戦士ティタン 2
アッズワースは北の一大拠点だ。魔物の南下を抑える軍事拠点として大渓谷をぴたりと閉じるように建設され、内部には駐留する兵士達のみではなく、それらを支える様々な要因が営みの一部として組み込まれている。
矢張り兵士や傭兵の多く集る拠点である為、鍛冶師や歓楽街の人間が多い。次点で様々な商機を求めてやってくる商人。何せアッズワースは年がら年中防衛の為の戦力を貼り付けておかなければいけない金食い要塞、一大消費地だ。当然といえる。
それらの陰に隠れるように細々と畑作、畜産を行う生産者。食料の大半を他所から賄うアッズワースでは少数派だ。
言葉にするだけでも随分と広大な要塞都市だ。男女の別無く武装した者達がひっきりなしに行き交い、線の細い男娼や露出の多い娼婦達が幅を利かせ、鍛冶場から昇る煙が幾筋も空を汚す。
剣呑で淫靡で雑多な都市だった。雑踏に紛れながらティタンは鬱陶しそうな顔をする。記憶の中のアッズワースとは、何もかもが違いすぎる。
自分が知っているのは三百年前のアッズワースで、そして三百年もあれば人々の営みと言うのは変わる物だ。
以前のアッズワースはもっと小さかった。三百年の間に増築を繰り返し、肥大化して今の巨大さを誇るようになった。
空気も今よりは遥かに厳かだった。兵士は常に命の危険を意識し緊張を強いられ、忠実、厳格である事を求められた。ティタン達傭兵はそこいらの事情は多少緩かったが、それでも規則を何とも思わないような輩は容赦なく淘汰された。トリニトは不安要素を排除するのに躊躇う男ではなかったからだ。
戦いは過酷だったが、その分、兵士、傭兵問わず褒賞は良かったし、酒も賭博も娼館も当然の権利として許されていた。そんなティタンの記憶に残るアッズワースと比べ、この三百年後のアッズワースは何か良く解らないものの坩堝と化している。
浮浪者が増えた。言うまでも無く戦闘要塞には不必要な存在だ。戦うでもなく、商うでもない、ティタンにしてみれば何故アッズワースに居るのか皆目見当も付かない存在だ。
そしてただでさえ歓楽街を形成する人間と商人達でキナ臭いのだ。生活の安定しない者を取り込んで後ろ暗い事をするやくざ者が出てくる。彼等は通りから外れた路地裏を行き交い、忙しなく薄汚い小金と一時の快楽を追い求めている。
それを取り締まる筈の兵士は士気が低く、規律に忠実な者が余り見受けられない。また戦う者としての力を感じない。これはティタンにとって全く驚くべきことだった。
クラウグスの戦士と言えば雄叫び一つで近隣諸国の雑兵どもを震え上がらせる存在だ。昔のクラウグスの国土は広大ではあったが決して肥沃とは言い難く、また気候は人間に厳しく、魔物や邪霊など様々な危険要素に悩まされていた。それらの問題を跳ね返すために、クラウグス人は強く謹厳でなければならなかったのだ。その強さが幾度もの国難を退けた。
戦う者達は皆自らの名誉と栄光を追い求め、クラウグスと言う国家がそれを与えてくれると信じて疑わなかった。全ての同胞、全ての兄弟達を守り抜いて死ぬことこそ至高であり、信奉する王の命令とあれば如何な死地にも踏み入った。
そんな裂帛の気は、今はもう無い。兵士達はかつての実直さをアッズワースの山間にでも放り捨てて来たのか、戦う者としての誇りを失って自堕落さを隠そうともしない。
そしてその兵士達と肩を並べて戦う筈の傭兵達も、随分と間抜け面が増えていた。
「馬鹿みたいに数ばかり増えやがった」
三百年の間にアッズワースでは傭兵の扱い方が大きく変わったようだ。
以前は駐留する兵士達と比べて小数の傭兵達が招集され、正規兵とそう変わらない編成、運用が成された。
今は数えるのも億劫な程の傭兵が居る。彼等は厳格に指揮、統率されている訳ではなく、クラウグスの南部に本拠を置いているらしい傭兵ギルドのアッズワース支部で手軽に登録し、その証明となる木彫りのエンブレムを持ってアッズワースの外へと出て行く。
後は適当にゴブリンの耳でも千切りとって要塞内へと戻り、その耳を“間引き”の証として褒賞を受け取るのだ。
要塞を守ると言うより、出稼ぎにでも行くような感じだ。戦力を評価すべき立場の人間の目が無いところで戦うのだから、勇猛さや同胞を守る気高さなどではなく、数字のみが尊重される。
ここでは人間は数字になる。無数の傭兵をまともに統率しよう等と言う気は誰も持たず、数字が減ろうとも誰も気にしない。ゴブリンの耳の稼ぎ方などどうだっていいと思っているし、誰が持ってきても耳は耳なのだ。
気楽で、ふざけた話だった。だからこそティタンが出自を怪しまれることも無く潜り込めたのだが。
ティタンは今日も泥で汚れたギルドの玄関を潜る。面構えだけは一人前然とした者達が小金ほしさに受付に行列を作っている。男も女も、老いも若いも関係ない手合い達だ。
傭兵ギルドアッズワース支部は要塞正門から向かって右側の職工街を越えた場所にある。アッズワースでは鍛治師などの職人は大切にされていて、職工街は広く整備され一応兵士の巡回も多い。
