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異世界=地獄?

作者:菜宮 雪
 おかしな場所だ。こんな場所、現実世界のどこにもない。
 大勢の人間がひしめいているこの狭い空間は、霧のような白い壁に四方を囲まれ、その向こうがどうなっているのかわからない。この霧の壁に突進して抜けようとする者もいたが、何かの力で跳ね返され、俺たちはここから出ることができないのだった。
 天井を見上げれば、どこまでも青い空。ここは外なのだろうか。空の中にできた霧の壁に閉じ込められている。
 いろいろな国の人間が混じっている。数百人、いや、何千人もいるのかもしれない。前の方はかすんで見えないからどれぐらいの人がここにいるのかわからない。

 ふと気がついたら、いきなりここだった。この見知らぬ場所へ、視界が切り替わるまでの記憶はちゃんとある。
 俺は飲みすぎで体を壊して入院中だった。だけど、ここには病院のベッドも、ベッドを覆うカーテンもない。周りをみるかぎり、若い子や子供もいるものの、年齢層は高い。

 お年寄りが多いってことは……ここは、あの世か?
 いや、違うな。
 俺は三途の川なんて、渡っていない。水が流れているような場所は見てもいない。だいいち、俺はまだ二十三歳だ。死ぬ年齢じゃない。おそらく、俺の体はまだ病院で寝ていて、一時的に幽体離脱しているのだろう。
 そうだ、ここはきっと異世界。体と一緒には来られない夢の場所なのだ。

 異世界トリップときたら、現実の世界では何のとりえも、意気地もなく、勉強すら人並みにできないダメ人間が、異世界でちやほやされて幸せになる話なんて、結構たくさんあるじゃないか。だから、ここはどこかなんて、俺は考えないことにした。いつ現実へ戻るかわからないけれど、せっかくここに来たのなら、ここで彼女を作って幸せになってやる。ここでなら、なんでもできる気がした。

 不安を追いはらい、楽しいことだけを考え、さっそく女の子を物色。
 すぐ近くに日本人らしい若い女の子がいる。見覚えのある制服。近所の女子高か。
 思いきって声をかけた。
「あの、すみません。ここって――」
 振り返った彼女の顔を見て、途中で言葉が止まってしまった。
 この子、めっちゃかわいい! 俺の理想そのものじゃないか。
 彼女の身長は百六十もなさそうで、細い身体つき。色白で、軽くすいたショートの髪をダークブラウンに染めている。二重の目はぱっちりして、その下にはやわらかそうな頬。つややかなピンクの唇に小さめのあご。高校生らしい制服姿。紺のブレザーの首元には赤いリボン。青チェックの短いスカートをはいている。
 俺が異世界トリップ物語の主人公だとしたら、この女の子が異世界のお姫様か。この子と俺はそのうち恋して、結ばれて……。
 などと、妄想にひたる暇はなかった。声をかけたのは俺の方。彼女は俺の言葉の続きを待って、俺をじっと見ている。あわてて言葉の続きを出す。
「あの、ここって、どういう――」
 話の途中で、会場が急にざわめいた。彼女の視線がそちらに流れる。
「ここのことは……あ、なんか出て来た」
 霧の壁に囲まれた空間の中、青空天上の中に一人の女性が出てきた。出てきた、というよりも、いきなり青空の風景の中に、人の姿が浮かび上がってきたという方が正しい。
 おう、異世界の神様が堂々登場か。
 ん? あの人が神様?
 この神様……うーん、ちょっとイメージが崩れた。
 神様はちょい太りの女性姿だった。
 大きな花柄の半袖Tシャツから出ている二の腕が丸々として、頭はくるくるパーマの短髪。どこにでもいる四十~五十代ぐらいのおばさんに見えた。
 宙に浮いたおばさんが何か言っている。自分の姿が人によって見え方が違うと言うことを主張しているようだったが、会場がザワザワしていてほとんど聞こえない。俺にはおばさんに見えるけど、他の人は、美しい女神様に見えているのかもしれない。
 周囲の騒がしさで、話の内容はさっぱりわからなかった。
 そのうちに、おばさんは砂糖が水に溶けるように消えてなくなってしまった。
 おかしな世界だ。急に出てきて、急にいなくなる。まあ、ここは異世界だから、そういうこともあるのかもしれないと思っておく。

