舞い上がった。菖蒲と双葉は思わず息を呑んだ……。
「ふふふ……。これで、蟲の飼い主がどこにいるか直ぐに分かる」
浮穴媛は、目を細め天を仰いだ。金色の蝶がひらひらと視界から遠ざかる。
「鳴かねば撃たずに済ませたものを……」
天女と見紛う浮穴媛の美しい顔が狂気に歪んだ。
「見ておれよ、北条の乱波ども……」
血で汚れた顔が次第に恍惚の表情へと変わり始め、黒い髪の毛がざわざわと逆立った……。
「風魔一党に我らが恐ろしさ思い知らせてくれる! 相模の天地を哀れな贄の血で染めてくれようぞ。ははははーっ!」
天を貫く笑い声が、晴れ渡った足柄山の緑に凛と木霊した……。
続く。
全3話の予定でしたが、次号で終わらせるのが困難になりました。5話くらいで終わりたいと思ってますので、よろしければ最後までお付き合い下さい。
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