比較的治安のよい区画だ。これで傭兵ギルドが無ければ誰も治安の心配をせずに済むのだろうが、とティタンはぼんやり考える。
しかしギルドを悪し様に言いつつもティタンに戦いをくれるのはギルドだ。今更クラウグスの兵士として志願したとてまともにやっていける気がしなかった。腰の骨を酒と娼婦に抜き取られたような、あんな連中とは共に戦えない。
ギルドは、まだ良い。傭兵達はここ数日観察して見当を付けたとおりの、威勢と口がでかいだけのろくでなし集団だったが、一人で戦いに行っても誰も咎めない。誰が死んだところで翌日には誰もが忘れ去る。ティタンの事だってそうやって消し去ってくれる筈だ。
「次」
「はい、次、どうぞ次」
ぼんやりと見ていると傭兵達の列は猛烈な勢いで捌けて行く。受付が行っているのは要塞を出入りするための手続きを簡略化するための通行証の貸与だが、それだって傭兵の登録情報が記された革細工をちょいと見せればぽいと渡されるいい加減な手続きだ。一応忙しく羊皮紙に記録している受付も居るが、どれ程の意味を持っているかは疑問だ。
程なくしてティタンの番が来る。年若い、とても傭兵ギルドには似つかわしくない痩身の青年は、そこまで澱みなく傭兵達を捌いていた手を止めてティタンの顔をまじまじ見た。
「ティタンさんですね、今日もお一人で?」
「言う必要が?」
青年はうーんと一つ唸って、結局許可証である木彫りの紋章を渡してくる。
「確かに、ありませんね。お気をつけて」
腕のある職人が拵えた獅子のエンブレム。手続きはいい加減だが紋章はよい出来だった。何者かが不埒な考えを起こしたとして、偽造するのは一苦労だろう。その意味があるとは思えないが。
受付を離れれば、青年はまた猛烈な勢いで行列を捌きはじめた。ティタンは掌サイズの木彫りのエンブレムを指で弾き、くるくると回転するそれを丁寧に受け止める。
握り締めた手を開けば咆哮する獅子。表だ。
よい戦いに恵まれそうだ。ティタンは一人きり、仏頂面のまま歩き出した。
――
哀れな狼の耳が、一晩飲み明かすのに十分な金になる。ティタンは学んだ。
アッズワースの北部へと踏み入り、暫く歩き続けた先の森の中に湖を見つけた。水場は誰にだって必要な物だ。人間にも、魔物にも。
そこで群れから逸れたらしいワーウルフを一匹狩った。ティタンと同じぐらいの背丈に小振りな牙と爪を持ち、妙に痩せ細っていた。
ワーウルフと言えばオーガと並んで恐怖の代名詞だ。細身ながら隆々と盛り上がった肩と腿、体毛は針金のようで生半な刃を通さず、闇の中で出会えば熟練の戦士もその牙の前に死を覚悟した。
それが随分と貧相な事になっていた
「(たまたま痩せ狼に出くわしたのか?)」
ティタンは考えたが、魔獣は寧ろ餓えている時こそ恐ろしい物だ。
自分勝手な失望だけが胸に残る。アッズワースに帰還したのは夕暮れ時だった。
「これは……ワーウルフの……。失礼ですが、お一人で……?」
「言う必要が?」
朝、ティタンの対応をした青年が驚いた顔をしている。人狼の耳は少なくとも彼にとっては希少で、手に入れるのが困難な代物のようだった。
朝と同じようにティタンが冷たく返せば、青年は唖然と首を振る。
「……いえ、ありませんね。毛皮はお持ちでは? 革鎧の素材として需要があります」
「ふぅん? そうだったのか」
これは意外な情報だ。ワーウルフの皮は加工後の劣化が激しく余り好まれては居ないというのがティタンの認識だった。
加工技術に進歩が見られる。三百年間、職人も同じ事をだけを繰り返しているわけでは無いらしい。
だがそれを抜きにしてもティタン達の時代、金の為に相手の皮も骨も奪いつくすという事は余り褒められた行いではなかった。金の為に戦うのは言い訳のしようもないが、それでも限度と言う曖昧な線引きを誰もがしていた。
傭兵達は己の討ち取った強力な魔獣の身体を使い鎧や装飾品を拵えた。それは力と誇りの証明であったが、必要充分以上を求めなかった。力を持つもの、持たぬもの、分相応の装いをしていた物だ。
戦士の姿は金では買えない物だったのだ。少なくとも昔は。
ティタンだって傭兵だ。金を卑しむ気持ちなど全く無い。だが首級を掲げて勝ち誇るのは兎も角、進んで屍骸を辱める気にはなれなかった。
「爪と牙は装飾品、毛皮は鎧、扱いは困難ですが心臓は強壮薬になります。ワーウルフは強敵ですが、余裕があれば是非お持ち帰り下さい。ギルドで厳正に査定させて頂きますので」
「厳正に、ね」
皮肉気に言うティタン。ティタンの印象として、ギルドは“厳正”と言う言葉の似合わない組織だ。少なくともこのアッズワース支部は。
ティタンの表情の意味を読み取ったか、受付の青年は困った顔を返す。
「報酬を頼む。毛皮に関しては……気が向いたら、次から考える」