 おばさんが消えてしまうと、人々が一斉に移動し始めた。それぞれに近い壁に吸い込まれていく。ついさきほどまで誰も通さなかった霧の壁が人を飲み込んでいく。どうやら、この先に新しいステージが待っているらしい。不安を抱きつつ、俺も人の波に乗って周りの人と一緒に壁に吸い込まれた。
「あれ?」
 壁を抜けたら、そこはまた霧の壁の部屋。今度の場所は、さっきよりずっと狭く、学校の教室程度の広さになっていた。机も椅子もない部屋に、なんと、声をかけたあの女の子とふたりきりだった。二メートルほど離れた位置に立っている彼女。彼女の方も驚いた顔をして、きょろきょろと周りを見ている。
 なんという幸運。もしかして、これは運命の出会いだったかも。
 異世界で運命の出会い!
 心ときめく俺に、今度は、彼女の方から近づいてきて、話しかけてくれた。
「他の人たちどうしたのかなあ。あんなにたくさんいたのに、みんな、いなくなっちゃったね。あなたは何をやったの? あたし、そんなに悪いことした憶えないんだけど」
「悪いことって?」
「さっきの宙に浮いた人が言っていたでしょ。地獄へようこそって」
「地獄? ここは地獄かよ」
 冗談かと思ったが、彼女は真面目だった。あのおばさん、そんなことを言っていたのか。
「そう。ここは地獄なの」
「まさか、違うだろ。ここが異世界だってことは俺にもわかるけどさ」
「異世界と言えば聞こえがいいけど、ここは地獄。だって、天国じゃないなら地獄でしょ」
「違うと思うけどな……俺、生きているから。実は、俺の体は今病院にいて、俺の魂だけがここへきているみたいなんだ。ここにいる人たちはみんな幽体離脱している。きっと、体は元の場所にあるんだ」
「そう? でもあたしは絶対に死んでいる。死んだ後に行く世界って、天国か地獄しかないんじゃないの?」
 あっさりと自分の死を認めた彼女に、俺は言葉を失った。彼女はため息をついて、ぶつぶつ愚痴り始めた。
「あたし、どうして地獄行きになったんだろう。地獄って、殺人とか強盗とか、ものすごく悪いことをした人が死んでから行く場所だって思っていたのに。あ、でもちょっとだけ身に覚えはあるけど」
 彼女が生きているか、死んでいるかの問題は、今は横に置いておいて、彼女の話をちゃんと聞いてやることにする。
「なにをやらかしたんだよ」
「学校でね、雨が降ったときに、人の傘を盗んじゃった」
「それで地獄か」
「あ、それからね、駅で自分の自転車がパンクしちゃったから、鍵がかかっていない人の自転車、勝手に借りちゃった。で、そのまま乗ってる」
「それは残念だけど、窃盗罪だよな」
「うん、知ってる。返さなきゃって思っていて、自分の自転車に乗れないから、ついついそのまま借りちゃってた。それも地獄行きへの条件だったのかな。まだあるけど」
 犯罪歴がまだあるのか! この子、かわいいけど、結構やんちゃなのかもしれない。
 おいおい、と思いつつ、彼女の話を聞く。
「友達に借りた五百円、ずっと返してない」
「それ、返す気はあるんだろう?」
「うん、でも二年ぐらい経ってるから、返しにくくって。それで地獄送りになるなんて思わなかった。地獄に行かされるなら、ちゃんと返しておけばよかった。それからね……」
「まだあるのか」
「自販機でジュースを買おうと思ったらね、誰かが小銭を忘れていたから、そのままもらっといた。それも警察へ届けないと窃盗になるんでしょ?」
「……そうだな……たぶん。わかってるなら届けろよ」
「だってね、小銭だよ。何千円も盗ったわけじゃないし、お小遣いほしかったんだよね」

