銭湯妖精ユキちゃん
風呂は、風呂である
――――二十歳の大学生、深井[シイ]零[レイ]が彼女と出会ったのは、バイトに採用された都内の古びた銭湯だった。
――なにをしているんだろうか……
番台の狭い座席に座りながらうすらぼんやりとそんなことを深井は思う。
見渡す脱衣場は、昭和のポスターや年代物のマッサージ機が鎮座している。今時有り得ないほどレトロなある種の「遺跡」と呼ぶべき銭湯、それが笛有湯[フエアリユ]だ。
――なにをしているのだろう。
彼女、銭湯笛有湯の支配人代理である少女、明部[メイブ]雪[ユキ]のまだあどけない、しかし表情に乏しい顔を思い浮かべる。
名のごとく白雪のような肌に対を成す美しい黒髪が背中を覆うように伸びている。細い輪郭には、大きく開かれた愛らしく濡れる双眼、優雅な鼻梁が乗っている。
少女特有の細い骨格と伸びる四肢は、彼女に儚く消える雪の結晶の印象を与えた。
彼女は祖父の跡を次ぎ、この銭湯で三助をしている。
――三助なんだよなぁ。
三助[サンスケ]、銭湯など浴場で利用客の背中を流すサービスを担当する、今ではほぼ絶滅した職業だ。彼女の亡くなった祖父は笛有湯の名物三助だった。彼女は祖父の跡を継いで恐らくは日本で唯一の少女の三助として働いている。
――……だからって男湯に女の子が入るのマズくないか?
深井は浴場へ背中を流しにいくユキの姿を脳内に再生する。
邪魔にならないよう束ねた髪、なぜか白いスクール水着、滑り止めのついたブーツ。
白いスクール水着ははっきり言って似合っていた。水着にブーツをはいているのはなにかアブノーマルというかインモラルな感じがする。
仕事をするために浴場へ入る彼女の横顔は普段の感情を見せない無表情のままだった。
しかし、その眼には確実に「闘志の炎」としか表現できない光が宿っている。
少女一人を裸体の男どもがひしめく浴場へ行かせるには気が引けた。思わず何か手伝おうかと声をかける深井に、ユキは視線さえ合わさずに告げる。
「……いらない。深井さんは番台に座ってて」
その声はあまりに感情が無く、まるで、
「……それから、中で私が何をやっているか覗かないで下さい」
まるで、空気ではなく、氷を震わせて伝わるような声だった。
――そうは言ってもなぁ。
なかなか悶々となる。あまりに状況がアレすぎる。下手したら警察呼ばれるんじゃないかと深井は心配になってきた。
現在男湯の客層は中年が多い。というか中年しかいない。脂ぎったオヤジに好奇の視線で見られるユキを想像すると、正直
――グッとくる、じゃない、むっとなる。
「よお、深井、なにイライラしてんだ?」
響く陽気な声に深井はハッと首を上げた。
金髪の白人、三十男が立っていた。
「……ブッカーさん」
この男はブッカー。日本の風呂文化研究のため来日し、研究が高じて笛有湯の釜番になってしまった男だ。いわゆるたまにいるオモシロ外国人というヤツである。
「いや、あのユキちゃん大丈夫なんですか? 一人で男湯なんて……」
豪快にブッカーが笑い飛ばす。
「心配いらないよ、ユキちゃんは年は若いけど、お客さんからは大人気なんだぜ?」
「いやそうかもしれませんけど……なんか俺嫌われてるみたいで、手伝おうかと聞いても断られるし、仕事を覗くなって言われるし……」
深井の言葉にフムン、と嘆息しつつ顎髭を撫でるブッカー。
「そんなにいうなら、一つ見てみるか? ユキちゃんの仕事ぶりを」
「……え?」
「……本当にいいんですか?」
「……今更迷うなら最初からついてくるなよ」
男湯の入り口を細くあけ男二人で覗きこむ。男が男湯を覗くという究極のアホな行為に虚しさを覚えつつ、深井は浴場を見ようと目をこらした。
――これは……ッ!
思わず、声が漏れそうになる。
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ
湯気の幕が張る浴場を、巨大な音が反響していた。
その音は、壁ぎわについた装置から聞こえていた。
シャワー台に、ケロヨンと書かれた椅子に腰掛ける、中年男たちの背中がズラリ並んでいる。裸の背には生きた年月分のシミや黒子がしっかと刻まれていた。早い話が小汚かった。
男の背中で両側の壁を造られた浴場中央に出来た『道』
そこに雄々しく立つ、しかしあどけない雪の女王――明部 雪――がいる。
――な……なんだ?
彼女の携えている物は細長い金属製のパイプだ。長さは1、3メートルほど、それに銃のような横に伸びた持ち手がついている。持ち手にはトリガーもついており、どうやら「撃つ」ような使い方をする物らしい。一番後ろ、背中に回した部分からは、長細いホースが伸びていた。ホースは先ほどの異音を奏でる機械に直結されている。
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ
最初、深井にはそれが何かわからなかった。およそ浴場で使う物ではないからだ。
しかしこの異音が、それが何かを深井に思い出させる。
――ウォータージェット!?