「え、えぇ……。是非そうしてください。ギルドの利益にも繋がりますので……。ではこちらを」
受付カウンター積まれたのは灰色掛かった銀貨が五枚。
「五万クワンです。……残念です。毛皮と、牙もあればこの倍はお出しできます。……それでもワーウルフを相手に命を賭すには少な過ぎますが」
「くどい」
「……これは失礼を。ティタンさん、ギルドは常に優秀な人材を欲しています。今後とも宜しくお願いします」
青年は極めて丁寧に一礼してみせる。
ティタンは録に返答もせず、さっさとギルドを去った。
足元が覚束なくなるまで痩せた狼を殺して、それで優秀な戦士と言えるのか。ティタンには疑問だった。
――
金銭を得るのが簡単な世界になった。
不潔でひ弱な小鬼。人間で言うところの、少年ほどの背丈や腕力しか持たないゴブリン。そいつを五匹も仕留めれば一週間問題なく食っていける。そして他の者がどうかは知らないが、ティタンにはそれを容易に行える実力があった。
かつて強敵であった魔物達は目に見えて貧弱になっている。クラウグス歴代の王の統治によって、大陸を覆う魔の気配を薄まったせいなのか……。金を手に入れるのは簡単でも、強敵を見つけるのは難しい世界になった。
昔はよかったな、とティタンは老人のように思う。
敵も味方も強者揃い。価値のある戦士には惜しみない賞賛が、勇敢な死者にはまごう事なき名誉が与えられた。ただ生き抜くだけで困難であったが、少なくとも充実していた。
黒竜の襲来でその全てが崩れ去った。
三百年前、ティタンが嘗て生きていた時代、古の戦士達と神々によって封じられた強大な竜が蘇った。黒い鱗は如何なる刃も跳ね返し、一度飛び立てば瞬く間に山々を越え、そのブレスは岩すら溶かす。
魂までも焼き滅ぼす、地獄の最も深き谷の青き炎すら操り、黒雲と見紛う程の無数の飛竜を支配し、神々すら喰らい尽くさんとする欲望と野心を備えていた。
クラウグスは壊滅した。国土の大半は焼き払われ、比喩で無く人口は半減した。黒竜だけでなく、その襲来に浅ましくも乗じた様々な外敵。住み慣れた家屋を追われ、祖霊達の墳墓を辱められ、全ての者達は筆舌に尽くしがたい絶望に喘いだ。
ティタンの愛した女、アメデューも黒竜に殺された。蜂蜜色の髪を靡かせる後姿を今でも思い出す。勇敢で、意地っ張りで、しかし愛嬌があった。アッズワースに所属する騎士であったアメデューと共に居たくて、ティタンはそれまで所属していた赤銅の牡鹿戦士団を脱退した。それぐらい、アメデューにイカレていた。
復讐に身を投じるのは当然だった。それを成し遂げて死地を求めてみれば、何故か三百年後のアッズワースにいる。思い返してみてもさっぱり意味の解らない状況だ。
「ゴブリンの右耳……七匹分ですね。……その様子ですと、矢張り腕はお持ち頂けていないようですね」
「ふん」
ギルドの受付で唸る青年と、鼻を鳴らすティタン。ここ一ヶ月で何度も行われたやり取りだ。
ゴブリンの肘関節の骨は何をどうやったらそうなるのかティタンには全く理解できないが化粧液の材料となるらしい。げに恐ろしきは調合の神秘である。
ティタンは魔物を討伐しても証となる部位しか持ち帰らないことでギルド職員達の話題を呼んでいる。当然、良い話題ではない。
「何故そんなに頑ななんです?」
「頑な? 俺はこの哀れな耳の持ち主達を殺して来いとしか言われて無いんだ。其処から先は俺の自由だろう」
「そうですが……貴方の収入に直結する事ですよ。どうしてそこまでストイックなんです。節制の神アケロの信徒ですか貴方は」
「一応は慈愛の神パシャスの信徒だ。加護を願った事は無いがな」
ふしゃぁーと威嚇する受付の青年。肩を竦めて見せるティタン。
青年の隣では作業を終えたギルド職員が苦笑している。そのギルド職員は仕方なし、と言った風情で青年を嗜めた。
「テロン、後ろがつっかえてる。その人に難癖付けたきゃ仕事が終わってからにしろよ」
「ううん……! ティタンさん、次はどうかお願いしますよ。ギルドも結構苦しいんです」
「くどい」
「はぁ……どうぞ次の方!」
受付の青年、テロンは大きな溜息を吐いてティタンに報酬を渡した。それを受け取ると、ティタンはもうテロンに目もくれなかった。
一月ほど魔物を狩って、狩って、狩って、ティタンはやりたい事があった。今日はそれを実行する日だ。
アッズワース北西の一角は巨大な墓地になっている。アッズワースでの戦いで散った名誉ある戦死者達を埋葬するための霊地だ。当然、国家の管理下にある。
その最奥部には古びた石碑があった。ティタンの身の丈よりも大きな計七枚の慰霊碑で、其処に刻まれた名前はティタンに取って重要な意味を持っている。
三百年前の、黒竜との戦いで散ったアッズワースの戦士達の名だ。見知った名前が幾つもあり、しかしあって当然、と思われるような名が何故か載っていないこともある。混迷を極めた時期であったから仕方ないといえば仕方ない。
