第三十九話「誓い」
それは唐突にやって来た。少なくともとらいちには、唐突以外の何物でもなかった。
雲の重たげな夜のこと、お鈴が高い熱を出した。
とらいちは桶に水を入れて、冷やした布を絞って、布団に横たわるお鈴の額に置いた。苦しげで熱い吐息の匂いが部屋に充満している。
「先生、お鈴は大丈夫ですか」
お鈴の細腕から脈をとっている蘭医に訊ねてみる。蘭医は渋い顔をして、溜息をくゆらせた。
「分からない。季節の変わり目であるし、ただの感冒かもしれない。お鈴、なにか覚えはないか」
お鈴は頬を赤くし、薄く汗をかいている。荒れた声は苦しそうに、
「先生と二人に」と揺らめいた。
頷き、とらいちは一人、廊下へと出た。
しんと冷えた床を踏みしめて、声の届かぬ場所へ出る。外には雪がちらついていた。
女特有の病気かなにかだろうか、お鈴には覚えがあるのかもしれない。月厄は思いもよらない状態を引き起こすという。
ぐるぐると黒い風車が腹で廻る。それに応じるように右往左往していると、話を終えたのか、蘭医が襖を開ける音がした。目が合い、急いで駆け寄ると、より苦渋に染まった顔が目に飛び込んだ。
「……とらいち、心して聞くんだ。何があっても、お鈴を責めるなよ」
鉛のような声色に、一瞬うろたえる。
「……はい」
「約束できるか」
「はい」
一体どういうことだろうか。それほどに重い病なのか。緊張しながら、覚悟を決めながら、とらいちは言葉を待った。どんなことを言われても耐えられるように。
しかし、それら構えは簡単に打ち砕かれた。
「瘡毒だと、お鈴は言っている」
身体が血の気を失う。
「そんな」
瘡毒とは、男と女が身体をひとつとすることでうつる病だ。十年ののち身体を蝕み、命を奪っていく。治ることは、ない。
強気な気概は崩れ、悲壮のままにとらいちはその場に膝をついた。
「鳥屋についたとの自慢の客を、何人も相手にしたと。だから、なったのだと」
「そんな馬鹿な」
ひざまずき、蒼白に呟くとらいち。だが、彼の中では、髣髴と浮かぶ過去の事柄が是を記していっていた。思えば思うほど、そういえばということは、あった。
何度か夜に求めたとき、彼女は静かに拒んだ。それは男に対する恐怖に寄るものだと言われ、納得していた。本当にそうだったのだろうか。
またいつぞやは、もし病気になったら捨てて欲しいなどと言われた。恋における不安から口にしたものだと思っていた。そうでは、なかったのだ。
お鈴は予兆を感じて、とらいちを思って、行動していたのだ。
消沈するとらいちの肩に、蘭医が手を置いた。
「とらいち、よく聞くんだ」
そして更に耐え難い言葉を、放った。
「お鈴と別れなさい」
耳を疑う。とらいちは信じられなくて、唖然と、蘭医を見据えた。
「何を言うんですか」
「瘡毒は夜伽でうつる。聞くところによると、お鈴とお前の関係は純潔だったと。いいか、お前はうつってはいないんだ。お前は若いんだぞ」
「なにを!」
怒りが脳天を突く。衝動的に、とらいちは右の拳を上げた。
しかし天に掲げられた拳は落ちることはなく、ぶるぶると白く震えるだけだった。ひとつの思念が拳をとどめたのだ。
「……お鈴が言ったんですか」
蘭医は何も答えない。それが真実を結ぶ。とらいちは立ち上がった。
「ならん」
止めに入る、蘭医。とらいちは緊迫する蘭医に向き直ると、
「先生、大丈夫です。お鈴を責めません。酷い目には合わせません。だから、話をさせて下さい」
穢れのない誠実な瞳を傾けた。
ぐっと蘭医が言い淀み、腕の力を脱する。とらいちはそれを擦り抜けると、廊下を渡って襖に手をかけた。
「お鈴、入るよ」
すぅっと襖が開き、熱の匂いがとらいちを抱く。お鈴は廊下に背を向けていた。
「ずっと気付いていたんだろう」
弱弱しい背中に投げかける問い。
「知っていて、懇情するのも拒んでいた。そうだろう」
一拍の間。お鈴は口を閉ざし続ける。ならば、
「俺は別れない」
「とらさま」
正直に繰り出すと、お鈴が小さく呻いた。儚げな後姿が、小刻みに震える。
「いけません、おらは」
「瘡毒だから? そんなことが理由になると?」
とらいちは一歩を踏んだ。
「お鈴、俺は貴女にどれだけ救われたと思う?」
尋ねながら、そっと布団の脇に座る。
「俺は愛を注がれて育った。何人もの寵愛を受けて育った。けれど、俺の魂まで愛してくれた人がいただろうか」
流暢にとらいちは語った。ずっと思っていたことは、なんのしがらみもなく、とらいちの唇を動かす。
「お前は、綺麗だった顔を怖いと言ってくれたね。俺はその言葉が悔しい反面、すごく、すごく嬉しかったんだ」
長々と話すことで顔に大きく出来た瘡蓋が少しかゆくなる。構わず、とらいちは言い切った。
「救われたんだ。意味がなく思えた日々に、貴女は一筋の光だった」
お鈴の背中を見て、その目はどうしても穏やかになる。強くなる。
「俺だってそうだ。貴女の魂を愛したんだ。身体じゃない。病気がなんだ、俺が愛したのは魂だ。明るく笑い、魂を愛してくれるお鈴。こんな傷を負った男を愛してくれるお鈴。貴女だ」
男の目を、真に注ぐ。
「俺は貴女に救われているんだよ、今も。変わりなく、救われ続けている」
とらいちの視線の先、お鈴の震えは次第に大きくなっていた。そして嗚咽を噛み締めるような痙攣が。
「傲慢な男だと思うかもしれない。でも俺は、貴女を愛している」
手をのばす。骨の大きくなり始めた手のひらで、布団を撫ぜる。
「ねえ、鈴。こんな俺でよかったら、振り向いてくれ」
お鈴は振り向かなかった。両の手で顔を覆っているようだった。わななき、号泣をひた隠し、呟く。
「もったいない。もったいないよ、とらさま。おらは汚いんだ。こんな女と一緒にいて、なんになるんです」
こんな時になって、いじらしい。
堪らなくなって、とらいちは布団ごとお鈴を抱きしめた。
後ろから強く引き寄せ、
「汚くなんてない。とてもとても、綺麗だ」
囁いた。
「熱が下がったら、雪を見よう。春になったら、桜を見よう。
秋になったら、枯れ木に山の賑わいだ。また冬になったら、今度は温かいものを一緒に食べよう。
……お前としたいことがまだ、沢山あるんだ。きっと、きっと何年かかっても足りない。百年あっても足りそうにない」
夢を語る。口にはしていなかったが、ずっと胸にあった夢を。
「お前のために生きたいんだ。ねえ鈴、許してくれる?」
お鈴は何も言わない。ただ、振り向いた。
潤んだ目には涙が、緩やかに絶え間なく流れている。
「ねえ鈴、笑って」
柔らかな希求。
お鈴はようやく頷くと、薄く、小さく、少し困ったように、微笑んだ。
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