 これ以上、彼女の軽犯罪歴なんか聞きたくない。話題を変えてみた。
「あのさあ、本当に君は死んでいるの? なんでそんなことわかるんだよ」
「あたし、学校帰りに車にはねられたんだよ。自分の死体、上から見てた」
「それって、一時的な幽体離脱じゃないのか」
「違うよ。だって、あたし、酷い怪我してたから、絶対に生きているとは思えないもん」
「そうか……」
「あなたは生きているのなら、どうしてここにいるの?」
「それがよくわからないんだよな。気がついたらここだった」
「そうなの? あ、自己紹介しなきゃ。あたし、石井ハルカ。北女子の二年」
「俺は塩谷尚登シオタニ・ナオト。工業大学四年だけど、実は留年中。就職活動失敗してさ」
「へー、工大って賢い人が行くところでしょ。すごいね」
 ハルカは興味深そうに俺を見た。女子高生のまっすぐな視線がまぶしい。
「すごくない。入学してみたら、そうでもなかった。俺みたいに就職できなくて留年しているやつが結構いるから」
「ふーん。大学、いいなあ。あたしも行きたかった」
「行けるよ。ハルカちゃんはまだ生きている」
「うーん、それは絶対にないね。頭が派手につぶれちゃってたから」
 あっけらかんと言われ、俺は返す言葉に困った。この子は自分の死を軽く考えているようだ。
「俺は、自分は死んでいなくて、一時的にここへ来ているだけだと思う。腹を壊して入院中だったけど、命に別状はないって言われていたんだ」
「じゃあ、ナオト君はそのうちに帰っちゃうんだ。いいなあ、あたしはずっと地獄なのに」
「だから、ここ、地獄じゃないって。閻魔様もいなかっただろ。きっと天国だよ」
「そうだといいんだけどね。地獄のイメージ全然違ったもん」
 彼女は少しだけ笑ってくれた。
 やっぱりかわいい。片方の頬にえくぼができる。思いっきり俺の好み。
 俺もつられてちょっとだけ笑う。
「絶対におかしいぜ。こんな地獄ありかよ」
「変よねー、あたしもここが天国だと思うことにする」
「ここは異世界。俺たちは異世界ファンタジーのヒーローとヒロイン。これから冒険しようぜ。まずは世界探検だな」
「無理。探検できないよう。ここ、出られそうにないもん」
「ま、そうだけど。夢はでっかく」
 かわいい女子高校生と二人で笑い合うのは楽しい。
 俺たちは、お互いが持っている地獄のイメージなどを熱く語り合った。
「ねえ、棒を持った鬼ってここにはいないのかな。痛そうな金棒で殴られるのは嫌。あたし、自分の罪を認めて、ちゃんと謝るから、許してもらえないかなあ。ここへ鬼が来たら逃げる場所もないよ」
 彼女がそう言いながら不安そうに周りを見回す。霧の壁しかない部屋。俺も不安だけど、彼女を励まそうとみえを張る。
「大丈夫、ここは地獄じゃないから、鬼なんていない。血の池とか、罪人を刺しておく針山も見当たらないし」
「うん、そうだね、ここはやっぱり天国。閻魔さまが突然この壁から飛び出して来たら、びっくりだけど」
「あれ? おい、なんかおかしくね?」
 気が付くと、周囲の霧の壁が徐々に狭くなってきていた。
 壁が近づいてくる! 
 待ってくれ、ゲームみたいにもう次のステージかよ。それとも、俺は現実の体へ帰るのか。どうしようもない男に戻ってしまい、楽しい時間は二度と訪れることはないのだろうか。 
 あせった俺は、とっさにハルカの手をつかんでいた。
「せっかく知り合いになったんだから、次のステージも一緒にいよう。もう少し話がしたい」
 ハルカはにっこりと笑ってくれた。
 俺たちは霧に包まれた先、視界が開けると、そこは、今までとは違う世界が待っていた。

 周りは相変わらずの白い霧の壁。だけど、今回は青空天井ではなく、土砂降りの雨が今にも降りだしそうな黒い空。しかも、さらに狭く、教室を半分ほどに切った長方形の箱に閉じ込められているような感覚になる。しかも、暗く、長方形の端の奥がどうなっているかはわからない。
「ハルカちゃん?」
 返事はなく、物音一つしない。
「誰もいないのか」
 この部屋で動いているのは俺一人。手をつかんでいたはずなのに、ハルカはいなくなっていた。彼女の手がすり抜ける感触さえなく。彼女はやはり死者の魂だったのだろうか。
 見知らぬ場所にひとりきり。
「ハルカちゃん? いねえのかよ。誰かいませんかー」
 人の声はどこからも聞こえない。
 静かすぎて、なんとなく、背筋に寒さが走った。
 誰かに見られているか。
 それはない。誰もいないのだ。ほんとうに、ここには誰も。
 耳を澄ませて、誰かの気配を感じ取ろうとしても、何も入ってこない。俺の呼吸音すらこの世界では雑音に思えてくる。
「すみませーん、ここはどこですかー、出口どっちですかー」
 返事は当然あるはずもなく。急に返事がきても、それはそれで怖い。