黒竜を討ち果たして数年後に死んだ(とされている)筈のティタンの名も何故かある。しかも石碑群中央の最も巨大な石碑、その最上部だ。ティタンにしてみれば複雑な心境であった。
そして、アメデュー・ウルの名も。
ティタンはこの三百年後の世界で、苔生し、風雨によって磨耗し、所々欠けた慰霊碑の事を常に気に掛けていた。
年月によって全ての出来事は人々から忘れ去られていく。物事は曖昧になり、其処に確かに生きていた人々の熱は失われ、何時しか古臭い神話と成り果てていく。
この慰霊碑だってそうだ。三百年前に起こった竜との戦いの事など今の時代を生きる人間達にはさして意味を持たない。御伽噺程度にしか思っていない。
誰が信じる? クラウグスの総力を以てしても打倒し得ぬ、神々すら恐れさせた黒竜。それに立ち向かう英雄と、彼の号令で冥府の壁を越えて立ち上がる青き魂達。
良くある作り話としか思わない筈だ。ティタンだって実際にその時、その場に居なければ、そこいらに転がっている誇張された英雄譚だとしか思わなかった。
「(だが、戦った。確かに俺は戦ったんだ。竜狩りケルラインの掲げる旗に従い、多くの戦士達や、青き光りを纏った英霊達と肩を並べて)」
三百年。何時しか戦士達の慰霊碑は朽ち果て、人々の記憶が風化するように刻まれた名も磨り減っていた。
この慰霊碑を修復しようと言うのは、ティタンの感傷だった。
「物好きな傭兵も居たもんだなぁ」
アッズワースの戦士達の埋葬地。霊地の慰霊碑前にて、褐色の肌の鍛治師ミガルはティタンの背中に投げ掛けた。
「一クワンの得にもならないってのに」
「それはお前の気にすることじゃない」
「へーへー御尤もで」
ミガルは控えめに言っても大女だ。ティタンも背が高いほうだが、ミガルはそれより尚高い。
でかい図体相応に、威勢も態度もでかい女だった。しかしアッズワースの職工街出身で生まれた時より様々な技術を学び、鍛造のみでなく石材等も扱える。彫金や細工もこなすと言うのだから見かけに寄らない優れた職人だ。
この一月、ティタンの剣を研いでくれた鍛治師でもある。短い付き合いだが仕事の丁寧さに関してティタンは深くこの女を信頼していた。
「まぁ三百年も前の物だ。当然だが酷く痛んでるね」
「……石碑そのものは気にしなくていい。流石に補修の許可が降りなかった」
「だろうね。周りの壁なんかは兎も角、流れ者の傭兵に慰霊碑を好き勝手させるようじゃ、アッズワースも終わりだよ」
それぞれの石碑の様子を見て回りながら溜息を吐くミガル。三百年前の慰霊碑群とその周囲を囲む石壁、供物を奉げる神々の祭壇と無残に割れた石畳。全てが風化し、土に埋もれ掛けているそこは、彼女にとっては遺跡のような物だ。
「石畳を掘り返して、崩れた柱を……壁も所々……。結構掛かるよ、時間も金も。五十万クワンじゃ流石に引き受けられないね」
「足りない分は稼いでくる。…………別に一月二月で直せとは言わない。のんびりやってくれ」
「ふーん? 言っとくが、アンタが死んじまったらそれまでだよ。受け取った金の分まではこのミガルの誇りに掛けて直すけど、払えなくなったらそこで御終いだ」
「それで良い」
ミガルは所々焦げた赤髪をかき上げる。
「それじゃ、あたしの工房に戻って詳しい話を詰めよう。……あたしも半端な仕事はしたくないからね、長生きするか、若しくはさっさと金を入れてくれ」
「遠慮の無い女だ」
「傭兵如きに一々遠慮してられるか」
堂々とした態度のミガルにティタンは思わず笑った。握り拳を作って胸を打ち、その後に手の甲を使って額を打つ。そして漸くミガルへと拳を差し出す。
ミガルはきょとんとした。
「…………なんだそりゃ。何かのまじないか?」
「……戦士の古い作法だ。知らないなら良い」
ティタンは小さな溜息を吐いて握り拳を解く。そのまま手を差し出せばミガルも同様に手を差し出してくる。
強い握力での握手。確かめるように視線を合わせ、二人は頷いた。
「何だかんだ言ったが、アンタみたいな酔狂な奴は嫌いじゃないよ」
「酔狂でやってる訳じゃない」
「へぇ?」
ティタンは石碑を振り返る。アメデュー・ウルの名に目が吸い寄せられるようだった。
――
ティタンはそれからも精力的に魔物を狩った。ティタンの、今の時代の感性に合わせて言えば古臭い考えが毛皮や爪を奪い取る事をさせなかったが、それでもティタンの手元には相応の銀貨が貯まって行った。
直ぐに話題になった。酒は嗜む程度、女も博打もやらず、只管魔物を殺して回って銀貨を数えている陰気な男。ティタンはそんな印象で、しかも常に一人であったから、当然目を付けられる。
「おい、随分稼いでるみたいだな」
ティタンの宿は二階建てで一階は食堂兼酒場になっている。昼間は普通の飯屋だが夜には酒も振舞う。
呑めば、暴れる奴も出てくる。ティタンは人相の悪い男女四人組が馴れ馴れしい笑みを浮かべて声を掛けてきた時、少しも驚きはしなかった。
「多少な」
