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  汗ばむ鳥籠 作者:雪芳
第四十九話「恋」
 つか佐が臥床してしまった。
 事が事であったので、冬終わりに身体を冷やしておこった感冒として、三船の部屋でしばらく様子を見ることとなった。

 休み続けて二日、つか佐は更に熱を出したらしいく、昼見世もなくなった。

 お富士と二人で、いつものように朝を起き、楼閣を掃除して回る。
 ひばりもまた、つか佐と同じように狼狽しきっている。でも、身体を動かしている方が楽な気がして、いつもより多く掃いては、拭いた。
 掃除する部分が綺麗になることで、磨耗しきった心をなんとか繋ぐ。身体は羽のように軽いが、なんとか重心を保っていられた。

「ひばりちゃん、大丈夫かえ」
 声をかけられて、少し身体が重くなる。
「ええ、お富士ちゃん。平気」

「無理せんの。つか佐姉さんが倒れたんじゃ、どうせわっちら、今お座敷もないんだから。寝ていたって、三船母さんは何も言わんしょう」

 お座敷がない。そのことに、ひばりは改めて瞠目した。とらいちのことを考えてしまうだろうという恐怖が疼く。

 ずっと働いていられたら良い。布団などに入ったら、とらいちで頭が一杯になり、とても寝てはいられない。
 昨晩は目蓋を閉じても閉じなくても同じで、時間をいくら数えても朝が来なかった。そんな夜が、また来るのか。今晩は、耐えられるだろうか。

「ひばりちゃん」
 暗鬱に目を瞬いていると、お富士がそっとひばりの頭を撫でた。

「今から、部屋の掃除じゃ。先に行ってちょうだい」
 お富士が水桶をもって反対へ駆けていく。
 ひばりはお富士に従って部屋に戻ると、雑巾で格子を丁寧に擦り始めた。何度も、何度も執拗に拭いていく。
 格子窓の隙間から空風が吹き、ひばりのかじかんだ手を更に冷やす。感覚がなくなっても尚、ひばりは雑巾を格子に押し付けた。

「おまちどう」
 明るい一声とともに、お富士が襖を開けた。後ろ手にぴしゃりと閉める。
 片手には先ほど持っていた水桶のかわりに、市松絣いちまつかすりの風呂敷包みを握り締めていた。

「それは、何……?」
 ひばりの問いには答えず、お富士は屏風を開いて、その裏からひばりを手招いた。まるで忍ぶような所作に小首を傾げつつ、お富士の向かいに座る。

「何をなんすか」
「渡したい物がありんす」

 そういって、お富士は風呂敷の結び目を解した。丁寧に開いたその中にあったのは、着物であった。茶色にくすんだ、男物。

「仁平が前に捨てたやつ。頬かむりをしてこれを着て、草履を履いて手足を汚したら
 ……すっかり男になりんす。これで大門を通ったらええ」

 訳が分からず、ひばりは唖然として、唇を手で覆った。

「なんで……」
「とらいちに会いたいんでしょう」
「何を、何を言って」

 ひばりは喘いで、なんとか内なる否定を探す。しかしその隙を与えず、お富士はひばりを直視した。漆黒の闇に一筋の光をたたえた、意志の強い瞳がひばりを射る。

「誤魔化しては駄目。このままでは、ひばりちゃんはつか佐姉さんよりもっと、悪ぅなるよ」
「何を」

「とらいちが、好きなんでしょう」

 ぶすりと、言葉が突き刺す。

「好きで好きで、たまらないんでしょう」

「お富士ちゃん……、違う」
 ひばりは顔を背け、お富士のひたむきな目から逃れようとする。お富士はさっと、ひばりの頬に片手を添え、
「誤魔化さないで」
 更に思いを注いだ。

「ひばりちゃんは、とらいちに、恋をしている」

「違う! わっちはとらいちと主従で……!」
「違うことありんせん!」

 凛然としたお富士の両手が、紅潮するひばりの頬を強かに打った。向き直り、ひばりはお富士の淀みない思いと対峙する。熱く、強く、揺るぎ無い覇気。

「叶わぬ恋だと、ひばりちゃんは自分の目を潰しているだけじゃ。
 嫌われてしまうと恐れているだけじゃ!
 お鈴さんのことを知って、心を閉ざしただけじゃ、だけど」

 俄かにお富士の眉が曇る。それを打ち払うように、お富士は小首を振った。

「恋には抗えん。誰も恋には抗えんのよ、ひばりちゃん」
「……恋?」
「そう、恋じゃ」

 恋という一文字が、ぐっとひばりの喉を押す。胸まで落ちていき、腹の底を静かに焦がす。

 次第にひばりは、自分の身体の中に湧き上がる熱を感じた。あの時の、耐え難い高温たち。

 西村から救ってもらい、声をかけられた時の熱。
 とらいちの過去を知りたいと願った時の熱。
 羅生門河岸でお鈴のことを知った時の熱。
 琴のお稽古で肌と肌が触れた時の熱。