 この異世界はいったいなんなのだろう。異世界で甘い夢を見たいと願う妄想が、俺をここへ来させたのだとしたら、俺の体は今、どうなっているのか。そろそろ戻らないとヤバイのかもしれない。その前に、ハルカちゃんにもう一度会いたいと思ってしまうのはわがままだろうか。
 現実世界では、何をやってもダメで、年齢=二十三歳=彼女いない歴の俺。就職活動もうまく行かず、やる気もなく、なんの計画もなく、だらだら日常を過ごしている俺。会ったばかりの女の子とふたりきりでたくさん話をするなんて、現実の俺では無理だった。
「ハルカちゃん」
 やはり返事はなかった。もう会えないのか。

「うあっ!」
 突然、背中全体を押され、前につんのめる。
 壁がすぐ後ろまで来ていた。
 後ろを振り向けば、霧の壁が、いつの間にか、黒々とした鉄の壁に変わっていた。それがどんどん俺の後ろから俺めがけて進んでくる。
「ちょっと待ってくれよ。ここが地獄だか天国だかわからなくてもいい。夢の世界なら、もう一度さっきの子と会わせてくれ」
 壁に背を押されて、細い暗闇の中を奥へ進まされた。やがて壁に押されなくなり、目が慣れてくると、そこは細長く狭い部屋だということがわかった。
 先ほどよりもさらに狭い。部屋の広さは四畳ほどだろうか。畳の短い方の辺二枚分ぐらいの幅しかなく、縦長の奥行。奥には腰の高さほどの台が置かれており、その上に誰かがあおむけに寝ているのがわかった。ふとんも何も掛けておらず、ただ、人が台の上で寝ているように見える。
 寝ている誰かに近づこうと思った。
 しかし、本能が俺の中で強く反発している。
 ――近づいてはならない。見てはいけない。
 心の警告に、俺の足は止まり、離れたところから声をかけた。
「あのう、すみません」
 返事はなく、台の上の人はピクリとも動いていなかった。眠っているだけにしては静かすぎる。薄暗くてはっきりわからない。
「死んでいるのか」
 自分でそうつぶやいてみて、ひっ、と息を吸い込む。
 まさか。
 もう一度、目を凝らし、あおむけに寝ている『誰か』の姿をしっかり観察する。
 裸足の足がこちらに向けられている。パジャマ姿……か? どこかで見たような縞々模様のパジャマ。俺が入院中にもあんな模様のパジャマを着ていたような。
 もしかすると。
 いや、そんなはずはないだろう。
 この世界はきっとすべて夢だ。
 大丈夫さ、夢だから。さあ、しっかり見てみろ。それが誰なのか。似たようなパジャマを着た全く知らないやつかもしれない。勇気を出すのだ。
 俺はゆっくりと『死体』のように動かないやつに近づいた。

「うぉ、マジか……」
 自分の顔から血の気が引くのがわかった。
 それはあまりにも無残な姿だった。
 『死体』のような人間の腹は、縦にも横にも大きく何カ所も切り裂かれ、はみだした内臓もつぶれている。めった刺しをくらったらしい。死んでから時間が経っているのか、赤黒く固まった血液は、今は流れ出ていない。
 これは生きている人間でなく、完全に物だった。
 苦しんだ顔をしている。血走った目を剥き、大きな口がパカリと開いており、唇の隅からは固まった血が垂れていた。
 急激に寒さを感じ、自分の腕を抱えた。
「なんで……こんなところで腹を裂かれて死んでやがるんだよ」
 寒い。背筋だけじゃなく、全身が寒い。自分の体が震えている。
「なんだよこれ」
 誰かが俺を笑っている気がして振り返る。誰もいない。上を見上げても、もちろん誰も浮遊していない。
「おまえ……俺だよな?」
 どう見てもその死体の顔は、俺だった。
 刺殺死体になっている俺。だとしたら、現実の俺の今は?
「おい、誰かいないのか。答えてくれよ。なんで俺の体がこんなふうになって、ここにあるんだよ。誰か、誰かー!」
 黒々とした壁に俺の声が響き渡る。
「ちくしょう! 俺を元の世界に帰してくれ。こんなたちの悪い冗談を見せられるのなら、異世界なんかこりごりだ。俺は戻る」
 とにかく、出口を探さないといけない。ハルカに会うことはあきらめた。こんなおかしな場所にいつまでもいたら、そのうちに気が狂ってしまう。