「ギルドで見たぜ、今日も随分儲けたみたいじゃねぇか。ゴブリン四匹はまぁ良いとして……オーガのが一つ、ワーウルフに至っては三つだぁ? 幸運だったなァ! どこで見つけたんだ?!」
大仰に両腕を持ち上げて見せる男と、それに続いて囃す者達。
見つけた、と言う言葉をティタンは聞き咎めた。
「見つけた?」
「なんだよ、別に恥ずかしい事じゃねぇだろ。あのデカブツと犬ころは仲が悪いからな……。縄張り争いでもして相打ちになった奴から切り取って来たんだろ?」
「お前の目には俺の剣がただの棒切れに見えるらしいな」
ハッキリとした冷たい怒りを語気に乗せてティタンは言った。二日掛かりの狩猟。オーガは渓谷で、ワーウルフはその先の水場で仕留めた。アッズワース要塞からティタンの健脚でもかなりかかる場所で、そこまで行くと一般の傭兵達が“狩り”を行う領域からは逸脱している。
要塞周辺にはゴブリンやジャイアントバットなどが我が物顔でうろついている。飯の種には困らないから、誰も危険領域までは踏み込まない。ティタンの戦いの様子を目撃した者は居なかった。
「じゃぁ何か? お前一人でオーガとワーウルフを仕留めてきたってのかよ。……ひっひっひ! こりゃおもしれぇ!」
「楽しそうで何よりだ」
「見得の切り方が下手糞だなぁ若造! まぁ良いじゃねぇか、俺達に一杯奢ってくれりゃ、格好の付け方って奴を教えてやるぜ!」
「間に合ってる」
男を尻目に歩き去る。
鼻を鳴らしてティタンが二階に上がろうとすると銅の杯が飛んできた。頭を引くと杯は鼻面を霞めて階段の手摺へと当たり、ティタンの足元を安酒で濡らす。
少なくない飛沫が防塵マントとフードを汚した。ティタンは目を細める。
「まぁ、聞けよ、小僧。酒を注文してな」
男が凄んで見せていた。取り巻きがニタニタ笑いながらティタンの様子を伺っている。
「傭兵かと思ったら……違ったか」
そう零しながらティタンは頬に飛んだ酒の飛沫を拭い、おろおろしていた宿屋の娘を呼び付ける。長い前髪で目を隠したパッとしない娘だが、良く気の回る働き者だ。
ティタンはなるべく優しく娘に言った。
「ここで一番高い酒は幾らだ?」
「……800クワンです」
「この場に居る連中に二杯ずつ呑ませてやれ。あそこに居る傭兵の振りした乞食どもにもな。余りはお前がとっておけ。世話になってる礼だ」
ティタンは銀貨五枚を娘に押し付ける。そう大きくも無い宿だ。五万クワンあればこの場に居る全員に二杯と言わずその倍を飲ませてもまだ余る。
「こんなに貰っても」
「良い。早く準備しろ。……お前ら、俺の奢りだ! そう多くないが味わってくれ!」
事の成り行きを興味津々に見守っていた野次馬達から歓声が上がる。凄んで見せていた男の顔は赤黒く変色し、俄かに震えていた。
「ワーオ、太っ腹」
取り巻きの女がぽつりと漏らす。男は余裕を見せるように首を鳴らしながら立ち上がったが、実際に余裕があるようには到底見えなかった。
「下手に出てやったら……ちと勘違いしちまったか。……おい小僧、上手い喧嘩の売り方を知ってるじゃねぇか」
「喧嘩を売るだと? 冗談は止せよ」
ティタンは宿の娘が準備する杯の中から一つ取り上げ、高らかに掲げた後飲み干した。
仕草の全てに自信と色気がある。堂に入っていた。
「物乞いを虐めてどうするんだ」
宿に笑い声が満ちる。表に出ろ、と男が怒鳴った。
――
一対四と言うのは正直圧倒的な戦力差だ。同格の者四人が相手なら勝利する術は無い。
だがティタンはただ相手が多勢と言うだけで恐れる心算は全く無い。オーガがゴブリンを恐れないように、赤銅の牡鹿がタングルテンの大蛇を恐れないように。
戦士は、戦士でない者を恐れない。
傭兵とも呼べない、耳の数を数えることばかりに腐心する出稼ぎ作業者如きに膝を屈するのは、それこそ死んでも御免だった。
それに相手にどの程度までやる心算があるか、と言うのも疑問だ。要塞の中には当然秩序と法が存在し、それを守る為に兵士が存在する。
正直、ティタンは目の前で勝利を確信している四人組を殺してしまったとしてもちっとも後悔しないだろう。
相手はどうか? 酔った勢いで絡んださして関わり合いもない相手を殺す為に、リスクを負う覚悟があるのか。
もし「ちょっと囲んで小突いてやろう」くらいの心算なら、その傲慢のツケを払わせる必要があった。
絶対にだ。
「先に言っておくが」
ティタンは全く気負わずに切り出す。
フードの影に垣間見えるティタンの目が爛々と光り出す。異様な気配がその立ち姿にはある。
「俺はお前等が死んでしまっても良いと思ってる」
「脅し文句の勉強をしてきな、小僧」
「脅しじゃない。加減する理由が無いから、お前らは多分死ぬ。……不名誉な行いの末の死者を神々はお認めにならない。そこだけは、……まぁ、少し哀れに思う」
ティタンはそこまで言ってから気付いた。目の前の四人はそもそも傭兵とは呼べない相手だ。名誉ある戦士ではないのだ。
