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安楽死法

作者:朝樹


 安楽死法

 2040年。約十年以上の年月をかけて国会を通った法案である。
 内容としては事故などで植物状態(脳死含む)となった患者の生命維持装置を停止させることや、余命一年を切った癌などの患者が痛みなどのため本人の希望で安楽死を望む場合に、医師が心停止を起こす薬剤の投与を許可するものであった。
 これには年々増加する一方の医療費の増大を抑える効果も期待されていた。事実この法案の可決により回復の見込みのない植物状態の患者等は家族の同意の元、人工呼吸器を外すという選択ができるようになったため医療費は減額の気配が見え始めた。
 それと同時に各家庭のレベルで『万が一のときどうするか』と言う会話もなされるようになっただけでも法律の意義があったのかもしれない。



 そして、数年。

 確かに右肩上がりだった医療費は減少傾向を見せ、法案を半ば力技で通した与党はその支持率を上げて向かうところ敵なしの様相だった。

 しかし当初は極めて限定的な適応が提示されていた安楽死法であるが、医療費の減少に思った以上の効果があり、このため少しずつ異なる様相を呈し始めた。


 安楽死の適応が拡大されていったのである。











「お祖父さん、いつまでそこで立ってるんですか? もうポチが先に帰って来てしまいましたよ」

 お祖母さんが玄関を開けると、そこに新聞と何通かの封筒を持ったお祖父さんが、ポチの散歩に行く準備をしたまま立ちつくしていた。

「……ああ、来たんですね」

 その姿を見てお祖父さんが手に持ったまま立ちつくしている理由に見当をつける。

 あれが来たのだ。


 安楽死許可通知が。







 お祖母さんが患っているのはその病気だけで死ぬようなものではなかった。
 しかし一月に一度、数日入院して百万単位の薬剤の点滴を受けなければならない病気だった。
 難病に指定されており、金銭的な負担は大きくは無かったが、その点滴の後は一週間程度は家事もできず横になって過ごし、動けるようになっても少し歩いては坐り込むような生活をもう二十年近くしている。

 この安楽死法が治療の見込みのない難病にも適応されるようになったのはいつからだっただろうか。

 そして、診断から十年、二十年の節目に許可通知が送られてくるようになったのは。



「お役所も親切になりましたね、こうやって知らせてくれるようになるなんて」

 そう言ってお祖母さんはお祖父さんが持っている封筒の中から一通の封筒を取り出す。
 それに反応するようにお祖父さんは振り返ってその封筒を取り返す。

「またそうやって十年前のように燃やしてしまうんですか?」
「当たり前だ!」

 お祖父さんはそう言って封筒を握り込む。

 くしゃ、と軽い音がして封筒はお祖父さんの手の中で固まりになった。

「くぅ――ん」
「ほら、そんな怖い顔をしているからポチまで心配して」

 お祖父さんが下を向くと、さっき散歩に行こうと連れ出したポチが不安そうに見上げていた。
 どうやらいつまで待っても動かないお祖父さんを置いて一人(一匹)で散歩を済ませてきたらしい。
 お祖父さんはそんなポチの頭を一撫ですると玄関を開けて家に入る。


「これの事は忘れろ。親族のサインは絶対にしない」





「頑固なお祖父さんねぇポチ」

 その後ろ姿を見ながらため息をつくお祖母さん。
 十年前はお祖母さんが知らないうちに許可証は焼き捨てられていたのだ。

 お祖母さんも、死にたいと思う訳ではない。
 でも、毎月毎月百万以上のお金をかけて生きている意味があるのか分からなかった。

「さ、家に入りましょうポチ。暑いでしょう?」

 お祖母さんたちの家は山の側の田舎だった。
 周囲は田圃やビニールハウスが多く立ち、息子の一人もここで大規模農業に従事している。
 そのため、この盛夏にあって蝉の声が耳鳴りのように響く。
 暑くならないうちにと散歩に出たはずなのに、既に太陽は濃い影を作っている。