 死体の台の横をすり抜け、さらに暗いその先へ進んでみる。先は暗く何も見えない闇の世界。それでも進むしかない。どうせ、後ろはすぐ壁が来ていて俺は戻れないのだ。進める道はそこしかない。

 震えで自分の歯がカチカチ鳴る。静かすぎる世界に響く、自分のおびえた音すら気味が悪い。
 先が見えず危ないので、両手を前に突き出して闇の中を進む。足元に気を付け、そろり、そろりと一歩ずつ足を前に出した。

 どれだけ進んだのかわからないが、突然視界が開けた。
 今度のステージは明るい。とはいっても、先ほどよりも明るさが少しはあるというだけで、辺りはまだまだ薄暗い。今度の部屋は先ほどの場所の倍ほどの広さがあった。ちょうど、俺が入院している病室ぐらいの広さで、六畳ぐらいだろうか。そこにまたしても台が置かれており、誰かが寝ていた。
「またこれかよ。俺はもう驚かない。誰がこんな仕掛けをやっているのか知らないけど、変な冗談はよせ。また俺の死体か?」
 深呼吸すると、覚悟を決めた。それが自分の死体だったとしても、ここは異世界だ。何も驚く必要などない……はず。
 汗でギトギトしている手をこぶしにして、息を止めて、台の上にある『何か』に近づいた。
 目に入ってきた女子高校生の制服。首から上は血まみれで、頭の形もいびつにつぶれ、誰だかわからない。
「なっ……」
 息苦しい。
 頭がつぶれている死体。完全にくちゃくちゃになって。ハルカが先ほど『頭が派手につぶれちゃってた』と言ったような。
「ひぃぃ!」
 自分の口から悲鳴が勝手に飛び出していた。
 これはハルカだ。顔はわからないけど、絶対にハルカの遺体だ。制服は彼女が着ていた物と同じ。彼女が語った死んだ状況は一致。
「ハルカちゃん?」
 彼女はやっぱり死んでいたのか。
 こんなの見たくない。次へ。次へ行こう。ここにも長居したくない。この異世界の神様は、俺の願いをこんな形で叶えてくれた。俺は確かに、ハルカに会いたいと願ったけど、この演出はあんまりだ。
「神様、ドッキリもほどほどにしてください。俺を見ているなら、現実に戻してくださいよ」
 聞こえるように、大きめの声で言ってみる。泣きそうな自分の声がなさけない。
「聞こえてないのかよ」 
 しん、とした部屋。
 極度の緊張で呼吸を乱し、よろめきながら、ハルカの遺体の横を通り過ぎる。先ほど来た方向は、すでに黒い壁に変わっていた。やっぱり戻れない。進行方向はあいかわらず闇が待ち構えているのに。
 冷や汗がこめかみから流れ落ちる。
「くそっ、さらに奥へ行けってか。出口はどこだよ」
 心臓が壊れそうなほどうるさく鼓動を打っているのを自覚しつつ、闇の中へ進む。

「うおっ!」
 いきなり足元がなくなった。体がどんどん落下していく。つかむものも何もない。暗い中、手足をばたつかせながら、頭が下になって落ち続ける。下の方に目を凝らすと、爪の先ほどの小さな光点が見える。俺はそこへ吸い込まれるように、まっさかさまになって落ちていく。
「!」
 当然、ガクンと落下が止まった。
 ほっと息をつく間もなく、眼下にある光景に息を飲む。
 俺の体がベッドの上で眠っていた。