彼等の魂の行き着く先を気にする必要はそもそも無い。名誉も栄光も無く、冥界を治める循環の神ウルルスンによって相応の場所に導かれるだろう。
ま、良い。そう呟くティタンに、四人組は理解できない物を見るような視線を向けた。
「お前……何言ってんだ。……へ、へへ、はっはっはっはっは……。こりゃ面白いや、神官か何かか? てめぇはよ」
「神官でなくとも、魂の行き着く先は知っている。……殺す以上埋葬はしてやる。そこだけは安心していいぞ」
乾いた笑いを上げても、凄んで見せても、ティタンが返すのは淡々とした静かな殺気だ。
「俺は物乞いを虐めたりはしないが、行いの代価は支払わせる。必ずだ。容赦しない。慈悲もかけない」
四人組も流石にティタンの妖しさに気付いた。得体の知れない妖怪じみた不気味さがティタンにはあった。
ん、とティタンは唸った。おいおい嘘だろう、と言う様な気持ちだ。
四人組の顔色が目に見えて悪い。元より乏しかった卑屈な闘志がどんどんと萎んでいく。
おいおい嘘だろう。吐き捨てる様に胸中の憤りを言葉に表した。
自分は何もしちゃいない。何もだ。少しばかりこれからする事を話しただけだ。
それだけで、何故怯えて腰が引けてしまうんだ? ティタンには全く理解できなかった。
「何をビビってる。まだ何も始まっちゃいない」
「……ハッタリばかり上手いじゃねぇか。……お前のようなのがたった一人でやれる筈が無いんだ。オーガや、ワーウルフなんて、そんなのを……」
「何だと? ……まさか、それで怯えていたのか?」
ティタンは舌打ちした。大きなため息がおまけに付いていた。
「今の時代、お前等みたいなのが多過ぎる。……まともに相手をするのも面倒な白ける連中ばかりだ。矢張りお前らは傭兵じゃない。お前らは腰に剣を佩き、威勢よくゴブリンの耳を千切り取って来るが、決して名誉ある戦士とは呼べない」
ギラリ、とティタンの目が四人組を射抜く。
「失せろ物乞い。二度と俺の視界に入るな」
その言葉にリーダー格の男が暴発した。
「クソッタレが!」
走りながら剣を引き抜こうとしている。ティタンはゆらりと足を前に出す。真直ぐではなく、右斜め前に逸れるように歩き、敵の向きと距離感をずらす。
男が剣を引き抜いた時ティタンは身を沈み込ませていた。振り上げられる刃、だが、姿勢は崩れている。
ほんの少しの移動、ほんの少しの挙動、それだけで力の向きは逸れた。ティタンは頭を振ってもう一度溜息を吐きたい気分だった。
この程度の足裁きに惑わせられる力量しか持たない者が、でかい面をして管を巻き、いい気になっている。
ティタンは目を細め男の崩れた姿勢に付け込んだ。閃く刃を潜り込んでかわし、向きの揃わない男の両足を掬い上げる。
容易く転倒する男の左腕を捻り上げ無理矢理うつ伏せにする。背中を踏みつけて拘束し、少しずつ腕に力を込めた。
「どうした? お前らはこないのか?」
ティタンは残った三人を挑発するが、彼等は足が凍りついたかのように動けないで要る。
捻り上げた腕が鈍い音を立てたのはその直後だった。男は絶叫した。
「お、おあぁぁ! あがぁぁぁぁ!!」
ティタンはジッとその様子を見詰めている。フードから覗く顔には何の表情も浮かんでいない。
完全に闘志を断った。いや、闘志とも呼べない矮小な感情を。
「離せ! 腕が、肩が折れちまった! 離してくれぇぇ!」
「折っちゃいない。その気も失せた」
ティタンは男を解放した。男は力の入らない左腕にすっかり消沈してしまい、ティタンが離れた後もうつぶせのままみっともなく呻き、涙を流す。
「二度目だ、失せろ」
――
その翌日ティタンを待ち受けていたのはアッズワースの兵士達だった。
黴臭く、薄暗い部屋で取調べを受けながら、ティタンは苛立たしげな様子を隠しもしなかった。
「幾らもらったんだ? 後学の為に教えといてくれ」
「何?」
「ちょいと肩を外してやっただけだ。ゴロツキ同士のその程度の諍いに、一々首を突っ込むのは面倒な筈だ。普通ならな」
頬杖をついて吐き捨てるティタンを囲む兵士達は、一様に上品とはいえない笑みを浮かべている。
あぁやっぱりな、とティタンは零す。
「あの屑どもは見かけに寄らず我々アッズワースの精兵達への敬意と言う物を常に持っている」
精兵と言う所でティタンは吹き出しそうになった。
「アッズワースも来るところまで来たな」
「あー、おほん、話を進めよう」
「同感だね」
「お前の罪状は騒乱罪と暴行罪。幾ら傭兵同士とはいえ罪無き者に一方的に襲い掛かり怪我を負わせるなど見過ごせん」
「おいおい」
罪無き者に一方的に襲い掛かり、と来たか。ティタンは今度こそ吹き出した。
「過去を捻じ曲げるとなると偉大なる神々の御業の一端だな。こんな所に御降臨なさっているとは思いもしなかった。偉大なる神よ、名を伺っても?」
「傭兵如きに一々名乗りはしない」
頬のこけた兵士は相変わらずニヤニヤしながら話を続ける。