ウォータージェット、コンプレッサーなどの機関により水を高圧で打ち出す機械だ。
本来は車の洗浄など汚れを文字通り「吹き飛ばす」ための道具であり、その高出力は人を洗うために使うのは言語道断の代物だ。
「……洗浄を開始します」
ユキが小さく呟く、しかしその声は轟音が走る浴場に確かに響いた。
右のシャワー台、一番端の客へ近づく。カチリと引かれるトリガー、下へ向けたウォータージェット、床へ撃ち当たる高圧の水が蒸気を振り払っていく。
「……あの、あれはウォータージェットですよね? それに出ているのはお湯じゃなくて……」
コクリとブッカーが頷く。
「ああ、水だ。そのほうがいいとお客さんたちが言ってきてな。事実ウケは最高だ」
なぜか爽やかな笑顔で語るブッカー。
「……shot」
客の背中目掛け構えられるウォータージェット、無慈悲に引かれるトリガー、槍の如き水流がしなびた背を撃つ。
「……うごおおぉぉええぉッッ!!」
うめきながらこらえる客、しかしその顔には陶酔が見える。
「……wash」
存分に背を撃ってウォータージェットが停止、即座にユキは背負ったデッキブラシに持ち替えた。
浴場のライトにデッキブラシのブラシ部がきらめく、明らかな金属繊維だ。
「……set」
ブーツで客の肩を踏みつけ、固定。「あふんっ」という声を漏らす客。
「……fire」
もはやゴリゴリとした音を立て研磨される背中の肉。ユキの額にうっすらと汗が浮かぶ。
「……ッ! ッッッ!!!」
声にさえならない叫びを上げる客、しかしその顔は陶酔のままだ。
「……complete」
彼女が洗浄を終えた時、客はシャワー台に突っ伏し意識を失っていた。
「……next enemy」
だが周りの客達は一切引いた様子はない、羨望と憧れの熱い視線を、突っ伏した客と氷風の女王へと向けていた。
「……なんなんですかこりゃ!?」
思わず声が出る。当たり前だ。
「さてどこから話すかな……彼女の祖父が三助だったのは知っているな?」
「はい、それは聞いてますが……」
そしてブッカーは話しだすなぜユキはあんな三助になったかを。
「ユキちゃんはおじいちゃんが好きだった。だからおじいちゃんの三助を継いだんだ。でもな、ユキちゃんはおじいちゃんの仕事を見たことがなかった」
「それじゃ……」
「そう、三助の仕事を教える人間がいなかったのさ。継ぐことを決心したのはおじいちゃんが亡くなったあとだからね」
ブッカーの青い瞳には、深い悲しみが宿っていた。
「だから彼女は手探りから三助をはじめたんだ。だが彼女は本当に何も知らず、力も弱かったから、よく洗えるように金属ブラシでお客さんをあらったんだ」
「……えっ、そんなことしたら」
「当然お客さんは怒る、はずだった」
「はっ?」
「だがお客さんはめちゃくちゃ喜んだ。そのお客さんは『女子中学生に冷たい眼で、足蹴にされながら粗末な扱いを受けたい』という性癖の持ち主だったんだ……」
「えっ? えっ? ちょっ」
察しの悪い深井でも今までの情報から事実が繋がっていく。
「今では噂が広まって、そのお客さんと同じ同行の志がユキちゃんの三助目当てに通い詰めているわけさ。ウォータージェットも踏みつけも全部お客さんの要望だ」
「……ユキちゃんは事情わかってるんですか?」
爽やかな笑顔で、ブッカーは首を振った。
「彼女は自分の仕事が三助として純粋に認められていると思っている。彼女は感情表現が苦手だけど、あんなに一生懸命にやってるじゃないか」
事実、彼女の働きぶりは見事だ。舞うように撃ち、飛ぶように洗う。血風をまとい、悲鳴を踏みしめる。その動きはまさに天翔る妖精、風の女王、明部 雪。
「……綺麗だ、ひっ!」
ぼうと見とれていた深井、しかし悲鳴が上がる。ユキと目が合った。
「やばい、見つかった!」
急いで番台へ戻る。ブッカーも釜番へ走って行った。
ドMの客達が帰ったあと、一番最後にユキは出てきた。
「……見ましたね?」
玉の汗も吹かず、氷の視線を突き刺すように深井にむけ、吹雪のような言葉で尋ねる。もはやあらゆる感情の熱を感じない。
「い、いや、そのそれは……」
圧倒されている。二十歳の大人が十五の少女にただ、圧倒されていた。
「……なぜ覗いたんですか?」
深井はもはや、彼女に従うしかない。
「いや、そのユキちゃんの働きぶり見てみたかったし、それに……」
思った事実を言う、それしか無いと深井は思った。
「三助やってるユキちゃん、すごく綺麗だったよ」
しばしの沈黙、ユキは言葉を喋らなくなる。
――こりゃまずったかな?
なんらかの地雷を踏んだのかと顔が青くなる深井、しかし、
――えっ?
彼女、ユキの肌が、耳まで真っ赤になっているのが目に入る。彼女の右手に握られいるのは、小さな円柱状の金属、親指の部分にはスイッチらしき赤い丸。
「……深井さんのバカッ!」
カチリとスイッチが押される。同時に深井の座る番台の座席から煙と爆音が出る。
「うおおおおおおっ!!?」
深井を乗せ、高速射出される番台の座席。やがて深井の頭は天井に突き刺さり、
――なに、この機能……?
そのまま意識を失った。
「彼女は一生懸命やってる所を親しい人に見られるのがとても恥ずかしいんだよ」と、三時間の気絶から目覚めた深井に、ブッカーはそう告げた。
はい、お読み下さりありがとうございます。
断っておくと自分は神林長平ファンです。ホントだよ? フルフル僕悪いファンじゃないよう。
好評だったら調子に乗って連載も考えています。
……んなわけないだろ常識的に考えて