 この部屋は見覚えがある。たぶん、入院している病室だ。俺の体は普通に眠っていておだやかな寝息を立てていた。
 よかった、戻れたのか。悪夢は終わったらしい。
 だが、なぜか、元の体のところへまで飛んでいけない。病室の天井に張り付けられたように動けないまま、俺は自分の寝姿を見下ろしているのだった。
「どうやって戻ればいいんだよ」
 自分の体がそこにあるのに戻れないもどかしさに、俺は舌打ちした。
 と、その時、他に誰もいない病室に人が入ってきた。
 思わず瞬きした。
 あのおばさんだ!
 異世界で宙に浮いて、なんか言っていた変な人がこんなところに。
 あれが神様なら、今から、俺を元に戻す作業をやってくれるのかな。
 おばさん、俺はここにいるよ。その体に俺を戻してくれ。なぜか、あの世みたいなところへ迷い込んでしまったから。
 おばさんは俺が眠るベッドの横に立った。俺は上から作業を見守る。
 おばさんが俺の上に手をかざした、と思ったら、その手には包丁が握られていた。おばさんは低い声でつぶやいた。
「ハルカちゃんを殺したのはあんただね?」
 はあ? なに言ってんだ、この人。
 俺があんなかわいい子を殺すわけがないだろう。
 俺の心の叫びなど聞こえないおばさんは、低い声で恨み言を連ねた。
「まったく、今時の若い子は調子に乗っているね。自分は何も知らずにおねんねかい。私の娘、ハルカの苦しみを思い知るがいい」
 ハルカちゃんがこのおばさんの娘かよ。嘘だろう?
 疑問を消化しきれないうちに、包丁を持ったおばさんの右手が、俺の上に振り上げられた。
「なにするんだよ! やめろ! やめてくれ」
 俺の声は届かないのか。おばさんは俺の方を見もせず、眠っている俺の体に向かって語りかける。
「あんた、飲酒運転でハルカをはねて、そのまま逃げたんでしょ? アル中なんだって? 就職に失敗して、酒飲みすぎで肝臓壊してるんだってね。それでも酒をやめられずに、飲んですぐに運転するなんて、この、常識知らずの人殺しが。どういう事情があっても、娘を殺した罪はなくなりはしないのよ。あんたがのうのうと生きているなんて、がまんできない。地獄へ行きなさい」
「待ってくれ。俺は知らない。何も憶えていないんだよ。おばさん、俺、本当に知らないんだって。俺じゃない。俺はハルカちゃんを殺してない。やめろおおお!」
 俺の腹に包丁が勢いよく振り下ろされた。パジャマはあっけなく裂け、包丁が腹に刺さった。
「死ねばいい。このずうずうしい男が」
 おばさんは包丁を引き抜くと鬼のような形相で目を剥き、息を荒げながら再び包丁を振りかざした。刺された俺の体は、最初の衝撃で一瞬目を開いたが、何度も何度も振り下ろされる凶器に、入院中で弱った体では立ち向かう元気はなく、すぐに血まみれの肉塊になってしまった。

 ああ、なぜだろう。これが現実とは思えない。天井まで飛び散る俺の赤。
 これはきっと全部夢。異世界でハルカに会ったことも、このおばさんが神様役だったことも。
 俺の体を割いたおばさんは、血まみれの包丁をその場に投げ捨てると、病室の細い窓を開けた。
「ハルカ、殺してやったよ。かたきは取ったから、今、そっちへ行くからね」
 おばさんは椅子を使って腰高の窓に登り、狭そうに窓をくぐると、ベランダのない外へ身を躍らせた。病室は五階だったと思う……


 あまりのことに、俺はしばらくの間意識を失ってしまっていたらしい。気が付くと、またしても、見覚えのない世界に風景が変化していた。
 今度は灰色の世界。動く壁はない。
 下は沼か。歩くたびに、ズブズブと足首辺りまで沈む。それでも、何かに追い立てられるように、俺は果てしない沼地をのろのろ進んでいた。
 おや、どこかから声が聞こえる。
「ナオト君」
 ハルカちゃんの声? どこから?
 言わなきゃ。俺は君を殺していないって。俺は確かにアルコール依存症で、現実では行動がおかしい時があったかもしれない。だけど、車で人をはねた記憶は全然ないんだ。俺は勘違いでハルカちゃんのお母さんに殺されてしまった可能性がある。
「ハルカちゃん、どこ?」
 ちゃんと話をしたい。ハルカちゃんのお母さんのことも話さないと。あれは夢だったと確認したい。あんな変なおばさんが、彼女の母親のわけがないだろう。
「どこにいるんだい? もう一度会いたいんだ」
 遺体ではないきれいなハルカちゃんに。
「ナオト君」
 彼女の声が聞こえる。
「どこ?」
 灰色の世界のどこにも、人は見えない。果てしなく続く沼。
 ふいに返事が来た。
「ふふ、あたしはここだよ。見つけられるかな」
 楽しそうな声音。結構近くからの声だった。
「姿を見せてくれよ。全然見えない」
「いいの?」
「ああ。もう一度会いたい」
 俺の正直な気持ちだった。
「ここだよー、ナオト君」
「えっ……」
 ハルカを確認すると、俺は悲鳴にならない悲鳴をあげていた。
「ナオト君が会いたいって言ったんでしょ。だからあたし、ちゃんと確認したのに。まあ、これからも当分一緒だからね。だって、あなた、私を殺した犯人なんだから」
 唇が震え、口がパクパクする。
「ハ……ルカ……ちゃん……俺……違う……違うんだ」
「何? 嘘つき。あたし、ちゃんと見ていたよ。ナオト君が道に倒れたあたしを放置して逃げたでしょ。ナオト君って、記憶が時々飛ぶんだってね。都合良い病気じゃん」
「知らない……んだ……」
「あたし、許さないから。さ、あたしをきれいにしてね」
 足元はいつの間にか一面の赤に染まっていた。
 赤……血液の色。
 赤い地面に俺は立っている。地面が時々ピクピクうごめく。凹凸のある地面。ところどころに、石ころのように固まった血液。