「ま、アッズワースでは傭兵同士の喧嘩なんて何時もの事だ。一々大事にしていたら時間が幾らあっても足りなくなる。俺としては厳重注意で済ませたいが、それには必要な物がある」
「言って見ろよ」
「お前が充分に反省し、アッズワースの法に敬意を払っているという証だ」
「それはつまりどんな物だ? 予想は付くがな」
「証明の方法は複数あるが……。まぁ俺としても解り易いほうがいいな」
凄い場所になった、アッズワースは。
高が一兵士が、神の如き尊大さで真実を捻じ曲げ、昼日中から堂々と賄賂を要求している。
かつてのアッズワース司令官トリニトがこの惨状を知れば悲鳴を上げるに違いない。あの老将の性格からして粛清の嵐が吹き荒れるだろう。
ティタンは語る価値なし、と肩を竦めた。
「悪いな。昨日も酒を奢ったんだ。毎日お前らみたいな物乞いに恵んでやってたんじゃ、とても金が足りない」
「……こいつをぶちこめ。暫くアッズワースの法を学ばせてやろう」
――
それから三日間、ティタンは雑居房の中で過ごした。アッズワースの雑居房と言うのは実に不愉快で棲み辛い場所である。まともに調査するのも馬鹿らしい軽犯罪者や、酔って暴れた傭兵を取り敢えず一晩ぶち込んでおくような場所だ。
通常なら身柄を抑えている内に調査と取調べが行われ、身の振り方を決められる物だが、ティタンは恣意的に牢に留められた。ティタンは三日間薄暗い牢の中で体が鈍らないよう、同居人達を房の隅へと追いやって入念なトレーニングに励んだ。
「なぁ傭兵さん、よく飽きねーな」
無心に腕立て伏せを続けるティタンに、隅に追いやられた犯罪者の一人、灰色の髪を一纏めにした少女が詰まらなそうに聞いてくる。
アッズワースに蔓延るスリ集団の構成員らしい。ティタンが三日前ぶちこまれた時には既に中に居て、二日目に一旦出されたと思いきや、三日目には房に逆戻りしてきた間抜けだ。
最初ティタンがトレーニングの為に空間を空けるよう要求したとき、真先に歯向かって真先に思い知らされた女でもある。今となっては寧ろ開き直っているようだった。
「牢屋にぶち込まれてまで鍛えるかよふつー」
「ジッとしてると身体は鈍る。鈍ったら、戦えない」
「汗臭ぇーんだよ。狭苦しいし、ちょっとは遠慮しろ」
「お前らだって生ゴミ臭いぞ。なにやらかしてきた」
「そ、そりゃ、その……、うるせーな! 臭ぇーのは解ってんだよ! 逃げる時にゴミ溜めに突っ込んじまったんだ!」
「ひひひ、頭からな」
灰色髪の少女の後ろから、その仲間と思しき少年が茶々を入れる。
「でも……あんたの身体凄ぇな。傭兵ってのは、鎧を脱ぐと皆そうなのか?」
感嘆したように言う灰色髪。視線は汗を滴らせるティタンの裸身をじっくりと検分している。
痩身にも見えたが全身を覆う筋肉は確かな物だ。腕や腹が動く度に皮膚の内側でのたうつ力がありありと伝わってくる。
引き絞られた弓を連想させる肉体だった。硬く、鋭く、だがしなやかで、その上にうっすらと脂が乗り、持久力を併せ持っている事が伺えた。
「さてな。今はどうだか」
「あん?」
「昔はな、戦う者なら鍛えるのが当たり前だった。……ここの牢番の腹を見たか? とても兵士とは言えない体付きだ。まるで酒樽に枯れ木を突き刺して手足と言い張るような」
「あー、そうだな、アイツは確かにダサいや。……あんた、ティタンって言うんだろ?」
「そうだ。馴れ馴れしく名前を呼ぶお前は?」
ティタンは腕立て伏せを終えて床に腰を落ち着けた。埃っぽくなった手を打ち合わせて塵を払い、肌着を拾い上げる。
灰色髪は幾分か目を光らせながら名乗る。
「あたしはオーメルキン。あんたの事は少し知ってるよ。強いんだってね」
「そうだな、まぁそうなんだろう」
オーメルキンは口笛を吹いた。何の気負いも無く答えるティタンに何を感じたのか、口元を綻ばしている。
「まぁそりゃ、ティタンって名前で弱かったら目も当てられないもんな」
「迷惑な話だ。誰も彼もティタンと言う名前に幻想を見ている」
「……へへ、嫌いなの? 自分の名前」
「良いとも悪いとも思った事は無い。俺はティタン、それだけだ」
「なんだ、格好つけちゃって。ねね、ワーウルフを一人で何匹も狩ってるって……」
「貧相な痩せ狼なら何匹か銀貨に換わってもらった。お前も耳の数を信用しないクチか?」
「そんなこと無いよ。でも凄いじゃん、一対一でワーウルフに勝てる傭兵なんて、簡単にはお目にかかれないんだぜ?」
オーメルキンのティタンへ向ける視線は真直ぐだった。アッズワースの小悪党が、英雄を見るような目でティタンを見ている。ティタンは何故か可笑しくなった。
「俺を煽てて何をさせようと?」
「まさか! そんな事考えてないって! たださ」
「ただ、なんだ」
「いやぁ……強いってさ、どういう気分かなって……」
オーメルキンは誤魔化すように笑いながら言った。
暫し、沈黙をもって向かい合う。誤魔化し笑いと共に放たれた言葉だったが、窺い知れぬ何かがある。