 恋を無駄だと言われた時のこと。
 花魁道中に姿を見つけた時のこと。
 怯えてしまって撫でられた時のこと。

 あの時も、あの時も、あの時も。

 そして。

 初めて肌に触れられ、自分の価値を知ってしまった時のこと。

 いつからか、いつの頃からか、自分はずっと恋をしていたのだ。飼うものと、飼われるものと、その関係が始まった時から、深まった時から、とらいちに惹かれていたのだ。
 理屈も理由もなく、道理も義理もなく、惹かれていた。
 思い、感じ、誓い、願い、恐れ、望み、探し、隠し、壊し……、
 ずっとずっと、恋をしていたのだ。

「わっちは、わっちは……」

 溢れる熱に翻弄されるひばりの身体を、お富士は抱きしめた。そしてそっと、耳元に唇を寄せた。

「ひばりちゃん、ええかい。わっちら、まだ引っ込み禿でしょう。朝から御昼間までは、掃除だ稽古だと姉さん方より慌しい。それに今は、つか佐姉さんが寝込んでる。
 今なら、わっちが残ってひばりちゃんの分動けば、なんとか一日くらいは見世の目を欺ける」

 お富士の囁きが深く浸透し、ひばりは目が眩んだ。しかし、すぐさま我に返る。

「駄目! そんなの駄目!」

 吉原での足抜けは禁忌だ。もちろん、その手助けをした者もただでは済まされない。
 記憶が、二年前に見た折檻を手繰る。縄で逆さづりにされ、針を押し付けられた美佐。三船が心の傷をそうして癒していて今より過剰だったとはいえ、足抜けが激しい罰則を与えられる罪であることに変わりはない。

「お富士ちゃん、分かっているの? そんなことをしたら、そんなことしたら……」
「大丈夫じゃ」
「いけん! 朋輩だからといって、お富士ちゃんがそんなことまでする義理はありんせん!」

 ひばりは叱りつけるようにお富士の胸を叩いた。勢いがあまって、お富士が後ろに押され、手をつく。熱っぽい吐息が互いの頬をなぶった。

「朋輩だからではないの」

 畳に足を崩し、両の手を後ろに、頭を垂れて、お富士は呟いた。

「朋輩だからでは、ないのよ」
 その声は、くぐもる。

「ひばりちゃん、あのね」
 少し乱れた前髪の間から光が一粒離れ、お富士の襟に小さな水たまりをつくる。骨が落ちるような音が聞こえた気がした。

「わっちも、恋をしているの」
 お富士が顔を上げる。
「叶わぬ恋を、ずっとしているから……」

 潤んだ目は、ひばりに向けられていた。じっと、ひばりに。

「お富士ちゃん……」

 雷撃のような確信が、ひばりに流れた。思わず唇を手のひらで押さえる。
 過ぎ去った夜、柔らかで悪戯な感触が思い出されて、ひばりは動揺した。そして滂沱と、涙が流れた。

 思いは高い音をたてて弾ける。

「……ごめん。お富士ちゃん、ごめん」

 ひばりは畳に手を置いて、深々と頭を下げた。それから熱と涙の絡む喉を懸命に絞った。

「出来ん、わっちには、出来んよぉ……」

 深く深く詫び入る。弱さに負けて、痛みに負けて、ずっと見ないふりをしていた。聞こえないふりをしていた。多くのことを、知らないふりをした。

 穏やかなあの目が、本当は自分を透かして通り過ぎ、違うものを見ていたから。気付いていたから、知ってしまったから。

「でも、好きだ。本当は、本当はずっと、ずっと好きだった。ずっとずっと言いたくて仕方がなかった」

 号泣し悔いるひばりに、お富士の温もりが被さる。熱いものが後から後から込み上げて重なり、二人をくるむ。

「お富士ちゃん、お富士ちゃん。会いたい、会いたいけど、出来ないよ……!」

 泣く。

「会いたいよぉ……!」


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