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  汗ばむ鳥籠 作者:雪芳
第二話「くちべらし」…1859秋〜
 彼女はある北国の寒村に生まれ育った。

 長い冬は村にやつれた灰色の空を与える。
 加えて閑散とした侘しい山を与え、雪解け水による沼地を与え、底知れぬ貧しさを与え、更には土地柄による慢性的な飢饉を与える。

 彼女の知る自然は厳格で冷徹で、血を失った死体のようだ。

 誰も彼も腹をすかせながら仕事をしていて、男は恵まれない土に鍬を刺し、女は赤ん坊を背負いながら冷え切った川で汚い染物をし、子どもまでも寺子屋を済ませると汗水たらして働いている。
 みな、手が年寄りのようだった。

 そんな貧しい村の農民の九番目として彼女は生を受け、育った。
 姉たちの背中に背負われ、働く両親の何かを悔いているような眉間と、刻まれた苦労の皺を網膜に焼き付け、大きくなった。

 彼女がようやく寺子屋へ通うことを許されたとき、村に病が流行った。
 とはいっても、稲穂につく病で、それでも彼女の村では死を表すも同然だった。

 ただでさえ貧しい土地、稲以外の作物も思うように実らない。
 いつも芋粥ばかり食べていたのに、その粥に、僅かばかりの米がなくなったとなれば、村の者はなにを食べれば良かったのか。

 最初に、子どもたちが消えていった。
 子どもたちがどこへ行ったのか、大人たちの疲労しきった瞳が恐ろしく、彼女はそれを問うことなど出来なかった。
 大人たちは寒い大地の者特有の赤い頬をより紅潮させて、同じように口を開く。
 村の外には出るな、川の近くには行くな。天狗と河童が出るぞ、と。

 ある日、川に河童を見に行った彼女の兄が、震えながら帰ってきたことがあった。そのとき兄は煎餅布団にすっかり丸まってしまい、翌朝まで出てこなかった。
 ようやく姿を現したと思いきや、青ざめてこんな事を耳打ちした。
「河童はおった。だけど、キネだった。キネだったよ」

 キネとは、隣の家に住んでいる、末娘のこと。彼女よりひとつがふたつ下で、仲は良くなかったけれど、知っていた。

 やがて秋も終わりに近づき、枯れ草の量から厳しい冬の予感が香ってきた。それとともに、村は更に悲哀と疲弊とに包まれていった。
 乞食の死体が道端に転がって、空き家が増えた。村を捨てたのだ。

 家ではもう、芋さえ少なくなっていて、母は嫁入り道具の着物を売り払い、箪笥を売り払い、寂しい家はどんどん寂しくなっていった。

 かまどに埃が積もる、早朝。ついに困窮した彼女の両親は、下の子どもたち三人を、奉公に出すことした。
 奉公といえば聞こえは良い、要は口減らしだ。
 人買いに、売られたのだ。

 最後に仰いだ両親の目はまるで漆のようで、とても底の知れないものだった。人買いの男に銭を貰う二人を見て、彼女はむしろ、安心したのだ。

「殺されねくて、済んだ」

 こうして彼女は、生まれ育った村を後にし、人買いと共にどこかへと向かった。

 距離は遠く思われた。歩いても、歩いても、
「まだまだ先だ」と言われるのだ。
 何故に人買いが遠方にある貧しい村まで来て彼女を買ったのか、分からないまま、彼女は足を棒にしてついていった。

 足の痛さと、ほんの少しの寂しさとを食いしばりながら、いくつかの関所を手形で抜けた彼女は、
 日光街道は下野の南方、今でいう栃木県那須郡にいた。

「今日は宿に泊まるぞ」
 ぶっきらぼうに人買いが言う。
「風呂があるところだ」

 野宿といっても差し支えないくらいにぼろぼろの宿で雑魚寝することが殆どだったこともあり、彼女はほんの少しばかり喜んだ。しかしすぐに気持ちは、沈んだ。

 人買いを見上げる。彼は彼女が買われるまでに出会ったことのない風貌の大人だった。

 まず、大きな傷が顔にあった。
 右のこめかみから鼻先、そして左耳たぶの下へと、醜く太い線が走っている。刀でばっさりと切られたのだろう。その強面に不精髭が加わって、野獣を思わせる威圧感が漂う。

 背は驚くほど高く、平均的な大人の身長より頭ひとつぶんあるようだった。
 その天に伸びた背筋を、髷も何もない手のまったくついていない長髪が覆う。

 遠くで見たら、乞食のよう。近くで見たら熊だと、彼女は思う。
 しかしながら名は、とらいち。
 この男と宿に泊まるのだということに、彼女は少し不安を覚えた。

 素早い歩行に置いていかれては、離れてしまった距離の縮まるのを待たれるという旅は、とらいちという男のことを詳しく語ってはくれない。
 夕と晩の食事も沈黙がおかずで、日が暮れたら早々に寝てしまう。話という話をしたことがない。

 この男と宿に泊まるのだろうか。
 食事を用意されるだろうし、寝るときも盗人にあまり気を配らなくて良い。その環境は、寡黙な男の唇を僅かに解してしまうだろうか。
 思考を弄んで彼女はふさぎ、緊張した。

 街道脇の小さな宿に入る。風呂があることを表す弓も、小さいものがかかっている。
 部屋に案内されると、とらいちは荷を肩にかけたまま女将を呼び止めた。

「宿屋」
「なんしょう」
「すぐに湯は用意できるか」
「あい。もちろん浴場が」
「貸してもらおう、どこだ」

 女将に聞いてさっさと風呂に行くと、とらいちは荷から銭袋だけ取り出して腰に巻きつけた。籠へ荷を投げ込むと、服を脱ぎ始める。

 彼の体は肉付きがよく、鍛えられているようだった。農民とは違う、土の汚れのない筋肉は呼吸と共に密やかな躍動を抱く。

「何をしている、脱ぐんだ」

 ぼうっとしていたのを叱咤され、彼女は大急ぎで隣にあるだろう女湯へつま先を前進させた。が、首根っこを掴まれて阻まれる。

「何処へ行く」
「お、女湯」
「お前のどこが女だ。ごぼうみたいな体のくせに」

 ムッとするより先に、瞠若した。この男もこんな口を聞くのか。

「脱げ」
 とらいちが乱雑に彼女の着物を毟っていく。平坦でふくらみもくびれも無い、下の毛も生えていない身体が外気に晒され、彼女は小さく唸った。

「ほら、お前のどこが女だ」
 その言葉に彼女の丸い目が再びとらいちの顔をなぞった。彼が目を細めたような気がして、少しばかり、彼の中の人間が覗いたような気がして、彼女はその顔をまじまじと見た。

 この、醜い傷のある男は、どんな生き方をしてきたのだろう。

 思案を繰ってみると、驚きに押されていた腹立たしさが不思議と湧いてきて、彼女はふてぶてしく腕を組んだ。

「おらだって、そのうち女になるよ。おっかぁは村一番の美人なんだ。おっかぁみたいに綺麗になれるかは、わがんねぇけど」
 人買いに不遜な態度で身の上話をするのは初めてで、怒るだろうかと思った。

 が、とらいちは怒るでなく、ただ針山のような不精髭を掻いただけだった。


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