ティタンは鼻を鳴らす。
「成ってみれば解る。名誉と栄光を得ると共に、自分の馬鹿さ加減と、人間の下らない部分がより多く見えてくる。少なくともこうして牢にぶち込まれてる限りは良い気分じゃないな。詰まりそういうことだ」
「……へぇ、よくわかんねー」
「お前はまだ若そうだな。気になるなら鍛えてみればいい。お前に戦いの才能があるかどうかは知らないが、戦う心を持たない者に強さは宿らない」
言葉は皮肉気だったが、ティタンの視線は真剣そのものだった。その今にも燃え出しそうな黒い瞳に気圧され、オーメルキンは怯んだ。
唾を飲み込むオーメルキン。ティタンはその様子を見て、わざとらしく視線を逸らし、肩を竦める。
「ティタンさんよー、あんた何でこんな所に? あんたには似合わないよ」
「……兵士の振りした物乞いに、俺は貧乏だから何も恵んでやれないと言ったのさ。世の中正直者は馬鹿を見るようだな」
一拍間をおいた後、オーメルキンはその言葉の意味を正確に把握したのかケタケタ笑いだす。
ティタンは構わず、今度は腹筋を開始した。何時しか笑い声も消え、ティタンの僅かな息遣いのみが聞こえる。
暫くその静けさが保たれたかと思うと遠方から酷く焦った男の声がした。次いで厳しい語調の女の声。それらは石壁の通路に反響していやに響く。
声はどんどん近付いてくる。騒がしい足音を立てて現れたのは、異様な集団だった。
まずは兵士。ティタンをここにぶち込んだ頬のこけた男。それの上司と思しき女騎士。気の強そうな釣り目が印象的だ。
そして灰色のローブですっぽりと身を包んだ五人組。先頭の物は漆黒のローブだ。胸元に光る、涙の形をした聖印とローブに縫いこまれた若木の刺繍は、その五人が慈愛の女神パシャスの信徒であることを示している。
ティタンは一度ちらりとその集団を横目で見遣り、腹筋を続行した。女騎士がティタンに呼びかける。
「失礼、貴公がティタンだな? 貴公に会いたいという方々がいらっしゃっている」
「そうか」
ティタンは汗を滴らせながら腹筋を続ける。敬意を払われるべき聖職者を前にこの態度。女騎士は唖然とし、次いで咎めようとしたが、パシャスの信徒達の中でも筆頭格であるらしい一人がそれを静止した
一歩進み出て、跪く。とても一介の傭兵に必要とは思えない丁寧な礼である。
「お待たせ致しました、ティタン様。長らくお迎えに上がれず不自由を強いてしまい、真に申し訳ありません」
続くように他の信徒達も膝を着く。突然傭兵に、しかも牢に入れられた犯罪者を相手に最敬礼を行うパシャスの信徒達に、女騎士はまたもや唖然とする。
フードの下から放たれた声は女の物だった。ティタンは思わずトレーニングを中断してまじまじと筆頭格の信徒を見詰める。
酷く似ていたからだ。己の愛した女の声に……
……アメデューの声に。
「さぁ、参りましょう。我等が案内いたします。今後は我等がお傍に仕え、如何なる事柄に関しても我等がお守りし、お助けします」
「……人違いだ。他をあたれ」
ティタンは漸くそれだけ捻り出した。自分は確かにパシャスの信徒だが、決して熱心な、ましてや敬虔な信徒とは言い難い。
神々に対する一定の敬意はあれど、決められたパシャスの祭日に適度な供物と祈りを奉げる程度だ。
この五人は装いから見てパシャスの信徒の中でも高位の者達。そのような者達からここまで丁重な扱いをされる謂れは無い。
「いえ、我等パシャスの僕はこの一ヶ月の間クラウグス全土に散らばって貴方様を探し続けておりました。そして漸くこのアッズワースで」
「お前、何を知ってる?」
一月と少々。ティタンがこの三百年後の世界に現れてから過ごした日数だ。
ここまで言われれば馬鹿でも解る。この女はティタンがこんな惨めな気持ちでいる原因を知っているのだ。ただ当所なく戦いを求め、昔は良かったなどと老人のような愚痴を漏らし、名誉も栄光も無く生き続ける事になった原因を。
「敵に踊りかかる姿。血を浴び、熱を持って震える肉体。貴方様の戦う姿は北の氷海を越えて吹き付ける烈風より鋭く激しい。そしてその姿は永遠の神話だと言う事を」
「如何にも神官の好みそうな大仰な台詞だ。要点だけを言え。お前は、俺の、何を知ってると聞いたんだ。俺が他の者のようにお前達に敬意を払うと思うなよ」
「……貴方の戦う姿とその使命です。ティタン様、まずは我等を信じてくださいませ。我等の神の祭壇で、ティタン様の全ての問いに答える事をお約束します」
ティタンはフードの女を睨み付けた。こうした取り繕った要点を得ない話をする人間がティタンは好きではない。
しかし知りたくない訳が無い。自分がここにいる理由を。
結局ティタンは頷いた。当然の選択だ。
「良いだろう、ここから出せ」
オーメルキンの何が何だか解らないと言う様な間の抜けた表情が印象的だった。ティタンは手の甲で汗を拭い、狼のような瞳で周囲を睨み付けた。