「もう、十分生きたと思うけどねぇ」

 そう言うお祖母さんの手を、ポチが切なそうに舐めた。




 それから数日が経ったが、お祖父さんの機嫌は一向に治らない。
 通知書の話も出てこなかった。

 あと数日でお祖母さんの受診日である。
 本来なら入院して、いつもの高額な薬を点滴してもらう日だ。
 しかしお祖母さんは今回の点滴をしてもらうかどうかも悩んでいた。
 通知書が来た事を主治医に話し、今後どうするかを相談したかった。

 もう、十分頑張ったと思うのだ。
 何よりお祖父さんや子供たちの負担にはなりたくないと思っていた。
 今回を逃せば次はまた十年後。
 介護が必要な年になってくるだろう。
 お祖母さんはそれが何より心配だった。

 今だって一月のうち三分の一は家事も出来ずにいる。
 息子たちのお嫁さんに手を借りる事もある。
 そのとき持ってきてくれる野菜が、そのまま置いておかれ萎れて行くこともある。
 そんな時お祖母さんは、自分もこんなふうに萎れてしまう前に。
 そう思ってしまうのだ。



「お祖父さん。私来週病院の日なんですよ」

 そう声をかけても顔も上げないお祖父さん。
 お祖母さんはため息をついた。
 頑固なのは昔からだった。

 ため息をついて夕食をテーブルに並べる。
 今日は息子の一人が自分の畑でできた夏野菜を沢山持って来てくれたので、(いろどり)豊かな綺麗な食卓だ。
 お祖父さんは小さく「いただきます」と呟くように言うと箸を持った。



 茄子とピーマンの揚げ浸しを口の中に入れる。
 茄子はきれいな紫色でこんがりした焼き目が食欲をそそる。
 甘ったるい味付けが嫌いなお祖父さんのために、市販のつゆを使わずに濃い目のだしから作ったお祖母さん特製のつけ汁が口の中いっぱいに広がる。

 お祖父さんは何度、こんなおいしいものを食べたことが無いと思ったことだろう。

 強めにしょうがの味が効いているのは、お祖父さんの血圧の関係で塩分を制限しているためだ。
 お祖母さん以外の作った減塩食は、まずくて食べられないと思った。

 茹でたオクラと豚肉は梅肉で味付けしてある。
 さっぱりとしていて食欲の落ちる夏でも平気で食べられる。
 そしてやっぱりこの梅肉も塩分制限の意味もあるのだろう。

 それとトマトのサラダ。味噌汁。
 きゅうりの浅漬けは紫蘇であえてある。



 こんなに自分のことを考えてくれる人はいない。
 お祖父さんは自分の手の届かない所へ行きたがるお祖母さんを、何と言って説得しようか必死で考えていた。

 しかし、それと同時にお祖父さん自身も感じてはいたのだ。
 お祖母さんが、病気を抱えて生きる事を辛いと思っていることを。

 今日のように息子たちが野菜を持って来てくれる事は珍しくない。
 来るたびに持ってきてくれると言っても良いくらいだ。
 ただ、お祖母さんが起きられない時に持って来ると、お祖父さんはつい野菜を冷蔵庫に入れるのを忘れたりすることがあり、お祖母さんが萎れた野菜を見て悲しい顔をしているのを何度も見た。

 孫が遊びに来て、外へ行こうとねだるのに連れて行ってやれなかったと小さく呟くのも聞いた。
 息子の嫁が風邪をひいて、孫の世話ができないか相談されたのは点滴の日の直後だった。

 点滴をしてきた後、きつそうに横になって眠ることも出来ず寝返りばかりうつ夜も一緒に過ごした。


 でもお祖父さんも頑張ったのだ。
 料理を覚え、洗濯も覚えた。
 初めは食べられたものではなかったが、お祖母さんに習いながら簡単な物は一通り作れるようにはなった。
 掃除はしなくても死にはしないと思っていたら、お祖母さんが重い身体を引きずって掃除機をかけていたので慌ててするようになった。
 自分は気にならなくとも、お祖母さんは気になるのだと言うことが多すぎると思ったが、同時にそれだけいつもこの家を守ることに心を砕いてくれているお祖母さんに何とお礼を言っていいか分からなかった。

