第三話「未熟な痩躯」
大浴場に入ると、もうっと瑞々しい湯気が踊った。湿っぽく温かい匂い。彼女の白い視界にはとらいちしかいない。
ふたりぼっちの浴場で、男は桶に湯を汲むと、豪快に彼女の身体にぶつけた。真っ先のこと、あまりにも突然のことに、むせる。
「さっき、母親のことを話しただろう。あれも、女じゃない」
その口ぶりに、彼女は自分の言葉が彼の心の何かに触れてしまったのを知った。無表情の、とても深い黒の瞳が幼い肌を刺し、心臓を潰すように握りこんでくる。
とらいちは彼女の細い腕を引っ張った。
拍子に彼女が転んでも、そのまま引きずる。そして鏡の前に立ち、彼女の肩甲骨を押した。鏡の曇りを腕で拭い、折れそうな肩を掴んだまま、鏡に映す。
肩をがっちりと掴まれて、彼女は自分の幼い身体を見た。
全身を鏡で見るなど、生まれて初めてのことだ。自分ではそれほど気にしていなかったが、確かに女とは言いがたい身体だ。
まっさらな雪に野いちごだけふたつ落としたような、頼りない痩身。
背後にある、猛禽のような双眼がそんな彼女を凝視している。
彼女の頬に左手を添えると、
「よく観察しろ。お前自身の身体を。他人との違いを。お前は、どこがお前らしい?」
訊ねられ、見当もつかず彼女は首を左右に振った。
「まず、髪がある」
髪を手のひらで撫で、五指で弄ぶ。
「芯の強い素直な黒髪。しかし光に透かせば茶色に輝くな。肩までか。短い、伸ばすぞ」
流れるように顎を引き、
「次に顔の形。
お前の両親は器量良しだ。お前は運よく両親の良い部分ばかり貰った。骨も肉も皮も、申し分ない。
では、身体はどうか。芋粥ばかり食べているせいで、痩せているが」
どんな思惑のあってのことか、とらいちは彼女の腕を持ちあげ、彼女の内側の隅々まで晒した。
当然の事ながら彼女は羞恥と、男への恐怖を感じ始めた。父親でもない男に、何故裸体を晒さねばならないのだろうか。しかも男は、獲物の動きを観察するかのような殺気を隠さず、放ち続けている。
晒すだけでは終わらず。
その手が、彼女の身体を順々にまさぐり始めた。熊のような容貌にそぐわない細く長い手が、しなやかな蜘蛛のように彼女の柔らかな肉を這う。
「やだ」
彼女は両手を上げながら身をくねらせ、抵抗の声を呟いたが、彼は構わず乳房へと指先を落とす。
胸の先端にある朱を、指の腹が掠めていく。
「母親や姉たちと同じように、お前の乳房も大きくなるだろう。しかし着物には合う、ちょうど男の手に納まる大きさになる。
くびれが出来る。尻は少しばかり小さいかもしれない」
「やだ」
まるで彼女の訴えが聞こえないかのように、
「太ももにも肉がつく。しかし中年になってもそれほど肥えはしない。
足は小さい。草履やら探すのに苦労しそうだ。
手も小さいな、これもそれほど育たない。初々しさを残したままになる。腹に手を当ててみろ」
掲げられていた彼女の両の手に男の両の手が重なる。二人の手がひとつとなって彼女の腹を押す。そして空へと浮かび、曲線を描く。
「この下には赤ん坊ができる。女だけが持っている、赤ん坊が育つとここが膨らんでくる。まるで蛙のようにでっぷりと膨らんでしまう」
再び腹を押すと、今度は滑らすように下へと伝う。
その先には、少女自身あまり触れない場所がある。迷い無くそこへと指先は落ちていく。人間の端、そして先端でもあるそこへと。
「いやだ!」
ついに堪りかねて、彼女は男を突き飛ばした。
だが細く弱々しい彼女の身体は逆につんのめり、床に崩れる。膝と尻とをついたと同時に、彼女は男を怯えの目で仰いだ。
「最後に、お前の目」
男――、とらいちがにたりと笑い、指をさす。
「病気ではないのに、右片方だけ薄い緑色をしている。
お前のような目を持つ人間を探して、俺はこんな北まで来たんだ。その目は稀だ、なにより武器になる。
だが女じゃない。それがお前だ。ただの、女の素だ」
腹の底まで響くような低い声。彼女は自分が洞窟にでもなってしまったような感覚に襲われた。
女の素という、ただ一言が彼女の中で木霊し、蝕み、内側の四方八方を引っかいてゆく。
とらいちは茫然自失とする彼女に顎をしゃくった。
「風呂に入れ」
言われて、彼女はふらふらと風呂の淵にすがり、ゆっくりと湯船に浸かった。警戒しながら、鼻の下までうずまった。
とらいちはもう彼女の峻拒を受け入れたのか、自分自身の身体を洗い始めた。
貪るように触れてきたたくせに、まるですっかり忘れてしまったかのような処遇。
彼女は湯の中でうずくまった。
どうしたことか。身体が、湯船よりもはるかに熱いような、だが雪よりも冷たいような気がする。
特に臍の下あたりが、じんじんと疼く。何かが滾る。
身体を浸食する不可思議な感覚。その未知の痺れに戸惑いながらも、一方で彼女は現状に冷静であった。
この男は人買いで、彼女に彼女自身の価値を教えようとしたのだ。己というもの、売られたということの現実を。そして、彼女の価値は女になったら劇的に変化するだろうということを。
教え、彼女は知った。
……自分は、物なのだ。
状況を整理してみると容易い。今度は斬られたように胸が痛んだ。心臓から悲しみが滲み出て、彼女の身体から熱を奪っていく。
死なずに済んだ。しかしもう村には帰れない。
酷く貧しい村だった。 だが生まれ故郷というものはそこに在るだけで人を癒すものだったのだと彼女は今更に思い知っていた。
毎日見た硬く凡庸な景色が、今はとても柔らかな美しいものに思え、無性に戻りたい。帰りたい。
父と母と兄弟たちが厳しい顔をして畑を耕しているその傍へゆきたい。
彼らは時折、寒さに凝り固まった顔を綻ばせるだろう。
そして無条件の、家族同士にのみ許された愛情を僅かに傾ける。
本当は漆のような眼などして子どもを売るような人間ではないのだ。
どうして自分は、故郷にはいられなかったのだろう。自分が何をしたのだろう。何をしたというんだろう。
自分たちが一体なにをしたんだというんだ――。
彼女はお湯に顔ごと突っ込んだ。
輝く水面を湯の中から見上げ、思う。いっそ河童の方がましだったんじゃないか、と。
おらはこれから、どうなるんだろう……。
今すぐにこの湯から飛び出し、街道を駆け出し、家族の胸に飛び込めたら。
夢想し、目を閉ざす。愚かなことだと、涙が湯に溶け込んでいく。
本来なら死んでもおかしくはない命を、偶然、運よく買われたのだ。全てを受け入れなければ、このさき生きてはゆかれない。
分かっている。それでも。
彼女は密やかに、仏にすら聞こえてしまわないように、家族の名前を口ずさんだ。耐えるために、名を呼んだ。
父と母と、兄弟たちの名前を。
――時は安政六年、今でいう西暦一八五九年。日本が文明開化の扉を開ける、ほんの九年前のこと。
彼女は、十歳だった。
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