第一夜
白い月は神々し…
赤い月は禍々し…
今宵、漆黒の中天に浮かぶ満月は、狂人の充血した目に似て赤かった。
その凶月から放たれる毒々しい光は、仙石原の荒野に点在する立ち枯れた木々の陰影を色濃く浮き立たせ、朧な景観にようやく立体感を持たせている。天地を分かつ神山の黒い輪郭は、果てしもなく遠く高くそびえ、現世から黄泉へと続く道を頑に遮っていた…。
けぇん………。
妖しく狂い咲く月夜に何を想ってか、狐が一匹、声高く哭くと、その銀色に輝く毛並みを輝かせては荒野を跳ねた。そして暫くするとその姿はふっつりと消え、後には鬼火が一つ、儚げに漂っているのであった…。
しきりに風が吹いていた。
石を投げ入れた水面の様に、群生する薄が揺れている。生温い、しかしやがて訪れるであろう厳しい冬の予感を孕んだ、寂しい秋の夜風である。どこか遠くの林で、梟の啼く聲がした。それは、諦観に満ちた物悲しい聲であった…。
闇が何かを押し包んでいる…。
薄の原に横たわる人だ。
満月が一つの女体を照らしていた。全身で月光を浴びる若い女性の生々しい裸体を、秋の虫の合奏が押し包んでいた。二つの乳房が、真直ぐ天を指し示している。
ボロン…
闇に横たわる動かない女体は、艶めいて美しかったが、残念な事に首から上が無かった…。
ボロン、ボロン、ボロン…
その首無し女を、三つの黒い影が取り囲んでいる。
オン キリキリ バザラ ウン ハッタ…
そのうちの一人、腰まである総髪と長いあご髭を風になびかせ、鷹の様に鋭い目をした山伏姿の男が、黒い塊を両手で高々と月に掲げた。この女の首である。かつては綺麗に結われていたであろう艶やかな黒髪は、首から滴り落ちる凝固しかかった血と一緒に、無惨にも地に向かって長く垂れていた。
かっと見開かれた女の両目は、己が死の直前に一体どんな恐怖を垣間見たのか…。
オン バラ バラ サンバラ サンバラ…
高価な壺でも扱う様に、女の生首を大切そうに抱えていた総髪の山伏が、くるりと女の死顔を自分の方に向けると、その紫色の唇にゆっくりと己の口を近付けた。
インダリヤ ビシュダネイ ウン ウン ロロ シャレイ ソワカ…
総髪の山伏が、囁く様に唱える陀羅尼が次第にくぐもってくると同時に、この男の口からもぞもぞと奇怪な虫が這い出してきて、ゆっくりと女の口に移り、その血の気の引いた唇を押し広げ、口内へと分け入った。
見るからに禍々しい妖虫が、女の口中に完全に飲み込まれると、それまで恐怖に見開かれていた死顔の瞼がゆっくりと閉じられ、次第に恍惚の表情へと変わっていった…。
「うううぅぅん…」
女の首が艶かしく唸った。薄桃色の舌がちろちろと唇を嘗めまわす。山伏は、満足そうにふふふと笑った。
「どうじゃ、松虫よ…」
総髪の山伏が女の首に嬉しそうに呼び掛けると、女の目がかっと見開かれ、山伏と目が合うと、にいっと口の端を釣り上げて笑った。
「そうか、そうか。気に入ったか…」
総髪の山伏は、慈しむ様に女の髪を撫でた。
「この女、とうとう最後まで何も喋らなんだが…」
別の山伏姿の男が吐き捨てる様に言った。剃髪した大男である。彼が持つ薙刀の刀身は、赤黒い血糊でべっとり汚れていた。
「きききっ、間違いねえって…。この女は、他国から来た間者だよ」
残る一人の小柄な山伏が、舌舐めずりしながら女の首無し屍体を見て笑った。毛むくじゃらの顔に異様に光る大きな目だけが、きょろきょろとせわしなく動いている。
「ききっ、惜しいなあ。おめぇが癇癪を起こして、この女の首を刎ねたりしなけりゃ…」
「ふん、ほざいてろ」
「へへ…。おめぇは短気でいけねえや。なにかっちゅうと、すーぐ得物を振り回しやがる」
「黙れ、申阿彌っ!」
「頭に血が上った時は、まず、ゆっくり十数えるこった」
「ええい黙らんか、こいつめ!」
たちまち禿頭にミミズの様な血管を浮き上がらせた大兵の山伏が、持っていた薙刀をぶうんと振り回すと、申阿彌は、軽業師の様にひょいひょいと跳躍してこれを躱し、きききっと甲高い声で笑った。
「大禿よう…。女の首は刎ねられようが、この申阿彌様にはかすりもせんぞ」
「小賢しいチビ猿めぇ!」
薙刀を構え直した大禿と彼を挑発する申阿彌を、女の首を抱えた総髪の山伏が一喝した。
「いい加減にせい!」
申阿彌がびくっと肩をすくめ、大きな目をぎょろつかせる。大禿は、薙刀を引いて頭を垂れた…。
「おぬし達、遊んでおる場合ではないぞ。この女の素性は、おおよそ見当がついておるのじゃ」
「申し訳ない、お頭…」
「…まあよい。この女が何処の手の者か判れば、お前達には直ぐに働いてもらう」
申阿彌と大禿は、お頭の両隣りに肩を並べ、女の顔を正面からしげしげと覗き込んだ。
「どうじゃ、松虫?」
お頭が、再び女の顔に向かって、にっこり笑いかけると、土気色の女の唇はゆっくりと語り始めた。