 お祖父さんは、どうすることが一番いいのかもう分からなかった。
 いっそ声をあげて泣きたいと思った。





「く――ん」
 お祖父さんの足元にポチがすり寄る。

「ん?どうしたポチ。メシが足りんかったか?」
「いつも通りの量だったですけどねぇ。ポチおいで」

 そう言ってお祖母さんは豚肉をつまんでポチに差し出す。
「くぅ――ん」
 ぱくり。
 一口で食べると、またお祖父さんの所に戻り足元にすり寄る。

「今日はどうしたんだポチ?」
「く――ん」

 様子のおかしいポチに、お祖父さんは箸を置いてポチを抱き上げる。
 抱き上げると言っても柴犬よりも大きなポチだ。前足を膝に上げてやる位が精一杯だ。

「く――ん」

 それでもポチは満足したのかお祖父さんの顔をせっせと舐める。

「これ、やめんかポチ」

 ある程度なめて満足したのか、今度はお祖母さんの所へ行って同じことを繰り返した。

「今日はどうしたんでしょうねぇポチ」

 お祖母さんもポチを撫でながら、いつにない行動をするポチを見る。


「あら。ポチあなた首輪をどうしたの?」
「してないのか?」
「ええ、してないですね…… ポチ、ダメじゃないの。あなたは一人で出て行くことが多いのに」
「……困ったな。とりあえず今晩は少し苦しいかもしれんが、昔の小さくなった首輪でもしておくか。……入ればだが」
「もう入りませんよ。私のネックレスの中で丈夫そうなチェーンの物をつけておきましょう。連絡先が分かるものをつけておけばいいのですし」

 そう言いながらお祖母さんはポチを撫でる。
 撫でながら、ふかふかのポチの毛皮がいつもよりざらついている事に気が付いた。

「ポチ?あなた今日はどこを散歩してきたの?」

 ポチは雑種だが頭のいい犬だった。
 後ろ足で立ちあがり自分で窓の鍵を外し自力で散歩に出る事が趣味だった。
 お祖母さんはこれには困ったが、ポチの首輪に連絡先を記入し、窓の鍵はガムテープで固定するなどの対策をしたがそれでもいつの間にかポチは一人で散歩に出ていた。
 今日のように、一人で自分のテリトリーの見回りに行くことは珍しいことではなかった。

「お祖父さん、ご飯が終わったらポチを洗ってくれますか」
「分かった。ポチ、ホントに今日はどうしたんだ?」

 ポチを散歩に連れて行かなかったのは確かだった。
 お祖父さんは、お祖母さんの通知書のことで他の事まで考える事が出来なかった。
 なのでポチは自力で散歩に出かけたのだろう。


 ピンポーン


 突然、玄関の呼び鈴が鳴った。
 もう夕食も終わろうかと言う時間である。

「俺が出よう」

 そう言ってお祖父さんが席を立った。

「何だか今日は変な日ですねぇ……」
 お祖母さんは自分の分の食器を片づけながら、今日何度目かのため息をついた。





「警察?」

 玄関に出たお祖父さんは、ドアの外にいるのが制服を着た警官であることに不思議に思った。

「すみません、望月さんのお宅でよろしかったでしょうか?」
 若そうな警官はにこにこと笑顔でそう言った。
「そうです」
 お祖父さんが若干「こんな時間になんだ」と不機嫌に応じる。

「ポチ君の飼い主さんですよね?」
 警官が笑顔を深くしながらもう一度聞いてきた。
「そうですが……」

 お祖父さんは今日ポチが首輪を失くしてきたことを思い出す。
 何か人様に迷惑でもかけたのか心配になる。

「あのっ ありがとうございます!うちの子が今日ポチ君に助けてもらって!」

 お祖父さんが警官に返事をした途端、警官の後ろにいた若い女性が一歳か二歳の子供を抱いて叫ぶように出てきた。

「ポチが…… 助けた?」


 その女性の話では、今日の昼過ぎに一人で散歩に出たポチは近所にある川辺の道を歩いていたらしい。
 そこはいつもの散歩コースなのでそれに不思議は無い。
 ところが、今日は上流の方でゲリラ豪雨の様な雨が降り川が増水していた。
 それでもこの暑さである。女性は増水していると言っても大人ならば足首の上くらいの水量に子供を連れて川に水遊びに降りた。
 しかしその急な水流に、子供が足を取られたのだ。