 それは、大けがをしたハルカの顔に他ならなかった。
 俺は巨大なハルカの顔の上に立っている。血まみれで腫れあがったまぶたをした彼女の目が、俺を鋭くとらえる。目だけでも一メートルぐらいあるように見え――いや、俺が小人なのかもしれない。
 これはかわいい彼女じゃない。地獄のいたずらか何か。そう思おうとしても、なぜか、これは間違いなくハルカだと、どうしても思えてしまう。
「ハルカちゃん、俺」
「だから、言ったでしょ。ここは地獄だってね。あなたはここでずっとあたしをきれいにし続けるの。もうわかったと思うけど、あなたもとっくに死んでる。ふふふ、生まれ変わらずにずっと苦しんでほしいな。あたし、跳ね飛ばされて、ほんとに痛かったんだよ」
「う……いやだ、俺は違うんだ。違う、絶対にそんなことしていない! もういやだ、こんな場所は」
 首を左右に振って大声を出しても、次のステージは現れなかった。
「あたしの顔をふいてね。あなたがこんなにしたんだから」
 どこからか現れたシーツのような大きな布が、バサリと目の前に落ちる。
「それでふいてよ」
 仕方なく、言われたとおりに、布を拾い、ハルカの痛々しい顔をなでるようにそっとふく。
「ナオト君、本当に記憶がないの? こうしていると、思い出すんじゃないかな。ナオト君ってほんとバカだねえ。あははは、自分が殺した女と何にも知らずに大真面目に話してるんだもん。おかしかったなあ。異世界のヒーローとヒロインだって。あたしと付き合うつもりだったの? ここは、あなたを苦しめるためにわざわざ用意された特別な世界だっていうのに」
 小悪魔のような言いぐさ。
「そんな……ことは……」
 何も言い返せない。下心がなかったとは言えない。
「ここは……どこだよ」
「だから、地獄。あたしのお母さんがナオト君を殺してくれたからね、こうして会えるわけ」
 彼女は、ククク、と笑い、足元の血肉がブルブル揺れる。
 あのおばさんは、やはり彼女の母親で、俺を殺した、というのか。
 断片しかない現実の記憶。
 足元の彼女に手を触れれば、ゾクッとする冷気と共に、断片的に記憶のかけらがひらめいては消えていく。
 寒い。背中の汗が冷たい。心にも氷を押し当てられているような。

 ハルカの血に触れるたび、ひとつひとつが鮮明になっていく。
 車に乗っている俺。
 助手席には手放せない酒瓶。夕暮れ時で、少し視界が悪く……。

 なんとなく耳に残るブレーキ音。
 ボコン、と鈍い音もしたかもしれない。
 でも、人にぶつかったとは思いもしなかった。
 俺は。

 俺は――。

 酒を飲んで車を運転して、彼女をひき殺してしまった……のか?
 あんなに笑顔がかわいいハルカちゃん。
 彼女を殺したのは……この俺……か?

 なんてことだろう。

 
 ここは異世界。つまり、別の言い方をすれば地獄。
 やはり、ここは地獄で間違いなかったのだ。

「俺……が悪かった……のか……ハルカちゃん……ごめん」
 足元の彼女、変わり果てた顔、激しくつぶれた頭をした彼女は、明るい声で、笑い続けていた。



      了

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