「この女の名は桔梗といって、甲斐から来た歩き巫女じゃ…」
綺麗な顔からは想像もつかない、がらがら声であった。首から下が無いのだから仕方が無い。時折、口から血の泡が飛ぶ。
「うーむ…、やはり甲斐のくノ一か」
「左様…。裏で指図しておるのは、真田安房守という事じゃ」
真田安房守とは、武田の猛将真田昌幸の事である。三人の顔から笑みが消えた。いつしか赤い月は霞み、ねっとりとした黒雲が夜空を覆い始めていた…。
「しかしなあ…。甲斐の歩き巫女が、何の為に我々を付け回していたんだ?」
申阿彌が身を乗り出して訪ねる。
「さあ…、そこまでは解らん」
女の首は、色っぽい流し目を申阿彌にくれながら舌舐めずりをした。申阿彌が頭髪を逆立てる。
「ひとつ気になる事がある…」
お頭が峻厳な目をして言った。
「昨年、武田軍が上洛の途上で引き上げた、あの不可解な動きじゃ…」
「確かに、あれはおかしいな。一言坂、三方ヶ原と遠江を飲み込み、家康の城をことごとく攻め落としておきながら、どうして急に引き返す必要があったんだ?」
申阿彌が上目遣いで女の首を見た。女の目がぷいとそっぽを向く。申阿彌は、ぺっと唾を吐いた…。
「…やはり、信玄が病んでいると言う噂は本当なのだ」
大禿が、いよいよ強くなってきた風に目を細めながら言った。
「しかも、病状はかなり重いと見る……」
お頭の目がぎらついた。
「いや……、事によると、これは……」
三人は、振り仰いだ黒雲に雷光を見た。宵闇に瞬いた青白い閃光が、雲間に鬱々とそびえる峻険な神山の黒い輪郭を、三人の目にくっきりと焼きつけた。
「我らが御館様にも、どうやら運が向いてきたようじゃ…」
お頭の、うわ言の様な呟きが雷鳴と重なった。
風が強くなり、流れの速くなった黒雲に時折月が吸い込まれる。何処から集まったのか、血の匂いを嗅ぎ付けた野犬どもの金色に輝く目が、遠巻きに山伏達の様子をうかがっているのが見え隠れする…。
「なあ……。この女、もう喰ってもいいかな?」
女の首が、目をきらきら輝かせながら訊ねた。
「まあ、待て…」
総髪を風になびかせ、お頭はそれを制する。
「今一つ…。この女の仲間は、あと何人おる?」
女の首がにいっと笑った。
「四人じゃ…」
お頭が申阿彌と大禿を見る。二人は、静かに頷いた。
「なあ、喰ってもいいじゃろ。なあ…」
女の首は、子供のように駄々をこねた。お頭は、目を細めにっこり笑った。
「待たせて悪かったのう、松虫や…。さあさ、存分にお食べ」
「おお、そうか!」
女の表情がぱっと輝いた。
そして、瞳がくるっと裏返ると、だらしなく口を半開きにしたまま表情が固まった。次いで、ぐちゃぐちゃと糠味噌を掻き回す様な湿った嫌な音が、女の生首の内から聞こえ始めると、申阿彌、大禿の両名がそろって顔をしかめた。
「お頭ぁ……。よくこんな気持ちの悪いもの、腹ん中で飼ってるなぁ…」
「ふふふ…、そう言うな。いざとなれば、一匹で兵百人に匹敵する働きをするのじゃぞ」
やがて気味の悪い音が止むと、白目を剥いた女のだらしなく開いた口元から血の混じった涎が糸を引いて垂れ、次いで赤黒く血に濡れた節足動物がもぞもぞと這い出してきた。
「どうじゃ、旨かったか?」
お頭の問いかけに、女の口からうねうねと突き出た妖虫は、ぎいと哭いて答えた。
「ほうか、ほうか…」
そう言いながらお頭は、大きく開けた口から舌を突き出し、血に濡れた妖虫を迎え入れるべく顔を近付けた。たちまち虫がお頭の口中へぞろりと滑り込む。
「うえ…」
たまらず申阿彌が、気持ち悪いといったふうに胸を掻きむしった。
虫を飲み下したお頭は、血の付いた口髭をぺろりとなめながら言った。
「よいか、申阿彌に大禿よ。是が非でも、この相模に忍び入ったくノ一どもを捕らえ、信玄坊主の生死を確かめねばならぬ。二人とも重々心してかかれよ」
「承知しました」
両名は、恭しく一礼した。
次の瞬間、お頭は、それまで大事に抱えていた女の首を無造作に宙へ放った。刹那、大禿の薙刀がぶうんと唸り、がっと鈍い音がして女の生首が見事に二つに割れた。
地へ転がった女の首の残骸は、頭蓋の中身が空っぽだった…。
「しばらくは、何も食わせなくてよいな…」
お頭は、鷹の様に怜悧な瞳を細め、残酷な表情でせせら笑った。
この男。
猪鼻岳一帯を根城とする相州乱波、風魔一党の頭領で香林坊といった。今は、四代目、風魔小太郎を名乗っている。
立ち去る三人の影が、やがて宵の闇と一体になると、それが合図のように、お預けをくらっていた野犬の群れが息荒く這い寄ってきて、女の屍骸を貪り始めた。
二度目の雷鳴が、青白い閃光にやや遅れて轟くと、たちまち針のように鋭い雨が降りそそぎ、忌わしい殺戮の現場を静かに洗い流し始めた…。
続く。
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