 元々ポチは捨て犬だった。
 それをお祖母さんが拾って来たのだ。

「私は病気があって、時々いなくなるけどいいかしら?」

 そう言ってお祖母さんは、痩せこけて泥まみれの仔犬を抱き上げた。
 その時からポチはこの家の家族となった。


 ポチはお祖父さんとお祖母さんが大好きだった。
 お祖父さんとお祖母さんが守る群れ(かぞく)も大好きだった。
 時々、子供が耳や尻尾を引っ張るが、群れの子供はみんなで守るものだと思っていた。
 その群れの子供と一緒にいるお祖父さんやお祖母さんが大好きだった。


 その子供を見つけたのは偶然だった。

 雨の匂いがしたので、今日はテリトリーの見回り(さんぽ)を早めに済ませてしまおうと、いつもより早く家を出たポチは川の中から子供の匂いがすることに気が付いた。
 人間の100万倍~1億倍とも言われるその嗅覚は、確実に子供の居場所を嗅ぎあてた。
 自分の群れの子供ではない。
 でもきっと、お祖父さんやお祖母さんのように誰かに大事にされているだろう子供。

 ポチは、時々お祖父さんが連れて行ってくれる河原に降りる階段に向かって走った。
 そして増水した川に飛び込んだのだ。

 川の中ばまでは浅いこの川は、中央付近が急に深くなっている。
 子供はそこを流されていた。
 ポチは器用に子供の服を口で掴むとそのまま向かい側の岸まで引っ張って泳いだ。
 途中、耳を掴まれ頭を振ってしまい、子供を落としそうになったりしたが、何とか向こう岸まで泳ぎ着いた。
 この時、落されまいと必死だった子供が首輪を掴んでおり、離れるためには首輪を抜くしかなかった。

 いつもはモフモフしているポチの毛皮は川の水でぺしゃんこだ。なので首輪はするっと抜けた。

「く――ん」

 この首輪はお祖母さんがつけてくれたポチの宝物だった。
 だけどポチは子供の頬を一舐めすると、そのまま家に向かった。
 子供とよく似た匂いの主がこっちに向かってきていることも分かっていた。
 なので予定より帰る時間が遅くなってしまった方が気になり急いで家に向かった。
 ポチにとってはおぼれた子供より、宝物の首輪より、ここ数日の様子のおかしいお祖父さんとお祖母さんの方が気になったのだ。







「子供が、ポチ君の首輪をしっかり握っていて……連絡先が書いてあったので」

 そう言って女性がポチの首輪を差し出す。
 確かに朝までポチがつけていた首輪だ。

「ワン」

 首輪が帰って来たのを喜ぶように、いつの間にか隣に来たポチが鳴いた。

「ポチお前…… いつの間にそんなことを?」
「く――ん」

 そんなことを聞かれても困るとでも言うように、ちょっと首をかしげるポチ。

「それで、ポチ君には警察から表彰状を出そうと言う話になっておりまして」
「ポチに…… 表彰状?」
「はい。人命救助の英雄ですから」

 そう言ってまた警官はにこにこと笑った。

「それと、本人の希望を聞いて賞品も」
「本人の希望……ですか?」

 お祖父さんにはもう何が何だか分からない。
 ポチに本人の希望を聞くとはどういうことか。

「ご存じありませんかね、今結構流行っているんですよ。犬の考えていることを翻訳してくれる装置。犬って賢いんですよ、特に室内で飼われているのならこっちの言うことは理解していると思いますし」

