君の太陽、空が泣いた日に。
太陽が小さくなりつつある世界、廃れた街、瓦礫の山。かつての地球からは想像出来ない姿だった。
乾いた風が砂塵を巻き起こして現れたのは一匹の狼。
縮小されていく太陽の影響で出来たLS化合物は生物達を否応なく進化――空亡化させた。狼の漆黒の毛皮と燃え盛る赤い瞳はその進化を遂げた印であった。
狼は飢えていた。虎視眈々と獲物を狙う。獲物は出産の最中である馬の空亡で餌にするには最適であった。
瓦礫の隙間からも血の匂いが漂い、体が疼く。刹那、目にも止まらぬ速さで狼は雌馬一直線に駆け出した。それから勢い良く跳ねて雌馬の首筋に噛み付くと、頸骨をへし折らんばかりに振りたぎる。馬が力なく崩れ落ちて勝利を確信した狼が舌舐めずりをし、大きく口を開けたその時であった。
身体中に電流が駆け巡り、悲鳴をあげる。轟くような嘶き。声の元は父親の雄馬であった。雄馬の額には電流を纏う長い角が生えており、深紅の瞳は怒りの色に染まっている。
狼は体を引き摺るように後退した。雄馬は一歩前に進む。幾度かそれを繰り返すと痺れを切らせた雄馬が角に電流を溜め、力強く狼に迫った。
「これは馬の勝ちだね、うわあ、怖い」
「うるさい……。だいたいなんで依頼主のあんたがついて来るわけ?」
そう言うとアンは黒髪を結い、ハンチング帽を深く被り直した。
「気になるじゃん、生態系とか。それに可愛いアンちゃんがもし怪我でもし、いたたたたた」
アンは飄々としているディックの長い金髪をぐっと引っ張る。ディックは痛みで目に涙を浮かべているのだが心なしか喜んでいる風にも見えた。
その取ってつけたような白衣を破いてやろうか。
今にも口から出そうな言葉をぐっと飲みこみ、アンはその衝動を抑える。
「とりあえず……今飛び出すのは危険ね。見つからなきゃいいんだけど」
ディックの髪から手を離すとアンは瓦礫の陰から再び狼と馬の様子を伺い、ジャングルナイフを握る手に力を込めると空亡に憎悪の眼差しを向けた。
許さない――。
アンにとって戦い続けるべき敵であり、大事なものを奪った憎むべき存在であった。
どうしてあの人が死んでしまったのだろうか。
その悲しみを怒りに変えてぶつけるしか方法は見つからなかった。たとえそれがどんなに虚しいものだと知っていても。復讐。ただ復讐しかアンの頭にはなかった。
「アンちゃん!」
いつもの甘えた声色でなく、真剣な彼の叫び声が聞こえた時にはアンは地面にひれ伏せていた。
ふと顔をあげるとそこには焦げた狼の屍。そして肩で大きく息をするディックの手には炎が巻きついていた。
LS化合物の力で得た炎の能力――アビリティを使って、馬に弾き飛ばされた屍がアンに当たるのを防いだのだ。
「ディック! 手、電流で火傷してる!」
「僕は大丈夫だから。ほら、前見て」
「でも!」
普段前線で全く戦うことのない彼には火傷は大きなダメージであった。
突然、大木が縦半分に裂かれたような音がした。
ミスを省みる余裕もなく、迫ってきたのは雷を纏う雄馬。赤い目を爛々と光らせてゆっくりとこちらに来る。アンは直ぐ様、ディックを座らせて赤いジャンパーの中に手を入れた。
「くそっ!」
愛用のジャングルナイフに雷のアビリティで電撃を走らせる。
自分の油断のせいでディックを傷付けたことへの罪悪感と何より敵を目の前にして油断した自分が一番腹立たしかった。
アンは体制を低くし、強く地面を蹴りあげると慣れた構えで雄馬の方へ飛びかかっていった。馬が首を振る向きにあわせて雷の攻撃に当たらぬように一つ一つ避けていく。地面にぶつかった雷は灰白色の煙を立たせながら大きな穴を作った。
目標まで数メートル。横目に赤い世界が見えた。血溜まりの中で横たわっていた雌馬と生まれかけの子馬である。
家族――。
ふとそんな言葉がアンの脳裏を過った。
一方、雄馬の怒りの矛先は最愛の番を傷付けた狼から居合わせた人間達へと移っていた。やり場のない憤りが表れている電流は何かの生き物の如く、四方八方へ飛び散る。
許さない――。
そう言っているように見えた。それはまるで心の奥深い所で荒れ狂うアンの化身であるようだった。
掌から発した雷は彼女の心の隙を啄み、攻撃しようとした手がふっと緩まる。刹那、目が眩むほどの閃光がアンの体を貫いた。
「あぁぁあぁあっ!」
ナイフを握る手が緩まり、足の力が抜けて、地面に倒れこむ。
力が……入らない。
アンは落としたナイフを取ろうと手を伸ばすが、電撃で麻痺した体は言うことを聞かない。
どうしてこんなことを自分は……。
家族。
その陰がちらつくとこんなにも自分が弱くなるなんて。
動かなきゃ、動かなきゃ、やられる。
「アン!!」
先程よりももっと真剣でいつもと違う形で呼ばれた時には背中に瓦礫のゴツゴツした感触が走り、視界が黒く染まった。
「いっ……、ディック!?」
「……馬鹿。言った、でしょ? 前見ろ、って」
いつの間にか駆けてきていたディックは雄馬の電撃を再びアンの代わりに受けていた。白衣が黒く焦げ付き、きな臭さが鼻をつく。
「ディック!!」
アンを見つめていた黄緑色の優しい瞳が意識の喪失と共にゆっくり閉じられる。
すぐ傍には黒い獣。アンはぐっと歯を噛み締める。
復讐なんかじゃない。自分はそうだ、もう、大事な人をなくしたくない。
「負けない!」
震える手でナイフを手繰り寄せると雄馬に負けないほどの電力を走らせる。
馬の動きはまるでスローモーションにかかったようで、角が己の体を貫こうとした時であった。ナイフを付け根に突き立て、渾身の力で電撃を発する。互いの電撃が混じり合い、痛みと熱さが襲い掛かったがそれを感じる余裕はなかった。
先に倒れたのは雄馬の方であった。角が折れ、ゆらりと傾く巨体。息も絶え絶えな雌馬と既に事切れてしまった子馬の側にどさりと倒れこむと数回痙攣して動かなくなってしまった。
それを見届けたのか、雌馬も大きく息を吸い込むと三匹から熱い蒸気が上がっていく。空亡達は空に溶け、雨滴となりつつあった。太陽が消えていく世界で。
疲れた体を湿らせる雨はなぜか少しばかり冷たく感じた。
「……ディック」
痛む手でアンは横たわるディックの頬に触れた。
「ありがとう、気付かせてくれて」
復讐するんじゃない、守りたいものを守るんだって。
その時、ディックの顔に眩しい光が差した。
空亡の雨が止み、昔よりも数段小さくなった太陽が雲の隙間から顔を出しはじめるとアンの空色の瞳には丸い太陽が宿った。
まだ太陽だって、希望だってなくなったわけじゃない。約束された将来を夢見て戦い続けよう、そう胸に誓い、アンは空を仰いだのだった――。