 そう言って警官はポケットから卵大の器械を取り出す。

「昔、バウリンガルとか言って発売されていたんですが、最近劇的に精度が上がったので採用されたんですよ。警察にも犬は多いので」

 そう言って警官は首輪にその器械を取りつけポチにつける。

「ポチ君。今日子供を助けてくれてありがとう。君の望みをひとつ叶えてあげられるんだけど何が良いかな?」

 何を言っているんだこの警官は。
 お祖父さんはそう思ういながらも、ポチの気持ちがもし聞けるのならば聞いてみたいと思い警官を止めなかった。

 ポチはまた少し考えるように首をかしげる。

「ポチ君は何が好きかな?」


『……お祖父さんとお祖母さんが好き。……ダイスキ』


 警官は少し困ったように笑った。
 お祖父さんはただ驚くばかりだ。

「他に好きな物は?」

『お祖父さんとお祖母さんが好き。……でも…… 笑わなくなった。悲しい……』

 警官はお祖父さんの方を向いた。

「何か事情が?」
「……ええ、まあ」
 お祖母さんの安楽死許可通知のことなど言えるはずが無かった。

「ポチ君が心配しているようです。何か事情があるなら教えていただけませんか」

 にこにこと警察官はお祖父さんの答えるのを待っている。


 お祖父さんは何度も言いかけては止める事を繰り返した。
「実は……」

 お祖父さんは、若い警官の笑顔に圧されるようにぽつぽつと事情を話した。
 正直誰かに聞いてもらいたかった。






「そんなことが…… 望月さん、ポチ君の表彰は少し後になるかもしれませんが、賞品の方は上と相談してみます」

 そう言ってピシッとした敬礼をしてお祖父さんの家を後にする警官。
 ポチが助けたと言う子供の母親は、しきりに礼をしながら警官と一緒に帰って行った。




「ポチ…… お前すごいじゃないか。子供を助けたんか!」
 お祖父さんはそう言ってポチの頭をくしゃくしゃになるまで撫でる。
 ポチは嬉しそうにお祖父さんの手に頭をすりつけた。

「どうしたんですか?長い事話しをされていたようですが……」

 後片付けを終えたお祖母さんが、ダイニングから出てきた。
 ポチをくしゃくしゃに撫でている祖父さんは、にこにこしながら警官が来てからの事をお祖母さんに説明した。

「うちのポチが子供を、 子供の命を助けたんだ! スゴイぞポチ!!」
「ええ本当に。ポチは賢い子だと思っていましたがそれ程とはねぇ」
「表彰式もやってくれるらしい。ちょっと先になると言っていたが」


「……まぁ、そうなんですか? ではポチの表彰式は見に行かなきゃいけませんねぇ」


 お祖母さんはそう言って笑った。
 お祖父さんもその言葉の意味を、一瞬遅れて理解して満面の笑顔になった。

「ポチ! お前は何ていい犬なんだポチ!!」

 そう言ってお祖父さんは、少しジャリジャリするポチの毛皮ごとぎゅっと抱きしめた。

「くぅ――ん」

 それでもポチは嬉しそうに、尻尾をびしばしと振り続けた。








 お祖母さんに、かかりつけの大学病院の主治医から連絡が入ったのは、ポチの件から三日後のことだった。
 予約受診の日は来週の水曜日。後一週間も無い。
 このタイミングで何の用件だろうかと首をかしげながらお祖母さんは指示された時間に病院へお祖父さんと共に出向いた。
 歩くのが少し遅く足に力の入りにくいお祖母さんに、必ずお祖父さんが一緒に病院へついて来ていた。

「ああ、望月さん。急に電話して申し訳ありません」

 出迎えてくれたのは、長年主治医を勤めていてくれる神経内科の医師だ。

「や― びっくりしましたよ。急に警察の偉い人から電話がかかって来て。望月さんに新薬の治験は試せないかなんて言うもんですから」
「治験……ですか?」
「そうです。この病気の治療薬の新薬が、今はまだ治験段階ですが、結構いい成績出してるんですよ。二年で84.6%が寛解しています。寛解と言うのは、治癒まではまだ言えないけど注意して経過を見て行きましょう、と言う段階です。5年経ったら治癒と言えるのですが、この治験は入ってまだ三年ちょっとなので治癒と言える人は存在しません。ですがおそらく寛解組の九割以上は治癒するでしょう」
「……その薬が…… 使えるんですか?」
「本来なら治験が終わって薬事委員会を通らないといけないので時間がかかるんです。だけど今回警察の要請で当院での治験が可能になりました」

 お祖父さんとお祖母さんは、警察と言う言葉に即座にポチを思い出す。

 ではこの薬はポチからの贈り物なのだ。


「では…… では妻のこの病気は治る可能性が高いと…… そう言うことですか!」
「はい。そう思っています」

 主治医の力強い言葉に、お祖父さんの目に涙の膜がはる。

「ポチ……」

 お祖母さんも感無量だ。ハンカチを握りしめ、今頃は玄関で留守番をしつつ二人の帰りを待っている茶色の甘えん坊の事を思う。

「ただ、治験薬なので採血の回数や量が増えます。それと書いてもらわないといけない書類が……」

 それからも医師の説明は長い時間続いたが、お祖父さんは粘り強く説明を聞き書類をすべて書きあげた。
 途中、きついと訴えたお祖母さんは、べットのある部屋で横になっている。




 それでも、この病気が治る可能性があると言うことが嬉しかった。
 なによりも嬉しかった。

 これからもお祖父さんに美味しい食事を作れる。
 ポチにだって少しでも長生きしてもらえるように、食事にも気をつけよう。

 元々ポチはドックフードを貰ったことは少ない。
 お祖母さんが動けない時に仕方なくお祖父さんが使う位だ。
 いつもはお祖母さん特製のポチ用ご飯を貰っている。
 野菜とお肉・お魚などを煮たものだ。味付けはほとんどない。

 ポチは自分のご飯を作って貰っている時、ほとんどいつもお祖母さんの足元で坐って待っていた。
 目をキラキラさせて、自分のご飯を作ってくれると言うことが分かっているようだった。

「今日はポチの好きなカツオでも買って帰りましょうかね……」
 ポチは肉より魚の好きな変な犬だった。
 微熱が上がってきつい時だが、お祖母さんはポチにお礼がしたかったのだ。







 それから3カ月後。
 お祖母さんの治験は順調に進み、寝込む期間は無くなっていた。
 受診回数は増えてはいるが、それは治験の性質上仕方ないことでもあった。
 すっかり元気になり、顔色も良くなったお祖母さんと笑顔の増えたお祖父さんは、今日はポチを連れて警察に向かっている。
 延び延びになっていたポチの表彰式なのだ。

 ポチはこのために、行ったことも無かった「犬の美容室」に連れて行かれ全身をピカピカにされた。
 人命救助の英雄様はとても情けない顔をしていた。

 警察の偉い人から、ポチの代わりにお祖父さんが表彰状を受け取りポチを中心にみんなで写真を撮る。
 助けられた男の子と、そのご両親も一緒だ。
 みんなにこにこしてポチの周りにいる。

 ポチも嬉しかった。
 大好きなお祖父さんやお祖母さんが、最近はいつもにこにこしている。
 お祖母さんはシャキシャキとよく動いて家の中はいつもピカピカだ。
 ポチのブラッシングの回数も増えてしまった。
 逃げようとしても許してくれない。

 それでもポチは嬉しかった。

「はーい、写真撮りますよ―」

 ポチはにこにこしながら写真に収まった。
 本当に嬉しかったのだ。








 その後。

 安楽死法に関しては、保険金のための生命維持装置を外す事例が多発したり、命にかかわる選択ができない家族も多く「先生が決めて下さい」と言う法的にありえないことを言いだす家族も多かった。
 現場は当然混乱した。
 裁判所も、安楽死法の適応には慎重になるよう警告を出す様な判決を繰り返したが、なかなかその「本当に安楽死が必要」な人には適応が遅れたりするなど、問題は山積であった。

 特に適応範囲の拡大については、人権団体から「早く死ねと言うような通知は許されない!」などの抗議が高まり、法律制定より30年を待たずに安楽死法はごくごく限られた適応にとどまることとなった。






「ねぇお祖父さん。私は意識が戻らないようだったら安楽死させて下さいね?」
「……それは…… それはあれだ」
「お祖父さんはどうしたいですか?」
「俺は安楽死一択だ」
「ずるいですよ」
「それで良いんだ」

 にこにこと笑顔で話す二人を、ポチが嬉しそうに見ていた。


 風鈴を揺らす風が心地よい音を奏でる。


 水田を通ってくる風は、適度に温度を下げてくれる。


 ポチもにこにことしており、幸せだと思った。

 幸せだと、思った。 





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